グレン・フレージャー

1923年アラバマ州フォートデポジット生まれ

-米陸軍17兵器中隊


-バターン死の行進
 
大阪捕虜収容所#1、
多奈川捕虜収容所、神戸捕虜収容所、
敦賀捕虜収容所


 

バターン死の行進生還者グレン・フレージャー氏が証言したPBSドキュメンタリー「The War」は、4千万人近くのアメリカ人が観たと伝えられています。彼は最近、捕虜体験を詳しく綴った「Hell's Guest」という回想記を出版しました。

以下は、彼の著書と当ウエブサイトとのインタビューからの抜粋です。
 


大阪捕虜収容所で処刑寸前に

その日私は作業を終え、他の捕虜と一緒に大阪市内の道を整列して帰るところだった。凍てつく寒さに、私の手は感覚が無くなっていた。冷えきった手を、私はよれよれのズボンのポケットに入れた。捕虜収容所の門を通るとき、日本人の監視が私を指差し、他の監視に何か言っているのに、気づいた。その後、他のアメリカ人捕虜と整列したところで、同じ監視が私を指差しながら近づいてきた。彼は、ついて来るようにと私に指示した。最初私は、特に深刻なこととは思わなかった。

私は、通訳と一緒に監視の後に従い、収容所長の事務所に行った。気をつけして、椅子に座っている少佐にお辞儀をするよう命じられた。そのすぐ後、通訳が私のそばに来て「お前はポケットに手を入れて市中を歩いていたが、それは日本兵には禁じられている」と言った。

「私は日本兵ではありません。捕虜です!」と私は答えた。少佐が通訳に向かって日本語で何か叫んだ後、通訳は「同じ規則が捕虜全員に課せられる。」と言ったので、「知りませんでした。」と答えた。消え入りそうな声で「どうして彼らは規則を教えてくれないのか。」と通訳に言った。もし規則を知っていたなら、破るようなことはしなかったのに、と私自身が思ったからだ。

少佐は通訳に怒鳴り声で言った。「お前はアメリカ兵だ、ポケットに手を入れて歩いてはならぬ!」 私は、はっきりと言い返した。「規則を言ってくれたら、従います。」通訳が私の言葉を少佐に伝えた。驚いたような表情を浮かべた少佐は、椅子から飛び上がると、握りこぶしで机を叩いた。私はここに至って、彼を本当に刺激してしまったことを知った。通訳に話している様子から、彼が私の態度に怒っていることがわかった。彼はまた椅子から立ち上がると、私の方に歩いてきて、監視は私にもう一度お辞儀をさせた。

通訳が言った。「所長は、お前の態度が気に入らないと、言っておられる。」その時点で、少佐は刀を抜き、私の喉を浅く切った。私の首に血が流れ落ちた。

「命令に従わなかった捕虜には、処刑もあり得る。」と通訳は続けた。私にできたことは、駆け巡る恐怖の思いと共に、身じろぎもせず立ち尽くすことだけだった。私は、憎悪に満ちた少佐の目を睨みつけていた。一瞬たりとも、私は彼から視線を外さなかった。

ポケットに手を入れて歩いたというだけで、こんなことになるなんて。不思議な感情が私を襲い、重大な事態になったということを、私は突然悟った。少佐は監視に怒鳴りつけた。「こいつを外に連れ出せ。床を血で汚したくないからな。」 監視に後ろからライフルで突かれながら、私は事務所から外に出た。

彼は止まるように命じた。私は命じられたとおり、その場に静止した。そこに立ち次の命令を待ちながら、私は日本の地に埋められる自分の姿を思い浮かべていた。さまざまな思いが駆け巡り、いてもたってもいられない恐怖に襲われたが、それでもまだ、何とかこの危機を切り抜けるチャンスがあるように感じた。

所長と通訳が出てきて、私の立っているそばに近づいてくるのが聞こえた。彼らが日本語でやりとりしている間、私にできることはただじっと立っていることだけだった。それから、もう一度少佐にお辞儀するよう命じられた。

