バターン死の行進:正義を求めて66年
徳留絹枝


2008年4月9日は、米国陸軍の歴史において最大の降服を余儀なくされたバターン陥落から66周年にあたる。7万 7千人を超える米・フィリピン軍が、太平洋戦争中もっとも残虐な事件の一つと数えられる「バターン死の行進」の被害者になった。

行進:試練の始まり

1941年、既にフィリピンは、米西戦争でその地を手に入れた米国から、独立を約束されていた。しかし、日本軍の東南アジアへの侵攻がフィリピンにも脅威となり始め、日本軍からの攻撃の可能性に備えるため、ダグラス・マッカーサー将軍が現役に呼び戻された。日本軍の攻撃が現実となったとき、水際で日本軍の上陸をくいとめるというマッカーサーの当初の作戦は失敗した。結果として、ルソン島中心部にあるバターン半島に退却した何万人もの米兵は、戦いを続けるのに必要な食糧も医薬品も欠くことになる。マニラからバターン半島沖のコレヒドール島に司令本部を移したマッカーサーは、「決して降服するな」という命令を出し続けた。

1942年3月12日、彼はオーストラリアに避難した。バターンに残された兵士は、弾薬が尽き、食糧が尽き、医薬品が尽きるまで戦い続けることにより、日本軍の勝利への日程を大きく狂わせ、米国に真珠湾攻撃から立ち直る貴重な時間を提供した。1万1千人の米兵と6万6千人のフィリピン兵が降服したとき、彼らは飢え、ほとんどがマラリア・脚気・赤痢などに冒されていた。マッカーサーが彼らに間もなく来ると約束していた「何千人もの兵士と何百機もの飛行機からなる援軍」は、やって来なかった。

バターン死の行進の生還者である第192戦車大隊のレスター・テニーは、戦後書いている。 

どんな戦いでも、兵士たちの一軍が全体の利のため犠牲にされねばならないときがあるものです…」フランクリン・D. ルーズベルト大統領は1942年3月、ラジオの炉辺談話で、このように宣言した。彼が言っていた戦いはフィリピン防衛戦のことであり、彼が言っていた兵士たちとは、バターンとコレヒドールで戦う米兵のことだったのだ。

そして行進が始まった。日本軍には、捕虜を組織的に拷問したり殺したりする計画はなかった。しかし彼らは、コレヒドールへの攻撃を直ちに開始するため、米比兵をバターン半島から即刻に移動させる必要があった。また日本兵は、死ぬまで戦わず降服した捕虜を蔑んでいた。

バターン死の行進の生還者グレン・フレージャーは、最近、米公共テレビPBSが放映したドキュメンタリー「戦争」で次のように証言している。「もし、バターン死の行進の最初の時点で、その後に何が起こるのかを知っていたなら、私はむしろ死を選んでいたでしょう。」そして彼は、次に何が起こったのか語っている。

彼らはすぐ、立てない兵士や座ろうとする兵士を殴り始めました。私たちはどこへ連れていかれるのか、分かりませんでした。私たちの所持品は全て没収されました。指輪をつけていた者は、指を切られてそれを取られました。私の水筒を取り上げ、私が全く水なしになるよう、入っていた水を流してしまいました。捕虜が生き埋めにされるのも見ました。捕虜が銃剣で刺し殺されたり銃殺され道路に放置され、そこにトラックの一群がやってきたとき、それらのトラックがわざわざ道路の真ん中に横たわっている死体を轢きながら通過していくのを、見ました。15から20台のトラックが通り過ぎたあとそこに残っていたのは、潰れたトマトか何かのような遺体でした。首を切られた兵士も見ました。日本の監視兵が夜走るトラックの荷台から銃剣を突き出し、それがちょうど歩いている捕虜の首を切っていくのです。ライフルの台尻で、捕虜が死ぬまで殴り続けることもありました。

TVドキュメンタリー「戦争」で証言したグレン・フレージャー
証言: http://www.pbs.org/thewar/detail_5336.htm

 
米陸軍航空隊のハロルド・プールも、証言している。

ある者は、立っていられなくて倒れました。その位弱っていたのです。私から1.5 メートルも離れていなかったと思います。顔を地面に向けて倒れていました。監視兵が突っつきましたが、敏速に動けませんでした。それで監視兵は銃剣で彼の背中を突き刺したのです。

