ジョージ・フランシス
(1919-1999)
カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ

- 米海兵隊第四部隊、軍楽隊

- コレヒドール、 カバナツアン収容所、「多賀丸」
新潟捕虜収容所(5−B)



ジョージ・フランシス中尉は、第二次大戦中に日本軍の捕虜となりました。米海兵隊軍楽隊の一員として中国に駐屯した後、太平洋戦争が勃発する数日前の1941年12月初め、フィリピンに着きました。翌1942年5月、コレヒドール島で日本軍に降伏した1 3,000人のアメリカ兵・フィリピン兵の中に、フランシス氏がいました。1943年の秋、彼は新潟捕虜収容所 5-Bに送られ、終戦までそこで強制労働に就かされました。

彼が収容された新潟捕虜収容所 5-B は、800人あまりの捕虜のうち101人が死んだ、劣悪な収容所でしたが、フランシス氏は、音楽や文学を愛する心を失うことはありませんでした。彼は、捕われの身であった新潟で書き留めた日記への書き込みを、故国に持ち帰りました。また彼は、捕虜だった間そして戦後、数多くの詩を書きました。1997年、息子のロバート・フランシスは、父親がそれら をまとめ、一冊の本として出版することを、支援しました。
(The Edge: http://www.fourthmarinesband.com/francis.htm)

ジョージ・フランシス氏は、1999年に他界しました。




米海兵隊第四部隊軍楽隊:1941年上海にて (フランシス氏は右から5人目)
 

捕虜だった父親について:ロバート・フランシス

どんなお父さんでしたか。

厳しくて、強い人格を持った人でした。彼はよく、私たちの関係は双方から協力し合う関係だと言っていました。でも結局のところ、私たちの関係は彼が牛耳っていましたね。

お父さんは、子供たちに自分の捕虜体験を話すことがありましたか。

ええ。彼が他の大人たちと戦争の話をするとき、たいがい私たち子供も聞いていました。

あなたの観察では、お父さんは、捕虜時代の思い出にどのように対処していましたか。

たいがいの場合は、酒の力を借りていましたね。彼は、海兵隊員だったことを誇りに思っていました。死んだ仲間のことを話していて、泣くこともありました。母が父と結婚してクアンチコという町に住んだとき、元捕虜たちがよく集まったそうです。彼らは酒を飲みながら、捕虜時代に便所のそばにいた蛙を食べたことなどを思い出して、大笑いするんだそうです。母は、彼らのそんなユーモアの感覚が理解できませんでした。私は母に、「お母さん、彼らは自分たちの体験を笑いでもしなかったら、泣いてしまうんだよ。それが、恐ろしい思い出に対処できる唯一の方法なんだよ」と言ったものです。

あなたは、お父さんが戦争中に書いた手紙や日記、詩、そして戦後に書いた捕虜時代の思い出などを、ご自分が費用を出して、一冊の本にまとめられたそうですね。どうして、そうしたかったのですか。

私は、それらのストーリーに描かれた父の中国・フィリッピンそして日本での体験を、聞かされて育ちました。私は、父が、自分自身の為だけでなく家族や友人たちのためにも、それ らの物語をまとめるべきだと感じたのです。父の体験は、冒険と私たちが知るべき歴史に満ち溢れています。 

お父さんは、父親の捕虜体験を記録しようとするあなたの努力と、その結果完成した本を、どう思っていらっしゃいましたか。

父は、私が出版費用を負担するほど彼の捕虜体験に興味を持ったことを、喜んでいました。でも情報を得ようとするあまり、私が根掘り葉掘り聞きすぎると、父は思っていたでしょう。
 


ジョージ・フランシスの日記から

1945年4月26日

この小冊子を日記と呼ぶことはできない。私は、過ぎ去った一週間の間に起こった憂鬱な出来事を記録したいとは思わない。むしろ私は、自分自身の精神的進歩と、自分を深い瞑想に導いた事柄などを記録したい。さらにはこれらの走り書き通して、自分自身のよい所も悪いところも知り、そのことから何かを得たいと願う。

