ドキュメンタリー・フィルム
Victims of Circumstances(戦火に巻き込まれた被害者)

 製作 Lou Gopal and Michelle Bunn  

真珠湾攻撃から僅か数時間後の1941年12月8日(月)早朝、日本帝国の零戦部隊は、堅固な編隊を組んで北からフィリピンに襲来し、山岳地方の保養地バギオを爆撃した後マニラに向かい、戦略軍事標的を爆撃した。人口80万人の市は、一挙にパニックに包まれた。銀行が暴徒に襲われ、商店から缶詰や備品が姿を消す中、マニラ市民は最悪の状態を予想した。数日以内にフィリピン連邦ケゾン大統領は、当時「東洋の真珠」と言われた市のさらなる破壊を避けるため、早々にマニラを非武装地帯と宣言した。

ルーズベルト大統領からの援軍を待つという空しい試みのため、アメリカ軍とフィリピン・スカウト(米軍所属のフィリピン部隊)は、バターンとコレヒドールで敵軍を食い止めるよう命じられた。 1942年1月2日、マニラの中心街に、日本軍が自転車・トラックそして戦車で入った。マニラ市民は、閉じたシャッターの隙間から、威圧的な軍を垣間見た。日本軍哨兵が、全ての主要道の街角に配置された。米国高等弁務官公邸の星条旗は引き摺り下ろされ、日本帝国の日章旗に取り替えられた。3年の長きに及ぶフィリピンの占領は、このようにして始まった。

3,700人余りのアメリカ人・英国人・オーストラリア人そして他の連合国市民は、歴史あるサント・トマス大学に収容されることになる。このドキュメンタリーは、インタビュー・写真・3年間の日本軍支配中に撮影されその後没収されたフィルムなどを通して、被害者ひとりひとりの収容所生活への思いを伝えるものである。最初は迷惑で不便という程度であった収容、飢餓と疫病が蔓延するにつれ、急速に生存のための戦いとなっていった。1944年のクリスマスまでには、彼らは明らかに存亡の危機に瀕していた。彼らにどれだけの希望が残されていたのだろう。
 

第二次大戦中のマニラ市内のサント・トマス民間人収容所の門


 Victims of Circumstances の詳細は : http://www.lougopal.com/


* このフィルムの収益は全て、捕虜・民間人収容者の団体、そしてサント・トマス民間人収容所に関する歴史資料・遺品の最大の保管場所であるマニラアメリカ歴史コレクションに、寄付されます。