「阿里山
丸 」の悲劇

ウィリアム・ボーエン

1944年9月下旬、旧ビリビッド刑務所では、強制労働に就くために日本に輸送される捕虜たちが集合させられ始めていました。彼らの多くは、カバナツアン捕虜収容所から連れてこられていました。約1,800名の捕虜が「阿里山丸」に乗船させられ、1944年10月10日、マニラを出航しました。船は南方のパラワン島付近に向けて航海し、10月19日まで待機しました。先ず南下してそこで待機した理由は、米空・海軍からの攻撃を避けるためでした。「阿里山丸」は19日にマニラに引き返し、20日に補給物資を搬入すると、護衛船団と共に深夜、台湾の高雄に向けて出航しました。

「阿里山丸」(6,886トン)は、19441024日の午後5時ごろ、南シナ海のバシー海峡北緯2046分、東経11818分の地点において沈没しました。アメリカ海軍の記録によれば、合衆国潜水艦シャークII(艦艇番号SS314)が19441024日の午後遅く、日本貨物船を攻撃しています。同艦はこの戦闘において喪失し、総員87名の乗組員も戦死しましたが、「阿里山丸」を雷撃したものと思われます。「阿里山丸」には、連合軍の捕虜輸送中を示す標識もなく、旗も掲げていなかったので、アメリカ側としては、同船が捕虜輸送船であったことを知る術がなかったのです。魚雷は、同船の中央よりもやや後方に命中し、船体は真二つに折れ、後部が下向きになって海中に没しました。魚雷は日本の軍人と民間人がいた第3船倉に命中したものと考えられます。

日本人は直ちに避難し、護衛していた何隻かの駆逐艦に救助されました。船を去る前に日本人看守は、捕虜が詰め込まれていた船倉への縄梯子を切断しましたが、捕虜たちがそれを修理し、生存者の証言によると、ほとんどの捕虜は船から脱出することができたのだそうです。多くの捕虜は船を去る前に、食糧や水を手当たり次第に漁りました。最初多くの捕虜は、救出してもらえるだろうと期待して、日本の駆逐艦に向かって泳ぎました。彼らは、棒で殴られ突き戻されたのです。捕虜たちは、救助が来るまで何とか浮かんでいようと、見つけられるあらゆる漂流物にしがみつきました。

阿里山丸」の生存者数については、 時々議論になることがあります。資料によると8人、そして救出後高雄に連れて行かれた直後、ろくな治療も施されず放置されて死亡したチャールズW.ヒューズ一等兵を加えるなら9人、ということになっています。5人の捕虜は、奇跡的に中国の沿岸に辿り着き、連合軍に保護され、1944年12月に米国に帰還しました。彼らは、民間人のロバート S オーバーベック、カルビンR・グラフ軍曹、ドナルドE・メイヤー伍長、アントン・シッシー二等兵、そしてアヴェリー・ウィルバー二等兵の5人でした。駆逐艦が海域を去ったすぐ後、放置された救命ボートを見つけて最初にそれに乗り込んだのはオーバーベックでした。その日の夕方、ウィルバーが発見されて拾われ、その数時間後にはシッシーも加わりました。夜明けには、グラフとメイヤーも発見され、生存グループは5人となりました。他 にも何人かが遠くの海面に浮いているのが見えたのですが、波が高く、彼らのそばまで近づいて救助することができなかったのです。

この5人の物語は、驚くべき幸運と天与の助けがもたらしたものでした。オーバーベックは、救命ボートのそばに、帆が入った箱が浮かんでいるのを見つけます。その後、水の入った樽が見つかり、ボートにはいくらかの食糧もあったのです。2日間の帆走で彼らは中国沿岸に接近し、友好的な帆船に見つけられました。その帆船の船長によって友好的な中国人に引渡された5人は、その後12日間、徒歩・トラック・自転車・飛行機と乗り継いで、600マイル離れた第14空軍とフライングタイガーの基地がある昆明 (中国・雲南省)飛行場まで 、送り届けられたのです。1944年11月28日、彼らは米軍輸送機C47に乗り、米国への帰還の途につきました。彼らは、インド・パキスタン・イラン・エジプトそしてアフリカの歴史的史跡や地域の上空を飛びました。彼らは首都ワシントンに帰り着き、1944年12月5日に、彼らに起こった事を報告しました。

