ロバート F. ゴールズワーズィー
1917年ワシントン州ロゼリア生まれ

-米陸軍航空部隊 B-29 パイロット
881飛行中隊、500爆撃隊所属
-1944年12月3日、東京上空で撃墜さる
憲兵隊拘置所、東京大森収容所


1944年12月3日、私は対日空爆作戦隊長機の機長だった。私のB-29「ロゼリア・ロケット」(B-29にはそれぞれニックネームが付けられていた)の由来は私がテキサス州で飛行訓練を受けていた頃、仲間たちに「テキサスの砂丘なんかに比べりゃ我がワシントン州は如何に素晴らしいか、それに我がふるさとの小さな町ロゼリアがどんなに素敵な所か」といつも自慢していたので、彼らは私を「ロゼリア・ロケット」と呼ぶようになり、それが我がB-29の愛称となるのは自然の成り行きであった。これが三度目の日本空爆行であった。前の二回の空爆では敵の戦闘機に邪魔されたりおびやかされたりすることは全く無かった。だから私がこの三回目の飛行がそんなにた易いものではないと考える理由など持ち合わせていなかった。 

我々のターゲットはコードナンバー357、東京の北西郊外に位置する中島飛行機工場であった。その日は快晴で目標は明瞭に視界に入った。すべての爆撃任務を終えてから我々の編隊は東京を一周するように北に向きを変え、その後サイパンに帰還するべく南下していた。

私は帰還出来なかった。我々は高度33,000フィート(約10,000メートル)で飛んでいたが直ちに日本軍の戦闘機に遮られてしまった。最初に正面から飛来した機は我がB-29の右翼を撃ち抜き、ガスタンクに穿孔した。そして幾つかのまずいことが起こったのだ。プロペラの一片は落ち、エンジンはうまく作動せず、そして火災が発生した。私はどこで火災が発生したのか知らないが、機内は炎が走り我々を機外に脱出せざるを得ない状況に追い込んだ。私は非常脱出用のボトルを身に付けるのを忘れたので、20,000フィート(約6,000メートル)、自力で呼吸出来るところまで酸素の補給なしに落下した。高度33,000フィートの気温はマイナス60度(華氏)位であった。私は夏の飛行服を着ていた。

落下中に、両手に火傷を負っているのに気づいた。何も痛みを感じなかった。あまりに興奮しあまりに怖れていたのだ。私は畑に着地し、間もなく日本兵や日本民衆に囲まれてしまった。私は縛られ目隠しされた。その後事態は手に負えない状況となった。私への対応は全く手荒なもので殺されるかも知れないと思った。そして周りが静かになった。私は54年経った後でその時、何が起こったのかを初めて知った。地域のリーダー格のある日本人が、群集が私を殴り殺そうとしているのを見たのだ。彼は群集を止めて言った。「駄目だ、彼を殺してはいけない」と。

数十年後に私はこの日本人に会った。彼は89歳であったが私を歓迎する漢詩を詠み色紙に書いて贈ってくれた。その詩は今も額に入れて私のリヴィングルームに掲げられている。私の日本人の友人、長沢のりの努力と調査の結果この人物に会うことが出来たのだ。そして私の愛機が墜落した現場を見ることが叶い、つぶれた愛機を見た人々にも会うことが出来た。然しそれは何十年も経った後の話である。1944年12月3日、この夜、私は東京に連行され憲兵隊の独房に投げ入れられた。私はまたひどく殴られ、服を脱がされ、8x10(2.5mx3.5m)の

小さな木造小屋に入れられた。私の飛行服がうしろから放り込まれた。翌朝私は自分が置かれた状況を吟味してみた。両手は火傷していた、夏の飛行服のまま、暖房の無い冬の寒い部屋、食事は一日三食、殆ど一口に収まるほどの少量のご飯だ。天候は非常に寒くなり4枚の毛布にくるまるだけであった。