私は自分が見たことが信じられませんでした。

私は、監視兵に飛びかかって彼のライフルを奪いそれで彼の首を押さえ込みたいと思いました。その頃私はまだ体力も残っていて、日本兵は私たちよりずっと小さかったですから、そうすることはできたのです。彼に飛びかかって、その銃で彼を羽交い絞めにしたら、彼は何が起こったのか分からなかったはずです。でも、彼の後ろにはもう一人の監視兵が立っていました。彼は即座に私を撃ったでしょうから、私もそれでお終いになるところだったのです。わかりますか。

 第31歩兵連隊のルイス・リードも仲間の捕虜が殺されるのを目撃した。

ルバオでは、とても衝撃的な出来事がありました。水筒に水を入れるため、たった一つの給水栓の前に一日中長い列を作って順番を待っていたときのことです。ちょうど私の番が近づいてきたとき、日本軍の将校がやってきて、私たちをざぁーと見て、私のすぐ前にいた長身でハンサムな兵士を列から引っ張り出しました。将校は、はっきりした何の理由もなく、このアメリカ人捕虜を数人の兵士に引渡すと、彼らは道の反対側に捕虜を連れて行って木に縛りつけ、銃剣で突く練習に使ったのです。列の中で私がいた場所からは、全部見えました。捕虜が死んだ後、彼らは死体を抱えて大きな竹の茂みに放り投げました。そして、ちょうど私が給水栓の前に来たとき、日本兵が私を押し除け、銃剣についた血を洗い流したのです。

4日から7日間とぼとぼ歩き、サンフェルナンドの町に着いた米比軍の捕虜は、貨車に押し込まれた。あまりにもきつく押し込まれたので、彼らはほとんど身動きできない状態だった。ドアが閉められると、貨車の中の温度は一気に上昇した。捕虜たちは窒息しそうになり、ある者は立ったまま死んでいった。4時間の貨車牢獄に生き残った者は、カパスから最終目的地であるオドネル収容所まで、さらに数マイル歩かなければならなかった。

バターン死の行進で何人が死んだのか、正確には誰も知らない。しかし、最も低く見積もっても、6千人のフィリピン兵と6百人のアメリカ兵が死んだとされる。

死者の数は、オドネル収容所到着後にさらに増加する。ジョン・オルソン大尉は、オドネル収容所のアメリカ人グループの庶務副官で、そこで死んだ米兵の数を記録する係りだった。彼は戦後、次のように書いている

絶えることのない歴史の流れの中で、オドネル収容所が存在した期間は短かったが、それは劇的なものであった。収容地域として9ヶ月にも満たないその期間中に、そこで1,565人のアメリカ人と26,000人以上ものフィリピン人が、 それも全員が人生の最上の年齢で、不名誉で無意味な死を遂げていったのだった。無力の人間を扱うのに自分達の古めかしい行動規範を厳しく用いた敵軍の冷淡さと無能さのため、彼らは、20世紀の大部分の国が従っていた規範によって扱われることはなかった。アメリカ人に起こったことも非難されるべきだが、日本軍が、その戦いをアメリカ帝国主義による独裁的圧政から救うためと口実に使ったフィリピン人に対する処置は、全く説明の つかないことであった。

地獄船

バターン死の行進とオドネル収容所に生き残った米捕虜には、さらなる試練が待っていた。彼らのほとんどが、コレヒドール陥落後に捕虜になった米兵とともに、強制労働者として日本に送られたのだ。彼らがその船倉に押し込められた輸送船は、「地獄船」と呼ばれる。

バターン死の行進の生還者だった故メルビン・ローゼン大佐は、地獄船内での様子を次のように語っている。

600人以上の男たちが、一つの床窓以外には換気装置もない金属の船倉にすし詰めにされたのです。用便の施設も全くありませんでした。私たちは空になった食事用のバケツを使いましたが、あっという間に溢れてしまいました… 夜になる頃には船倉の中は真っ暗闇で、飢えと乾きで気が狂う者もでてきました。彼らは完全に頭がおかしくなり、尿を飲んだりしました。私自身は見ませんでしたが、他の者を殺しその血を飲んだ者もいたと思います。船倉そしてそこに閉じ込められた人々の状態は、筆舌に尽くしがたいものでした

