ピーター・W. ハンセン
(1901-1945)
ウィスコンシン州グリーンベイ生まれ

-民間人労働者
-ウエーク島、福岡捕虜収容所第一分所



父を探して

マリーアン・ハンセン・スティクニー

父のピーター・ウェルス・ハンセン偲んで、この一文を書いています。彼は、小さな子供たち(長女ハリエット10歳、長男ジョン8歳、次女マリーアン6歳)と愛する妻(バーニス・カーツェイル)を残して死んでいきました。私は子供と孫たちに、彼らの祖父(曽祖父)がどのような経緯から、他の99人の他国の兵士と共に集団墓地に埋葬されたのか、知って欲しいと思います。2004年の現在においてさえ、第二次大戦を体験しなかった人びとがこのことを理解するのは容易ではありません。 

ピーターは1901年3月5日、ウィスコンシン州のグリーンベイで生まれました。父と母は、二人が同州のラインランダーにある会社で働いている時に、出会いました。彼らは1930年、オレゴン州のポートランドで結婚しました。父はどんな仕事でもこなしました。大恐慌の頃、男は仕事がある限りどこででも働きました。彼は余暇にはパイロットでもあり、飛ぶのが大好きでした。そんな訳で彼らの家はいつも飛行場のそばでした。 

私たち3人兄弟はみなウィスコンシン州ラインランダーで、1931年から34年の間に生まれました。私たちは30年代の終わりに、カリフォルニア州のイングルウッドに引越しました。その後父は、2寝室2車庫の家を自分で建てました。それはマイナーズ空港と呼ばれた小さな飛行場の近くで、当時は田舎だったところです。その小さな飛行場は、ずっと後にロサンゼルス空港になりました。 

父は陽気で、とても家族思いの人でした。母は、家には友人がひっきりなしに集まっていたと話していましたし、私も、父がピアノを弾いて私たちに歌ってくれたり、一緒に歌ったりしたことを覚えています。 

父は、仕事から帰るとよく私を高く持ち上げ、「僕のお猿ちゃん」と呼びました。このことを書くのは、それがその後やさしい父を知らずに育った私が覚えている数少ない思い出の一つだからです。 

1941年3月、父は、当時太平洋のカビテ・グアム・ジョンストン・ミドウェー・パルミラ・ウェークなの島々で海軍が進めていた基地建設の請負会社モリソン・ヌードセン社の民間人大工として、ウェーク島に向かいました。彼の契約期間は9ヶ月でした。そこで9ヶ月働き上げたら、多額のボーナスを貰えるだけでなく、モリソン・ヌードセン社で生涯働けることが保障されていたのです。これは大恐慌のさなかで仕事を探すのに苦労していた人びとには、大変重要なことでした。私たちは、父がその年のクリスマスまでには帰ってくると、期待していました。父は家族に宛てた最後の手紙で、家に帰って子供たちにクリスマス・プレゼントを買う計画、愛する妻に欲しいだけの靴を買う約束、そして新しく買う車を彼女に選ばせることなどを、書いていました。父は、仕事のこと、小さな島の状況が進歩していく様子などについて、なんと毎日母に手紙を書いていたのです。日本との戦争が始まりそうな危険な兆候はありましたが、彼の手紙は、もしそのような事態になるにしても、交戦状態に入る前に家に帰れることを信じ、契約期間いっぱい働く決意でいることを示していました。父は1941年12月23日に、その地を後にして帰宅することになっていたのです。 

1941年12月7日、のどかな日曜日の朝、日本軍は宣戦布告することなくハワイの真珠湾に大規模な攻撃を加え、多くの米戦艦を破壊し破損させました。日付変更線に隔てられたウェーク島は、その頃12月8日の月曜日、通常どおりの作業日でした。日本軍によるウェーク島への攻撃は、真珠湾攻撃から数時間のうちに始まりました。ウェーク島の戦いの様子は詳細に記録が残されています。島にいたのは、500人にも満たない海兵隊・たった12機のグラマン製ワイルド・キャットそして約1200人の民間人労働者でした。この小さな部隊は、日本海軍の最初の攻撃を押し返しましたが、12月23日に再攻撃してきたずっと大きな敵軍に、戦いの疲れもあり、圧倒されてしまいます。果敢な戦いの末、ウェーク島の男たちは日本軍に降伏しました。

