レイ・ハップ・ハロラン
1922年オハイオ州シンシナチ生まれ

- 米国陸軍航空隊,-29爆撃機航空士,
878飛行大隊 499爆撃隊所属
-
1945年1月27日 東京上空で撃墜さる
- 憲兵隊拘置所、上野動物園、東京大森捕虜収容所
 
インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 2:40
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ヴェトナム戦争の帰還者が抱える症状について始めてPTS心的外傷性ストレスということが言われるようになり、もう25年がたつ。しかし、心的外傷の体験がそのひとの成長につながるというPost Traumatic Growthは非常に新しいコンセプトである。このエッセイは当初、2003年7月15日号の米軍会報・Military Comに、ビル・ゴス氏のエッセイ「心的外傷ゆえの成長」への応答としてハロラン氏により執筆された。「心的外傷を受けたにもかかわらずその体験が後に役立っていることがあるか、あれば書いてほしい」との依頼により書かれたものである。 

心的外傷ゆえの成長

2次大戦中、私は太平洋上のサイパン島基地から飛び立つB−29爆撃機の航空士でした。私たちの任務は日本列島本州の地点に定められた目標を爆撃することでした。非常な高度での14時間から16時間の飛行時間を要する任務で, 11人の乗組員の平均年齢は21歳、私は22歳でした。


ローヴァー・ボーイズ・エクスプレス搭乗員

1945127日、私たちのB29は東京の上空3万2千フィート(約1万メートル)の高度で日本軍戦闘機に撃たれたのです。すぐさま恐怖と事実を認めたくない気持ちとがクルーを包みました。しかし、実際には愛機を捨てなくてはならないことは皆わかっていたのです。 機体に火災が発生し、二基のエンジンが停止しました。それだけではないと警告するように、常時では気圧調整され暖かい機内で、機体の破裂により高度3万2千フィートの外気、零下58度Cの冷たさがすでに体感されました。すばやく行動しなければ冷凍人間になります。パラシュートをつけて機外に飛び出すほかはなく、しかもぐずぐずする余裕はありませんでした。

「パラシュート脱出、パラシュート脱出せよ!」と命令が叫ばれるなか、私たちは恐怖に怯える若者と少年たちでした。しかし、何とか落ち着いていました。私は自分と他のもののため神に祈りました。素早く互いに抱き合ってから、落下する機を離れ2万7千フィート(約9千メートル)の高度で、東京のすぐ東の位置で敵国上空へ飛び出しました。このような高度では凍傷や、希薄な空気による失神の怖れがあります。それを避けるため最初はただ落ちるにまかせました。地上3千フィート(約1千メートル)ぐらいに達したとき、開き綱をひくと有難いことに頭のうえでパラシュートが開きました。

たちまち激昂した民間日本人や軍人たちに捕らえられた私は、殺されるかと思うほどに殴りつけられました。私は幸運なうちのひとりで、仲間にはその日に殴り殺されたものもあったと後日知りました。

自分では長いあいだと思えましたが、私は生と死のあいだをさ迷いました。その後、市民を殺害した無差別爆撃作戦の一員であったと認める書類にサインをさせられました。またジュネーヴ条約に規定する捕虜の権利にたいし、自分はその保障外であるとの同意書類にもサインを強制されたのです。日本軍は私を捕虜とは認めず国家犯罪者とみなしたのです。私は殺人罪という名目で拘留され、死刑宣告はそれからの215日間を生きるあいだ毎日、私の頭上にのしかかり、終戦によって生き地獄から救われるまでその状態はつづきました。

私が耐えつづけた状況の過酷さ、ひどさは筆舌に尽くしがたいものがあります。冷たい暗い檻のなかにひとりだけ拘留され、時おりそこを出されれば看守たちの激しい殴打と取り調べに耐えねばなりませんでした。食べ物は一日、二つか三つの虫のわくおにぎりでした。いつも痛みにさいなまれていましたが、医療はまったく施されませんでした。体中、みみずばれ、のみやしらみがわき、南京虫のためにほとんど眠れませんでした。体重は45キロ以上も減り、肉体的にも精神的にも急速に私は衰えていました。

極限状況での生であって、生きる気持ちを持ちつづけるのが非常に困難な状態でした。時がたつにつれて、仲間の捕虜たちは死んだり、殺されたれするものが増えていきました。生きて家へ帰れるとはとても思えないところまできていました。あと一分、そして一時間、そして一日生きるちからを与えてくださいと神に祈りました。正直に言いますが、あの冷たく暗い檻のなかではよく泣いたものです。
 
1945年3月10日に起こったB29による大空襲を、私たちのいた収容所は奇跡的に切り抜けました。その夜、東京の広汎な地域が丸焼けになり、十万以上の人びとが死にましたが、これはナガサキ、ヒロシマの二都市への原爆投下により夫々の市で出た死亡者数をさえ上回るものです。
 
