クラレンス M. グラハム
1920年ニブラスカ州生まれ

- 米陸軍 野戦砲隊 第60大隊「G」中隊
- コレヒドール、 カバナツアン捕虜収容所、「カナディアン・インベンター」
福岡捕虜収容所第17分所(大牟田)



「G」中隊は、第二次大戦が始まる前、コレヒドール島のすぐ北にあるバターン半島に移動させられました。日本軍は、真珠湾を爆撃した同じ日に、フィリピンも爆撃しました。

私たちは、1942年4月9日にバターンが陥落するまで、ジャングルで手に入るわずかばかりの食料を食いつなぎながら、空腹を抱えて戦いました。バターンが攻略された夜、私たちの中隊は第60大隊に復帰するために、コレヒドールに戻りました。私たちは、1942年5月6日にフィリピンが陥落するまで、そこで戦い続けました。

その時点まで生き残っていた米兵は、コレヒドールの第92車庫に集められましたが、食事も水も与えられませんでした。そこからマニラにあるビリビッド刑務所、そしてカバナツアン第一収容所に移動させられました。この収容所では、栄養失調、ハエ、疫病が蔓延していました。私は最初リープという場所で作業をし、それからカバナツアンの今度は第三収容所に戻ってきました。

その後、私は「カナディアン・インベンター」という地獄船に乗せられ、大牟田にあった福岡捕虜収容所第17分所に送られました。そこで戦争が終わるまで働いたのです。私たちは、長崎に投下された原爆の爆発を目撃者で、私はそのことを、「Under The Samurai Sword」というタイトルで出版した本に、詳しく書きました。

この本は、第二次大戦中生きるか死ぬかの戦いを太平洋戦線で体験した、一人の兵士の真実の体験記です。その戦争は、アメリカの歴史で最も偉大なそしておそらく最も悲劇的な戦争の一つとして、記録されてきました。その世界大戦で、約5千5百万人が命を落とし、さらに約3百万人は生死さえ記録されていないのです。またその戦争は、アメリカが最も大きなそして屈辱的な敗北(全フィリピンの陥落)を きした戦いでもありました。

私の本は、フィリピン島での平和でのんびりした生活から始まり、読者を、激しい戦い、弾薬や補給が底をつきながらの敵への対峙、 捕らわれの身となった時の恐ろしい体験、捕虜として過ごした虐待や奴隷労働の残酷な年月、そして素晴らしい自由への帰還へと案内します。

その過程で私の本は、アメリカの歴史でほとんど語られない時期への洞察を、読者に提供します。はるか彼方の戦場で連合軍の全ての部隊が"見捨てられる"ことにつながった混乱について、指摘しています。それは、我々の偉大な指導者の何人かが忘れたいと思っている歴史の一部です。

過ちを冒す者はそのことによって責められるべきでありません。私たちは皆過ちを冒すのですから。でも、それらのことを明らかにすることによってのみ、私たちは将来において同様な過ちを避けることができ、今後何世代にもわたる教訓となることを期待できるのです。

この本は好評でした。それは数多くの戦争の残虐行為を、刺激的でない方法で語っています。高校の歴史のクラスや、教会の日曜学級でさえ使われました。

NBCテレビのトム・ブロコー氏は、彼の2番目のベストセラー「The Greatest Generation Speaks」の4−7頁で、私の体験について語っています。

戦争が終わってアメリカに帰ってきた私は、高校時代から知っていたドリス・ルーダース嬢と結婚しました。そしてGIビルでニブラスカ農業大学に通い、合衆国土壌保全サービスに仕事を得ました。そこで25年間働いて引退し、その後はオレゴン州立公園のパークレンジャーとして働きました。

妻と私は結婚生活が55年を過ぎ、4人の子供(息子1人、娘3人)と10人の孫がいます。私は、学齢期の子供たちに、「自由」とその代償について話しています。

私は自分たちの国を大変誇りに思っています。


和解のために

本島等 (元長崎市長)
私は1922年、長崎県五島列島の30戸たらずの隠れキリシタンの集落で生まれました。10人の同級生の中で戦争に生き残ったのは、私を含めてたった2人でした。被爆はしませんでしたが、1945年9月の初めに訪れた長崎で目にした惨状は、今も瞼に焼き付いて離れません。



本島市長と徳留

私は、その後1979年から95年まで長崎の市長を務めました。戦争中は、キリスト教徒でありながら天皇の兵となった私が、世界第二の被爆都市から、平和のメッセージ(平和宣言)を発する立場となったのです。私はその頃よく「主は与え、主は取り給う。御名は賛美せられよ」というヨブ記の一節を思ったものです。私は、原爆後の世界は、そして21世紀は、赦し合いの時代・和解の時代にならなければならないと確信しています。

それではそのような時代を実現するために、日本は、広島は、長崎は何をしなければならないのでしょう。世界唯一の被爆国或いは被爆都市として、原爆の悲劇を訴えていくことでしょうか。それも大きな仕事です。しかし、その前にしなければならないこと、つまり赦しと和解への第一歩は、日本が、敗戦に至るまでの15年間に犯した加害に関して、被害を被った関係各国とその国民の皆さんに、心からの謝罪をすることです。

日本軍が犯した「バターン死の行進」その他無数の残虐行動は、当時の国際法に照らし合わせても、紛れもない違法行為でありました。

日本が、歴史上唯一の被爆国として、核廃絶と世界平和を訴えていくのであれば、まず、かつての被害者に謝罪をしなければなりません。そしてその謝罪は、一人一人の日本人の心から発せられたものでなければならないのです。戦争責任は国にあり、謝罪も国がなすべきであるという考え方は、根強く残っています。でも、戦争の責任は、軍隊、兵士だけにあるのではありません。被爆者も含めて一般の市民にもあると、私は信じています。また、当時は幼かったり、生まれていなかった者も、祖先の負の遺産を背負うべきだという意味で、責任はあるのです。過去の行為の責任を進んで認め誠意ある謝罪をしてこそ、被害を受けた人々に赦しと理解を請うことができるのです。

私は、長崎がこの先も永遠に、歴史上最後の原爆投下の都市であり続けることを祈っています。

 



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