ホゼ・カルガス・
シニア

1907- 1998
1907年 フィリピン イロイロ, レオン 生まれ

フィリピン・スカウト 野戦砲 88大隊
−バターン死の行進、オドネル捕虜収容所
  釈放後はゲリラ部隊所属

−1945年 メダル・オブ・オーナー(米国議会名誉勲章)受賞

 

 


について

ジョー・カルガス・ジュニア

以下に綴るのは、私のヒーローの生涯です。私の父はフィリピン人として唯一人、第二次大戦中のフィリピン・バターンでの戦いで、米国議会名誉勲章を授与されました。

彼は、米国本土出身の将校がフィリピン兵を率いるエリート部隊であるフィリピン・スカウトに志願しました。これは、自由と移住した国(アメリカ)を愛するが故に、米国陸軍で27年を勤め上げた兵士の生涯の物語です。

誇り高く控えめな兵士だった父は、逆境や愛する家族との長い別れに耐え、自分の 命を顧みることなく他の人々を助けました。軍務から引退した後、よい教育を受けたいと願った父は、55歳でビジネスの学位を取得しましたが、それは彼 にとって最も大切な業績でした。

若いアメリカ人への彼のアドバイスは、「戦時にあっても、平和時にあっても、全力を尽くして祖国の為に戦い、祖国を守る人間になりなさい。」というものでした。

生まれた場所

私の父、ホゼ・カルガス・シニアは、フィリピン、イロイロ市レオンの、バランガイタグシンで1907年12月29日に、生まれました。彼は3人兄弟の一番上で、両親はささやかな集落民でした。 父の母は、彼が12歳の時に亡くなりました。

バランガイタグシンは、レオンの町から24キロくらい離れた山沿いに位置し、ほとんどの住人は農夫でした。日本軍の占領時代は、レジスタンス運動の中心地 となりました。1942年8月の最後の週、日本軍は、レオンの町に火を放ちました。教会も教会付属の学校も小学校も、焼かれました。数日にわたって町は燃え続けました。日本軍に協力しなかった住人は、虐殺されました。

フィリピン・スカウト

1901年10月のフィリピン一般通達で、フィリピン諸島全域から兵士が選抜されることになりました。百人編成の中隊が約50できることになりました。(フィリピン・スカウトの歴史に関する詳細は http://www.philippine-scouts.org/History/history.html ) 

レオンの町からフィリピン・スカウトに入隊した友人や親類から話を聞き、父も1930年3月12日に、志願しました。基礎訓練を受けた後、父はパンパンガ州ストツエンバーグ基地の24野戦砲 大隊C中隊に配属されました。

1940年に至るまでの時期、フィリピン・スカウトは厳しい訓練に励みました。彼らは優秀な射撃手で、その代表は各連隊から毎春ニューヨーク州ペリー基地で開かれる射撃大会に送られ、米国陸軍の最高の射撃 手たちと競い合いました。

1930年代後半の日本軍の中国における戦勝、そしてそれに続く1940年夏のインドシナ半島での動きを受けて、米陸軍省はやっと重い腰をあげました。ジョージ・ガーネット将軍が、 陸軍省に兵士と補給の増加を依頼したのです。フィリピン・スカウトは1941年、兵数が1万2千人に倍増されることになりました。

父が所属していた88野戦砲大隊は、1933年10月に通常軍に編入されていましたが、1941年4月19日にフィリピンに配置されました。

私の家族

私の父と母は1935年に母が、フィリピン・スカウトだったパンパンガ州の親類を訪ねてきたときに出会いました。母もイロイロ島のレオンで生まれ育ち、 フル・スカラシップを得てネグロスにあるシルマン大学を卒業していました。パンパンガ州では、高校で生物と英語を教えていました。両親は1936年にストツエンバーグ基地で結婚しました。

私たちは基地の外に住み、単調でしたが快適な暮らしでした。私は1940年1月18日、彼らの2番目の子供として生まれました。

第二次大戦が始まったとき、父は家族の安全を心配せずにすむよう、私たちをレオンの親類のもとに送りました。

第二次世界大戦

1941年12月8日の朝、スカウトは、それまでそのために厳しい訓練をしてきた戦争がついに勃発したことを、知りました。

フィリピン・スカウト88野戦砲大隊第一中隊は、 12月当初ストツエンバーグ基地からバターン半島のメキシコとラガバンに配置されました。1941年12月30日には、中隊はハーモサに移動しました。

1月最初、中隊は31歩兵連隊がラヤック連結地点を防衛するのを支援する為、23野戦砲隊に合流しました。88野戦砲 大隊は、23隊よりよく防衛された地点にいたため、それほどの打撃は受けませんでした。