「ブラジル丸」上で死ぬ捕虜の数は毎日20人から40人へと増えていきました。南国のフィリピンから出発した私たちは、今や床窓から雪が舞い込む東シナ海を航海していました。捕虜たちは凍りつき、飢え、乾き、そして無数の病気で死んでいったのです。その時点まで私は何とかウェストポイントの卒業記念指輪を隠し持ってきましたが、水筒半分の油っぽい水と交換に日本人監視に取られてしまいました。今回も用便施設はなく、船倉は糞尿や吐しゃ物がかかとの高さまで溜まっていました。

輸送中に多くの捕虜が病気で死んだが、地獄船での大半の死は、米潜水艦や爆撃機が、捕虜輸送中の標識をつけないそれらの船を攻撃して沈めたときに、起こった。何千人もの捕虜が、海の藻屑として消えていった。1944年10月「阿里山丸」が米潜水艦に沈められたとき、輸送中だった1800人の捕虜のうち8人を除いて、その全員が死んだ。

日本での強制労働

地獄船での航海に生き残った捕虜たちは、三井・三菱・日本製鉄などが所有する鉱山・工場・埠頭などで、強制労働に従事させられる。殴打やその他の残虐行為は相変わらず続き、食糧や医薬品が充分に与えられることはなかった。

バターン死の行進生還者で陸軍航空隊所属のジェームス・マーフィは、本州北部の三菱尾去沢銅山で、500人のアメリカ人捕虜がいかに残酷に取り扱われたか、語っている。

私たちは信じられないほど危険な作業状態において、 困難な努力を要する肉体労働に就かされました。看守と職員は、毎日私たちから搾取し管理するにあたって、野蛮で残酷になるよう訓練されていました。私たちに対する目にあまる行為は、彼らが棍棒、小銃、シャベル、鶴嘴などで殴ることでした。拳骨で殴られたり、革靴を履いた足で蹴られたり、その度に深い切り傷や打撲傷、潰ように苦しみました。

私たちが栄養失調、飢餓、疾患、病気に苦しんでいる様子は、誰の目にも明らかだったのですが、日本人はその救済策をとりませんでした。満足な食事も与えられず、疾患や病気の治療も受けることなく、より多くの銅を採掘するため、益々過酷に働かされたのです。

九州の三井炭鉱で強制労働に就かされたレスター・テニーは、1944年の冬ごろ米軍による日本の都市への爆撃が激化するにつれて、日本人監視員の残虐性も増したことを、覚えている。

私は、1-2ヶ月の間に3度も鎖で打たれた。それは、アメリカが日本の都市のひとつを爆撃し、住民を殺したという理由からだ。私はこれをある種の報復だと思っていた。一度目に打たれたとき、私は腰が真っ二つに折れたかと思ったほどだった。

戦争が終結するまでに、1,115人のアメリカ人捕虜が、残虐行為・病気・そしてさらには処刑で、日本の地で命を落とした。

戦後

米政府と軍指導部が、バターン死の行進とそこでなされた米兵への残虐行為を知るのは、1943年夏、死の行進を生き延びたあとミンダナオの捕虜収容所から脱出した将校の一人から報告を受けた時だった。しかし当初メディアにはかん口令が敷かれ、やっと人々に伝えられたのは1944年1月のことだった。いったんそれを知るや、アメリカ国民は日本軍の残虐さに衝撃を受け、激怒した。その怒りは、その後トルーマン大統領が原爆投下の後に発表した声明にも現れている。

我々は、予告なしに真珠湾を攻撃した者たちに、米兵捕虜を飢えさえ殴打し処刑した者たちに、国際戦争法規に従うそぶりもみせなかった者たちに対して、(原爆を)使用した。

バターン死の行進が起こった当時のフィリピンの日本軍司令官であった本間雅晴中将は、戦争裁判にかけられ、1946年4月3日に処刑された。その後、捕虜を虐待した何百人もの監視員にも、同じ運命が待っていた。

しかし戦後わずか6年で、その怒りは極東地域における地政学に置き換えられていく。1951年、米政府は日本との間に講和条約を締結したが、それには元捕虜の日本に対する請求権を放棄するという条項が含まれていた。アメリカは、ソビエト共産圏に対抗するために日本を自らの陣営に留めておく必要があり、日本に補償を求めないことを決めたのだ。元捕虜たちは、自らの政府によってまた犠牲にされたのだった。

