僕の親友 ルイス・ルー・カーティス (1919-2010)

ドナルド・ヴァーソー


僕たちは1940年1月の初旬、サンディエゴにある海兵隊基地の音楽隊で出会った。ルイスのほうが数ヶ月早く入隊していたが、同じぐらいの年齢だった僕たちはすぐ打ち解けた。他のメンバーたちは年かさで、彼らの多くは第1次大戦の退役軍人だった。

彼は皆に「ルー」と呼ばれており、見知らぬ人間に慣れていたとは思わないが、私たちには何にも増して話すことがあった、たいていは音楽、大編成の音楽隊、楽器のことだった。ミッション湾で日陰の場所をみつけては、互いの音階やアルペジオ練習の邪魔にならないよう距離をおいて、楽譜スタンドを立てたものだ。はじめての楽器、フレンチ・ホルンになじもうとする僕に、彼は力になってくれた。彼のほうは、クラリネットとフレンチ・ホルンの名手だった。終生にわたる僕たちの友情はこうして始まった。
                                          
カーティス氏(2005)

海兵隊での友情はたいてい移動命令で中断されるもので、僕たちも例外ではなかった。ルーは1940年の最初の数ヶ月が終わるや北京のアメリカ大使館警護隊付き軍楽隊への移動命令を受けた。少しあとで私には上海の第4海兵隊軍楽隊への命令が出た。1年あまりするとこれら中国にあった二つの海兵隊野戦軍楽隊が統合され、僕たちはまた会うことになった。国際間の非友好関係のおかげで僕たちの友情がまた復活したことをよく不思議に思う。
 


 

海兵隊軍楽隊(一人を除くこの写真の全員が日本軍捕虜になった)
カーティス氏は右端


外での僕たちの関心は違っていた。ルーはフィットネス・クラブ(「ステンバラ博士の身体訓練の家」)を見つけた。僕のほうは海軍YMCAで写真という趣味を真剣に続けた。でもリハーサル、コンサート、パレード、またアジアの地における故国の存在に栄誉を与える多くのイヴェントで、音楽が私たちを一緒にしてくれた。

僕たちの周囲どこでも戦争が行われており、僕たちの連隊ももっと直接的に巻きこまれる可能性が日増しに濃くなってきた。軍楽隊員にもある程度の武器訓練が行われ、身体的訓練も段階があがっていった。1941年の11月下旬、連隊は命令により中国をあとにすることになった。


 
 上海時代のドン

二つの軍楽隊はこれを最後と一緒に演奏し、その後、全員で南京東通りを行進していった。軍楽隊で一番背の高いトロンボーン奏者について歩く私の後ろがルーだった。

上海での最後の演奏行進(ドンとルーは左列)

上海の海岸通り、有名なブンドで、僕たちは定期航路客船プレジデント号に乗船し、フィリピンへ運ばれた。それからこのパラダイスで短い休暇のような時間を楽しんでいるとき、2週間もたたずして第2次大戦が始まった。

上海からフィリピンへ移動する米海兵隊(1941年11月27日)


軍楽隊は歩兵小隊に組み込まれ、ルーと私は連絡がとれなくなった。僕たちの連隊はスビックとマニラ湾にあるいくつもの海軍基地や防護要塞へ、少数ずつ広く割り当てられた。コレヒドール攻防戦のあいだ僕たちは近接した陣地にいたこともあるが連絡はとれなかった。この島が降伏したのち、僕は捕虜となり中央ルソンのカバナツアン第3収容所に連れて行かれた。そこでルーと僕は再会したのである。

僕たちは旧フィリピン陸軍の基地で、ニッパ椰子で屋根を葺き、壁は湿地に生える竹に似たスウェイルで編まれ、床は竹製の、同じ兵舎を割り当てられた。これは、生涯一度しかない偶然だ、と僕は思った。さらに神秘的だったのは、ここの数ある兵舎に詰め込まれた、意気消沈し、疲れ、行進にうんざりした収容者たち全員のなかで、僕たち二人が、他の3人かそこらと一緒に、同じ仕切りに入れられたのだ。

僕たちの状況は耐えられる程度と言えたかもしれない、もし仮に、劣悪な衛生状態、多数のマラリア患者を治療する薬品の欠乏は言うに及ばず、水の厳しい欠乏、乏しい米飯と妙な青物の浮く薄いスープの食事に悩まずにすんだなら、だが。僕たちに割り当てられる食事を炊事場から運んでくれていたのは、若い海兵隊員で僕たちと同じ区画にいたが、彼は「脳性マラリア」と呼ばれる疾患で、一夜があけたら、亡くなっていた。誰も彼が病気だなどと考えてもみなかった。問題山積の彼の仕事を引き継いだのは僕だった。ルーは皆に分配する手伝いをしてくれた。米飯一杯と、まことに奇妙な緑の植物のスープだった。19リットル入り容器に、飯用のもスープのも、ごく少量しか入ってはおらず、腹をすかした約50人の男たちに出来る限り公平に配分するよう、ぼくたちは頑張った。

