ロバート A.ブラウン
1924年カリフォルニア州スーサン生まれ

- 米陸軍航空隊、
-
バターン死の行進、オドネル収容所、
カバナツアン収容所、「鳥取丸」、奉天収容所
 
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時間 3:39
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インタビューアー:徳留絹枝

16歳で志願したんですね。

ええ。高校2年生になった時に学校をやめて、16歳で軍隊に入りました。1940年のことで、その頃既にヨーロッパでは戦争が始まっていました。兄貴はもう軍隊に入っていたし、親友も入隊するところだったんです。もうそれで自分も行きたくてね。両親に無理やり、僕が18歳だという証明書にサインさせたんですよ。1940年10月2日、陸軍航空隊に入隊して、第34追撃飛行中隊に配属されました。サンフランシスコの近くにあるハミルトン航空部隊基地に着いた晩、ベッドに座って自分に問いかけたんですよ。「僕は、こんなとこでいったい何をしているんだろう」って。まあ、自分が言い出したことですから、逃げ帰るわけにはいきませんよね。僕は強情な子供でね。兄と妹に挟まれた真ん中の子だったんですよ。親父は長男を大切にしていたし、妹は目に入れても痛くないくらい可愛がっていたんです。それで僕は二人よりずっと闘争的な性格になったんですよ。

愛されていないと感じていたのですか。

愛されていること知ってはいたけど、いつでも二番目に来ると言ったらいいのかな。でもそれで僕は強くなったんです。12歳の時から働き始めたしね。週末はいつもゴルフ場でキャディをしました。新聞配達もしたし、祖母の農場で牛の乳搾りもしました。大恐慌の頃ですからね。僕は本当に頑張り屋だったんです。僕の家系は、どちらも1849年と1850年にカリフォルニアにやってきた幌馬車隊の一員でした。その頃は厳しい時代でね、僕は彼らの遺伝子に恵まれたんだと思う。地獄のような体験に生き残ったのも、そのおかげだと僕は信じているんですよ。捕虜時代もその後の軍隊生活でも、僕は一生懸命働きましたよ。最上級曹長にもそうしてなったのです。自分からぶつかっていかなくちゃね。

ここにあなたが1941年10月31日、フィリピンに送られる前日にご家族に送った電報があります。「明日は来ないで」と書かれていて、その後4年間であなたに起こったことを考えると感慨深いのですが、どうしてこの電報を送られたのですか。

だって(家族が住んでいた)メリーズビルからサンフランシスコまで、単線の道路を走って5時間もかかるんですよ。出航は朝7時の予定だったし、出てくるのは大変だと思って、そのメッセージを送ったんです。バターンに追いつめられたとき、僕たち兵士は祖国に宛てて手紙を書いたけど、アメリカまで配達されたのかどうかね…。僕は一度も手紙を貰わなかった。海外に派兵されて以来、家族からは一言の通信もなかったんです。それで僕は母と父を憎もうとしたんですよ。彼らのことを頭から追い出すためにね。サバイバルの為の一つの方法かな。

とても悲しいですね。

僕は大変な目に遭っていたんですよ。それはもう信じられないくらいに。マラリア、赤痢、黄疸、脚気、全部にやられていました。でも誰も世話してくれない。自分のことは自分で世話するほかなかった。座ってただ家族を思い焦がれているわけにはいかなかったんですよ。彼らはアメリカにいて食べるものがあるけれど、僕にはないんですよ。強くならなければ、もうそれだけです。1942年4月9日にバターンで降伏してから、僕は4日間で120キロの行進をしたけど、その間に仲間の米兵が撃たれたり銃剣で刺されて殺されるのを目撃しました。最初に入れられたオドネル収容所では、60日で1500人の米兵が死んだんです。その後1942年の6月になって、カバナツアン収容所に移されました。僕は戦闘衛生兵だったので、最悪の作業を割り当てられたんです。死人が多数出る赤痢病棟での仕事です。

1942年10月8日、私たちは「鳥取丸」に乗せられました。マニラから釜山まで30日かかりましたが、地獄でしたね。その後さらに満州まで送られましたが、体重が40キロまで減ってしまったのに(通常の体重は80キロくらいでした)足は脚気で膨れ上がっていたんです。

満州ではどんな作業をさせられたのですか。

その頃までに日本語を喋れるようになっていましたので、奉天収容所内の病院の日本人医師の下で働きました。医師の往診を受ける者は、誰でも僕を通さなければなりませんでした。僕は彼らの体温、脈拍、病状を記録しました。歯も麻酔薬がないので、麻酔なしで200本も抜きましたよ。僕自身も一本同じように抜かれました。