しかしその頃、元捕虜たちは、戦争中の苦しみの記憶に苛まれながら、新しい人生を築くことに忙しかった。

バターン死の行進の生還者で、第200沿岸砲兵隊のカルロス・モントヤは、彼の戦後の苦しみを次のように語っている。

戦争が終わった後の5年間、私は酒浸りとなりました。怒りが収まらなかったのです。つらい思い出を打ち消すために、飲みました。ある時、妊娠していた妻を、銀行のビルの3階にある医者に連れていきました。一階のロビーでエレベーターを待っていたのです。エレベーターのドアが開いて、日本人が出てきました。私はその瞬間、この人物に飛びかかって首を絞めていたのです。さらに床に倒して、蹴りつけ殴りつけていました。周りの人々は何が起こったのか分からず、警察を呼びました。警察官が来て、いったい何が問題なのかと聞きました。そこで妻が、私が日本で捕虜だったことを、この警察官に説明したのです。私はこの日本人を殺しかねない状態でした。事情を知った警察官は、気の毒なこの日本人に、すぐ立ち去るようにと言いました。そんなことがあり、私は日本人に出会わないよう、気をつけなければなりませんでした。

1972年私は、捕虜時代に私を虐待した看守を殺したいと思って新潟までいきました。旅行荷物の中にピストルを入れて行きました。今振り返ると、当時の私はまだ精神的に病気だったのです。私の中で怒りが渦巻いていました。

生還者は、それぞれ自分のやり方で、日本軍の捕虜だったつらい記憶と向かい合わなければならなかった。当時はPTSD (心的外傷後ストレス障害)への理解もなかったのだ。

陸軍航空隊のロバート・ブラウンは、バターン死の行進を歩いたとき、17歳だった。満州奉天の捕虜収容所に送られたとき、体重は40キロを切っていた。1945年8月にソ連軍によって解放された。故郷の家に帰還したとき、彼は普通の生活にどう再適応してよいか分からなかった。

家には帰ってきたけど、まだ囚われの身のようだった。夜は眠れなかったし、誰ともまともに話すことができなかった。日本語とわずかばかりの中国語の悪い言葉を知っていただけで、誰とも会話ができなかった。仕事は全くなかった。僕にはろくに教育もなかったから。捕虜収容所でどう生き延びるかは知っていたけど、その他に僕に何ができたのか。酒を飲むことだけだった。

ある時、寝ていて捕虜時代の夢をみてうなされた。母がやってきて僕を揺さぶって起こそうとしたんだ。ベッドから飛び起きた僕は、彼女の首を掴んだ。僕は我に帰って、「いったい自分は何をしているんだ」と自問した。そして母に「お母さん、僕が寝ているとき、絶対部屋に入ってきて僕に触わったりしないで。僕、何をするかわからないから。」と言った。

バターン死の行進生還者で第31歩兵連隊のアビー・アブラハムは、死の行進ルートに沿ってアメリカ兵の遺体を掘り起こすようにマッカーサー将軍に直接命じられ、フィリピンに残る決心をする。彼は、何百体もの遺体を掘り起こすが、その中のあるものは彼の友人のものだった。

私が戦前よく知っていた旧友ルーサー・エヴァーソンの遺体が埋まっている場所に行った。私たちが(死の行進中)よろめくようにバランガの町から出てきたとき、橋を渡り、その時ルーサーが倒れるのを見たことを、私は覚えている。彼は立ち上がろうとして、また倒れた。私は、日本兵が彼を撲殺したのを目撃した。

竹やぶの麓で、私たちは彼の遺体を掘り起こした。作業員が、頭蓋骨を私に手渡した。私は身を震わせながら、日本兵の棍棒でできた深い裂け目を見せた。皆が、言葉を失ったようにそれを見つめた。

「エヴァーソン軍曹と私は戦前、下級将校クラブでよく一緒に飲んだものだ。」私は彼らに教えた。「それが今、彼の頭蓋骨をこうして手にしているとは! 親切でいい人間だったのに、病気だった為に、空腹だった為に、喉が乾いていた為に、そして疲れていた為に、殺されたのだ。アメリカ兵士だった為に、死によって沈黙させられたのだ。」

幸運にも捕虜体験を表せる術をもてた者は、ごく少数だった。陸軍航空隊のベン・スティールはバターン死の行進と日本での1年の強制労働の生還者だ。彼は、捕虜生活を描いた画家として最もよく知られている。彼が絵を描き始めたのは、フィリピンの捕虜収容所でだったが、2枚を除く全ての絵は終戦までに失われてしまった。しかし、開放されて帰還するとすぐ、彼はそれらの絵を再現し始めたのだ。それらはやがて、日本軍下における捕虜体験を描いた最も包括的なそして最も説得力のある視覚資料の一つとなった。

