メーガン・バーヴァー

ニューメキシコ州立大

66年前、祖父は直接の上官と言い合いをしました。結果から言うと、この言い争いが私の生まれたおそらく唯一の理由となったのです。当時、祖父はニューメキシコ州兵の任務についており、彼の部隊は海外渡航の準備をしていました。どんな議論だったのか、祖父がはっきり語ってくれたことはないのですが、みるところ深刻だったようで祖父は再入隊をしないことに決め、正規軍に参加しました。彼がそれまで所属した州兵部隊はその一ヶ月後、フィリピンへ出航したのです。彼の仲間、ニューメキシコ第200太平洋沿岸砲兵隊の隊員たち多数が、バタアン死の行進の犠牲者となりました。このような個人的関係がなかったとしても、ニューメキシコに住んでいれば何かしらバタアン死の行進について学ばずにはすまされません。一例をあげると、高速道路沿いに住む大学生たちがお決まりのように行く映画館は、「バタアン記念ハイウェイ」という名です。あの行進はニューメキシコに多くの傷跡を残しました。二度と帰らなかった兵士たちの家族も帰還兵たちも、ともに忘れることはできなかったのです。祖父は長生きでしたが、彼が亡くなって7年になります。いかにして捕虜たちのひどい体験を記憶していくか、またこれらの経験がもたらした傷をいかに癒してゆくか、ますます、次世代の者たちの決断にかかる問題となっています。

「捕虜 日米の対話」サイトで捕虜体験記を読みすすめつつ、彼らの受けた扱いの非人道性に心痛まずにはいられません。アメリカ兵、フィリピン人捕虜たちはすでに栄養失調で弱っているのに、残酷な行進を強いられました。バタアンの生存者、ルイス・B・リードが思い起こしていますが、捕虜たちは飢え、そして殴られました。水は乏しく、食物も同様でした。日本軍兵士たちによる扱いは理解しがたいほどに残酷なものでした。リードは自分の仲間たちが手当たりしだい銃剣突きの練習台にされた事件を覚えていますし、メルヴィン・ローゼンはひとりの兵が無造作に捕虜を銃剣で刺し肥溜めに突き落としたのを目撃しています。レスター・テニーは負傷者が生き埋めにされた恐ろしい事件を詳述します。悪条件、そして残酷さ、米人もフィリピン人も何千人が路上に死ぬことになったのです。生存者にはあらたな恐怖が待ち受けました。カルロス・R・モントーヤは鉄道貨車に詰め込まれましたが、あまりに過密で中央部にいた者たちが窒息し、「立ったまま死んだ」。多くの捕虜たちは「地獄船」で輸送され、生き延びたものも、そうでない者たちも、通気性なく、耐えられない熱気の船倉に何週間もぶっ通しで押し込まれていました。日本到着後、炭坑で強制的に労働力として使われた米海兵隊員のドナルド・ヴァーソーは、約1,500人がその半数も収容できない空間に押し込められたことを思い出しています。その不潔さと恐怖は「言葉にできない」ものでした。加えて、多くの捕虜たちが日本の鉱山で強制労働に従事させられ、その扱いをジェイムズ・マーフィーはただこう言うしかありません。「肉体的・精神的な恐ろしい拷問と虐待」。歩くことも不可能な状態の捕虜たちが、健康な男たちにさえ理不尽な量の仕事を課せられました。オドネルなどの捕虜収容所では虐待と栄養失調で何千人もが死んでいます。赤痢やマラリヤなどの病気が体験にさらに恐怖を加えました。これらの諸状況により犠牲者数は莫大です。生存者ロイ・ウィーヴァーの調査によれば米軍捕虜の約40%が日本軍に捕らわれている間に死んだが、ドイツ軍拘留の米軍捕虜と比較するとこちらの死亡率は1%です。

捕虜たちに、彼らの体験は肉体的精神的な傷を残します。飢えと過重労働が生存者の健康に害を及ぼしていますが、戦時中、危険なほどに体重が減っていた者が多いのです。生存者ロバート・フィリップスによれば多くの捕虜たちは自然年齢よりはるかに老け込んでおり、早い時期に老齢による身体の衰えと対処しなくてはなりませんでした。さらに気がかりなのは情緒障害で、カルロス・R・モントーヤがもっとも痛切な描写をしています。モントーヤは帰還後多量の飲酒にはしり、一回などエレベータに乗り合わせた日本の民間人に襲いかかりさえしました。これらを思うとき、多くの捕虜たちが体験話しのなかで非常に肯定的な日本人への印象をしっかり記憶しているのは驚くべきです。ロバート・F・ゴールズワーズィの飛行機が日本で撃墜されたとき、一団の群集が彼をたたき殺そうと取り囲みました。ひとりの日本人、あきらかに地域のリーダーとみえる男が彼の命を救おうと割って入ったのです。のちに彼は「非常に親切でとても穏やかな」日本人医師によって治療を受け、彼が両手の火傷を直す手助けをしてくれました。ロバート・ブラウンは収監ちゅうに日本語を学び、日本人医師のひとり大気医師と大の友人になりました。戦争が終わったとき、大気医師は彼にプレゼントとして自分のサーベルをくれようとさえしたのです。ジャック・リーミングは彼の看守たちと友達のような関係にあったことを覚えています。おしゃべりをするとき彼らはキャンディやタバコを持ってきてくれて、戦争が終わったらアメリカへ彼を訪ねて行くかもしれないとさえ言いました。ロイ・ウィーヴァーも同様に、日本人の上官が彼と捕虜仲間にクリスマスにスコッチを一壜買ってくれたことを思い出します。「彼らだって大変だったんだ」とゴールズワーズィは日本人について語ります。「結局のところ日本人は私たちとそれほど違わないと分かった。」