私たちは、父がウェーク島で日本軍に捕囚されたらしいという知らせを電報で受けましたが、それ以上の情報は何もありませんでした。母は、彼の身の安全や居場所に関して問い合わせる手紙を何度も書きましたが、返事はありませんでした。当局は、これらの人員について何の情報も持っていなかったのです。日本政府は、米当局の度重なる問い合わせにも、島にいた人員に関して責任を持つべきであるという要求にも、答えませんでした。 

私たちが、父が福岡の捕虜収容所から出した3通の短い手紙の最初の一通を受け取ったのは、それから3年以上もたった1944年4月のことでした。彼は、母が送った手紙の少なくとも2通は受け取っていました。1945年8月、2発の原爆が広島と長崎を破壊した後、戦争は終わりました。私たち家族は数週間が過ぎても、父がどこにいるのか、生きているのか死んだのか、何も知らされませんでした。母は、何度も当局に問い合わせの手紙を送りました。

そして、海軍省からその手紙が来ました。それは1945年10月12日付けで、父が1945年3月12日に死んでいたこと、彼の遺骨は日本の福岡にある記念館に安置されていることが、書かれていました。

2000年、90歳を超えた母は、姉のハリエットと南カリフォルニアで暮らしていました。姉が休暇旅行に出かける間、私は母と過ごすために訪問しました。海軍からの手紙を見つけたのは、その訪問中に古い書類などを読んでいたときのことです。母は整理上手で、1941年から50年代まで彼女が当局とやりとりした全ての書簡のカーボン・コピーを保存していました。彼女は、同じ頃に、ウェーク島民間人労働者の家族への金銭的支援や1941年12月で止まっている彼らの最後の給料やボーナスの支払いを求める運動を記録していた女性のニュースレターも、全て保存していました。

私はその時66歳でしたが、ウェーク島に行って父が歩いた道を辿ってみたい、日本に飛んで行って、捕虜収容所があった場所を見てみたいとさえ、何度も思ったものです。戦争中、私は父のために泣きました。家に無事帰ってきて、大きな強い腕で私を抱いて欲しかったのです。

2000年7月、帰宅した私は、その海軍の手紙を改めて読んでみましたが、まるでそれは初めて読むような体験でした。「…遺骨は日本の福岡にある記念館に安置」手紙は1945年10月12日付けです。私は“終戦後の混乱の時期に記念館がもうできるなんて、早すぎるのでは”と思いました。そこで私は、福岡に行って自分の目でその記念館を見よう、それで父の死に関する最終章にしようと、決心したのでした。父の遺骨が安置されている場所を私がつきとめ、母と姉兄がついにそれを知ることができたら、何と素晴らしいことではありませんか。私はこのことを家族には黙っていました。自分が知らずに育った父を見つけることは、私の心に秘められた切望だったのです。

しかし私は先ず、その記念館が福岡市のいったいどこにあるのか、見つけなければなりませんでした。早速、在ヒューストンの日本領事館に電話をかけますと、日本の都市を良く知っているモラン少佐という人物を紹介されました。モラン少佐は、日本領事館で警備の仕事をしていた民間人でした。私は彼に、海軍からの手紙のこと、母が90歳代であること、日本に行って心の整理をつけたいという計画などについて説明しました。彼は、そんな記念館は無いと断言しました。唯一ある記念碑は、ドウーリトル部隊のパイロットが撃ち落された場所に建てられた、石の壁だけだというのです。「それでは、海軍は私たちに嘘をついたことになります。私は父の遺骨がどこにあるのか、知りたいんです!」と私は言っていました。彼は、私を助けるためにできる限りのことはするが 、もう長い年月が経っているし、日本政府は捕虜に関する情報収集に協力的だったためしがないと告げました。米政府も、ベトナム戦争や朝鮮戦争で行方不明になった兵士の方に力を注いでいたのです。第二次大戦の捕虜の問題はもう終結していたのでした。モラン少佐は、日本とワシントンから何らかの情報を得るよう努力するが、期待しないようにと言いました。

