1944年12月13日、1,619人の捕虜(その大部分は米捕虜でした)がマニラの第7埠頭で日本の旅客貨物船「鴨緑丸」の船倉に押し込まれました。体力の衰弱、船倉内の劣悪な状況、そして米軍からの爆撃の結果、8割近くの捕虜が日本への航海の途中で死亡しました。

以下は、この航海に生き残れなかった米海軍将校  ミンター・ダイアル 氏の孫が書いたエッセイです。

スミソニアンマガジンに掲載されたエッセイ「Minterís Ring: The Story of One World War II POWも併せてお読みください。その記事の中で、ダイアル氏が妻のリサに書いた手紙が引用されています。 

1944年12月12日、ダイアルは妻に手紙を書いた...それは捕虜になって以来、彼女に届いた唯一の手紙であった。 

「子供達を強く抱きしめて、僕が彼らを心から愛していると伝えて欲しい。君も勇気を持ち続けなければならないよ。僕もそうする。 僕たちはきっとまた一緒になれる。そして幸せ溢れる人生を送るんだ。その日が来るまで、元気を出すんだ!君は僕の命だ。僕の愛する人!僕の全てだ! 変わらぬ愛を込めて。 ミンター」

                                    

        海軍兵学校の卒業指輪をしたミンター        1939年頃のミンターとリサ


帰ってきた指輪 ~戦争・愛・勇気の物語~  ミンター・ダイアル

私の名前はミンター・ダイアル。ミンターという名前は、祖父にあやかってつけられた。その祖父の生涯について調べ続けて早20年になる。この思いがけない旅路で私は世界中を訪ねることになった。そして、自分自身をより深く知り、父との距離がより一層近づくことにもなった。

祖父ミンター・ダイアルは、大恐慌によって私財を失ったサウスカロライナ州の上院議員の息子として生まれた。1932年にアナポリス海軍学校を卒業した後、カリフォルニア州出身で女優の卵であるリサ・ポーターと出会い結婚した。そして二人の子宝にも恵まれた。1941年、ミンターは米海軍の中佐としてフィリピンへ派遣され、米国海軍艦船ナパ号の艦長となった。開戦後、フィリピンの米国軍は日本軍に圧倒され、1942年の5月に降伏した。ミンターは、コレヒドールとバターンで捕らえられた2万5千の米国軍人と共に捕虜収容所に運ばれた。    

収容所の悲惨な状態に2年半耐えたのち、ミンターは1618名の捕虜と共に日本の旅客貨物船・鴨緑丸(おうりょくまる)に乗せられた。12月15日の朝、米軍機の攻撃により、鴨緑丸は沈没する。


1944年12月14-15日、ルソン島のオロンガポで攻撃される「鴨緑丸」

ミンターは、致死的な傷を負いつつもなんとか岸へ辿り着いた。人気のないテニスコートで、友人・ダグラス・フィッシャー中佐の腕に抱かれたミンターは、最期の願いとして、唯一手元に残った所有物であるアナポリス海軍学校1932年度卒業記念指輪を息子に渡してくれるように言った。続く47日間の航海中1200人以上が死ぬのを見届けながら、フィッシャーは生き抜いた。しかしミンターの指輪は失くしてしまった。

1962年の夏、ソウルの北方にあるインチョン郊外で地面を掘っていた韓国人労働者が金の指輪を発見した。彼は同僚であるイ・ソユンにそれを見せたが、イは偶然にも米国海軍太平洋隊の責任者である海軍少将ジョージ・プレッシーの運転手でもあった。イはプレッシーに指輪の話をした(プレッシー自身も似たものを付けていた)。プレッシーとイは、インチョン周辺を探し回り、指輪の発見者だった例の労働者を見つけ、その指輪をもらうことにした。その指輪がアナポリス海軍士官学校時代の親友のものであることが判明し、プレッシーは非常に驚いた。プレッシーとその妻は、1934年にカリフォルニアで開かれたミンターの結婚式にて、新郎新婦の案内役と介添人を務めていたのだ。指輪は後日、当時ニューオーリンズにいた私の父に返還された。

