バターンで日本兵に拾われた米兵のアルバム

             伊吹由歌子

忍野八海に住む渡辺時雄さん(90歳)は、元日本軍人として、バターン・コレヒドール戦に参加後、満州ハルピン近郊の阿城に移転し、そしてシベリア抑留3年の体験を持つ。最近、長年の気がかりが思わぬ展開をみせた。19424月、比島攻略戦のバターン半島カブカベン付近で彼は米兵のアルバムを拾い、いつか持ち主に返したいと思いつつ、長年、その手立てがなかったのである。

2008年の夏、甲府市に住む小石孝夫・ロベルタ夫妻は3年間のシベリア抑留を書いた渡辺さんの本の再版を地元新聞で知り、連絡をしてきた。ロベルタさんはオレゴン州ポートランドの出身で、家族の友人にはバターン死の行進生存者もいた。渡辺さんと会い、アルバムを持ち主に返したいという彼の強い願いを知った小石夫妻は助力を申し出、どこへ問い合わせるべきか見当もつかぬ困難な調査にとりかかった。

アルバムを見る渡辺時雄氏と小石孝夫・ロベルタ夫妻

アルバムには7つの姓が書き込まれており、これを唯一の手がかりにインターネット検索の結果ロべルタさんは7つすべてが所属するニュー・メキシコ州兵部隊のひとつにたどり着き、さらにサンタファフェの「バターン祈念ミュージアム」を発見して連絡をとった。米国へ持参するに先立ち、小石夫妻は広報活動にも乗り出し、主要新聞の地元支局、そして、レスター・テニー著「バターン 遠い道のりのさきに」を2003年に共訳した私へも出版社を通じて連絡がきた。梨の木舎の羽田ゆみ子さんと私は116日甲府へゆき、若い新聞記者ら数人とともに3人にお目にかかることができた。

最初の英文記事はデイリー・ヨミウリに1117日付で掲載され、米の捕虜問題研究者ロジャー・マンセル氏の目にとまる。彼は米国内の日本軍捕虜情報交換ネットにこの記事を紹介し更なる情報を求めた。小石夫妻はすでに友人の助けを借りて主な写真をスキャンし二つのファイルにまとめ、インターネット・アクセスが可能なよう準備してくださっており、ご夫妻の承諾を得て数人の研究者にその日のうちに送ることができた。早速、米側の調査が開始され、特にフェデリコ・バルダサル氏の精力的な努力により、7名はすでに逝去していること、しかし彼らのいたC砲兵中隊(州兵部隊所属)の生存者はリチャード・ダリー氏を含む数人が判明し、同氏を通じてこのアルバムの米への帰還が知らされた。
 
                   アルバムに貼られていた写真から
 
  フィリピンに向かう 「プレジデント・ピアース号」          途中停泊したホノルルで

小石夫妻は121日にバターン祈念ミュージアムを訪ね死の行進体験者と州兵部隊の上級将校たちに迎えられたが、夫妻によれば同館は持ち主またはその遺族発見に大変前向きであるという。ロベルタ夫人は当ウェブサイトに次の文章を寄稿してくださった。

2008121日」 ロべルタ小石夫人

ニュー・メキシコ州アルバカーキへ飛行機で到着した夫の孝夫と私は、州兵部隊の方々に迎えられました。皆さんの車でサンタフェ市へゆき、短く観光ドライブをしていただきました。ミュージアムへ着くと、モントヤ少将が車まで来られ、館内の広間では彼のスタッフ、元捕虜たちとその家族ら60人を超える人々が歓迎してくださいました。 紹介ののちメキシコ料理の昼食をしました。

私たちは自己紹介を、そして、アルバムを手にした経緯を話すよう求められました。夫の孝夫には(日本人として)自分がどのように受け入れられるかが気がかりでした。しかし、彼が子供時代の戦争体験を話すと、元捕虜たちが日本語で「トモダチ」と大声で呼びかけたのです。孝夫の胸は高鳴り持っていた恐れはすべて消えました。  私たちはアルバムを見せ、7人の生存者たちは前へ出てこられて自分の手でアルバムに触りました。そのひとり、リチャード・ダリー氏は7人全員の名を知っていると言われました。彼らは皆、同じ部隊にいたのです。写真をみながら、彼はあふれる涙を抑えることができませんでした。