                                
    
                              ベン・スティール 「Water Line

名誉ある最終章を求めて

バターン死の行進の生還者たちが、自分たちを奴隷のように使った日本企業を相手取って訴訟を起こすまでに、54年の年月が流れた。そのような訴訟が可能になったのは、カリフォルニア州で1999年に成立した法律の下でであった。その法律は基本的に次のように定めていた。

第二次世界大戦中の強制労働の被害者は、彼らが労働を提供した相手或いはその後継者に対し、直接或いは子会社・関連会社を通して損害賠償を求める訴えを、起こすことができる。

レスター・テニーは、三井を相手取った訴訟で最初の原告となった。やがて60社近い会社が30以上の訴訟で訴えられることになる。米国・日本の両政府は、被告企業の側に立ち、講和条約に従い、これらの訴訟を棄却することを裁判所に求めた。

2001年の9月25日には、ウオルター・モンデール、トーマス・フォーリー、マイケル・アマコーストの3人の元駐日米大使が、ワシントン・ポストに意見記事を書いた。当時、捕虜訴訟を支援するために議会にかけられていた法案に反対しながら、彼らは次のように書いた。「そのような法案は、重要な同盟国である日本との関係に、深刻でよくない影響を与えるだろう。議会は、大統領と彼の政権がテロとの戦いに共闘体制を築こうと一生懸命なときに、我々の安全保障の基幹ともいうべき条約を破棄しかねない法律を、なぜ通そうとするのか。」

そして、実際の審理に入る前の駆け引きが4年以上続いた後、捕虜の強制労働は全て棄却された。裁判所は、カリフォルニア州法を違憲と判断したのだ。しかし、捕虜たちが訴訟を起こしたこと自体は誰も責めることはできなかった。彼らは、カリフォルニア州で認められた権利を行使しようとしただけだったのだから。この法律を書いた元カリフォルニア州上院議員トム・ヘイデンは、「サンフランシスコ条約に抵触する可能性については、考えなかったのか」という筆者の質問に、以下のように答えてきた。

私たちは法律家にも相談し、条約を点検しました。条約の中に、奴隷労働や強制労働に対して補償を求める個人の権利を破棄するような内容はありませんでしたし、州がそのようなケースで州民を守ることを禁ずる内容も見出せませんでした。

しかし、現実として彼の法律は違憲と宣言され、そのために、年老いた元捕虜は4年にもわたって一喜一憂の思いに翻弄されたのだった。

彼らが法廷に立つ機会を潰すためにあらゆることをしたのが、自分たちの政府であったことは、元捕虜を何より傷つけた。テロとの戦いのために、後にはイラク戦争のために、ブッシュ政権が、同盟国である日本を怒らせるようなことを一切したくない、ということは元捕虜にも想像できた。しかし、ドイツの戦時強制労働者のために仲介役を務めて和解を助けた米政府が、自分たちのためにも同じことができたことを知る元捕虜は、またしても犠牲にされたと感じた。バターンでよく口にしたざれ歌が、新たな感慨を彼らのうちに沸きあがらせた。  

俺たちゃ、バターンの厄介者兵士
おっかさんも、おとっつあんもいねえし、祖国からも見捨てられたのさ
おばさん、おじさん、いとこ、めいごっこも、いねえ
薬もねえし、飛行機も、武器もねえ
俺たちのことなんぞ、誰も気にかけちゃいないのさ

訴訟の目的は、戦争中の苦しみに名誉ある最終章を書くことであったから、元捕虜たちは、訴訟の棄却をもって自分たちの戦いが終結したとは、考えなかった。法的に責任を免れた日本企業と政府が、今や補償の心配をせずに、進んで第二次大戦中の捕虜の虐待を認め、誠実な謝罪をすることを、彼らは期待したのだった。それは起こらなかった。

2007年4月、元日本軍捕虜米兵の団体である American Defenders of Bataan and Corregidor (ADBC) のメンバー約70名が、年次総会に出席するため首都ワシントンに集まった。彼らのほとんどは80代後半か90代で、元日本軍の捕虜がワシントンにこれだけ集結するのも最後であろうことを知っていた。