ハワード少佐は、88野戦砲 大隊第一中隊がラヤック連結地点から退却する際、大砲一基を失ったと、報告しています。1月6日、第一中隊は、フィリピン・スカウト26騎馬隊、31歩兵隊、そしてフィリピン陸軍によって防衛されていたカロ川の後方ラインを守っていました。一基の大砲が敵軍からの砲撃で使用不能になった時、88野戦砲 大隊のホゼ・カルガス軍曹は、敵軍からの砲火が炸裂する中を自発的に900メートル走り、大砲を元の位置に戻し、敵軍に向けて発砲したのです。

カルガス軍曹は、75ミリ砲を自ら操り巧みに発砲し、約60台の敵軍車と兵を破壊しました。職務をはるかに超えた勇敢なこの行為により、彼は名誉勲章を授与されました。


米国
議会名誉勲章

米国議会名誉勲章として知られる名誉勲章は、職務をはるかに超える勇敢な働きをしたアメリカ兵に与えられる、最高の軍勲章です。南北戦争初期の1862年に設立されて以来、3440名(その約半数が南北戦争兵士)にしか授与されていません。

第二次大戦初期以降与えられた名誉勲章は、845個だけです。そして受賞者の半数以上は、その英雄的行為の中で死んでいます。

真珠湾攻撃からソマリアでの戦いまでの間、たった326名の兵士・水兵・海兵隊・航空兵が、生きて名誉勲章を着けることができました。2004年5月現在、存命する名誉勲章受賞者は132名と言われています。

*フィリピン・スカウトには、その他に、現フィリピン・スカウト歴史協会会長ジョン・パターソン氏の叔父Alexander R. Nininger,Jr中尉とWillibald C. Bianchi 中尉の、二人の名誉勲章受賞者がいます。詳細は http://www.philippine-scouts.org/history/heroes-of-wwii.html


バターン死の行進に生き残る

1942年4月9日、捕虜は集合させられ炎天下を水も与えられず、65マイル(105キロ)の距離を行進させられました。熱気の中を何日も歩かせられ、打たれ、水と食糧を与えられなかった7万8千人の米・フィリピン兵のうち推定7千人から1万人が行進中に死にました。バターンで捕虜となった1万2千人の米兵のうち、終戦の時点まで生き延びたのはわずか4千人でした。

父は、捕虜になり行進をさせられたフィリピン・スカウトの一員でした。水を飲もうとしたところを日本人監視員に見つかり、父はライフルの台尻で頭を殴られました。父は金属ヘルメットをかぶっていて幸運でしたが、それでもその一撃は、彼の頭皮に約8センチの裂傷を作りました。

何万人もの仲間が死の行進の途中で、日本兵による残虐行為、負傷、病、そして乾きと飢えで倒れていく中、父は何とか持ちこたえる力を維持しました。ライフルの 台尻で殴られた傷からの出血を、彼は捕虜収容所の周りで見つけた薬草で止めることができました。彼はマラリアに感染しましたが、それを日本人監視員を騙すことに利用したのです。日本人監視が彼を見る度に、父は自分では止められないほどの震えが来ているように装い、監視が彼に近づかないようにしたのでした。

マラリアや赤痢や脚気による衰弱も、イロイロにいる家族に危害が及ぶことへの心配も、そして希望が持てない現状も、父の覇気を萎えさせることはありませんでした。

ターラック・キャパスにあったオドネル収容所で、父は酷く殴られました。栄養失調になりマラリアと赤痢に冒されました。1943年1月、父は日本軍捕虜収容所から釈放されました。彼は日本 軍の精米所で働きながら体力を回復した後、ゲリラのためにスパイ活動をしました。

そこから脱出した父は1943年10月、ルソン島に本部があったゲリラ集団227部隊に合流しました。父は少尉に昇進しました。

1945年1月11日から2月にかけて、彼らはカランガランにある日本軍駐屯地に侵入し、父の部隊は Munoz, Bongabong, Rizal and Dingalan Beach への上陸戦に参加しました。

開放の後で

 

1945年2月12日、私の父はパンパンガ州オリヴァスの大隊に出頭しました。1945年4月30日その地で、米国極東軍総司令官であるリチャード・マーシャル将軍は、父に名誉勲章を授けました。

1947年になり、フィリピン・スカウト44歩兵部隊は、沖縄の那覇に到着しました。父は、中尉として1947年から53年まで、沖縄の信号機集積所に勤務しました。

 

その英雄的行為を称えるため、フィリピンの故エルピディオ・キリノ大統領は1952年4月7日、バターン陥落10周年にあたり、父を招待しました。父は大統領・国防大臣・他の退役軍人会、そしてもちろんフィリピン・スカウトのベテラン達から最大級の歓迎を受けました。