「少佐は、規則を破る者がどうなるかを他の者に示すために、お前を処刑する。」と通訳が宣言した。少佐は私の前に歩いてくると、再び刀を取り出し私の喉にあてがった。彼らは、私が命乞いをするだろうと予想していた。通訳が「何か言い残したいことはあるか。」と訊いた。

「それならば」私は少佐の目を見つめながら、通訳に言った。そして次の言葉が私の口から発せられたが、今日に至るまで、いったいどこからそのようなことを思いついたのか自分でも分からない。

「彼は私を殺すことができる。」私は答えた。「しかし彼は私の霊魂を殺すことはできない。私の霊魂は彼の中に取り付いて、死ぬまで彼を苦しめるだろう。」 通訳は、私がたった今発した言葉をもう一度繰り返すよう言った。一瞬にして恐怖が私を襲い、全身の血が騒ぎ、私は恐怖の炎に完全に包まれていた。

少佐の目をまだ見つめ続けながら私は言った。「彼は私を殺すことができる。しかし彼は私の霊魂を殺すことはできない。そして私の霊魂は永久に彼の肉体に取り付くだろう。アメリカ軍がやがてやって来る。そして正当な理由なしにアメリカ兵を殺した者は、永久にその霊魂に苦しめられるだろう!」

私は最初、自分が実際に発した言葉の意味を、よく把握していなかった。少佐が刀を振り下ろしたら、私はそれをかわす準備をしていた。私は、彼から一瞬たりとも目をそらさず、彼の全ての動きを見ていた。突然、少佐の顔に不思議な表情が浮かんだ。そして、驚いたことに、少佐は三歩下がると、刀を下げたのだ。私は空を見上げ、「有難うございます。神さま」と言った。日本兵が処刑をしかかって止めたのを見たのは、これが初めてだった。

それから少佐は、私を地下に掘った独房に連れていくよう、監視に命じた。監視は銃で私の背中を小突きながら、1.5m 1.5m 1.5m の穴に向けて私を突き出した。日本人監視が穴のふたを上げたが、これで試練が終わったのか私には分からなかった。彼は、中に入るよう身振りした。暗い穴の深さを覗き込みながら、私は入ろうとした。監視に蹴られたか押されたかして、私は頭から落ち顔を突っ伏した。顔と首に鋭い痛みを感じながら、私は涙をぬぐった。

*PBSドキュメンタリーで紹介されたこのエピソードは、以下のビデオクリップで見ることができます。  http://youtube.com/watch?v=8f4wvI5iAM0


帰郷と悪夢

家に帰れたことは最高だったが、それまで起こったことの全てがいまだに自分の中で渦巻いていた。それはまるで、二人の人間が帰郷したようだった。一人は、家族が抱きしめ話しかける戦前の少年のままの自分。もう一人は、やりきれない思い出と感情を抱え込んだ自分。いろいろなことがあまりにも速く起こりすぎて、私は、自分の中に棲む恐怖や苦痛、そして激情と正真正銘の憎しみを、まだのり越えることができなかったのだ。1945年9月2日に日本との戦争が終わったとき、私は、東京から汽車で800キロ離れた裏日本の奴隷収容所にいた日本軍の捕虜だった。

それはたった数週間前のことにすぎなかった。それが今や、この4年間、二度と戻れることはないだろうと思っていた暮らしに、再適応しなければならない。家族や友人には、私は昔どおりのグレン・ドーリング・フレージャーで、帰還した兵士だった。しかし私は、自分がもはやその人間ではないことを知っていた。私が思い巡らすのは、自分の周りにある自由や愛ではなく、バターン死の行進のことや、酷く打たれたり病気で弱りきって、もう一晩も生き延びられないのではないかと、恐れたりしたことだった。

戦争で味わった恐怖は、その後29年から30年もの間にわたって毎日毎晩私を苛んだ。いっそ生還しなければよかったと、思ったことさえあった。静かな場所に横たわり、死のみによって与えられる平安を見つけられたらどんなに安らかだろうと、想像したものだ。