彼らは、日本政府に正式な謝罪を求める決議案を採択した。決議案を書いたのはADBCの副会長レスター・テニーで、彼はそれを日本大使館に直接手渡したいと考えていた。彼は何週間も前から、加藤良三大使か或いは誰か決議を受け取ってくれる人物との面談を申し込んでいたが、無視されていた。テニーとADBCで長く指導者だったエドワード・ジャックファートが、大使館訪問を計画していた当日に大使館に電話し、決議を持参してよいかどうか尋ねると、誰も会えないと言い渡された。

ブッシュ大統領が「慰安婦」問題安倍晋三首相から謝罪を受けたのは、それから数週間後の首脳会談のときだった。

捕虜だった父親を子供たちが称える

米国でも日本でも、バターン死の行進を歩いた兵士を記憶し称える政府レベルでの努力はほとんど行われてこなかったが、近年アメリカ人の中に、これらの特別なベテランが彼らの経歴にふさわしい扱いを受けてこなかったことに気づく人々が出てきた。彼らの中で最も熱心なのは、捕虜の子供たちだ。

2006年1月、フィリピンのスービック湾に「地獄船」追悼碑が建設された。建設運動の中心だったのは、父親を地獄船で失った故デュエイン・ハイジンガー海軍大佐だった。彼が書いた碑文は、以下の文章で終わっている。

この追悼碑は、これらの英雄が払った類いまれな犠牲を発見するに違いない将来の世代が、静かに瞑想する場所を提供するであろう。彼らが立派な模範から啓示を受けるだけでなく、戦争のない世界への、絶えることない希望を再主張するように。

地獄船追悼碑は、忍び寄る独りよがりと忘却の流れに毅然と逆らう碇として、希望の言葉を永久に語り続ける。

この追悼碑は、元日本軍捕虜と、捕虜として死んだ者或いは果てしない悪夢を生き延びた捕虜の家族と友人により建設され、支えられる。

     
               地獄船追悼碑(スービック湾) 碑文
      

バターン死の行進生還者を父に持つフレデリコ・バルデサレは、フィリピンのバターン生還者とその家族と共に、死の行進の最後に捕虜を運んだ貨車の一台を保存しようと、長年尽力してきた。彼らのたゆまぬ努力は2007年10月ついに実を結び、貨車は、オドネル収容所で死んだフィリピン人とアメリカ人をそれぞれ追悼する記念碑があるカパス国立公園に運び込まれた。

   
                        バターン死の行進者がオドネル収容所まで乗せられた貨車


Battling Bastards of Bataan という団体を長年支援してきたバルデサレは、筆者に次のように書いてきた。

1942年4月、サンフェルナンドからカパスまでこの貨車に乗せられた父、祖父、叔父、大叔父を持つ僕たちにとって、この貨車は貴重な遺物であり、バターンからオドネルまでの恐るべき旅を表す具体的証拠なのです。

故意に水を与えられず飢えさせられ、殴打され、周りの者が撃たれ、銃剣で突かれ、首を刎ねられ、生き埋めにされるのを見ながら、熱帯の太陽と容赦ない暑さに感覚が麻痺しながら、監視兵の恐怖と嘲りと残虐さに苛まれながら、4日から5日バターン半島の東を歩いた後に、突然押し込まれ、あまりきつくて死んだ者が倒れる隙間もなかったこの貨車の中で、捕虜たちが何を感じたのか、想像にあまるものがあります。

今その貨車は、かつての乗客の霊に囲まれて静かに置かれています。僕たちがそこを訪れるのを待ちながら。

ジェラルド・シュアーツ陸軍退役大佐の父親は、バターン死の行進に生き残ったが、その後地獄船の中で死んだ。今日シュアーツ大佐は、毎年ニュー・メキシコ州のホワイト・サンズミサイル射撃場で開催される「バターン追悼死の行進」運営組織の中心人物だ。

1989年、ニュー・メキシコ州立大学の予備役将校訓練部隊の100人だけでスタートしたこの行事は、その後、大きなイベントに成長した。2008年3月30日に開催された第19回バターン追悼死の行進には、4,400人あまりが参加した。彼らは、42キロの本コースか25キロの名誉コースを、マラソン或いは歩くことによって、第二次大戦時フィリピン防衛戦を戦った勇気ある英雄を称えた。