1945年5月2日

問題:これまで私はいったい何度、限りない可能性に励まされながら、物事を完璧なまでに考えようとしただろう。その度に、方法とアプローチ に関する厳しい現実に引き戻されてしまうのだ。手にしたペンは麻痺し、インクはインク壺の中で凍ってしまう。

私は、日ごとに言葉の学習の虜になっている自分を発見する。他のことを忘れられる魅惑的な過ごし方だし、限りない喜びの時間を私に与えてくれる。

私は、その人物と彼が置かれた環境や影響を完全に知ることなく、仲間を、その行動故に非難するいかなる資格も自分にはないと、信じている。私の周りで、死 に瀕しているこれらの者たちへの同情なしには…。

私は、どんなやり方をもってしても、自分を完璧にすることを目指したい。でも最も達成したいことは、仲間の人間と仲良く生きることだ。

私は、自分が最も大切に思うものの大部分は、自分の心の中に貯えた事々だと信じている。芸術や過去に私を感動させた音楽の数々など、私が発見した美しい事々だ。

第一に私は、真実と結びついた誠実こそは、その上に価値ある全てのものを築きあげる基盤でなければならないと、信じている。 最も過酷な試練にさえ耐える、道徳的勇気を育むことが大切だ。

1945年5月17日

この数日は、書く気分になれなかった。収容所での暮らしは、時として振り払うのが著しく困難な、精神的無気力を生み出しがちだ。あらゆることが、終わりのない繰り返しのサイクルとなる。本も全部読んでしまった。あらゆる議論も、何度も論じられ、そして論破された。手に入るわずかなニュースが唯一の救いだ。特に、自由がいよいよ近づいてきたように見える今は。

 

                                    新潟捕虜収容所5-B (解放後)

私はふるさとや、母や姉のことを想う。でも本当のところは、彼らが、かすかな遠い過去の一部にしか見えなくなってしまっている。ああ、本当に自由に独りで歩いてみたい。寝転がって偉大で輝かしい太陽を見つめたい。自分が完全に自由の身であることを 確かめたい。そして私は、知識を深める努力をしたい。自分の周りを、自分が一番大切にしているもので囲みたい。それが、幸福への永遠の希求のように思える。

ここで友人になった多くの人々について、少し考えてみたい。賢明な者、愛すべき者、高潔な者。彼らとの思い出を私から奪うことは、誰にもできない。ずっと自分のものだ。彼らは、私の人生を本当により豊かにしてくれた。

1945年5月23日

礼節をもって他人に接することは、本当に大事なことだ。それがなければ、私たちは間違いなく、無礼でがさつになってしまう。私はそのことを、この収容所内で、かつてなかったほど自覚している。 それは本当に各人の人格を示すものだ。ていねいなだけでは、礼節に至らない。それは、相手を見極める感覚・やさしさ・理解などの中にあるものだ。私が大切にしている人々の多くは、これらの良さを顕著に持っている。

1945年6月12日

祖国を離れること7年近く、私はアメリカという国を、全く違う見地から認識するようになった。今のアメリカを代表するものは、真の価値がなく人工的に見える。実利主義的な社会構造そのものが、無駄で無謀な方向 に向かって突き進んでいるようだ。欲と自己本位なわがままの上に、巨大な構造が出来上がっているようだ。新車や新しい冷蔵庫などに象徴される豊かさを、私は全く欲しない。そのような型にはまった狭い考えの世界に、私は帰りたいと思わない。

1945年6月16日

最近私は、自分自身に興味深い問いかけをした。私たち一人一人が少なくとも年に一度は自分に問いかけるべきだと、私が思う質問だ。「自分は囚人だろうか?」もちろん答は、私たち一人一人が、常に何らかの思考体系の中での囚人だということだ。この問い は、私たちにとって何が一番価値あることなのかを知る、最初のステップに違いない。