患者はみな捕虜だったんですね。

そう。廊下にベンチが置いてあって、患者たちはそこに座って医師が彼の小部屋から出てくるのを待つんです。そしたら僕が掛け声をかけます。「気を付け!」そして続けます。「本日の診断患者は25名。ただいま参りました。」それから患者たちに向かって「礼!」と言います。その後、一人ずつ医師の診断を受けるんです。あまりに立派に仕事をこなしたので、僕は日本軍から表彰状を2回も貰ったんですよ。戦後、米陸軍省からも表彰されました。

大気という医師は、ほかの日本人医師より僕たちに思いやりを持っていました。僕たちはみんな大気医師が好きでした。他の日本人は「ブラウン」と呼びつけするのに、彼は「ブラウンさん」と僕を呼んでくれました。彼は平均的日本人とは違っていました。全然違っていました。多くの日本兵が抱いていた憎しみや愚かさが、彼には無かったんです。大気医師と僕の間には仲間意識があったと思う。何と言って説明したらいいのかわからないけど。友情だね。

大気医師との思い出で一番なつかしいのはどんなことですか。

戦争が終わったとき、大気医師は僕に彼の軍刀をくれたんです。僕は「ドクター大気、みんながこの地を離れるときまで持っていたらどうですか。そのときになったら頂きますから。」と言いました。そうしたらアメリカ人のあるやぶ軍医が、その軍刀を取ってしまったんです。将校はみんなそんなもんでした。大気医師は僕にその軍刀をくれたのに、このアメリカ人医師は僕に向かって「階級の高い者の特権だ」と宣ったんです。この話には続きがあってね。1974年にテキサス州のサンアントニオで戦友会があったとき、彼に会ったんです。僕が「おい、ハーブス。俺を覚えてるか。」と聞くと、「ああ覚えてるよ。ドクター大気の軍刀ならまだ持ってるよ。」と答えるんですよ。それで僕は「俺に近づくんじゃないぞ。そばにきたら両手の指を全部へし折ってやるからな」と言ってやったんです。彼は一切僕のまわりには来ませんでしたね。

でも大事なことは、大気医師があなたに軍刀をあげたかったということですね。

彼は僕に貰って欲しかった。本当にそうですね。彼は写真と住所もくれました。僕は戦後彼に会いたいと思いました。僕はフィリピンから直接満州に連れていかれたので、日本には行ったことがなかったんです。空軍には、捕虜だった者は、捕虜にされた国に10年は行けないという規則がありました。僕たちのような元捕虜がその国に行って、恨みに駆られて殺人などを起こすのではないかと、恐れていたのです。そしてそれをやりかねない者もいたんですよ。でも僕の目的は違いました。大気医師に会いに行きたかったんです。

それで僕は1955年の10月2日、日本での仕事に配属され着任しました。その頃までには僕は上級軍曹になっていて、立川基地に自分の部屋も持っていました。翌日、僕は駅に行って自分で切符を買いました。そのぐらいには日本語が喋れたんですよ。新宿まで行ってそこで電車を降りました。それからタクシーに乗って運転手に持っていた住所を見せ、そこまで連れていって欲しいと言いました。彼は大気医師の住んでいる家まで連れていってくれました。僕は運転手に、その家に行って大気医師がいるかみてきて欲しいと頼みました。彼は家に入った後戻ってきて「ここが大気医師の住んでいる家に間違いないが、今はいないそうです」と言いました。それで僕はオーケーと言って、料金を払いました。そして今度は僕が家に入っていったのです。大気医師の奥さんが、裏の小さな縁側に立っていました。僕は軍服を着ていました。僕が何者かわからないので、彼女の顔が恐怖でこわばっているのがわかりました。アメリカの軍人が夫の大気医師を探しているんですからね。僕は日本語で彼女に言いました。「私はブラウンさんです。奉天の病院にいました。」そしたらまあ彼女はとたんに笑顔になって、もう何べんもお辞儀を繰り返すんですよ。

奥さんはあなたのことを聞いていたんですね。

あきらかにね。大気医師から聞いていたんでしょう。彼女はすぐ彼に電話をしました。

それまで大気医師とは連絡をとっていたのですか。それとも10年目の突然の訪問だったのですか。

そう、突然の訪問でした。帰宅した彼は僕に会えてそれはもう喜んでくれました。僕たちは抱き合いましたよ。それから僕は、大気医師が戦後ソ連の強制労働収容所に5年間も抑留されていたことを知ったんです。

大気医師は、僕が1945年の4月に盲腸の手術をしたとき、家族に10語の電報を打ってもよいという許可をとってくれました。家族から5月31日に返事を貰いました。それが家族から貰った初めての便りだったんです。