ときには、苦しみを忘れようと酒に走ったこともあった。30年も前に終わった戦争体験にいまだに苛まれているなどと、誰にも言うことは不可能になっていた。体は、この問題を何とかしなければならないと告げているのだが、解決しようとしても、それらの問題があまりにも自分の一部となっていて、どうにもならないことに気付かせられるのだ。私は、絶対絶命のところまで追いつめられていた。

ある朝午前2時ごろ、私は眠りから覚め、何が起こっているのか自分でもわからないままに、ベッドの脇にひざまずき、神に祈っていた。それはまるで逆らえない力が自分自身の中に働き、私が言うべき言葉まで与えたかのようだった。祈りの中で私は、自分を支配している怨念を払い落として下さいと、頼んだ。

私は以前、牧師に、自分の問題を解決する方法を教えて欲しいと頼んだことがあり、日本を許さなければならないと、告げられていた。私は言った。「とんでもない。そんなことはできません。彼らは私たち全員に謝っていないのに、どうして私にそれができるんですか。」それで私は、引き続 き苦しんでいた。

しかしその夜、私の中の激情は私に涙をもたらした。私はとめどなく泣いた。私の心を通り過ぎる思いの全てが、「自分を傷つけた全ての人間と全ての事柄を、赦さなければならない。日本人を赦し、長い歳月この憎しみを抱き続けてきた自分を赦さなければならない」と、私の体の奥から発せられる声のようだった。
 

フレージャー氏の著書「Hell's Guest」の詳細は http://www.hellsguest.com/
 


インタビュー
徳留絹枝

PBSドキュメンタリーに「The War」ついて

私は戦後何年もの間、日本人全体、日本の国全体への憎しみに苛まれました。そこに私と同じような普通の人々、当時の指導者の命令に従っただけで戦争とは何も関係のない多くの日本人家族がいたのだ、ということに気付かず、また考えてもみなかったのです。

それで私は、自分が知りもしない人々への憎しみを心の中に抱いていたのです。

第二次大戦に関するドキュメンタリーについてケン・バーンズや彼の代理人が話したとき、私はこれらの気持ちを伝えました。彼らは、極東、特にフィリピンで捕虜になった誰かを探していました。私は幸運にも、ちょうどよい場所にいてよい人々に会い、インタビューに選ばれることになったのです。そして私の話を聞くや、ケン・バーンズは、「それが、私たちが欲しい内容だ」と言ったのです。


バターン死の行進について

私たちが受けた待遇はひどいものでした。でも今になって振り返ると、理解できることでもあるのです。

私は、飲まず食わず、休みもしないで、6日7晩歩きました。5日目の夜、降ってきた雨を両手で受けました。

インタビュービデオ


                                 

                                  高校時代のグレン
赦すことについて

私はドキュメンタリーの中で「日本は一度も謝ったことがない。」と言いました。ところで、私にだって、捕虜になる前や収容所に入ってから日本兵にしたことで、誇りに思えないことがあります。それらについて私は告白しますし、赦しを請いたいと思います。私は神様には既に、私を赦して欲しいと頼みました。

私が言いたいのは、私たちが何がしかの理解を得ることができるなら、お互いへの見方が変るだろう、ということです。戦争の過去を脇において、アメリカよ、あなたは過ちを犯した。日本よ、あなたは過ちを犯した。歩み寄り、「申し訳なかった」と言おうではありませんか。それができたとき、私たちはもっと親しくなれると思うのです。私たちは前進し、共によりよく生きるでしょう。

アメリカ兵が死ぬとき、彼らの思いはいつも家族と神に戻りました。「僕のために祈ってくれないか。僕の家族に、僕に何が起こったのか伝えてくれないか。どうか僕の息子と娘を探して、彼らがしっかり生きているか確かめてくれないか。僕のために祈ってくれないか。」と言うものでした。彼らは呪いの言葉を口にしながら死んでいったんではないんですよ。

インタビュービデオ