会場には毎年、バターン死の行進の生還者がゲストとして招かれる。彼らと会ったある参加者は、次のような感想を述べている。 

「バターン死の行進」から生還した人々と会い、とても謙虚な気持ちになりました。彼らは本当に畏敬の念を抱かせる男たちでした。私は、彼らの前に立ったとき、非情な敵と面して彼らが払った犠牲と勇気に対し、どのように感謝の気持ちを伝えてよいのかわかりませんでした。スタート/フィニッシュラインで、生還者と握手したとき、その中の一人が私を見て一言「来てくれて有難う」と言いました。その瞬間の私の感動は、とうてい言葉では表せません。この先、一生涯忘れないでしょう。                 
 



参加者と握手するバターン死の行進生還者ロバート・ブラウン

この数年、参加者の中に見かけるのは、アフガニスタンやイラクでの戦争で負傷し足を切断された兵士や、それらの戦争で息子を失った親たちの姿だ。彼らは、義足で行進したり、死んだ息子の写真を印刷したシャツを着て歩き、バターン死の行進の生還者に敬意を表していた。

シュアーツ大佐は、将来は日本からも参加者が来て欲しいという。

テレビや映画で取り上げられるバターン死の行進

2007年の秋、米国の公共放送テレビPBSは、著名なプロデューサーであるケン・バーンズが制作した第二次大戦に関するドキュメンタリー「戦争」を、放映した。最初の週のプレミアだけで(その後何度か再放送されている)、全米3780万人が観たと報告されている。

このドキュメンタリーの中で、日本軍の捕虜となった米軍人と米民間人のエピソードが、大きく取り上げられた。バターン死の行進の生還者であるグレン・フレージャーは、幸運にもこのドキュメンタリーで証言することになった。彼が、捕虜体験と戦後苛まれた日本への憎しみについて語ると、ケン・バーンズは、そのことをカメラの前で証言して欲しいと言ったという。15時間のドキュメンタリーの最後のエピソードで、フレージャーは、30年近くにもわたって彼を苦しめた憎しみとの戦いについて、振り返っている。

日本を離れる時、私はあらゆる憎しみを彼らに抱いていました。それは私の全身に埋め込まれ、私は憎しみを抱く権利があるとさえ感じたものです。でもその憎しみを取り除かなければならなくなりました。私の健康が悪化していくのはそのためであると気が付くのに、29年かかりました。憎しみに捕われていたために、私の人生は本当に惨めだったのです。

私が通っていた教会の牧師が言いました。「自分自身を赦し、彼らをも赦さなければならない」と。 「日本人を赦すだって!冗談でしょう。一体全体どうしたらそんなことが私にできるんですか?彼らは私に一度だって謝ったことはない。他の誰にもない。彼らは私たちにした仕打ちについて、一度だって修復しようと努力したことはないんですよ。なぜ彼らを憎んではいけないんですか。憎まない訳にはいきません。」と私は言いました。牧師は「人生をそんな風に生きることはできませんよ」と私に言いました。

 (フレージャー証言:  http://www.pbs.org/thewar/detail_5323.htm )

バターン死の行進について呼び起こされた人々の関心と、「硫黄島からの手紙」の成功に勇気付けられ、今ハリウッドではバターン死の行進に関する映画の製作が進んでいる。ストーリーは、(バターン死の行進の責任をとらされて処刑された)本間中将の戦争裁判に焦点があてられる。広告ウエブサイトには、次のような映画のあらすじが掲載されている。

1945年 東京/フィリピン
4人の若い軍法務官は、ダグラス・マッカーサー最高司令官から、戦後の日本占領で最も不人気な仕事を割り当てられる― 彼らは、悪名高いバターン死の行進の責任者として告発された日本人の将軍を、弁護することになったのだ。

当初彼らは、自分たちのキャリアを台無しにしてしまうその仕事から、何とか逃げようとした。やがて彼らは、「バターンの獣」として知られた本間中将が、善良で名誉ある人物であり、彼が告発された犯罪に実際は関わっていなかったことを発見する。しかしマッカーサーは、彼を戦場で打ち負かした唯一の日本人将官である本間に対して、密かな恨みを抱いていたのだ。

若い米法務官は、誰の目にも明らかな運命から本間を救おうと、自分たちの上官だけでなく、訪れる死を覚悟する本間自身と戦いながら、奔走する。

これは、悪人が英雄であり、英雄が悪人であったという物語で、若い兵士たちが、戦争犯罪人と疑われて囚われの身となった人物と共に、勇気の教訓を提供する。

この映画のプロデュサーであるジョナサン・サンガーは、筆者に以下のメールを送ってきた。

映画の中で、バターン死の行進で行われた残虐行為を過小化したり、バターン生還者の記憶を侮辱することは、決してありません。映画は、起こった出来事に関し、本間雅晴中将の裁判に参加した人々の証言に従って、明確にします。指揮官の責任の問題については、公平に描かれていると思ってもらえることを、願っています。