帰国なさったときはどんなでしたか。

やっと家に帰ってきた後、母は「ボブ、何が食べたい?」と聞いたものです。僕はテーブル向かって10口くらい食べてみるんですが、突然それ以上食べられなくなるんです。そこに座っていたら、皿の上に吐いてしまいそうになりました。アメリカの食べ物が上等すぎたのです。それからベッドで寝ることもできませんでした。やわらか過ぎるんです。居間のじゅうたんの上に寝たものでした。僕は車を買いました。とにかくじっとしていられなかったんです。常に何かをして動いていないと駄目で、メリーズビルとユバシティの間を毎日250キロくらいただ行ったり来たりして、車を乗り回していました。

フィリピンに行く前の僕には、特に親しく付き合っていたガールフレンドもいませんでした。だから、家族以外に僕の帰りを待っていてくれた人はいなかったんです。僕にできたのは、酒を飲むことだけでした。飲むとリラックスできたんです。ウィスキーを一瓶飲んでも酔っ払わないんですよ。でもリラックスできた。実は僕は今でもバリウムを飲んでいます。もう45年もとっているけど、退役軍人省が今でも処方してくれるんです。足が痛むので、何とかリラックスして寝れるように就寝前に5ミリグラムの錠剤を飲みます。足は年中痛んでいます。脚気の後遺症です。

その後軍隊に戻ったのですが、軍隊ではもう飲んでいられなくなりました。自分を向上させるために、サクラメントの夜学に通って、タイピングや英語のコースを取りました。軍隊で僕の下で働いていた者たちは、僕が捕虜だったことは知らなかったんですよ。僕は誰にも言わなかったからね。僕たち元捕虜はそのことを恥じていました。信じられないかも知れないけど、僕たちは国の期待を裏切ったような、そんな思いを抱いていたんです。

それは逆ではありませんか。

そう、確かにその通りなのです。でも僕たちはそう感じていたんです。僕たちはアメリカ人でした。簡単にギブアップはしないんです。アメリカ人はいまいましいほど立派な兵士ですよ。退却なんかしないんです。

悪夢でうなされたことはありますか。

ええ、ありましたよ。家に帰ってきた後、ベッドに寝るのは好きじゃなかったけどベッドで寝ていたとき、捕虜時代のことが甦ってきたんです。母がやってきて僕を揺さぶって起こそうとしました。僕はベッドから飛び起きて、彼女の首を掴んでいたんです。僕は我に帰って、「いったい自分は何をしているんだ」と自問しました。そして母に「お母さん、僕が寝ているとき、絶対部屋に入ってきて僕に触わったりしないで。僕、何をするかわからないから。」と言いました。

今でもうなされることがありますか。

ええ、今でもあります。僕は、バターン死の行進の途中3人の男が首を切り落とされるのを見ました。彼らは僕たちに処刑を見ることを強要したんです。そんな体験は、忘れられるものではありません。僕たちがこれらのことについて決して喋らなかったのは、あまりにも残虐すぎて、誰も信じてなんかくれないだろうと思ったからなんですよ。

悪夢にうなされる他にも、怒りのようなものがきっとあったと思いますが、それにどのように対処してきたのですか。今はこうして日本人の私に親切にしてくださるのですが、ここまでどのようにして到達できたのですか。

あのね、人間は憎しみを抱いて人生を生きていくことはできないんですよ。憎しみはあなた自身を蝕んでしまうから。最後はあなた自身の内面を傷つけてしまいます。もしあなたが、残りの人生通してずっとある人種を憎んでいくなら、あなた自身が敗北者になってしまうんです。

でも体験なさったご苦労を思えば、そのように考えることは、決して簡単なことではなかったと想像します。

もし今メリーズビルの通りで見かけたら、その場で殺してやりたいと思うやつは一人いますよ。ですから、憎んでいる個人はいます。でも少数の人間がしたことで国全体を憎むことはできません。それから僕にとってとても助けになったのは、日本語を習って、何とか収容所の日本人と会話をし、彼らの感情を知り、語り合いながら議論できたことです。彼らは徹底的に洗脳されていて、戦争に勝つと信じ切っていました。僕は「あなた方は、アメリカを知らないんですよ」と言ったものです。僕は何度も彼らに「戦争が終わったら、米国と日本は友達になるんですよ」と言おうとしました。彼らは「ノー、ノー、ノー、そんなことは絶対起こらない」といつも言っていました。

それが起こりましたね。

本当にね。


ブラウン氏とインタビューアー


追記:
その後インタビュアーは、東京新聞の助けを得て大気医師の夫人と令嬢を探し出し(大気医師は80年代に逝去)ブラウン氏は半世紀ぶりに電話で彼らと会話を持った。


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* ロバート・ブラウン氏は、2008年10月15日に逝去しました。