2013年函米捕虜館訪問の詳細記録は、浅利政俊先生のご要望で伊吹がまとめたものです。外務省による第4回米捕虜と日本人の友好プログラムの一部ですので、旅の全体の報告と合わせてご覧下さい:「捕虜日米の対話」に掲載

                                        伊吹由歌子 報告

ーア夫妻の函館訪問:20131017,18

92歳のアメリカ人元捕虜ロバート(ボブ)・バートン・ヒーアさんはカレン夫人と共に函館を訪問しました。同行したマージーン・マッグルー夫人とスティーヴさんは元捕虜アルフレッド・マッグルーさんの未亡人と息子で、彼は大森と諏訪の収容所に収容されて強制労働に従事しました。(2004年マッグルー夫妻は私費でその地を訪れ関係者との良い思い出を持っておられます。)外務省北米局の川崎将寛氏が随行され、NPO「捕虜 日米の対話」の伊吹由歌子もボランティアで同行しました。

10/17 第1日

函館国際ホテルのロビーで、地元の捕虜問題研究者・浅利政俊さんが「日米は永遠のパートナー」と手書きした幟をかかげ一行を歓迎してくださいました。浅利さんは桜の研究家としても第一人者です。今回が初めての米元捕虜による函館訪問とのことで、浅利さんはとても喜んでおられるのでした。

ミンダナオで捕虜となったヒーアさんは比島、台湾の収容所を経て日本へ送られ、1945310日、函館に到着し、19455月末まで、亀田収容所に入れられていました。この期間はたまたま江本茂夫中佐が函館捕虜収容所長だった14ヶ月間に合致します。(1946年星条旗新聞の記事 参照:Stars and Stripes articldes on Col. Emoto in 1946). 

少し風があり肌寒いけれどよく晴れた午後の函館、浅利さんの弟さんも車で同行くださいました。

まず浅利さんは一行を函館捕虜収容所亀田第2派遣所跡地へ案内されました。現在はすっかり変わり住宅地となっています。しかし、ヒーアさんは収容所近くに線路があったことを覚えていました。「自分が体験した収容所は8箇所あるが、そのなかで一番居心地よかった、清潔で、新しい建物、内部は暖かくよく眠れた。看守たちによる暴力も他とくらべて少なかった」そうです。浅利さんに質問されるにつれ、記憶も蘇ります。「毎朝、1.5キロぐらい歩いて桟橋へ行き、梱包してない塩や魚などを積み下ろし、石炭を積み込んだ。大きくて平たい石炭用シャベルをいずれにも使った。焚き火で鮭を焼いて食べたこともある。看守が身振り手真似で「Eat, eat!」と言った。木枠で梱包された缶詰の場合、釘を緩めて缶を取り出しズボンの裾にいれて持ち帰ることもした。見つかれば処罰だが見逃す看守も多かった。」「食事はたいてい米飯と海藻いり味噌汁だった。一度、馬を食べたこともあるがおいしかった。」彼はまた、捕虜として囚われの身の間中、五体満足で家族のもとへ帰るという強い願望を持ち続けたことを語りました。浅利さんは頷きつつ語調を強め、「戦争は悪いです!」ヒーアさんは嬉しそうにこれに和して、「センソー ワルイ!」報道陣は色めきたち、そこをもって聞きたいと質問しました。

ヒーアさんは、ここで、19456月以降、彼と仲間の捕虜たちが古く危険な炭坑で石炭採掘に奴隷労働させられていた赤平収容所で、戦後に起きた二つのエピソードを話しました。「家族のもとへ帰るまえにスカーフとかハンカチとか何かお土産を探したいと思い、村の店に入った。ところが恐らく僕と同年輩と思われる店の主人とその妻は、ひどく怯え、逃げ出そうとした。僕は知る限りの日本語と身振りを使い『マッテ、マッテ』と彼らをなだめ、やっと二人を落ち着かせることができたのだった。収容所への帰り道、今度は50年配の男がひとり、『マッテ、マッテ』と僕を追いかけてくると、身振り手振りでマッチと石鹸が欲しいことを伝えた。捕虜収容所内にはパラシュートで援助物資が投下されており、それを見たのだろうと思う。僕も、身振りで翌日同じ時刻に、その場所へ持ってくると男に伝えた。次の日、マッチと石鹸を受け取った男性は非常に喜んだ。彼を僕を自宅へ連れて行き、奥さんが自分たちの飼っていたおそらく最後の鶏を料理し、僕たち3人は食卓を囲み楽しい時間を過ごしたのです。」戦争終結後の日本人との穏やかな交流の話です。しかし、どこか出された質問とは噛み合いません。

