ジョン A. グラスマン氏へのインタビュー

Conduct Under Fire: Four American Doctors and Their Fight for Life as Prisoners of the Japanese,1941−1945 (砲火の下での品行:日本軍捕虜となった4人の米国人医師の生存への戦い, 1941-1945 (Viking , 2005 www.conductunderfire.com ) 著者


大変意義深い著書の出版、おめでとうございます。刊行前からジョン・ダワー教授など多くの著名人から賞賛を受けたあなたの本は、以下のように要約されています。

熾烈で血なまぐさいフィリピンのバターンとコレヒドールでの戦いは、第二次大戦の歴史の中でも伝説的である。それらに生き残った者たちは、日本軍捕虜として恐るべき体験に遭遇 した。
ジョン・グラスマンは『
Conduct Under Fireの中で、1942年5月にコレヒドールで捕虜となった彼の父親 Murray と3人の同僚医師の目を通して、これらの出来事を記録していく。そこに綴られるのは、バターンの陥落、”岩(コレヒドール要塞)”の包囲、そして第二次大戦を通して最も熾烈な 爆撃下で病み、傷つき、死んでいく者を診る日々の闘い、などの劇的なストーリーである。またここで語られるのは、降伏を恥辱とみなす敵の中にあって、医師と衛生兵が疫病と飢餓に立ち向かう絶望的戦いでもある。生き残るために、捕虜たちは家族のように団結した。しかし、彼らの固い結束も、米潜水艦や日本の主要都市を焼き払ったB-29爆撃などによる容赦ない反撃から、彼らを守ることはできなかった。米国・英国・オーストラリアそして日本 人退役軍人へのインタビュー、さらには日記・手紙・戦犯証言を基にしたこの著書は、文化の非情な衝突、そして全面戦争にエスカレートした人種差別戦争の、恐るべき物語である。

なぜこの本を書きたいと思われたのですか。

私は、新しい世代の人々が太平洋戦争を、それを体験したアメリカ人・日本人・そして英国人・フィリピン人、オランダ人・オーストラリア人の視点から理解できるよう、 『Conduct Under Fire 』を書きました。多くの読者は、この戦いに関してほとんど歴史的感覚を持ち合わせていないであろうという前提で、この本を書きました。私は、バランスの取れた視点を提供するということに、特 に気を遣いました。 往々にして、私たちの歴史はそれを書く作者の国籍によって、偏ることがあります。私は、両側の視点から見た戦争に関心を持っていました。私は日本人リサーチャーの石井信平氏、そして『容赦なき戦争』の著者である歴史家ジョン・ダワー氏から紹介された翻訳家のJohn Junkerman氏と緊密に働きました。

あなたが小さい頃、お父様が捕虜体験について語ることはあまりなかったと、書かれています。この本のためにリサーチする間、日本軍の捕虜がどれほどの苦しみを味わったか、初めて知りえたことが数多くあったと思います。また日本の「POW研究会」のメンバーからも協力を得たそうですね。この本のためにしたリサーチ、そして実際の執筆は、あなたにとってどのような体験でしたか。
 

この本を書くことのもう一つの目的は、まだ生存する退役軍人たちの思い出や記憶を利用することでした。私は、バターン・コレヒドール 防衛に参加した数多くの米・フィリピン兵にインタビューしましたし、もちろん私の父は、その過程大きな手助けとなりました。私たちは2001年に一緒にフィリピンへ旅行し、米アジア艦隊の基地で日本軍が真珠湾攻撃の二日後に爆破したカビテ海軍埠頭、バターン、父が第4海兵隊に配属されて海岸防衛にあたったコレヒドール島要塞、コレヒドールにおける捕囚、マニラビリビッド刑務所への収監、そしてその後は、マニラから北へ60マイルのカバナツアン収容所など、彼の戦争中の足跡を辿りました。それは私たちどちらにとっても、稀有な体験でした。彼はその時86歳でしたが、その旅は、本当に数多くの思い出を甦らせました。心温まる思い出も、そして彼にとって明らかに思い出すのが辛い思い出も…。

