814日に105歳で逝去した「バターン死の行進」最年長の生還者アルバート・ブラウン医師に関しては、日米で広く報道されました。

ワシントン・ポスト   

日本軍捕虜だった父親を持ち、近く公開されるドキュメンタリー「バターンの悲劇」のプロデユーサーであるジャン・トンプソン教授が、ブラウン医師の思い出を語ります。

最年長「バターン死の行進」生還者をアルバート・ブラウン医師を偲んで

ジャン・トンプソン
 

私が初めてアルバート・ブラウン医師のことを聞いたのは、6年前のことでした。

私は、当時製作していた捕虜体験に関するドキュメンタリーの撮影に適した場所を探し、イリノイ州南部の幾つかの農場を探索していました。イリノイ州ピンクニイビルにある
150年もたつ古い農場で、農夫が言いました。「ブラウン医師とは話したことがあるかい?彼は死の行進を歩いたんだよ。」ブラウン医師は、私が住んでいる所から65キロほどのピンクニイビルに、娘のペグ・ドーティさんと住んでいました。灯台下暗しとはこのこと。「えー!」彼のことは聞いたことがなかったのです!

私はすぐさま彼の娘さんに連絡して、彼女の父親と「インタビュー前面談」の約束をとりつけました。彼らが経営するOxbow Bed & Breakfast(狩猟者に宿を提供する大きな宿泊施設)に私が着くと、食堂に通されました。そしてペグと彼女のお兄さんは、父親が階下に降りてくるのを手伝いました。

ブラウン医師が101歳であることを私が知ったのは、その時でした。彼は101歳には見えませんでしたが、100歳を超える人物をインタビューするのは初めての体験でした。先ず、戦時中の彼自身の体験について、予備的な質問から始めました。彼は少し耳が不自由で、息子のソニーが、テーブル越しに大声で怒鳴りながら、父親が答えるのを手助けしました。実際、インタビューは大声でのやりとりに終始し、2時間後においとまする時は、私の喉はからからでした。ブラウン医師が明かしてくれた話には、興味深いものがありましたが、それらは断片的で、彼へのインタビューを撮影しても、理路整然とした証言を得られるか、私は少し不安でした。

2週間ほどして私は、もう1度彼に会ってインタビューを撮影しようと決心しました。たった一言でもドキュメンタリーに使えそうな言葉を得られるなら、やる価値があると思ったのです。私は70代の彼の娘に、インタビュー中は陰から答を叫んで教えることはできないと、警告しました。カメラが回り始めたら、彼女の父親は自分だけで受け答えするのだと。

驚くべきことに、ブラウン医師は素晴らしい受け答えをしてくれました。彼は、死の行進だけでなく捕虜時代の状況の記憶を、蘇らせることができたのです。私はインタビューを終えて運転しながら、彼にインタビューできた自分は何と幸運だったのだろうと、考えていました。     
                                                                               

このインタビューから間もなく、私は、地元の公共テレビ局から、地域に住む第二次大戦退役軍人に関するテレビ番組の一こまを制作するのを手伝って欲しいと、頼まれました。私は、ブラウン医師についての短い一こまを製作しました。地域の視聴者のためにもっとローカル性をもたせようとしていた時、私は、ブラウン医師が私たちの大学の宿敵であるクレイトン大学のバスケットボール・チームのキャプテンだったことを発見しました。(私は南イリノイ大学で教えています)二つの大学は、長い年月にわたってスポーツ競技のライバルだったのです。私は、私の大学の学長. Glenn Poshard博士に、次の南イリノイ大学対クレイトン大学のバスケットの試合でブラウン医師を称えることを、提案しました。大学はそれを全面的に支援しました。

その晩、試合の切符は売り切れ、6千人を超える観客が集まりました。ブラウン医師は、お嬢さんとお孫さんと一緒にクレイトンチーム側に着席しました。最初の休憩時間に、アナウンサーがスピーカーを通して発表しました。「今夜私たちは、とても特別なゲストを称えたいと思います。バターン死の行進の最年長生還者、アルバート・ブラウン医師です!!!」競技場の全員が立ち上がり、数分間にわたってブラウン医師を、スタンディング・オベーションで称えました。

 
   大学時代のブラウン氏

その夜中、人々はブラウン医師のそばに来て、握手をしたり彼の貢献や犠牲に感謝を伝えたりしました。それは私にとって、忘れることができない素晴らしい夜となりました。会場にいて彼を称えた全ての人にとっても、同じでした。

ブラウン医師は戦時中、歯科医療班の大尉でした。彼はその間日記を付けていて、私はその中から数行とインタビューからの一言を、もうすぐ上映される私のドキュメンタリー「バターンの悲劇」の中で使いました。

私のウエブサイト tragedyofbataan.com でも、彼を称えています。彼は、恐ろしい戦いとその後の捕虜生活に生き残った全ての人々と同じく、本当に素晴らしい人物でした。


ジャン・トンプソン氏は、「元全米バターン・コレヒドール防衛兵の会:次世代の会」の初代会長を、2011年6月まで務めました。ドキュメンタリー「Tragedy of Bataan」のプロデユーサーです。

彼女の父親ロバート・トンプソンは、米海軍船Canopus  の薬剤担当乗組員でした。Canopusは、バターンが陥落する直前に自爆されました。船員たちはコレヒドール島に逃避しました。彼は1942年56日、日本軍に降伏し、3年半の捕虜生活を送りました。