1945年7月5日

私は、母と姉に向かって、自分が彼らに抱いている深く豊かな愛情を表したい。私が彼らと分かち合いたいと願う豊かな恵み、私がこれまで知りえた美しい物の全ては、とうてい書き尽くせるものではない。

1945年8月17日

輝かしい日々がやってきた。戦争が終わり、私はとてつもなく幸福であるはずだ。これが、最も過酷だった過去三年間、何より願ったことだった。それなのに私が感じるのは、完全な喪失感−まるで見知らぬ深い森の中に置き去りにされた子供になったような−空虚で空っぽな気持ちだ。ノーマルな生活に戻るという現実が私に迫り、その中のあるものに、私は帰りたいと思わないのだ。

私は、自分がとても耐え難いと思う幾つかのことを、取り除きたい。私が今楽しみにしているのは、何人かの友人と過ごすこと、本を読むこと、音楽を聴くこと、そして何より自分の教養を高めること、だけだ。これらのことの中に、私は幸福を見つけたい。平和に暮らすことだけを、目指したい。暴力はもう金輪際いやだ。多分、 私は年を取ったのだろう。この3年間で、私はあまりにも多くの物を見過ぎた。

私は、自分の仲間について多くを学び、さらに重要なことには、自分自身についても深く学んだと信じている。私の人生が、単純で退屈なものに戻ることは、決してないだろう。探索すべき世界や思想の多くが、そこに待っている。難しいルールも、近道のルールも、生きるためにあらかじめ決められたルールもない。

結論として、生きることを楽しみにしているけれど、忠誠・勇気・誠意・寛容が尊ばれる場所で、私自身がやさしい思いを抱いて生きていきたい、ということだ。

1945年8月18日

3年間の捕虜生活で、自分はどんな人間に変わったのだろう。悲惨でつらかった3年間の後で?私は、空腹であること、渇きを覚えること、寒さに震えること、病気でも薬を貰えないこと 、友に手を握ってもらうこともなく死んでいくこと、の意味を知っている。本能を剥き出しにして、感情や欲や情欲を露にした仲間のことも、知っている。私は人間という動物が、一皮向けばその下に、原始 時代の動物と変わらない残酷さと獰猛さを秘めていることを、知っている。

私は今、自分が真の寛容を持ち合わせていると信じる。自分の仲間を知ることで寛容になり、彼の姿を自分の中に見ることができる。私は今、自分が忠誠心、そして幾らかの勇気を持ち合わせていること、誠実であろうと努力してきたことを、知っている。同時に、自分に至らないところもあったこと も知っている。私は、よりよい目的に向けて生きたいと願う。そして、どんなに小さくてもよいから、恒久的に大切なことに貢献したい−本当に大切なことに。


以下の詩は、私がカリフォルニア州インペリアル・ビーチにある上陸戦訓練所に、ルイス(チェスティ)ピューラー海兵隊中将を訪問した時、彼が私に言った一言が引き金となって、書かれたものである。

ピューラー中将は、海兵隊の歴史上、最も輝かしい軍歴を持つ将軍の一人だった。この将軍が、私の海兵隊第四部隊一員としてのバターンとコレヒドールでの軍務は、全て休憩で実戦ではなかった、と表現したことに、私は感情を害した。それは私を怒らせ、階級の違いにも拘わらず私は将軍に、中国にいた海兵隊が戦況が悪かった緒戦の頃、どのような運命を辿ったのかを説明した。将軍にその話をするために、私は40ヶ月間も捕虜として生き延びたのだ。


死の淵で

今は亡きルイス A. (チェスティ) ピューラー米海兵隊中将に捧ぐ

彼に会ったとき私は思った
この小柄な男が、本当に伝説的人物なのだろうか
頭のてっぺんが禿げ上がったこの白髪の男が
数多くの勲章にふさわしく、果敢さを秘めているのだろうか