1952年4月9日、マーフィー基地でとり行われた厳粛な式典で、フィリピン軍警察セルガ将軍はDistinguished Conduct Star 勲章を父に授けました。この式典において父は 、「バターン死の行進生還者」最初のリボンを着けました。彼は、フィリピン軍の公式記録であるバターン死の行進生還者記録簿に、最初の署名をしました。

1953年から1957年までの間、父は米国内各地の軍施設に配置されましたが、ワシントン州のルイス基地での勤務を最後に1957年4月、27年間の軍人生活から引退しました。

民間人として

引退後の父の目標は、学校に戻り学位を取得することでした。彼はGI ビルで、ワシントン州タコマのPuget Sound 大学に入学しました。勉学は大変でしたが、家族からの支援と長年の軍隊生活で養った規律心により、父は1961年、55歳にしてビジネスの学位を取得して卒業したのです。

は、ボーイング航空宇宙会社で、原価会計士として働きました。ボーイングに勤務するかたわら、父はシアトル・タコマ地域の種々の退役軍人会で活発に活動しました。バターン・コレヒドール生還者の会を組織し、その初代会長を務めました。会員は、主にこの地域で引退したフィリピン・スカウトのベテラン達でした。父は15年間働き、67歳で二度目の引退をしました。

父は何人かの大統領からホワイトハウスに招かれ、就任式でケネディ大統領にも会いました。彼は、学校や退役軍人病院をよく訪問し、タコマ市長、ワシントン州知事、そしてボーイング会社から表彰されました。

父は、子供や孫達に、自分を向上させるのに遅すぎることはないこと、そしてそれは教育とたゆまぬ努力のみによって達成できることを、示してくれました。父は我が家で大学を卒業した第一号でした。私の妹のミネルバは「お父さんが、私たちの先駆者ね」と言いました。

引退生活

引退後も忙しく活動的に過ごす為に、父は、タコマから15マイルほど離れたところに5エーカーの土地を借り、とうもろこしや他の野菜を植えました。それで私たち家族は夏の間はいつも、ふんだんの野菜ととうもろこしに恵まれました。父は収穫の一部を売ったり、友人や貧しい人々と分かち合っていました。彼は農場と農作業を楽しんでいました。きっと、故郷レオンの農場での子供時代のことを思い出していたのでしょう。

父は、フィリピンにいる兄弟姉妹や親類を懐かしがっていました。彼らの子供達の教育を援助しました。

父は1977年11月マルコス大統領からの招待を受け、平和の再会というプログラムで、1952年の最後の訪問以来25年ぶりに、母と一緒にフィリピンを再訪しました。彼はその時受けた暖かい歓迎に深く感激しました。マニラの各種退役軍人組織の特別ゲストとして迎えられ、友人や故郷のレオンの親類にも会いました。

思い出に残るフィリピン訪問からほどなくして、父は重い脳卒中を患い、活動はかなり制限されるようになりました。父は完全に回復することはありませんでしたが、母と家族からの助けで、90歳まで実り多い人生を生きました。父は、ワシントン州レークウッドのマウンテンヴュー墓地に、軍人として名誉の埋葬をされました。

私たち家族、父の友人そして退役軍人仲間は、控えめで謙虚だった人物として父を思い出します。父は、戦争中の体験を自慢したりすることは決してありませんでした。彼が自分の輝かしい功績を語るのは、その必要がある時だけだったのです。父は家族、特に孫達に愛情を注いでいました。多くの友人に恵まれ、その中には沖縄でそして後にタコマで出会った日本人も含まれていました。

日本人に苦々しさや憎しみを抱いていないかと聞かれると、父は「戦場で命を落とすとしたら、それは兵士であることの運命である。神が私の命を欲したのであれば、自分は少なくとも、兵として宣誓したことを達成したのだという満足感を、持つことができる。」と答えていました。

私たちはまた、いかに敵を許し隣人のように愛するかを、父から学びました。父の思いは、自分を捕らえた者たちから与えられた不正義で不快な経験により、揺らぐこともありました。でも赦すことで、前向きに生きることができたのです。父は過去の出来事を、自分の至らないことへの言い訳に使うことはありませんでした。

私は、彼のような父を持つことができて幸運でした。彼の息子であることを誇りに思います。父は私の英雄で、私は彼を敬愛しています。
 



Jose C. Calugas, Sr
 

謝辞

私はジョン・オルソン米陸軍退役大佐に感謝します。彼は「フィリピン・スカウト」の著者で、フィリピン・スカウト歴史協会のヒストリアンです。

メルヴィン・ローゼン米陸軍退役大佐は「フィリピン・スカウト野戦砲部隊」の著者です。私の父を称える為に、その著書を個人的にくださいました。ローゼン大佐は現在フィリピン・スカウト歴史協会の法律顧問を務めています。