私が鋼鉄製の檻に入れられ拘留されていた木造の拘置所はその夜、猛火に囲まれました。どうやって熱と煙に耐えられたのか自分でもわかりません。どうにかその空爆を生きのびた後、私は檻から出され、上野動物園のトラの檻で裸のまま見世物にされました。日本の民間人たちは、大半は女性でしたが、悲しげに黙って私を見ました。しばらくすると有難いことに、私は大森捕虜収容所に移されました。
 
この苦難の体験のあいだずっと、今にも死刑宣告がくだされて刑が執行されるのではないかと、確信のない気持ちでいたのでした。

戦争が終わって2週間後、私と生き残った仲間の捕虜たちは解放されました。それは1945年8月29日のことでした。私は2週間のあいだ東京湾に浮かぶ病院船、米軍艦「ヴェネヴォレンス」号上ですごした記憶があります。アメリカへの旅に耐えるだけの体力がないくらい衰えていたのです。さらに西ヴァージニア州にあった帰還兵用の公立病院で数ヶ月を過ごすはめになり、その後、シンシナテイの我が家へ帰りました。


開放の日(ハロラン氏:丸の中)

当初は正常に戻ることは困難でした。一生懸命務めてもはかばかしくは行きませんでした。いまでも嫌な記憶を全て消し去れたわけではありませんが、以前よりはずっと良くなっています。

時がたつにつれて、頻度こそ違え、ひどい悪夢にうなされる経験をしました。いまはかなりよくなりそれほど始終悩まされなくなりました。いつも同じような夢です。空間を落ちて行きながら、なにかにすがろうとしている夢。または火と煙とひどい風、つまり炎の嵐に囲まれていたり、殴られないようライフル銃の台尻を避けようとしながら働いている夢でした。

けれども年月がたつに従い、私は人生の良い面を見たり聞いたりもし、そして自身と自分の人生を、またこの世のことすべてをも、よいと思えるようになってきたのです。

当初は絶対にもう二度と行くものか、とわが身に宣言した日本ですが、やがてこころのうちに、変化が生まれてきました。もし行って私の二つの目で戦後の日本人を見たら(戦時中の彼らにはまったく否定的な記憶しかないのけれども)、もしかしたら自分にとってよい結果が生まれるのではないだろうか。

1984年、始めて日本へ戻っていらい、私はすでに8回もこの素晴らしい国を訪ねています。あのいやな記憶を消し去るのに、これらの旅はおおきな助けとなってくれています。いまでは日本中に大勢の友がいます。2,3年まえ、32人の日本人がアメリカ旅行の一日をカリフォルニア州北部の私の家ですごしてくれました。
 
私のこころと気持ちのなかでこの30年あまり、自分の考え方と思いとはゆるやかな変化を遂げています。日本でアメリカ人捕虜としてすごしたあの恐ろしい日々、それこそがもたらした有意義な経験を私は人生で味わうことができた、と掛け値なしに断言できます。

いまではこう思っています。私がお話したような逆境を経験して生き抜けるなら、いつか現在の生活で出会うことや問題と比較してみて、現実生活で抱える悩みのいくつかは何と小さなこと、と気づく可能性がある。それまでの人生で出会った困難がたとえどれほどひどいものでも、それだからこそなおさら、ひとは人生にもっと前向きになり、人生をよいものと思えるようになるのです。

このような前向きの変化とより高い価値観とをひとに影響を与え、私たちは私生活にも家庭生活にもまたビジネスや社会生活のうえにも応用することができると思います。

いまの私を振り返り、以前とはくらべものにならないほど大きな価値を人生に見出している自分に気づきます。まえには当たり前と思っていたこと簡単なことがいまでは大切なものになっています。

この経験を生きぬいてとても運がよかったと感謝しています。そして自分がこれほどの幸運、または祝福を、それともその両方かもしれませんが、受けてきた感謝のしるしにひとに何かしなくては、という気持ちです。

いまではこれまでになかったような確信をもって生きています。自分により高い目標を与え、もっと出来ると期待し、そしてしようと思ったことの多くにかなりの成功を収めてきました。わけても特筆したいのは、私がもう小さなことにあくせく、くよくよしない点です。私は立ち止まって、ゆっくりとバラの香りを嗅ぐようになったのです。

例えばひとまえで話をすることが相当、上手になりました。40代のときでさえ、私はパブリック・スピーキングを怖がっていたのですが。私がした話がたとえ自分にとってはやりにくくても、聞くひとには前向きにやる気を起こす効果を与えられればと願っています。私たちは誰でもみな、頑張って問題を解決し、人生の与える信じられないほどの賜物を享受できるようになるのです。

私は学生や生徒に話をすることにしています。もう200回以上も若いひとたちのまえで話したでしょう。彼らに向かって私は語ります、私たちひとりひとりに、出来るとはとても思えなかったことを解決し成しとげられる力と能力があるのだよ、と。

私は人生、そして自由を感謝します。そよ風になびく星条旗が大好きです。私は日の出と夕焼け、そしてとくに星を眺めて感謝します。B29に乗って任務を果たす長い夜、太平洋の上空で私を導いてくれた星たち。その星はいまでも、そしていつまでも私の友です。