私はB-29について尋問された。真っ赤な嘘をついた。ばれないで済んだこともあるが殴られたこともある。日本人の看守が手にする剣道クラブをもう二度と見たくない。その後、両手の火傷が悪化し私は初めて日本人のお情けを頂戴した。一人の医者が私の独房に連れて来られ彼は奇跡を行った。彼は非常に親切で優しかった、そして2〜3ヶ月で両手の火傷は治ってしまった。私は憲兵隊の独房に翌年の4月まで居た。衣服には蚤と虱がいっぱいたかり、飢餓的ダイエットは体重を85ポンド(39kg)にまで減らした。平常の体重は175ポンドであったから私はこの独房の中で死ぬのかと思った。

私は裁判にかけられ、2月のある日私は、裁判が終結したこと、捕獲された私のクルーのうち何人かは終身刑を受けたことを、告げられた。機の指揮官であった私は処刑されるという。翌日の朝、私は独房から刑務所裏の空き地に連れて行かれた。そこでは多くの動きがあった。しばらくして私は独房に連れ戻された。ロープと目隠しはされたままだった。そして私はまた外に連れ出された。激しいやりとりと職員たちの右往左往。遂に私は二度も独房に戻された。2〜3時間経って彼らがやってきて目隠しを外しロープも解いた。私はこの件に関しその後一切、何も聞いていない。

然し、翌年の4月、私は東京郊外の大森捕虜収容所に移された。そこで私は初めてアメリカ人の仲間たちと一緒になれた。食料割り当ては僅かながら増量し、結局私はこれで生き残れるのではないかという感じがした。キャンプ職員たちは非常に厳格でルールを破って殴り倒されるのは極たやすいことであった。春と夏が来て、私は日本人の側面を見ることができた。キャンプの外で働くようになり憲兵隊の刑務所では全然見たことのない日本人の姿を見たのである。

我々はB29の爆撃で破壊された現場の後片付けや菜園に野菜を植える仕事等をやらされた。一つ例をあげれば「ハニーバケツ」(トイレ汲み取り)作業の話だ。私のPOW親友Hap Halloran, B29のナヴィゲイターと私はこの作業を一緒にやった。大森にある我々の小さな村(捕虜収容所)に帰る道すがら我々はその近辺に住む人々からたくさんの親切を受けたのだ。こっそりと食べ物を差し入れてくれた。一人の婦人はHapと私に数粒の炒り豆をくれた。7粒。命の恩人だ。もう一人の婦人は温かいお湯と小さな石鹸を差し出した。我々はもう6−7ヶ月も顔さえ洗ったことが無かった。我々は日本人も飢えていたことを知っていたし、彼らも必需品のみの生活レベルに落ちていて、彼らが隠れて渡してくれた物品は彼ら自身の必需品を割愛してくれたものなのだ。

我々は一日ずつ、一週間ずつ、一ヶ月ずつ、生き延びた。そして突然に、戦争が終わり我々は解放された。東京湾に停泊している病院船に乗った時の気持ちを言葉で言い表すことは不可能だ。病院船に保護された時、遥か遠くに大森キャンプを見ることが出来た。私は船上まで運び込んで貰わなければならなかったが、手すりによろけながらつかまって大森の方を振り返り言った、「You .……, I beat you」 私は直ちに治療室に運ばれた。私の体重はたったの85ポンドだった。長い間豚のような生活をしていたので、糊の効いた白衣を着た看護婦、良い匂い、清潔さ、親切さ、親しさなどに我々の目には涙があふれた。みんな食べ過ぎて急に体重を増やしたが、食事を止めることは出来なかった。

私は特別の憎しみは感じていなかった。ただ二度と日本を見たくない、二度と日本人とは会いたくないということを感じただけだった。どんな戦争でも捕虜は存在するし、みんな捕虜の生活が安易ではあり得ないことを知っている。 しかし日本は捕虜には特に厳しかった。早い時期からバターン死の行進についての報告を聞いていたので、捕虜として、我々の生存率は低いであろうことを受け入れていた。私の機には12名のクルーが乗っていたが生還したのは3名である。(訳者注、墜落時に死亡したクルーもあるので、この数字は捕虜生存率を表すものではない。)私は今でも生還することが出来なかったクルー達のことを毎日思い出す。彼らが記憶に残る限り、彼らの名前は生き続けるのだと私は考えている。