しかし悲しいことに、その指輪が私の家族の手元にあったのは4年間だけであった。1966年に家族でパリに引っ越したあと、パリの家からその指輪は盗まれてしまった。その泥棒や指輪を探す試みはついに実を結ばなかった。

その指輪の物語はその後しばらくの間途切れていたが、1992年に一本の間違い電話が私の元にかかってきた。当時私は自身の会社を立ち上げるためニューヨークからワシントンD.C.に移ってきたところであった。ウィルソンという女性が、私の祖父ミンター・ダイアルを高校の同窓会に呼びたいと思い、間違って私に電話をかけてきたのだ。私の祖父が1924年から28年まで通っていたワシントンD.C.のウェスタン高校を経営しているウィルソン女史は、私がまだD.C.での新居の住所がまだないにも関わらず、奇跡的に私の個人情報にあたったそうである。

それ以降、9年間に渡る研究は4大陸をまたぎ、インターネットや元戦争捕虜の団体の力を借りて、私の祖父を知っていたかもしれない130の人々の取材を行った。その結果、その指輪がどのようにフィリピンから韓国へ辿り着いたのかという疑問を含む、この物語を知ることができたのである。

そして2001年9月11日、私はふたたびニューヨークに移り住み、働いていた。私のオフィスは世界貿易センタービルが見えるところにあったので、私はその惨事をじかに目撃し、そして数名の友人を亡くした。真珠湾と世界貿易ビルの出来事に明らかな類似性がみてとれたので、私は祖父の物語を心の慰めとした。幸運なことに、たまたまフランスから私の父が訪ねてきていて、911の翌日、私は父に、彼の父の学生・夫・海軍人・そして捕虜としての人生について私が知ったことを詳しくまとめた伝記の原稿を渡した。前日に起こった悲劇のこともあり、心揺さぶられる夕べとなった。私自身、自分の価値観を見直したい、そして、自分の世代が享受している特権を再認識したい、と考えた。また、第二次世界大戦の時代の人々 - 不運にも戦わなければならなかった世代 - に光を当てたい、そして感謝したい、と思った。

今日まで私は、この物語をさまざまな学校や集会などで話してきたし、またこの物語について多くの記事を書いてきた。私は人々に、戦時中の兵士たちが払った犠牲について話したいと思っている。それだけではなく、たとえ多くの局地的な紛争があったり、遠くの地で戦闘が行われたりしているものの、世界が比較的平和な時代に生きる今の私たちが、様々な資源や特権に恵まれていることがどれほど幸運なのかを、改めて思い起こすようにしたいと思っている。更には、調べることや、世界の人々と繋がることの両方を、いとも簡単に素早く行うことを可能にしてくれるインターネットというものに潜む素晴らしい機会についても考える。私はこれまで12度にわたり日本を訪ね、多くの日本人の友人に恵まれている。この物語を日本の友人に話すのは、必ずしもたやすいことではなかった。それでも、この物語は、戦争の悲劇を思い起こさせるだけでなく、偶然の幸運が持つ力、愛、そして勇気について教えてくれる、とても個人的な物語だと信じている。私は父と共に、祖父ミンターについての情報を探し続けている。そして、いつの日か、あの指輪がまたひょこっと見つかるのではないかと、まだ思っている。


よろしければ、私の祖父を記念するfacebookファンページに参加していただきたい。www.facebook.com/ltcdrminterdialにて、祖父と、その人生に関する50点以上の写真や資料をご覧頂くことができる。


 


          


戦争で右腕を
負傷した旧日本軍兵士の上田毅八郎氏が描いた「鴨緑丸」の絵。彼は左手で絵描くことを学び、第二次大戦時の多くの商船の絵を描いた。この絵は、2006年スービック湾に捕虜輸送船「地獄船」の追悼碑が建設されたことを知った上田氏が、スービック歴史館に寄付するため、特別に描いたもの。