 小石夫妻のスピーチ (ビデオ撮影・提供 Bernadett Charley Gallegos)

最後に、モントヤ少将は7人の生存者全員に、「基準を上回る」または「求められた任務を上回る」と書かれたメダルを授与し栄誉を称えました。つぎに大将は私たちのほうを向いて言われました。「貴方たちも、このメダルを勝ち取ったのですよ!地球を半周してアルバムを私たちに持ってきてくださり、心から感謝します。」アルバムの米国への返還を願った渡辺さんにも、彼はメダルをひとつ、私たちに託しました。

それから将軍は全出席者に言いました。「私たちはこれからいつまでも小石夫妻を友人と呼びたく思う。御異存ありませんか?」全員が賛同のしるしに熱心に喝采してくれました。そこにいた2時間半、私は涙を抑えるに苦労したのでした。

  

      サンタフェのバターン祈念ミュージアムでアルバムを見せる小石夫妻
                        
(写真提供:
Bernadett Charley Gallegos)

 WWII Photo Album Found on Bataan Returns to New Mexico のウエブサイトから

読売新聞記事「米兵アルバム66年ぶり祖国に」


バルダサル氏らからインターネットで寄せられる新情報を電話で伝えるごとに渡辺さんは「有難いねぇ!」と興奮ぎみだった。「私たちは国が違い、戦場に送られて戦わなくてはならなかった。でもこんな交流ができる時代になったんだね。それが本当に有難い。」渡辺家は富士山ろくの
忍野村に代々住む。いまも渡辺さんは「ふるさと案内人」という観光ヴォランティアとして駐車場に陣取り、観光客の案内に忙しい毎日だ。富士の雪は何十年の歳月をかけてこの地域の八つの池に湧き出てくるという。美味しい水でそばも野菜も魚も育つ。

渡辺氏の祖父の家は忍野村民族資料館になっている

 「バターン戦当時の私は、その後、シベリヤ抑留3年を経験し変わりました。全く違う角度からの体験をしたのです。」 渡辺氏は観測班であったため大型機材の箱にこの大きなアルバムを収めて運ぶことができた。満州ハルピンの近郊に部隊が駐屯するあいだに彼は東京の陸軍士官学校へ送られて勉強し、19452月、卒業して満州へ戻る前にアルバムや自分のバターン戦闘日記を実家に預けた。ブラガン州でハルピンで、戦友たちや地元の友人たちとの写真を彼はこのアルバムに貼った。すべてのページは、日・米、若い二人の兵士の写真で埋め尽くされている。


米国への旅から帰った小石夫妻は、
1219日、渡辺さんを訪ねメダルを手渡した。1225日、渡辺さんから届いた手紙、お許しをいただき掲載する。

「私ども日本人は、米国の方々に多大のご迷惑をおかけしたのに、今米国の方々から逆に愛情あるおつき合いを頂き本当に嬉しく感謝いたします。どうかこれからもよろしく御交際ください。また私どもがバタアン戦争等で米軍、フィリピンの方々に御苦労をおかけした事に対しても是非御許しください。来年がよい年でありますようお祈りいたします。また春になったら忍野八海の水飲みに来てください。」

 

       ******* バターン戦闘日記 渡辺時雄氏 *********

渡辺さんは比島戦当時の戦闘日記を自分史の一部として1999年に印刷配布しておられ、許可を得て捕虜関連の抜粋を転載する。

私は陸軍砲兵学校卒業生で構成した重砲兵中隊の観測班員(註1)として、213日から620日までバターン半島とブラガン州にいた。49日、砲兵中隊はマリヴェレス山脈の南東地域にリンガエン上陸いらい3番目で最後の陣地構築の命令を受け、4月12日、カブカベンの約1キロ西のくぼ地に砲兵陣地、前線近くの小山に観測所を構築し、5月5日までコレヒドール、フライレ、カバロ各要塞島との攻撃報酬にあけくれ、中隊では7名が戦死した。(註2)