辛酸をなめたあとも、捕虜たちの誰ひとり憎しみのメッセージをウェブサイトに書き込んでいないのは、私には驚きです。事実、非常に多くのものが日本へ戻り日本人と前向きな関係を結ぶまでになっているのです。ゴールズワーズィは友人 長沢のりの導きで数回の訪日をし、彼の飛行機が墜落した場所で「B29元機長夫妻を迎える会」という式典に参加し、日本のテレビ番組上で心打つ誕生祝いをしました。ウィーヴァーは1950年代にすごした日本での2年間をこころから楽しみ、富士山、鎌倉大仏、など有名な国の名所にも行きました。ハップ・ハロランは1984年、はじめて日本を再訪していらい合計8回の旅をしています。彼の日本の友人の多くがカリフォルニアの彼の家をグループ訪問することができました。カルロス・モントーヤでさえ最初のときはピストルを携え、彼にみじめな思いをさせた看守を撃ってやろうと誓って行ったのが、やがて自分の感情を制御できるようになりました。日本人看守たちは、アメリカ人を憎むように教え込まれていたのでした。日本人は、実のところ、「私たちと少しも変わらなかった」 と彼は気づいたのです。

史学科の学生として、私は米捕虜たちに何が起こったか、記憶することの必要性を信じます。歴史は正確に詳述されなくてはなりません。このようなことが起こりうることを人々に実感させ、人々がこんな残酷なことをする可能性があることを悟らせるためです。紛争がいっぱいの世界をおもうとき、自分たちのなかにあるこのような傾向を抑制し、どんな違いがあろうとも、すべての人々を尊厳と敬意をもって扱うことが肝要です。生存者ロバート・ブラウンがこう言います。「昔の恨みや憎しみを持ち続けることは魂にとって害となる。それは私たちの魂を腐らせてしまう」 アメリカも日本も互いに与え合うものは多く、我々の文化がとても違うことを考えればなおさらそうです。日米の対話に取り上げられている捕虜たちは赦すことを学んでいます。私たちの世代が相手を信じない、また相手に腹をたてることは、捕虜たちの勇気と忍耐を汚すことになります。オドネル収容所を去ろうとしていたジョン・オルセンは、セメントを一袋持った米軍の供給担当の将校に出あいました。これは、命を落としたアメリカ人たち慰霊の場所を立てるようにと日本軍の供給担当将校がくれたものだとその将校は説明したのです。「礼拝堂は建てませんが、十字架なら建てられます。」とオルセンは答えました。何年もたってから、その地を再訪したオルセンは、収容所で死んだ1,565人の思い出のため建立されたその十字架を見出しました。彼はそれをアメリカへ持ち帰る手配をし、いまその十字架はジョージア州アンダーソンヴィルにある国立戦争捕虜ミュージアムに立っています。日本の新潟市では捕虜収容所の入所者が、奴隷労働させられた何千人もの朝鮮人、中国人も共に、港の記念碑によって覚えられています。一方、スビック湾には地獄船の捕虜たちの名誉を覚える記念碑が建立されています。ここニューメキシコでは、バタアン死の行進の死者たちを覚え、1992年に始まったユニークな行事が行われています。ホワイト・サンズ・ミサイル射撃場が毎年バタアン死の行進記念マーチを主催し、軍関係者から学生まで地域の住人たちがグループになって砂漠を超えて歩くのです。生存者たちとその家族が招待されて開会式に参列します。このように記念碑や行事は、日米両国で建てられ、行われ、両者がこころこめて覚え、そして赦す態度を表明しています。戦時中の多くの苦難はコミュニケーションが悪かったため起こりました。捕虜たちに命令を理解させることのできなかった兵士たち、または兵士がいさぎよく降伏することを弱さのしるし、臆病さと信じた兵士たち。今日、違いを理解し、私たちはそれを克服することができます。私の祖父たちはふたりながら日本と戦いました。彼らの孫娘である私は平和のため寄与できると信じたいと思います。
 

(日本語訳:伊吹由歌子)