60年目の退役軍人の日:日本はバターンの生存者に謝罪をするだろうか

エブラハム・クーパー
徳留絹枝
 

60年前の1111日、1945年の「退役軍人の日」(第一次大戦終結を記念して制定された停戦の日)、第二次大戦の何百万という退役軍人は戦時の体験を過去のものとして忘れ、自分の人生を歩みだそうとしていた。しかし、アジア太平洋戦場からの一群の帰還者たちにとっては、3年半におよぶ捕らわれの日々で心身に刻みこまれた傷から立ち直ることは、困難だった。彼らは日本帝国の捕虜で、悪名高い「死の行進」や日本国内での奴隷労働の生存者たちだった。絶え間ない殴打、飢え、病気、そして戦友たちに加えられた筆舌に尽くせない暴虐、処刑の生なましすぎる記憶により、実際の年齢よりずっと老けてしまった彼らは、戦後社会にあって誰も加わりたくない独自の集団だった。

彼らが味わった絶望的な苦難は統計によっても示される。日本軍に捕らえられた2万7千人の米捕虜のうち40%近くが捕囚の期間に命を失った。他方、ナチスドイツの捕虜となった米兵の死亡率は1%だった。しかし、これらの勇敢な元兵士たちはやがて家族の愛に支え元気づけられ、国を愛する自分たちのこころ、払った犠牲は甲斐あるものだったと知ることで立ち直り、自分たちが歴史のうちに特別の場を占めると信じて前向きに歩んだ。



それでもほとんど一人残らず、欠けているものがひとつあると感じずにはいられなかった。率直な謝罪のことばだった。民主主義国に生まれ変わった日本が、前身の戦時政権下では人間の規範にもとる行動があったと、公に認めることである。その後60年の年月が流れ、第二次大戦の他のアジアの犠牲者の誰にもきちんと謝らない日本の態度と米国務省の腐敗した対応の結果、その認識からほど遠いところにいようとは、生還した元捕虜の誰が想像し得ただろう。

もどかしく屈辱的な沈黙の年月がたった後、元捕虜たちは、ナチのホロコースト犠牲者のために欧州の保険会社・銀行・大企業を相手どって起こされた集団訴訟の先例に倣い, 法廷に訴えて正義を求める事にした。

カリフォリニア州は1999、日本軍に捕らわれた捕虜が、彼らを捕らえていた者に対し戦時奴隷労働への補償を求める訴訟を可能にする法を制定した。30件以上の訴えが三井、三菱を含む日本の大企業を相手どって起こされた。5年近く長引いた末、全ての訴えは2004年に棄却された。最終的に、1951年に日米で交わした平和条約が元捕虜達のいかなる訴えをも締め出す、との裁定がされたのだ。

しかしその棄却文に主任判事は、日本軍の捕虜達の犠牲は明快な形で認識されるべきだと書いた。実際のところ、元捕虜である原告の多くがこの訴訟は金銭のためではない、問題は責任と名誉にあると明言していた。彼らは、人道に反する扱いをした者たちがその責任を認め、この悲劇の歴史に両者にとって名誉ある終幕をひくことを願っていたのだ。

2003年の春、東京で、私たちはレスター・テニー博士が数人の国会議員に語りかける場に居合わせ、彼のことばを聴いた。博士は「バターン死の行進」と三井炭鉱での3年の奴隷労働の体験者である。彼は言った。「日本軍による強制労働生存者たちの多くは、赦すことは難しい思いでいます。彼らが赦すには、痛めつけた側による過去の認識、良心の呵責、補償が必要なのです。私も彼らと同じ気持で、自分の拷問者であったこの素晴らしい国の巨大企業に向かい、悪いことをしたと認め、人道にはずれた行いがあったことを認証し、名誉ある仕方で責任をとっていただきたいと、お願いしています。」

60年は、謝罪のことばを待ち続ける者にはあまりにも長い年月だ。けれど、第二次大戦のA級戦犯が祀られる神社への参拝を強行する今日の指導者たちが、一瞬倫理感覚を澄ませて、テニー博士とその死せる戦友の存在をはっきり認め頭を下げるならば、これから生まれる日本人次世代のより確かな安寧につながるだろう。

エブラハム・クーパー師は、人権擁護団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」副会長
http://www.wiesenthal.com/site/pp.asp?c=fwLYKnN8LzH&b=242023

徳留絹枝は、カリフォルニア州非営利団体US-JAPAN DIALOGUE ON POWS, INC. 代表
http://www.us-japandialogueonpows.org/index-J.htm