次の場所へ移動する車のなかで確認し、はっきりしたことは、ヒーアさんが言わんとしたのは「センソー オワリ!」。自分たちの解放を知ったヒーアさんと仲間が喜びとともに叫んだ日本語が戻ってきたのでした。「ワルイ」と「オワリ」の混同は、しかし、あらゆる困難のなかを生き抜き五体満足で帰郷するという彼らの意思の強さを、私たちに印象づけたのでした。

一行は捕虜たちが荷揚げ人足として強制労働したと思われる有川桟橋に向かいました。現在ヨット・ハーバーとなっている敷地に入れてもらうと、見回したヒーアさんは記憶から当時、建物があった地点をいくつか指さしました。「ああ、信じられないことだけど、僕は戻ってきたんだね。」と感慨をもらし、ついで茶目っ気たっぷりに「でも、もう働かないよ!」浅利さんの質問に答え、本州からフェリーで運ばれたのち、沖合2キロほどの地点から石炭用のはしけに移って上陸したと告げました。

この日最後の訪問は永全寺で、ここに200011月に捕虜記念碑が建立されています。浅利さんは1980年ごろ東京の英国総領事館に捕虜について問い合わせ、英国大使館を通じて多くの英蘭捕虜の資料を得ておられたので資料を提供、死亡場所は確定できないながら英蘭の死亡捕虜氏名がこの記念碑に刻まれています。碑は函館検疫所の建物のひとつを永全寺境内に移築した「礼拝堂」のなかに建立されています。永全寺の先代住職は本所近くの高龍寺で修行中、鎖に繋がれて歩く捕虜たちを見て同情していました。その子息・現住職・斎藤隆明氏が父の遺志をついで取り壊しの決まった建物を移築、碑の建設となったもので、資金は寺の檀家、その代表・畠山氏も同じく捕虜たちを見ていたのでした。スティーヴン・ゴマソール英国大使は同年12月に碑を訪れて献花しています。2004年には英国の元捕虜も訪れました。斎藤夫人は当時の新聞記事コピーを一行にくださいました。

出張中の隆明住職にかわり、先代の斎藤章子未亡人が満面の笑みで暖かく迎え、礼拝堂と名付けられた建物を案内してくださると内部は墓地となっており、一角に4メートルの祈念塔と氏名を刻んだ碑があり、皆さん、仏教関連も含めて質問し感慨深く写真撮影をしました。その後、章子夫人はお寺の一室で熱いお茶とお菓子をもてなし、一行がくつろいでゆっくり話す時を設けてくださいました。第2次大戦の日本軍による他の犠牲者と同じく、日本の近代化、民主化の課程で連合軍捕虜たちも犠牲にされた。だから捕虜収容所本所跡地に是非、捕虜の碑を建立するべきだと熱く語られました。全力を傾け努力してきたが、これまで市長も、函館出身の高名な政治家・起業家もその提案に関心を示さないと言われます。米元捕虜と会って話し合ったこの初の機会に深く感謝を表明してこれから米捕虜との交流を望まれ、ヒーアさんは帰国したら資料を送りますと約束しておられました。

10/18  第2日目

この日も晴天に恵まれ、一行はまずホテル前のアイヌ文化・木彫りの店をのぞきおみやげ探しを楽しみました。

1時間半ぐらいのドライブで函館捕虜収容所本所の跡地へ。太平洋を見晴らす崖のうえ、元の函館検疫所を1942年函館捕虜収容所本所に転用したもので、広大な敷地だったそうですが、戦後の開発で道路、他の施設用に寸断され現在は倉庫があった僅かな緑地が残っています。浅利先生はこの場所こそ、太平洋戦争日本軍による捕虜たちの記念碑建立にふさわしい場所と話してくださいました。