彼は日本の地を再び踏むことに全く関心がありませんでしたので、私は自分だけで石井信平氏とリサーチ旅行をしました。私たちは、津守、大阪の悪名高い市岡陸上競技場収容所、神戸捕虜病院、神戸郊外の丸山収容所と、父がいた全ての収容所の跡地を探し当てました。「POW研究会」のメンバー 数人と出会いましたが、彼らは私のリサーチに計り知れないほどの助けとなり、私は、彼らがこの問題に関心を抱いていることに驚き、嬉しく思ったものです。

ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が
行方 不明と報じたMurray Glusman 海軍
予備軍医療部隊大尉
 

あなたは私に、この本が日本語に訳されて欲しいと、おっしゃいましたね。日本の人々があなたの本を読む機会を得ることが、なぜあなたにとって大事なのですか

私は、『Conduct Under Fire』が日本でも出版されて欲しいと、強く願っています。元捕虜の書いた回想録の多くが、一方的な視点だけを提供しています。私は敢えて、複数の視点を提供しようと試みました。例えば私の父は、アメリカによる日本への 空襲で死なずに幸運でした。彼が連合軍の医療スタッフと して働いた神戸捕虜病院は、1945年6月5日の米軍のB-29爆撃により破壊されました。何人かの患者が爆死し、他の多くの者が負傷したのです。私はその爆撃を、地上にいた捕虜の視点から、家屋を破壊された日本の民間人の視点から、そしてそれらの爆撃を遂行したアメリカ人B-29搭乗員の視点から、描きたいと思いました。それで私は神戸空襲の日本人被害者 に特にインタビューしたかったのですが、それがかないました。インタビューした一人の女性からは、彼女の家に西洋人が訪ねてきたのは、初めてだと告げられました。彼女の娘さんは、母親が語る神戸空襲の話に息を呑むように聞き入っていました。その時点まで、母親はそのことについて何一つ話したことがなかったのです。

そのことが、私の本が日本で出版されて欲しい理由の一つです。私は、日本の若い世代が、彼らの国が戦争中どのような役割を果たしたのか、知る必要があると考えます。アメリカの若い世代が、私たちの国が果たした役割を 知らなければならないように。そうでなければ、私たちはいったい他のどんな方法をもって、国として、文化として、友人として、お互いを理解できるというのでしょう。

日本軍による捕虜虐待の悲劇的エピソードの多くは、異なる文化の衝突の結果であったとよく説明されます。私たち日本人とアメリカ人が依然としてそれぞれ独特の文化の影響を受けているとしたら、あなたは、自分の著書がどのようにしてその文化の違いを超え、日本人読者に受け入れられると、期待なさいますか。あなたの本が持つ普遍的なメッセージは、どのようなものだと思われますか。

連合軍捕虜は、日本軍の手によって大変な苦しみを味わいました。彼らは拷問され、殴られ、そして飢えさせられたのです。彼らは医療を拒まれ、尊厳を奪われました。6万人以上の連合軍捕虜が、捕らわれの身でいる間に命を落としましたが、その死亡率は34−37%にも達しました。それに比べて、ドイツの捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1%以下でした。その理由としては、人種偏見的敵意、文化的未熟さ、言語の壁、日本が1929年の「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」を批准していなかったこと、そして当時日本社会の全般に蔓延し国そのものを崩壊の直前にまで導いた軍隊の特質など、数多く挙げることができます。 私がしようとしたのは、その戦争がもっていた複雑性のいくらかでも把握すること、戦場における道徳観がいかに脆いものであるか、人々の行為がいかに早くそして多くの場合悪い方向に変わってしまうかを 、示すことでした。

”砲火の下での品行”が英雄的だったアメリカ人もいた反面、その行為がとても模範的とは言えない者もいました。同様に、自分の管下にあった捕虜の生活をいくらかでもよくしようと、できる限りの努力をした神戸捕虜病院の院長大橋兵次郎医師のような、日本人もいたのです。連合軍捕虜の医療スタッフは、大橋医師に多大なる尊敬を抱いていました。実際、彼が米官憲から戦争犯罪人として起訴されることを妨げたのは、連合軍捕虜医療スタッフが神戸空襲の後に大橋医師の親切な行為に感謝してしたためた手紙だった可能性が、大きいのです。私の日本旅行のハイライトのひとつは、大橋医師の二人のお嬢さんと、友人とも思えるようになった孫の善久氏に会ったことでした。私は本当に、世代を超えて過去のページに舞い戻ったように感じたものです。