モラン少佐はインターネットを使って調べ始め、私もそれに続きました。そして「ウェーク・グァム・カビテ生存者の会」という組織に関する情報を見つけました。それは、過酷な捕虜体験を生き延びた民間人労働者の集まりでした。すぐ私はこの団体宛てに、ピーター・W. ハンセンに関するどんな情報でもないか、或いは彼を覚えている人はいないか、問い合わせました。テキサス州アーリントンに本拠地を置く全米元捕虜の会にも連絡をとり、飢餓がその後の臓器に与える影響や病気を理解する、自分自身が捕虜体験を持つ医者たちによって書かれた情報も、送ってもらいました。

2000年の10月になると、ウェーク島にいた人々から手紙が届き始めました。ロドニー・キーファート、フランク・メース、J. O. ヤング、そして看守や靴や収容所の様子をスケッチしたジョー・アストリア、その他多くの人々と連絡がとれました。キーファート氏とメース氏はそれぞれ本を書いていましたが、私は、父や彼の仲間の捕虜に起こったことを知るために、夢中でそれらの本を読みました。

これらの人々が彼らの体験を喜んで話し、質問にも答えてくれるうちに、私は次第に彼らに何が起こったのか、島からいつどこに連れて行かれたのかを知るようになりました。そして生還者のみんなが、父を覚えていると言いました。でも父の仕事と出身地以外は、彼らは殆ど何も覚えていなかったのです。

1942年の初め、働けそうな全ての兵士と350人を除いた全ての民間人労働者は、上海に輸送されました。1942年10月、残っていた中から250人程の民間人グループが、佐世保でのダム建設のために日本に送られました。最後まで残っていた98人は、島で処刑されました。私が話した人々それぞれが、父を知っていて自分たちのグループと一緒だったと、言いました。

彼らの本や私が読んだ日本軍捕虜に関する数多くの本は、殴打、居住環境、食料、衣服のない凍えそうな寒さ、病気、医療の欠如など、悲惨な捕虜体験の実態を語っていました。私はその時まで、彼らが長い年月の間味わったそれらの悲惨さを、知らずにいたのです。彼らの体験を知って、私は震え上がりました。毎日を生き延びるため、これらの人々はどれほどの決意と強い意志を持っていたのでしょう。神は、彼らがそれほどの虐待に耐えられる強い体をお与えになったのでしょうが、でもそれを何年も続かせたのです。

ほとんどの男たちは、ウェーク島に行ったとき20代でした。父は40歳でした。終戦の5ヶ月前まで生き延びた父ですが、年齢的なことも死の要因だったかもしれません。

生存者の会の書記を務めるジェーン・ファビアンは、リー・W. ウィルコックスが記録していた佐世保第18捕虜収容所での死亡リストと、オーリル・ジョンソン牧師が記録していた死亡リストを送ってくれました。ジェーンは生還者だった人の未亡人で、ほとんどの関係者の体験を知っていました。

9月に私は、モラン少佐が何か新しい情報を入手できたか、尋ねてみました。彼は、オーストラリアの戦没者のグループが福岡付近の二つの収容所から回収した捕虜の遺骨を二つの壷に収めた、と書いた記事を送ってくれました。そのうち一つには200人の英国人捕虜、50人のアメリカ人、20人のオランダ人の遺骨が納められているというのです。その壷は横浜の英連邦戦死者墓地の英国人地区に今でもあります。主としてアメリカ人の遺骨を納めた他の壷は、ミズーリ州セントルイスにあるジェファーソン兵舎国立墓地に送られていました。

10月に入って数日たった金曜日、私は、父の遺骨がもしかしてそこにないだろうかと、ジェファーソン兵舎に問い合わせました。翌週の火曜日、夕食の準備をテーブルに整えた私は、何気なくEメールをチェックしたのです。ジェファーソン兵舎のランディ・ワトキンス氏が、確かに父がそこに埋葬されていると、知らせてくれたEメールが届いていました。「信じられない!見つけた。お父さんを見つけた!」私はあまりにも興奮して、メッセージを読むこともできないほどでした。写真が2枚添付してありました。一枚は異なる数カ国出身の100人の名前が刻まれた大きな共同墓石、そしてもう一枚は父の名前のクローズアップでした。コンピュータのスクリーンに映し出された「ピーター・ハンセン、民間人」の文字を見たときのことを思い出すたびに、私は今でも涙がこぼれます。