他の4人は、漂流物の筏に乗って助かりました。フィリップ・ブロースキー軍曹とグレン・オリバー伍長が一つの筏に乗り、マーティン・バインダー准尉とチャールス・ヒューズ二等兵はそれぞれ別の筏の上にいました。これらの4人は、「阿里山丸」の沈没から4-5日後に、日本船に拾われ、台湾に移送されたのです。台湾に着くとすぐ、ブロースキーとオリバーは憲兵隊から尋問を受け、その後バインダーが加わりました。3人は目隠しをされて埠頭に連れていかれ、地獄船であった輸送船「北鮮丸」に乗せられました。3人は甲板に縛り付けられ、他の捕虜と話すことを禁じられました。数日して、ヒューズが船に連れてこられました。船はそれから、日本に向けて出航しましたが、数日すると台湾に戻り、捕虜達は下船させられました。ヒューズ二等兵は1944年11月9日、台湾の白川捕虜病院で亡くなっています。残りの3人は台湾の幾つかの捕虜収容所を転々と移動させられ、グレン・オリバーは1945年1月19日、日本での労働に送り出されます。彼は1945年8月15日まで日本のために労働させられ、やっと開放されました。ブロースキーとバインダーは戦争が終わるまで、台湾に残りました。これらの生存者の証言は、国立公文書館の資料や他のインタビューで読むことができます。

「阿里山丸」で悲運な死を遂げていったこれらの捕虜は、どのような人々だったのでしょうか。 彼らは、従軍牧師であり、軍医であり、田舎者の兵士であり、詩人であり、雑役夫であり、年端の行かない兵士や年配の兵士であり、誰かの父親であり、兄弟であり、息子でした。彼らは、よき時代とそして恐慌時代が生み出した世代でした。彼らは、孤立主義で凝り固まった政府と政治家たちによって、危険な状況に置かれたのでした。欧州戦線を優先する大統領と、何百万人もの中国人や他の人々が冷血な日本軍によって殺害されるのを傍観していた国によってです。その日本軍が、真珠湾攻撃前のフィリピンであらゆる情報徴収をしていたことを、米政府は全て知っていました。平和を愛する者 たちは、邪悪から目を逸らしてはならないのです。真珠湾奇襲攻撃でわが国はやっと目を覚まし行動を起こすのですが、太平洋制海権の喪失は、フィリピンにいた兵士たちの運命を封じてしま いました。彼らには、外部からの援軍は届きませんでした。彼らは、フィリピン兵と共に、物資が底を着くまで戦うことになったのです。
 
「阿里山丸」 写真提供:三輪祐児  
 www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/  
 
野間恒/商船が語る太平洋戦争/2002年

彼らは、自分たちの力が及ばないところで決められた政治思想と政策による戦争の、犠牲者となりました。この地獄船に乗せられた兵士たちは、3年近くも飢餓寸前の状態で戦ってきたのです。多くが「バターン死の行進」を耐え、全員が残虐な捕囚の体験者でした。まとまな訓練 も受けずに徴集された州兵や予備兵だった者が多く、殆どの場合、時代遅れの武器を与えられ、故国から遠く離れたフィリピンの防衛を命じられたのでした。

思い描いてみてください。これらの悲惨さに耐えたあげくに、自分の命が太平洋の藻屑の中に消えて行こうとする時の気持ちを。思い描いてください。8人の生還者が目撃した風景…日本の駆逐艦に向かって泳いだ何人もの捕虜が、救助されるどころか棒で殴り返される風景を。あるいは、自分の乗る筏から、確かな死に向けて仲間が滑り落ちていく風景を。あるいは、波に漂う「阿里山丸」の男たちの力が次第に尽き、その声が暗い海に消えていく様子を。朝がきて波立つ海に太陽が昇り、ある者はまだ漂流物にしがみつき、救助が来ることを祈っていたでしょう。彼らの最期がどんなものであったのか、神のみが知っているのです。これらの男たちが、「阿里山丸」が沈められるまでの2週間、汚れきった船倉の中で過ごしたことも、忘れないで下さい。私の父は、この地獄船の船倉の中で、39歳の誕生日を迎えました。私は、そのような汚れの中で人生最後の誕生日を過ごした者が、他に何人いたろうかと想像します。