やがて佐官級の将校たちや従軍牧師たちが、収容所内でクラスを開設してくれた。ルーは宗教関連のあるクラスに興味を持ったが、これは真剣になって討議する話題を僕たちに提供してくれた。同じ兵舎にいて、第1次大戦にも従軍したチャールズ・ジャクソン曹長は、彼の良く知る過去の歴史について格式ばらない講義をしてくれた。夜になるとルーと僕は、聞いたり学んだりしたことを討議し、またジャクソン曹長は何と学識があるのだろうなどと話し合った。ルーは頭のいい人たちに絶大な敬意を寄せていた。

 「逃亡を企てた」4人が処刑されたときのこと。はじめから終りまでの経過をすべて注視しなくてはならず、これは非常に心を乱す体験だった。彼らの受けた苦しみを受容するよう何時間もかけてつとめたが、どうにもならなかった。

収容所についてほんの2,3日すると、僕の21歳の誕生日を僕たちは「祝った」。言うまでもないが、ケーキもろうそくもなかった。ルーのほうは、少し前、コレヒドールで空襲のおかげでさらに平和でない仕方で23歳を迎えていた。盛んに話題になっていたのは、自分たちが現在している体験で授与されるであろう勲章のことだった。敗者は栄誉に値しないと思っていた僕自身は、同意できなかったのだが。

栄養失調の最初の兆候がこの収容所で僕たちを襲った。色白だった僕たちは二人共、ヴィタミン欠乏によるペラグラという皮膚病にかかった。長いこと日光のもとにさらされていると、皮膚の表面がピンク色になった。

そして9月になるとモンスーンの雨が襲い、小さな建物の多くが吹き倒された。雨は水平の薄板状になって吹きつけ、戸外にいるとしがみつくものもないのだった。トイレ設備を使用していると、葉っぱで葺いた屋根が飛ばされ雨のなかでしゃがんだままになる。でも他の数百人がそうだったように、ルーと僕もしまいには兵舎の軒下でシャワーを浴びられるようになった。あらゆる建物の風下側に、裸の男たちが並んでいるさまは壮観だった!雨水は屋根を伝って降り注ぎ、しばらくの間僕たちはかなりに清潔になった。

元の音楽家仲間たちが病気になり2,3キロ離れた別の収容所に運ばれていくのを、ルーと僕は見ていた。僕たちの眠る兵舎でも死者がでた。僕たちのバンドマスター補佐として任を果たしたレオン・コネスキ軍曹は、収容所裏の小さな墓地に僕たちの手で埋葬された。周囲に生える丈の高い草を引き抜き、僕らは彼の遺体を覆った。この優れた音楽家に、このような最後を見るのは悲しいことだった。


その年もすすんで
11月となり、噂が飛び交った--第3収容所は第1収容所と統合される。この捕虜たちの果てない楽観主義は変化をいつも良いほうへと信じさせ、日本軍が徴用した実験農場からきた肉で食糧割り当てもてこ入れがされて、僕たちは第1収容所までの9キロを行進する力を絞り出すことができた。

       カバナツアン捕虜収容所

この行動に使えるトラックその他の車輌は大してなかったのだが、兎に角それは実施され、そして僕たちはしばらく同じ建物に収容された。

捕虜たちの大集団が徴用されて集められ、日本軍占領下のフィリピン全土のいたるところへ、作業班として送られた。このひとつがパラワン島へ送られ飛行場を建設した大きな班である。ルイスはこの班を増強するため船で連行され、日本軍警備員により残酷な取り扱いを受けた。男たちは工具の柄で殴られた。蹴ったり平手打ちは日常的にたえず行われた。虐待と辛苦にもかかわらず、ルーは幸運にも作業班のほぼ半数近くとともにルソン島へ返された。なぜかは誰にもわからない。僕たちの楽団員2名を含む159人の捕虜たちが、進撃してくる連合軍の手で奪還されるのを防ぐために、収容所長によって処刑された。僕の相棒ルーは、それをまぬかれ、大虐殺のまえにパラワンを出ることができたから、その意味では幸運だった。
パラワン虐殺詳細)