第二次大戦の辛かったあの日々があったから、自分をよく知ることができた、それが生涯の長い年月私を助けてくれたという結論に辿りついているのです。今日このときにも力になってくれている学びです。そして私はこれからもずっと学んだことをひとの成長のために役立てていくつもりです。とくに若いひとに、彼らが成長のため小さな手伝いを必要とするときに。

ビルへ、「精神の傷を癒す成長」という考え方を紹介してくれて有難う。以前はこの力強い新しいコンセプトを知らなかった私ですが、いまではそれを信じています。

あとがき

ひとつの忘れられない出来事が、B29の機外へ出てパラシュートにぶら下がっていたときにあったのです。突然3機の日本軍戦闘機が同高度に姿を見せ、接近して通過しました。2機はそのまま去りましたが3機めは大きく旋回してまっすぐ向かってきました。私は最悪の事態を予想しました。そのときこの機のパイロットは私に挙手の敬礼をし、飛び去ったのです。どういうことかわからないまま、しかしこのことは、もしかしたら、ほんとにもしかしたら、自分には希望があるかもしれないという気持ちにしてくれました。

1984年にはじめての日本再訪をして後、新しい友人たちのあるものがこの話に興味を持ち、このパイロットを探しはじめました。彼らはそのひとの
                                                            
キャンプサイト近くの小学校を訪問するハロラン氏

居場所をつきとめ、私は
2000年の10月にやっとその人に再会することができたのです。私は56年まえ、私に敬礼をしてくれたその気高い行為を感謝しました。彼はすでに何年か寝たきりの身でした。私たちは抱き合いました。話す必要はありませんでした。とても感動的な出会いでした。

つい最近、2004年夏の日本への旅で、私はまた彼に会おうと計画を立てました。その訪問予定の前夜、奈良にいた私は数時間まえに彼が亡くなったことを知らされました。彼の息子と友人たちに招かれ、お通夜の席に連なりました。息子さんは私が彼の父に最期のわかれを告げる機会を与えてくれました。このような折に、日本式にはどのような礼を守るべきかわかりませんでしたが、祈りました。そして59年後に私は彼に挙手の礼を返したのでした。


東京大空襲を目撃した日本人より

ハップさん。私は、ハップさんの奇跡の生還とその後の活動を心から嬉しく思っています。そして、捕虜時の虐待と憎しみを乗り越えて、敵国日本人へも博愛の心で接するお姿に感激しています。

私は、終戦時は国民小学校1年生でした。幼少の「B-29の追憶」の真相を究明する中で、ハップさんと出会ったのでしたね。

私たち家族は、1945310日のB-29東京大空襲を目の当たりにしました。私たち家族は急遽母の実家へ疎開しましたが、東京に残った父は、その後の空襲で倒れ、薬もなく、630日に亡くなりました。母と4人の子供が残されました。

その後しばらくした1945715日、疎開先の近くに、日本軍に撃墜された米兵がパラシュートで降下しました。憲兵隊が彼を取り押さえ、後ろ手に縛り上げ、目隠しし、郷中を引き回しました。私は、その光景を村人と共にじっと見詰めていました。

その後、その米兵は生きて本国に帰れたのだろうかという思いを抱くようになり、半世紀が経ちました。当時の噂では、直ちに処刑されたということでした。

私は、定年を機会に真相究明の手がかりを求めて、伝説のB-29墜落地点を訪ねました。その訪問記をWeb site で公開し、日米双方に情報の提供を呼びかけました。

そのSiteを日米のB-29関係者が訪問され、私の「B-29の追憶」の真相究明のための支援をいただきました。ハップさんからは、私が探していたB-29の米兵捕虜は、大森捕虜収容所で一緒に暮らし、1945829日に共に開放されたという情報をいただきました。撃墜された機長の甥に当たる方からは、私のSiteで、今まで知り得なかった多くの情報を知ったという感謝のMailを戴きました。82歳のアメリカのご婦人は、弟が神戸空襲に出撃し、捕虜となり終戦直前に処刑されたけれど、その後の日米友好が嬉しいと、平和の大切さを切実に語ります。

ハップさんと私は、ハップさんが捕虜の身となった1945127日から、私が疎開した319日までの53日間は、同じ東京の空の下にいたことになります。当時は、空の上も、下も地獄でした。

そして、私の父は死に、ハップさんは、拷問や処刑におびえ、終戦を迎えました。ハップさん、あなたは、身を持って体験した戦争の虚しさ、悲しみ、憎しみを乗り越えました。あなたは、日米友好と平和を求める真の民間大使です。

ハップさんを尊敬する日本人の一人として、私は、家の居間にハップさんの愛機THE ROVER BOYS EXPRESSの写真を飾り、「B-29の追憶」B-29 Recollections を通して戦争の虚しさを後世に伝えています。

ハップさん、お元気で         

2004.10.6

岡田邦雄

               

最近のハロラン氏
 

ハロラン氏は、2011年6月7日に逝去されました