彼は穏やかな口調で、私を歓迎し
椅子を勧めた
そして、辛らつな唇に
一瞬の微笑みを浮かべ
私がこれまでどこで兵役に就いたかと、尋ねた

私はすぐさま答えた かすかに震える声で 
海兵隊第四部隊であります、 閣下
バターンとコレヒドールであります 

回転椅子を揺らす彼の眼差しが
輝いた
海兵隊第四部隊、 と言ったかね
それじゃ、休憩していたんだね 君は
君には実戦はなかったんだ

私の目は真っ赤になり 
怒りが私の喉と内臓に満ちるのを感じ
ひざはがくがくと震えた

たぶん私は躊躇して
ほとばしる言葉を抑えるべきだったのだろう
そして傷ついた心を隠し
目をそらし”そうであります、閣下”と言うべきだったのだろう

でも私は言った ”将軍閣下”
あなたさまの軍歴は承知しております 勇敢さもです
あなたの勲章と武勇は
偶然の出来事だったかもしれません
でもあまり多すぎて
何も真実を語っていないのですね

海兵隊第四部隊にも勇気と闘志の
物語があるのです
あなたの賛歌と私のそれは、等しく奏でられるのです
でも閣下、一つだけ私たちが当時知らなかったことは
艦隊が去り、私たちが希望もないまま
見捨てられたことでした

本当に残酷な日々でした 暑い太陽と汗
補給物資の不足
死の淵で戦った
勝ち目のない戦い
熱病とマラリアで
混濁する意識
そして体を蝕む熱帯病

それから地獄そのものの苦しみ
既に衰弱し、死に近い男たちが
銃剣に追い立てられながら歩いた辛い行進
”歩け!歩け!”彼らが言いました
”墓場はまだ空っぽだぞ”

私たちの世界は鉄条網・竹の塔・そして銃剣で
囲まれました
垂れ流しで汚れたズボン
赤痢で死んだ者の冷たい死体
牧師にも何もできなかったのです

やっと何とか慣れてきたと思った頃
私たちの体は脚気で膨れ上がり
口の中は焼けるように爛れ、
皮膚病が腕や足を焼き尽くしました

40ヶ月もの長い間ですよ、将軍閣下
休憩する場所などありませんでした
死んでいった何千人もの仲間のため涙を流す間もなく
道中めそめそすることもなく
私たちは団結を強め
お互いと自分を助け合うことを学びました
神の顔が私たちに輝いたと思いました
その思いは変わりません

死の船が来て、私たちは航海の途につきました
鉄と竹の船倉の中から
必死に聞こうとしたピューンという魚雷の水中音
息を殺し、轟くような激突の瞬間を
待ちました
私たちは淵に立っていることを知っていました
究極の淵ですよ、 閣下
もちろん死の淵のことです

日本で入れられた古びた捕虜収容所
雨が そして雪が降りました
寒くって、暖もなく、食べ物もないんです
「小さい箱」に入れられるんですよ、 閣下
死んでしまった者たちの
そして誰も再び見ることのない灰は

彼らの名誉を傷つけてはならないんです
事故が起こってもいけない
でも貨車から車輪が外れたことも
見張りが滑って高架から落ちたこともありました

戦争から生還した私たちの
思い出は尽きません
私自身の武勇伝を語ることはできませんが
勇敢に死んでいった者はいます
彼らを残してくるのは何よりもつらいことでした

私はこう思いたいのです、 閣下 
私たち全員がどこかに神聖な場所を持っていて
故国に連れて帰れなかった者たちのために
そこでパンを契りワインを捧げるのです

老人は そっくり返った胸に
数多くの階級章と勲章を輝かせ
椅子から立ち上がった
一歩一歩踏みしめるように机から歩いてきて
私の手を握り、言った
フランシス君 すまなかった 
悪気はなかったんだ 約束するよ
二度とそんなことは言わないと

 



1995年、退役軍人の日に表彰されたジョージ・フランシス中尉