55年もの間、彼に何が起こったのか、どこにいたのか、どのようにして死んだのか知らずにきた私たちが、彼の遺骨をこのアメリカの地で見つけたのです。それは奇跡でした。

私はすぐ姉に電話しました。そばには母がいて兄もその週に訪問しているはずでした。Eメールと写真も、彼らが見られるようにすぐ転送しました。父のことを調べていることは彼らに言っていませんでしたから、彼らにとってこれは全くの驚きでした。彼らは少し驚愕したほどです。私は、母がどんな風に反応するかとても知りたかったのですが、数日後にそれを知ることができました。母は、父の遺骨がアメリカ国内にあってよかった、でももう遠い昔のことね、と言いました。母は、お墓を訪問したいとは思わなかったのです。

私たち家族の住所は、父の公式記録に記されたものから変わったことはなかったのに、父の遺骨が米国本土に戻されたことは、私たちに一度も伝えられませんでした。

2000年11月の初め、私はセントルイスの父の墓を訪ねました。美しい秋の日でした。地面に跪き、父の墓石に寄り添って泣きました。二度と帰らない長い年月…どんなに父に逢いたかったことか…。彼が無事に帰ってきていたら、私の人生はどんなに違っていたでしょう。どのように違っていたか、私たちがそれを知ることは永遠にありません。でも、もっと満たされたものだったに違いないと、思わずにはいられないのです。遠い昔のことなのに、悲嘆の痛みが今でもこれほど私を深く傷つけるとは、不思議です。悲しみがとても新しくて…まるで父がつい昨日死んだようです。10歳の子供の涙が、後から後から流れました。父が帰ってきていたら味わえたであろう楽しい年月を思って、私は泣きました。別離のつらさを思って、そして私たちのもとに帰る希望を捨てずに、彼が、最後の最後までを何とか生き延びようとした恐怖の体験を思い浮かべて、泣きました。

驚いたことに、父の遺骨の発見は、私が求めていた最終章とはなりませんでした。私の調査はまだ終わっていなかったのです。私は、1942年10月ウェーク島を後にした時から1945年3月に死ぬまで、父に何が起こったのか知りたいと思うようになっていました。彼はどこに行ったのか。何をしたのか。何が死の原因だったのか。捕虜体験の詳細を知ることが耐え難いものであっても、私は真実を知りたかったのです。兄もそれを知りたがっていました。その答は、モラン少佐が見つけた福岡郊外に住むアメリカ人英語教師によって、もたらされました。彼は捕虜収容所のことを以前から聞いていて、調査を始めていました。その人物、ウェス・インヤード氏は私の話や国立公文書館での調査を経て、父がどこにいつ居たのかを発見しました。彼は、日本語と英語で書かれた父の死亡証明書も送ってくれました。何よりも彼は、福岡第一収容所にいたアメリカ人軍医ウォルター・コステキが、父の真の死因に関して行った宣誓供述書を見つけてくれたのです。ウェスは、その時点で日本にもう26年も住んでいて、4人の育ち盛りのお子さんと家族がいました。

その間私は、国立公文書館にも何度か問い合わせをしていましたが、めぼしい情報は得られませんでした。それからしばらくして、私はなんと、父の死に直接責任があった日本兵の戦犯裁判の完全な記録がある、という知らせを受けたのです。戦犯裁判!またしても見つけた新しい情報に、私は衝撃を受けました。私たち家族は、この秦正人という人物が戦犯裁判にかけられたことを知りませんでした。裁判記録には彼の写真さえ添付されていました。秦は、病気で衰弱した捕虜に医療を施さず、殴るなどの残虐行為で死に至らしめた責任を問われ、人道に対する罪で有罪となっていました。裁判の記録には、それらの全てが詳細に記載されていたのです。