ルーがパラワン島にいたあいだ、僕はクラーク・フィールド空軍基地の「草刈作業班」にいた。旧米陸軍航空隊基地の滑走路は草地だったのだ。大勢の徴用捕虜がカバナツアンから列車で運ばれた。収容所に1から10までのランク付けをして1を最悪とすれば、クラーク・フィールドは8ぐらいに相当した。極東米比軍爆撃隊の宿舎であったため、大規模編成の班により適した設備があった。建物もより良く合金の屋根があり、床は木材の高床、電線が張られ、水のシャワーがあり、便所は排水溝に繋がっていた。日本軍航空機整備大隊の管理下にいたが、この種の部隊は通常、戦闘部隊より少々ランクが上の部隊で編成されている。僕たちはそれほど残酷に扱われなかった。食事はもちろんほとんど飯とスープだったが、量はずっと多く、栄養価のある野菜がつく回数もより多かった。バランスのとれた食生活ではなかったから栄養不良の問題は引き続いていた。土地の者たちと時に接触があれば、豆類、卵、果物などを手に入れる利点があった。これらと、赤十字食糧小包が鷹揚に配布されたことで、大変に助かった。この状況は1943年に一人の捕虜が逃亡するまで続いた。この事件はそれまでの親切な待遇を大きく変えた。僕は乾性脚気がひどくなり、脚に非常な痛みが起こった。寝場所の近い仲間たちが地元民から仕入れた食物を持ってきてくれてからはいくらか和らいだ。

クラーク・フィールドでの仕事は、米海軍の襲来に備えて航空機を守るため、近くの高地に防壁を掘る厳しい労働も含むように変わった。また、古代の溶岩地層から岩石や砂利を掘り起こすプロジェクトも大々的に始められた。捕虜たちは岩石をサイズごとにより分ける仕事につかされた。これはクラークに新しいコンクリート滑走路を建設する準備だった。この結果、僕の体調は衰え、労働ができなくなった。1944年4月、僕はカバナツアン収容所へ送り返された。その後、7月、僕は九州の鉱山で働く日本への徴用隊に入れられた。同時にルーは、東京の北、仙台の鉱山で労働をするよう船で送られた。鉱夫になるため、僕たち二人は『地獄船』による航海をした。でも滅多にその話はしなかった。僕たちの話題は、どこであれ戦友たちがいかに苦労したか、よく話したものだ。

朝鮮動乱のときは、同じ海兵第1師団司令部大隊で共に従軍し、極寒とはどういうことかを学んだ。彼は師団軍楽隊の楽隊長のひとりだった。僕は移動撮影記録部隊に所属した。一度も近くに駐屯することはなかった。

それぞれが20年の海兵隊勤務を終えて引退するまで、顔を合わせての再会はなかった。手紙のやりとりはしていたが、1981年春、サンディエゴでの海兵隊音楽家たち再会の集いが、20余年ぶりの再会だった。その後は元捕虜たちの集まりで会っては、家族、友人、そして近況のニュースを交換してきた。ルイスは書くのが上手で、彼がよくくれた美しい筆記体の手紙は、もらうといつもとても嬉しかった。サキソフォンにつける新しいマウス・ピースが手に入っていかに幸運かと、2ページも書いてきた。子供たち全員が自慢で彼らが成功するとは書いてくれた。人生で得た利点、進歩、愛、そしてリメリック(=5行の戯れの詩)を僕たちは交換した。戦争体験も含めて、彼は悪いことを書いたり話したりすることはめったになかった。彼はいいジョークを好み、それを僕はタイプした。 


捕虜や海兵隊の催しではよく同室をとり、一度は彼をフロリダに訪ねたし、
1990年には彼がカリフォルニアの我が家へやってきた。彼が逝去したときも、次の海兵隊音楽家の集いについて計画中だった。彼は疲れを知らずに旅をし、その笑顔はどこでも終わることのない人気を博していた。91歳の誕生パーティでは、アルト・ホーンを披露しようと練習しており、その誕生日はたまたま、我が国の父、ワシントンと同じ2月22日だった。

  (ルーとドン、2004)

こんな友を持ち、こんなに長い間、これほど多くを分ち合えたのは、貴重な賜物だ。私のうちの感謝は表しようもない。これからもどれほど彼を懐かしみつつ生きてゆくか、彼に知るすべがあるように願う。ひとを喜ばせ、楽しませるために彼は生まれ、ほとんど最後のときまで高い特性で、それをやりおおせた。                                              
                                                                               (訳:伊吹由歌子)

* ルー・  カーティス氏は、2010年2月10日に逝去しました。