私が父を最後に見たのは、本国に帰る私たちの船が父を残してマニラの埠頭を離れたときで、私は6歳でした。父も帰ってきて欲しいと祈っていました。戦後何年もの間、私は、父がまだどこか遠い島で生きているのではないかと、思ったものです。時折、兵士(たいがい日本兵)が、遠い島で発見されたという話を聞くことがあったからです。多くの家族が何年もの間、私のように希望をつないでいたに違いありません。悲しいことに私たちは、多くの男たちが船から脱出でき て、救われることのないまま漂流物にしがみついていたことを、生存者から聞いて知っています。家族が、捕虜輸送船の沈没と愛する者の死を知らされたのは、8ヶ月後のことでした。戦争が始まったばかりの頃、愛する者が行方不明とされ、生きているのか死んでいるのかも分からずに過ごした家族の心配も、想像してください。

自由は、それを戦場で守る者と、愛する彼らを遠くから支える者に犠牲を強います。数年前私は、「阿里山丸」の兵士の件で、不思議な話を聞きました。そ れは1945年にある家族が、「阿里山丸」の名簿に載っている親族について連絡を受けた時に始まりました。その家族は、中国の浜辺でこの親族の認識票(dog tag)を見つけたという水兵から、手紙を受け取ったのです。そして実際その人物は、認識票を家族に送ったのでした。いったいどうして認識票が中国まで、辿り着いたのでしょう。     

                                                                    ボーエン氏がニミッツ記念館の
                                                                    「阿里山丸」碑に捧げた花輪

最終的な数は断定できないにしても、「阿里山丸」は、たった一隻の戦時の沈没としては、最大のアメリカ人の生命の損失をもたらしました。約5,000名のアメリカ人が、フィリピンから日本本土に送られる地獄船で死亡しました。太平洋全域を航海した日本の地獄船で輸送された全ての連合軍捕虜に関するならば、2万人以上が命を落としたのです。海戦の混乱の中で、友軍である連合軍機や潜水艦からの攻撃で死ななかった捕虜は、日本での強制労働のために彼らを輸送した貨物船の、汚物にまみれた船倉の中で死んでいきました。これらの地獄船に関して、アメリカの指揮官がいつの時点でどれだけのことを知っていたのか、疑問が提起されてきましたし、現在もこの疑問に関して研究がなされています。当時マニラには多くのスパイがいて、捕虜が日本に送られていることは秘密でも何でもなかったことを、私たちは知っています。問題は、広大な海で、捕虜輸送船を識別することでした。船は特別な標識は つけていませんでしたし、実際日本軍はパラワン沖で停泊しているとき、「阿里山丸」の番号を変えてさえいるのです。「阿里山丸」の5人の生還者が、44年の11月に中国の米第14空軍で、さらに12月5日にはワシントンで、事情徴収を受けていることが記録に残されています。彼らが提供した情報を、その後1944年12月13日以降に起きた「鴨緑丸」「江の浦丸」「ブラジル丸」の悲劇を回避するために、利用できなかったものでしょうか。

「阿里山丸」の物語とその乗船者名簿を発表する主な目的は、ほとんど知られることのないこの悲劇で死んでいった者たちに敬意を表し、その家族や友人に情報を提供することです。コレヒドールにある太平洋戦争記念碑に刻まれた言葉は、私たちが「阿里山丸」の男たちに捧げる、最もふさわしい感謝の祈りです。

眠れよ、息子たち、あなた方は任務を果たした。自由の光が訪れたのだから
眠れよ、静かな海の深みで、あるいは神聖なる土の寝床で、
夜が明けて低く、はっきりと神が奏でる目覚めの調べを聴くまで…

 

「阿里山丸」乗船者名簿