私は家族のもとに帰り命を取り戻した。深刻な問題はなかった。いくらか健康上の問題はあったが良い食事と家族の愛情によって元の私に戻ることが出来た。朝鮮戦争の時に私は日本に戻り、敵としてではなく友人として日本人に会った。また何年か経って妻のジーンと私は世界旅行の途上、日本に立ち寄り、かつて古い捕虜収容所があった所に妻を連れて行った。

そして大幸運にも長沢のりと出会ったのだ。妻と私はヴァケーションでマウイ島に行って、のりが泊まっている同じコンドミニアムに住んでいた。勿論、親しくなって素晴らしい時を過ごした。私が憲兵隊に居た頃彼女はティーンエイジャーだった。そこで当時の彼女の生活やその友人達の生活がどんなものであったかを聞いてみた。彼らの生活は平易なものではなく、つまりは日本人も我々とそう違ってはいないということだった。

のりは捕虜問題に関心を持ち数年後にはアメリカ以外の国からの捕虜達を訪ねるようにもなっていた。そして日本軍人の管理下にあった捕虜の日常がどんなものであったか、その事実を知るようになった。私は一度日本人ガードに「タイソウ」の練習をさせられたことを話したことがある。「外に出て音楽に合わせて練習したのですか?」とのりは言った。否々(そんな生易しいものではない)私は凍った床の上に凍傷になった裸足で立ち、その足を前後に引きずってガードが剣道クラブを持って独房に入って来てクラブを振り回さない様にやっていただけなのだ。

そしてのりは私達の「生涯の旅」を企画・進行したのだ。1997年9月24日、ジーンと私は千葉県東庄町の「B29元機長夫妻を迎える会」に招かれて、25、26日の二日間、町を挙げての盛大な歓迎会、日米両国犠牲者の慰霊祭、懇親会や誕生パーティー等にも出席した。ここは私のB-29が墜落したあたりなのだ。彼女は私の愛機が落ちてくるのを見た人々や私がパラシュートで落下するのを目撃した人を探してくれた。私たちはエキサイティングな素晴らしい時を過ごした。私は日本語の挨拶文を読んだり、記者会見をしたり、テレビのインタヴューを受けたり、翌日は犬吠崎のホテルでも歓迎会とバースデイパーティーを開いたりしてくれた。たまたま26日は私の80歳の誕生日だったからだ。

のりはワンダフル・フレンドになった、そして彼女と一緒に会った他の日本人たちとも。のりと私の相互理解にあまりトラブルはなかったが、たまに習慣行事に関しては違う解釈をしたこともあった。私たちの文化には大きな違いがあるのに、お互いの理解に僅かしか困難がなかったというのは素晴らしいことである。私たちが泊まっているコンドミニアムではよくパーティーをやっていた。ある部屋にピアノがあり立派なピアニストが二人居た。みんなで集まって昔の歌を歌うのだ。WWIIの歌もたくさん。のりはこういう集まりが好きでみんなのお気に入りであった。

しかし私は或る感動的な出来事を覚えている。私たちはみんなで古い歌を歌っていた。私はピアニストに戦後間もなくの頃に出た「It's Been A Long Long Time」をリクェストしたのだ。「kiss me once, and kiss me twice and kiss me once again, it’s been a long long time」戦後無事に家に帰った時ジーンと私はこれを「私達」の歌に決めたのだ。そしてその夜、そのパーティーでジーンと私はこの音楽で踊っていた。この時のりが目に涙しているのを私は見た。つまり我々には多分あまり違いはないのだ。私たちはマウイ島で毎冬会っている。

戦時中の捕虜体験は、平和な時代には戦中と同じく私の故郷に奉仕したい思いを起こさせた。それで州の施政のために16年間、ワシントン州議会に奉仕した。長い間私は様々な学校で講演をし、子供たちに「今日の敵は明日の友」であることを忘れないようにと話している、ガード達に剣道クラブで思いっきり殴られたり、罵られたりはしたけれども、日本は美しい国であり日本人は立派な人々だと。人は痛恨とともには生きられない。そして私の友人、Hap、彼も憲兵隊からの生還者である、が言う通り「一日一日がご褒美の日」なのである。