註1:重砲隊は3隊からなる。くぼ地に陣地を設け大砲の組立て・射撃操作にあたる戦砲隊、大砲・砲弾食糧などの搬送・移動を任務とする車輌・段列隊、そして正確な射撃に必要な観測・通信・無線班は見通しのよい高所に観測所を構築し機材を据え射弾する。註2:カブカベン付近のこの陣地にいるあいだに、米軍キャンプに残されていたアルバムを見つけた。

48日からはこんな狭い土地にこれだけの人がいたのかと驚くほど大勢の米比軍捕虜、フィリピン市民が、いまにも倒れそうに弱って後方に向かって歩くのを見た。身につまされ、立場が違っていたらと仲間同士話し合った。3月半ばごろから部隊に蔓延したマラリヤ、デング熱、猩紅熱などで、3月末には動ける人員は半数となった。38名いた観測・通信・無線班は入院者もでて54日には9名。私自身は合計三日間、陣地内でマラリヤのため動けない日があった。58日の陣地撤収では動けるものが2人しかおらず、段列隊に相談したところ、前日、食糧不足の米軍病院から中隊へ身を寄せた捕虜7名がいると衛生兵が彼らを連れてきて、手伝ってもらった。バターン戦当初の中隊総数179名のうち、522日朝の点呼に整列した戦友は62名、あとの3分の1はほとんど寝たきりでまだ熱発で苦しみ、あとの60人は戦闘の続行中に、野戦・マニラなどの陸軍病院に後送された重病人たちで生死は不明だった。これら伝染病は日米両軍に砲弾より爆撃より猛威をふるった。

観測班の食事は手にはいる間は乾パン、補給のつかないときはジャングルの果物類が主食で、谷川の大トカゲの肉は焼くと保存もきいた。最初、マラゴンドから要塞三島の側面攻撃に従事した中隊が327日バターン半島ナチブ山系に入ってからは、時にジャングル内の米軍キャンプに残された食糧を見つけ助かった。缶詰肉、コーヒー、紅茶など、初めて食べる者も多かった。

513日から620日まで、中隊はブラガン州の首都ブラガンで待機との命令を受けた。当時の私共は西欧による植民支配からの解放と5族共栄を信じて喜んでいた。その頃には、32名の米捕虜が中隊に降伏して居候となり、部隊と同じ小学校の建物で寝起きし、下働きをしてくれていた。うち3名はメキシコ系アメリカ人だった。私は捕虜係班長として毎朝の点呼に付き合い親しくなった。「このまま日本国に連れてゆくよ」というと、白人たちは「渡辺さん、今に米本国から吾々を迎えにくるよ」と笑っていたが、メキシコ系の二人は「日本人良い人一緒に行きたい」あとのひとりは「私は家にいとしい妻と可愛いベビーが待っているから早く帰りたい」。「コブ」と呼ばれていた米人は若くて優秀なエンジニアで自動車修理を手際よく働き皆から重宝がられていたが、彼は「私は日本人が好きだ。渡辺さんとならこのまま何処へでも行きたい」と言っていた。バターン戦当初の中隊総数179名のうち、522日朝の点呼に整列した戦友は62名、あとの3分の1はほとんど寝たきりでまだ熱発で苦しみ、あとの60人は野戦・マニラなどの陸軍病院に後送された重病人たちでまだ生死不明だった。

戦線から離れた人間同士はこんなに仲良くできるのに何故、国と国は戦いをしなければならないのか軍人である私自身理解できなかった。日本軍の「戦陣訓」では「捕虜になる前に死ね」と教えられた。しかしながら、捕虜にした米軍兵士たちは「吾々はマニラ要塞の守備を任務で精一杯戦って負けたのだから吾々の任務はそれで終わった。捕虜になるまで戦ったことは軍人として勇者であり名誉のことである。」という話を私共にも堂々と説いた。」(註3:部隊の満州移動のさい、捕虜たちはマニラの収容所に移送された。)