この場所で浅利先生は、分厚い本をヒーアさんたちに見せました。軍隊で江本茂夫少佐の薫陶を受けた方が、浅利さんも資料を提供し、10年の歳月をかけて完成した江本伝で、写真も多数掲載されています。ここでもヒーアさんは質問に応えました。「エモトは僕たちの収容所へも来てスピーチしたのでよく覚えている。彼はこう言った:日米関係は重要だ。戦争が終わったら君たちと友人になりたい。どうか日本を憎まないでもらいたい、と。彼が『戦争が終わったら』と彼の言った言葉は希望を与え、僕は嬉しかった。」

浅利さんはまた、現存する唯一の当時の建物に一行を案内しました。持ち主自身は米国に在住。内部に手回しオルガンなどのアメリカの骨董家具や食器・道具類を入れて、数年、ティー・ハウスとして営業していたそうですが、現在は閉じられたままです。20066月、イギリスの元捕虜、フランク・プラントンさんが函館を再訪したときには、生物学者である浅利さんが選んだバラと松を植えたそうで、今年も花のあとが見られました。

次に行ったのは称名寺で、浅利さんが会長をつとめる「函館空襲を記録する会」が建てた犠牲者の碑があります。さらに並んで建つのは、1945年7月1415日の空襲で、高射砲により撃墜されて命を落としたアメリカ空軍兵士の碑です。アメリカ兵の碑は1989年クリスマスの日に除幕式が行われました。神風特攻隊の未亡人藤島明子(はるこ)さんがアメリカへ神学生として留学なさったおり、セント・ルイス市のカソリック教会のスーレン司祭に協力を依頼を中継してくださり、米側から犠牲者名簿と寄金が寄せられ、日米の協力でできたと感銘深いお話でした。ヒーアさんたちが見学しているのを、偶々、墓参にきた地元女性が見て、説明を受けた彼女は、ヒーア夫妻の許へきて英語で「Iím sorry.」と告げ、涙を浮かべながら握手しました。

最後に夫妻もマッグルー母子も、称名寺の訪問者ノートにそれぞれメッセージや出身地を記入なさいました。

「人生を歩む私たち、人類が助け合い皆の歩みが意義あるものとなるように」   
                                                            
                   ロバート・ヒーア 捕虜

「平和と理解  みなが清廉な境地と癒しをみつけられますように」   

                                                                   カレン・ヒーア 捕虜ロバートの妻

帰国後も交流は続く

ヒーアさんからは、アメリカの太平洋戦争日本軍捕虜の卓越した研究者・ロジャーマンセル氏のサイト:www.mansell.com を知らせてくださり、その資料から、函館捕虜収容所に属した収容所名をメール添付で送ってくださいました。(惜しくもマンセルさんはガンのため2010年に亡くなりました。現在はウェス・インヤードさんが管理者です。)函館からは浅利さん、報道陣の皆さんからニュース、資料が中継されています。「憲法9条の会」会長もととめる浅利さんですが、「ヒーアさんの亀田訪問で、函館の空気は一変した。これまで観光に悪い影響を憂慮して捕虜問題を避けていた函館だったが、大変に前向きになることができた。ヒーアさん、マッグルーさんたち一行のおかげです。本当に有難かった。私も益々頑張ります。」と仰っています。

ヒーアさんの誠実なご協力を得てこの記録も完成し、感謝を申し上げます。この訪問実現に関わってくださった外務省の川崎さん及び他のスタッフの方々、米国務省と元捕虜の中間の媒介者としてのレスター・テニー博士、浅利先生、斎藤章子夫人など関係者の皆様に心から御礼申し上げます。最後に特筆したいのですが、外務省の招待を受けて来日、出会った日本のひとたちに各自の個人的な魅力と友情の思いで接してくださった四人のアメリカからのお客様、本当に有難うございました。

                                                                               201312月2日