私は多分再び日本を訪れることはないだろう、しかし何が無くても楽しい思い出がある。寒さ、飢えや殴打は覚えない。良い日本人の友人達を覚えよう。私が小学生の頃、日本は奇妙な風習をもった不思議な国であった。そして私は捕虜となってその奇妙な不思議な国に行き、残酷な人たちを見た。あれは軍国主義から来たものだ。それから私は親切を見た。それが本来の日本人自身のものであったのだ。
  
ゴールズワーズィー氏 ハロラン氏


マウイ・ギャング

長沢 のり

1993年1月24日の日曜日、私はハワイ・マウイ島のマウイ・カイというコンドミニアムに泊まっていました。ここマウイ島の北西部はとても静かなところです。その教会はとっても可愛らしくて小さかったので、そこに教会があるなんて知らずに通り過ぎる位でした。礼拝が終わると牧師は出席者全員に自己紹介をするようにとおっしゃいました。教会で英語の自己紹介をするなんて初めてのことだったので、「どうしよう」と思ったのですが順番はすぐに回って来たので簡単に、私は日本人で横浜から来ました、マウイ・カイに宿泊していますと言いました。(日本人は私だけでした)私が席を離れようとしていると、一人のアメリカ婦人が近づいて来られ、「今朝、あなたが道を歩いているのを見ましたよ、私たちは同じ所に泊まっているの、一緒に帰りましょう」とマウイ・カイまでお車に乗せて下さいました。さようならを言う少し前に午後のプール遊びにいらっしゃいませんか?とお誘い下さいました。午後になり面白そうだけどどうしようかしら?と戸惑っていましたらベルが鳴り、彼女とご主人がドアの外から「のり!行きましょう!」と声をかけて下さっているのでした。私は彼らの行動力に感動しました、口先だけのお誘いでないことが分かったからでした。

                                                                          ゴールズワーズィー氏 長沢さん

ジャクージープールの中でおしゃべりをしている時に彼女のご主人がしげしげと私の顔を見て(多分彼は私を戦中派の年齢だと推測したのでしょう)「あなたは戦時中どこに住んでいたのですか?」と聞かれました。「東京です、学生だったのです」と答え、私たちの会話は続きました。「あなたは1945年3月10日の東京大空襲を憶えていますか?」「憶ええていますか?なんておっしゃらないで下さい、あの夜のことは一生忘れることなんか出来ません。暗い空が赤く変わり、まわりは赤い炎で包まれ、B29の編隊が東京の空を覆ってまるで雨が降るように爆弾(焼夷弾・しょういだん)を落としたのですよ。私はその時あの飛行機に乗っている人たちは悪魔だ!!と断じましたよ」私は彼の答えも忘れません。「MEE, TOO」でした。私をからかっているのだと思って怒って言ったのです。「冗談言うのは止めてください。あなた方は侵入者でわたしたちは犠牲者なんですよ」と。あたりはしーんと静かになってしまいました。すると彼はゆっくりと穏やかに話してくれたのです。

「私はB29のパイロットでした。でも日本の戦闘機に撃ち落されました。パラシュートで脱出し、畑に着地して捕まり、東京憲兵隊の独房に入れられました。その夜わたしは独房の中からあなたが見たのと同じ空を見ていたのですよ」と。

私の血は凍ってしまったように感じました。それは戦時中、日本の憲兵隊がどんなに酷い

仕打ちを連合軍の捕虜達にしていたのか知っていましたし、実際私の友人のお父様が自由主義者のリーダーであった為に憲兵隊で獄死されたのです。私は彼の話を聞き、(知らなかったとはいえ)彼に対する暴言をどのように謝罪したらよいか分かりませんでした。きっと彼は私に悪い印象を持ったと思いました。恐らく私は泣き顔になっていたでしょう。でも彼は私を責めずに、私を励ますように冗談を飛ばしてくれました。するとまわりで聞いていた人たちは一斉に拍手して「生き残ったお二人に幸あれ!」と祝福して下さったのです。何という心の広い方々でしょう!私は感激してマウイ・カイに来た初めての日にこんな素晴らしいアメリカ人のグループに出会えたことを本当に嬉しく思いました。