これは戦争の最悪の面を描いた物語です。アメリカ人にも日本人にも、その観点から鑑賞して貰いたいと思います。

66年の後に

American Defenders of Bataan and Corregidor (全米バターン・コレヒドール防衛兵)は1946年以来、毎年総会を開いてきた。戦後すぐの頃は若かった元捕虜たちも、今は80代後半90代で、その人数はどんどん減ってきている。彼らは、2009年の春をもって、組織を解散することを既に決めている。レスター・テニーは2008年5月、その最後の代表に就任する。彼は、63年続いてきた組織が消滅する前に、なんとしても日本から謝罪を得たいと決意している。

テニーは、5月末にハワイの真珠湾記念館で開かれるメモリアル・デー式典にパネリストとして招待され、太平洋戦争での出来事について振り返り、議論することになっている。彼は、その後日本に足を伸ばし、もう一度そしておそらく最後の努力として、日本政府とアメリカ人捕虜を奴隷のように使用した日本企業に、謝罪を求めたいと考えている。彼は福田康夫首相にあてた手紙で次のように書いた。

首相、捕虜問題を解決したいというのが私たちの願いです。そうすることが、私たち元捕虜にとっても、あなたの名誉ある国にとっても利益にかなうことであり、遠い過去に悲劇を味わった私たち老兵に最終的な心の平安をもたらすのです。私たち生還者は人生の最後の日々を迎えており、私たちの組織は会員の逝去が続くなか、ほどなく解散を余儀なくされようとしております。その時が来たら、謝罪を受け取る生還者は誰もいなくなるのです。

ルビン・ローゼン大佐は2007年8月1日、89歳で逝去し、国立アーリントン墓地に名誉の埋葬をされた。

他のバターン生還者は忙しくしている。

88歳のレスター・テニーは、最近中国の著名なリポーターと出版社から、第二次大戦を日本軍の捕虜として過ごした体験を綴った自著を、中国語で出版しないかと申し出を受けた。オリジナルのタイトル「My Hitch in Hell」は My Time in Hell」というタイトルになり、それは、バターン死の行進と3年半の日本軍捕虜の体験を語る自伝としては、中国で出版される初めての著書となる。

84歳のグレン・フレージャーは最近、「Hell’s Guest」という著書を出版し、アメリカ中を講演をしている。88歳のハロルド・プールは、彼の捕虜体験と日本企業相手の訴訟を綴った著書「Soldier Slaves」の著者ジェームス・パーキンソンが製作中のドキュメンタリーに登場する。87歳のルイス・リードは今でも、全米元捕虜の会とパープル・ハート(負傷兵に授与される勲章)の会で活動している。90歳のジョン・オルソンは、フィリピンスカウト歴史協会の歴史顧問だ。87歳のジェームス・マーフィーは最近、ナンシー夫人とともに捕虜体験記を、書き終えた。92歳のカルロス・モントヤは、昨年甥のジョー・カンクレが、彼の体験記を出版した。83歳のロバート・ブラウンは昨年、中国政府が保存し歴史博物館にした奉天(現瀋陽)捕虜収容所跡地を訪ねた。またパープル・ハートとブロンズ・スターの勲章を授与されたばかりだ。94歳のアビー・アブラハムは、いまでも退役軍人病院でボランティアをしている。90歳のベン・スティールはつい先ごろニューメキシコ州で開かれたバターン追悼死の行進で、捕虜生活を描いた自分の作品について発表した。

謝辞

このエッセイで紹介したバターン生還者とその子供たちは、これまで何年もの間、筆者が、日本軍捕虜米兵の歴史を理解することを、助けてくれた人々である。捕虜体験とそれをめぐるさまざまな思い、そして末永い友情への願いを共有してくれた彼らに、感謝したい。
 

                      
                  
        
 Lester Tenney                                   Glenn Frazier     

                    
                                Harold Poole                                      Louis Read          

                  
                                 John Olson                                  Melvin Rosen

                         
             
               James Murphy                                  Carlos Montoya 

                    
                          Robert Brown                                        Abie Abraham

                
                                      Ben Steele

徳留絹枝は「捕虜:日米の対話」管理者
http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm