アビー・アブラハム

1913年 ペンシルバニア州リンドラ生まれ

−米陸軍第31歩兵隊
−バターン死の行進、オドネル・カバナツアン捕虜収容所
−マッカーサー将軍の命により、戦後フィリピンに2年半残り、バターン死の行進で死亡した米兵の遺体を掘り起こし収容する任務に就く。

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退役米陸軍曹長アビー・アブラハムは、1971年に出版した自著 『Ghost of Bataan Speaks (バターンの亡霊が語る)』の冒頭で、次のように書いた。

「私はこれまで、このストーリーを公にしたいと欲したことは決してなかった。バターン戦の生き残りであり、死の行進の犠牲者である自分は、それらを忘れようとしてきたのだ。」

戦後自らが指揮した 、「バターン死の行進」犠牲者(その多くは彼の友人であった)の遺体を掘り起こす作業について書くことを決心させたのは、日本で出た「バターン死の行進はなかった」という記事であった。その記事に傷つき悲しんだアブラハム氏は、以下のように書いた。

「この記事は、日本中の新聞とラジオで伝えられた。フィリピンの新聞もそれを報道した。彼らは日本人に対して非常に怒った。フィリピンの在郷軍人会は、”あなたの体験談を公表して欲しい” と私に懇願してきた。それで、25年間忘れようとしてきたこれらのことを、私は書く。そう簡単に日本人に、この歴史を否定させはしない。私は、彼らが私の体験を読み、起こったことを決して忘れないよう、願う。」

アブラハム氏は、1945年1月にアメリカ陸軍レンジャー部隊により、カバナツアン収容所から救出された513人の捕虜の一人で、戦後、本間雅晴中将の戦犯裁判でも証言した。


以下は、Ghost of Bataan Speaks 』からの抜粋。


マッカーサー将軍からの出頭依頼

一人の軍曹が私たちの間を歩いてきて、私の前で立ち止まった。「アブラハム軍曹はいますか。」 「私です。」

「スミス大佐からの伝言です。マッカーサー将軍が会いたいそうです。午後に車でマニラにお連れするそうです。」

「弱腰マッカーサーが一体全体、何をして欲しいというのかね。」と仲間の一人が言った。

「本当に一体何だろうな。」と私も聞いた。「わからんね。」

その日の午後、軍の乗用車で私はマニラに連れて行かれ、米軍本部の二階の部屋に通された。リチャード・マーシャル将軍とダーリン大佐が私を迎えた。「アブラハム 軍曹、マッカーサー将軍が君を待っておられる。」

私は彼のオフィスに入り、敬礼をした。彼は机から立ち上がると、恐れと哀れみにとりつかれた様子で、痩せこけた私の体を頭のてっぺんから爪先まで眺めながら、私と握手した。

「アブラハム軍曹、」マッカーサーはやっと話し始めた。「なぜ私が君を呼んだか分かるかね。」「いいえ。」

「ダーリン大佐と私は、救出された将兵と解放された男たちのリストを、受け取った。私は、ガッツのある人物を必要としている。(米兵達の)全ての足跡を辿り、ジャングルに入り、墓場を探す人物だ。特に私は、この任務から来る緊張に負けない人物、そして死の行進に沿ったどこに墓場があるかを知っている人物を、必要としている。困難な任務だ。おそらく今まで誰に与えられた任務よりも、困難だろう。ダーリン大佐が、君を その任務に推薦したんだよ。」

「君に頼むにはあまりにも酷な任務だと、承知している。君が捕虜収容所で、どれほど苦労したかは知っている。」

”知ることなんかできるのか”という問いが自分の中を駆け巡っていた。”彼は、悪臭からも死からも残虐行為からも逃れて、安全なオーストラリアにずっといたんじゃないか…”

「君の友人が何千人も死んだことを知っている。その死んだアメリカ兵の墓を、君に見つけて欲しいのだ。」 マッカーサーは、ゆっくりとして抑揚の効いた声で続けた。「死の行進を歩いた男が必要なんだ。」そしてまるで私の心の内を見透かしたかのように付け加えた。「(死んだ)君の友人のためにも、そして何より本国にいる彼らの家族のためにも、君はこの任務を果たすべきなんだよ。」

「閣下。私はこの地に残ってその任務に就きます。死の行進沿いと捕虜収容所の全ての遺体と墓を見つけます。」と、私は答えていた。
 

「死の行進」沿いの全ての地点を踏査するのだ

その夜、私は一晩中寝返りを打った。それは恐怖だったのか、それとも友人の骨を見ることへの思いだったのか、今でも答えは分からない。しかし、私は長くつらい一夜を過ごした。鶏が鳴くのを聞き、夜明けが近いことを知った私は、ベッドから起きた。何かの力が私を跪かせ、「神よ。私に強さを与えて下さい。そしてこの長い困難な任務中どのように振舞うべきか、お教えください。」と祈らせた。

コーヒーを一杯飲んだ後、私を待っていたアマドと一緒に作業班を集合させた。「諸君、今日から我々の本当の仕事を始める。我々は、「死の行進」沿いの全ての地点を 踏査し、ジャングルの全ての道に分け入る。バターンに散在する全ての遺体と捕虜収容所とその墓地に埋められ た全ての遺体を見つけ出すのだ。」

情報提供者が、6人の米兵の埋葬地を教えてくれた。彼がそれらを指差したとき、私は少し気分が悪くなり恐ろしくなった。フィリピン人作業員全員が、掘り起こしにとりかかった。深く掘っていくにつれ、死体の臭いがしてきた。私は顔をそむけ、深く息を吸い、そして”やり遂げるぞ”と誓った。それは私がしなければならない仕事だった。

「軍曹、骨に到達しました…」私はひどく震えながらも、何とかシュラーフを地面に敷き、「骨をこの上に置いてくれ。」と彼らに指示した。「シュラーフで骨を包むんだ。」  6人分の遺骨が掘り起こされた時、私はそれらの骨を凝視した。「包むんだ。」私は震え、潤んだ目を遠方に向けながらやっと言った。「私が一人一人の身元を調べ、遺体に札をつける。」

その日の作業を終えて帰ると、村の人々が私たちの周りに集まってきた。彼らは、遺体が入ったトレイラーをじっと見つめた。彼らどおしで喋っていたが、その後私の方を見た。彼らの多くは、目に涙をためていた。 一人の若い娘が「貴方たちアメリカ人を、ずっと愛するわ。」と私に言った。「これらの兵隊さんたちは、私たちの国の為に、私たちの為に、死んでくれたんだもの。」


友人の頭蓋骨を手にして

翌朝、私たちはアブケイに戻り、ラモン・ロマス氏をまた拾い、山の麓まで車で行って3人の遺体を掘り起こした。その帰りに、戦前から私がよく知っていた旧友ルーサー・エヴァーソンの遺体が埋まっている場所に行った。

(死の行進中)よろめくようにバランガの町から出てきたとき、橋を渡り、その時ルーサーが倒れるのを見たことを、私は覚えている。彼は立ち上がろうとして、また倒れた。私は、日本兵が彼を撲殺したのを目撃した。

竹やぶの麓で、私たちは彼の遺体を掘り起こした。作業員が、頭蓋骨を私に手渡した。私は身を震わせながら、日本兵の棍棒でできた深い裂け目を見せた。皆が、言葉を失ったようにそれを見つめた。

「エヴァーソン軍曹と私は戦前、下級将校クラブでよく一緒に飲んだものだ。」私は彼らに教えた。「それが今、彼の頭蓋骨をこうして手にしているとは!」 親切でいい人間だったのに、病気だった為に、空腹だった為に、喉が乾いていた為に、そして疲れていた為に、殺されたのだ。アメリカ兵士だった為に、死によって沈黙させられたのだ。

その翌日、私たちはオラニ村に出かけた。案内人は、タルカムパウダーのように白くてやわらかい砂浜とやしの木が林立する入江に囲まれた輝くような海辺に 、私たちを連れて行った。小道を歩いていくと、一軒の家の裏に出た。案内人は、盛り上がった土の小山を指差した。

「ここに埋まっているんです。」と彼は言った。「何人埋まっているんだ?」「4人です。」「彼らがどのように死んだか、知っているのか?」 彼は、詳しく言ってよいものか どうか迷うように、輝く海を見つめていた。

「私は、アメリカ兵を見ていました。」ついに彼は口を開いた。「彼らは、よろめくようにこの村を通過して行きました。(日本兵の)見張りは、怒鳴りながら彼らを追いたて続けました。捕虜たちはまるで酔っ払いのように、ふらふらになりながら道路を歩いていました。見張りがライフルを構えると、4人の米兵を撃ったのです。私が、アメリカ人の遺体を埋め ました。」 私たちは、4体の遺体を掘り起こした。
 

本間中将を裁く法廷で証言

戦争犯罪裁判委員会のミーク大佐が私に会いに来て、言った。「軍曹、マニラに来て、本間中将を裁く法廷で、筆頭証言者になって欲しい。」

1946年1月31日、私はマニラまで運転し、デューイ通りの裏にあった総統府に急いだ。新聞記者やカメラマンやニュースリール撮影者でごったがえする大きな部屋に、私は歩いて入った。

テーブルの一方の端には、法廷の長であるリー・ドノヴァン将軍と、本間中将の運命を決めることになる4人の将軍が座っていた。私は、証言席に呼ばれた。

「この被告を知っていますか。」ホワイト中尉が私を尋問した。私は、小さくなっている本間中将を見た。彼は一瞬私を見つめ、そして青ざめた顔になった。「はい。知っています。」

「バターン死の行進中、彼を見ましたか。」「いいえ見ていません。でも彼がバターンにいたことは知っていました。」

「これまであなたは、死の行進の沿路で何体の遺体を掘り起こしましたか。」

「これまでに300体です。そしてまだ多くの遺体が埋められている場所を、知っています。」

「まだ掘り起こされていない遺体は、何体ぐらいあると思いますか。」

「何百体もあります。」「あなたは、それらがどこに埋められているか知っているんですね。」

「はい。それらの遺体を全部収容するには時間がかかります。たぶん何年もかかるでしょう。」
                                                  
                                                                             元ベトナム戦争捕虜の
                                                                               マケイン上院議員と

降伏した日本軍少佐から受け取った軍刀

日本軍が降伏してから一年後、アブラハム軍曹は、日系フィリピン人から、ジャングルに潜んでいる日本兵たちが、降伏したがっていると、告げられた。

それらの日本兵が降伏する式典で、アブラハム軍曹は、日本人少佐から軍刀を受け取るという名誉に浴した。

降伏した日本兵と



日本兵達の姿が視野に入ってきた。彼らは白い旗を振っていた。彼らは、汚れて病んで空腹な兵士達の一群だった。髪は伸び放題で、身に着けていた服は継ぎはぎだらけだった。原型もとどめないような靴は、針金で縛り付けられているのだった。

私たちは彼らをトラックに乗せてバランガに戻り、彼らにシャワーを浴びるように言った。彼らは食事を与えられ、アメリカ人医者が診断し薬を与えた。

それは、バターンのバランガにあるタリセイという山あいの小さな村に、美しい陽光が降り注ぐ日だった。私は独りで座って、日本兵が美味なアメリカ食を食べるのを、眺めた。そして自分が日本軍の捕虜収容所で食べた虫のわいたご飯や雑草のことを思い出していた。自分の中に湧き上がる思いと戦いながら、私はたびたび彼らから目を そらした。今彼らがいる場所から45メートルも離れていないところで、私たちがその遺体を掘り起こした40人の男たちが、バターン死の行進中に命を落としているのだ。私は目を閉じ、報復したいという叫びに身を引き裂かれるような思いと闘いながら、拳を握り返し続けた。

私は静かに祈った。「神よ。どうぞ、彼らを憎まず愛するようにお導き下さい。どうぞ、彼らは自分たちのしているがわかっていなかったのだと、言って下さい。私の中の憎しみと苦々しさを洗い流して下さい。」 日本兵の一人が、私を見て笑った。私は視線をそらした。憎みたくはなかったが、彼の顔を殴りつけたい衝動はどうしようもなかった。彼らに微笑み返すことは、私にはとてもできなかった。思い出は余りにも強烈で、傷は未だに深く疼いていた。

日本兵は整列させられた。第38歩兵隊第2大隊の大佐と、ヘス大尉が彼らを受け入れ、日本側の少佐が敬礼した。大佐が返礼した。日本人少佐は、彼の軍刀を手渡した。大佐はそれを受け取ろうと手を差し伸べたが、それを急いで引っ込めた。彼らは一瞬見詰め合っていた。

「私には、降伏を受け入れる権利はない」大佐はそう言うと、苦々しさと戦いながら独りで座ってその様子を見ていた私の方に振り向いた。「アブラハム軍曹、来なさい。」と彼は言った。私は立ち上がり、言われたことに従った。

「軍曹、この名誉は君が受けるべきだと思う。」大佐はそう言って私を驚かせた。「君は、この降伏式に臨んでいる者の中で、バターンで戦いその後に戻ってきた唯一の兵士だ。」

私は大佐に敬礼した。日本人少佐が私に敬礼した時、見せ掛けの友好ではあったが、兵士対兵士として、私は彼に敬礼を返した。

「この場に居合わせることができ、嬉しく思います。」 私も日本人少佐も、お互いに対して全く好感は抱いていないことを知っていながら、私は言った。 「今私は、 バターンで死んだ者たちに追悼を捧げながら、日本兵の降伏を受け入れます。彼らが生きていて、今日のこの大きな出来事を見ることができたなら、本当によかったと思います。彼らは、いつか援軍が来ると信じて、精一杯生きようとしました。かすかに燃えていた彼らの命の灯は、消えていきました。そうです。悪名高いオドネル収容所とカバナツアン収容所には、バターンとコレヒドールの戦死者が何千人も眠っているのです。」
 

この軍刀は、ウエスト・ヴァージニア州ブルック郡立図書館において、2006年8月26日に開かれる 「1941年−1945年:バターンとコレヒドール防衛を戦った第二次大戦世代を称える会」の席上で、American Defenders of Bataan and Corregidor コレクションの一部として、寄付されることになっている。


アブラハム氏は2004年、戦後の働きと退役軍人への支援を認められ、名誉ある Sen. John H Heinz Community Advocate Award を授けられた。2006年10月には、ペンシルバニア州ジョンスタウンで、4人の従軍牧師賞を受けることになっている

は現在も、ペンシルバニア州バトラーの退役軍人病院で月曜日から金曜日までボランテイアをし、また数多くの講演をこなすなど、忙しく過ごしてい る。最近徳留絹枝に送ってきたメールには、「7月31日で93歳になりますが、元気にやっていますよ。でも、ベテランの友人の多くが亡くなっていくのを見るのは、悲しいですね。毎日、本当に多くの(第二次大戦世代の)男たちが死んでいきます。」と書いている。

アブラハム氏の著書「Ghost of Bataan Speaks 」の詳細は  http://ghostofbataan.com/
 

日米の大学生(吉田麻子さんとアダム・ドネスさん)に
捕虜体験と戦後の体験を語るアブラハム氏
 

*   アブラハム氏は2012年3月22日、逝去しました。