彼の名前はロバート・F・ゴールヅワージー、退役将軍、1944年12月3日の対日空爆作戦隊長機の機長でした。ジーンは彼の妻です。

このエッセーを書く前に彼の書いたエッセーを読ませて頂きました。そして(彼と知り合って13年間)彼が如何に私に配慮して下さったかが分かりました。なんでも気楽にメールしていると思っていましたが、彼が捕虜としてどんなにつらかったか、屈辱に耐えたのかを私には言われませんでした。彼はいつも捕虜時代のことを冗談でしか言いませんでした。「憲兵隊の医者は優しかったよ、それに比べてあの看護婦め!あれがのりだったら良かったのにな〜、わたしの包帯をわざと痛いようにべりっと剥がすんだよ。」と大げさな素振りで看護婦が意地悪だったことを言うぐらいのことです。私が大きな「おにぎり」を作ってあげると「のりがこれを大森収容所に差し入れてくれたのだったらな〜」と言いながらお醤油をたっぷりかけて食べるのです。ジーンと私はいつも彼の塩分取り過ぎを心配して「やめて!」と叫ぶのですが「大森では白米に醤油かけご飯が一番のご馳走だったんだ」と私達の忠告を聞こうともしません。洋食のライスにもじゃぶじゃぶお醤油をかけて嬉しそうに食べるのを見て私たちはもうあきらめました。もう50年以上にもなるのに彼は過酷の捕虜時代の悪習を身に付けているのです。軍隊式のひどい日本語もいまだに覚えています。誰がそんな彼を責められるでしょうか?

マウイで、私は彼を退役将軍だと意識することはありません。彼はマウイ・ギャングのボスなのです。「マウイ・ギャングってなんですか?」ですって?15人から20人ぐらいのマウイカイというコンドミニアムかまたは近くのコンドに1月から3月にかけて毎年滞在している、アメリカの各地かカナダから来ている人達で(もう30年位続いているようです)みんな仲良しでボブの監督のもと毎年子供じみた映画を作るのです。ボブが主役を務めることも勿論あります。テーマはいつも同じなのです。ボブがマウイでギャングに襲われ彼のクレジットカードが盗まれるというものです。それは彼がスポーケンの銀行の女の子たちに毎年「マウイのおみやげ買って来て〜」とせがまれるので彼らに見せるための映画なのだそうです。(さすがにこの1〜2年はやりません)

時々ポットラック(持ち寄り)で歌ったり踊ったりのパーティーをみんなで開きます。グレーシーとビル、ジーンとボブの一番の仲良し夫婦が奇抜な衣装を着て現れみんなを笑わせます。そしてわれらが自慢の大歌手グレーシーがボブのウクレレに合わせて美しい歌を歌います。次は我らがボブのウクレレ漫談です。種目は色々ですが私はいつも、あんなに長い漫談をよく覚えていられるものだと感嘆するばかりです。(内容がはっきりとは分かりませんので、みんなが笑う時、遅れたタイミングで笑うのが私です。彼は元アナウンサーだけあって声が良く響きます。)彼らのパフォーマンスを抜きにしてパーティーをすることは出来ません。その後みんなが代わる代わる出てきてハイスクール時代や昔の歌を次から次へと歌いまくるのです。私は初め、みんながあたかも今も高校生であるかのように声を張り上げて歌うので驚きました。でもこれがマウイ・ギャングの真骨頂なのです。前歴がお偉い方であるなど誰も口にしません、みんなが今ある日を楽しんでいるのです。夕方になるとそれぞれバルコニーに出て、夕日が沈むのをカウントダウンします。その時だれかがほら貝を吹くのです。太陽が水平線に隠れようとするその瞬間ほら貝の響きをバックグラウンドに見る空と海の美しさはたとえ様もありません。マウイ・カイはマウイ・ギャング達のパラダイスハウスなのです。私は1993年以来毎年2月にはボブとジーン、そして他のギャング達に会うためにマウイ島に行くのです。私はそれを毎年楽しみにしていますし、いつも素晴らしい時を過ごしているのです。

 

 
ロバート & ジーン・ゴールズワーズィー