ですから、もしこの本に普遍的メッセージがあるとしたら、それは、物語のどちらの側をも評価すること、一国が戦争遂行にいたる論理的根拠に懐疑的であること、高潔・道義・人権尊重などの普遍的観念を支持していくこと、を読者に望むということです。現代において、そのメッセージはかつてなかったほど的を得ているように思えます。

戦場で双方の将兵がぶつかり合った太平洋戦争の他の多くの物語と違って、捕虜虐待・日本の都市への爆撃、そして原爆投下などの出来事となると、日米の間で語り合おうとしても 、共通基盤を見出すのが難しいようです。どのようにしたら私たちがこの問題を乗り越えられるとお考えですか。双方でどのような努力が必要とされているのでしょう。

世代を超えて引き継がれるトラウマである歴史的憎悪を乗り越える唯一の方法は、教育・文化間の対話・自己反省を通してしかありません。政治家は彼ら自身の課題を持っていますが、私たちは彼らを叱責しなければなりません。見 て見ぬ振りは許されないのです。私たちは、自分たちの行動に責任を持たなければなりません。そうしなければ、私たちは父や祖父の犯した同じ間違いを繰り返してしまいます。そうしなければ、世界平和は本当に望めないことになってしまうのです。

「POW研究会」メンバーの一人は、彼女の生徒と多様なアメリカ人を結ぶE−メール教室を開設しました。私にとって、第二次大戦について初めて学ぶ高校生と交流することが、どれほど心躍ることだったか、言葉では言い表せないほどです。彼女は自らの過去を知り、それまで知らずにいた自分の歴史の一部を発見して喜んでいました。それは まさに「太平洋を超える対話」でした。私たちのなすべき仕事のスタートは、子供からです。それが、私が『Conduct Under Fire』を私自身の子供たちに捧げた理由です。

本の表紙に使われている海軍の制服は、お父様のものだったのですか。

はい。『Conduct Under Fire』の表紙の海軍の制服は父のものでした。彼はそれを軍隊用のトランクに、二つのブロンズ・スター勲章と、神戸捕虜病院の連合軍医療スタッフが写っている写真と一緒に、しまっていました。子供の頃の私は、めったにそのトランクが開けられるのを見たことがありませんでしたが、いつも興味津々でした。その制服を着ていた人物はどんな人間だったのだろう。戦争中、彼はどんな体験に遭遇したのだろう。自分は、それから何を学べるのだろう…。こうして何年も経った今、私は、それらの疑問への少なくとも 幾つかの答えを知りえたのです。

お父様の戦後を、あなたは次のように書かれています。

彼の神経学の研究は、ニューヨーク州精神医学研究所で着手され、彼はコロンビア大学医学部で臨床神経学助教授の職を得た。彼の研究は進み、准教授職を跳ばす二階級特進で、教授になった。彼は神経学での訓練を生かし、恐怖・不安・攻撃性など、彼にとってはあまりにも知り尽くした反応を引き起こす脳内の神経構造に焦点を当てた、行動生理学の専門家となった。

お父様はこの1月に亡くなられたそうですね。この本の内容を全て読むことができたそうですが、何と言っておられましたか。

父はこの本の全編を通して、原稿の段階で読みました。彼は歴史や伝記の熱心な読者で、とても手厳しい評論家でした。後年になって彼は、種々の問題について新聞に意見記事を書き始めましたが、戦争や日米関係に関して書くこともありました。私は、自分の人生の個人的な面が私によって詳細に明かされることを、彼が嫌がるのではないかと思ったのですが、そんなことは全くありませんでした。彼は『Conduct Under Fireを本当に誇りに思い、私のリサーチの広さと深さに感心していました。そして彼自身、この本から多くを学んだと思います。でも人生の最後まで、ここに描かれた物語での自分自身の役割を、謙遜していました。彼は「僕たちは、何も特筆されるようなことをした訳じゃないさ。僕たちの生きた時が、特筆すべき時代だったということだよ。」と言っていました。  



フィリピンでのグラスマン氏
(写真提供Arvin Quintos)


(インタビュアー:徳留絹枝)