このようにして私は真実を知りました。私のやさしい父に起こった恐ろしい真実です。彼の唯一の罪は、家族に安定した生活をもたらすため、太平洋上の小さな島に働きに出かけるほど彼らを愛していたということでした。そこで9ヶ月立派に働きさえしたら、再び無職になることはないと約束されて、彼はその島に留まったのです。

2002年11月、姉ハリエット、兄ジョンと私は、恒例の追悼式に出席するために、ミズーリ州セントルイスに旅しました。それは、1944年7月から1945年4月までの間に九州の福岡地区にあった収容所で死んだ100人の英雄が埋葬されている墓場の傍でとりおこなわれました。1949年9月28日、59名の米兵、水兵、海兵隊員、12名の民間人、そして29名の英国・オランダ・オーストラリア兵が、このジェファーソン兵舎国立墓地に再埋葬されたのです。それぞれの国からの兵が、大きく平らな御影石の墓石に花輪を捧げ、私が、父と全ての民間人犠牲者のために花輪を捧げました。

この特別な日に参列した私たちは、来ることができなかった遠隔地の家族や、ここに愛する人が眠っていることさえ知らない人々と、この地とを結ぶ架け橋でした。それは大変意義深いことであり、祖国のために最終的な犠牲を払った人々に紛れもない敬意を表すことでした。

父の物語りに、私はやっと最終章を書くことができたのです。


許すために強く慈悲深くあること

ウェス・インヤード

マリーアンと初めて連絡を取り合ったのは、2000年7月、モラン少佐から届いたEメールを通してでした。彼は、第二次大戦中に福岡で死んだ父親を探している女性がいると書いていました。私は、福岡の収容所にいた捕虜に関してその頃まで収集したかなりの量の資料から、早速「ピーター・ハンセン」の名前を探してみました。結果は、マリーアンが書いているとおりです。マリーアンの捜査を手伝った後、私は、自分のウエブサイトを彼女の父親に捧げました。
http://home.comcast.net/~winjerd/POWCamp1.htm

ハンセン氏の運命を調べる間、私の思いは複雑でした。日本人がしたことに怒りを感じる一方で、戦中の日本の事情も理解している自分がいました。ハンセン一家に起こった悲劇を悲しむと同時に、彼らがついに真実を発見したことを嬉しくも思いました。私にとって、自分が26年間もその中で暮らしてきた日本人が、かくも非人道的な行為を為しえた、それも軍人でなく直接戦いを挑むこともなかった民間人に対して為し得たことを想像するのは、困難でした。

このことはたぶん、人間が生きていくうえで、理解するのが最も困難なことの一つでしょう。「なぜこれほどつらい出来事が自分に起こったのか」「なぜ人生は不公正なのか」「このような目に遭う何をいったい自分はしたというのか」

マリーアンも、父親の死に関する数多くの資料を読みながら、この思いを何百回と味わったに違いありません。でも彼女は、全ての疑問に答えを得られないままだったにも拘わらず、決して日本人に憎しみを抱いたりはしませんでした。

自分のかけがえのない人に対して為された犯罪を許すためには、人は強く慈悲深くなければなりません。キリスト教徒として私は、これが過去の傷を癒す最も偉大な方法であると信じます。キリストが、彼自身に対して為された最大の犯罪を許したように, 愛と赦しを与えるのです。

私の願いと祈りは、日米両国の人々が、癒しのプロセスと過去への真の決別を促すこの重要な要素を学んでいけるように、というものです。


ハンセン氏と子供たち
(マリーアン、ハリエット
、ジョン)

 


ある娘の日本旅行

徳留絹枝

マリーアン・スティクニーは最近、福岡捕虜収容所第一分所の跡地を初めて訪れた。彼女の父親のピーター・ハンセン氏は、1941年12月にウエーク島で日本軍に捕われた米国民間人労働者だった。日本に連行され、佐世保でダム建設の強制労働に就かされた。彼は終戦の年まで何とか生き延びていたが、1945年3月21日に死亡した。彼に死をもたらした日本兵は、衰弱した捕虜に医療を施さず殴打したり他の凶悪な行為を働いたことで、戦後戦犯として裁かれ有罪となった。

マリーアンが、父親が死んだ福岡の捕虜収容所跡地を訪ねたとき、そこにかつて捕虜収容所があったこと、そこで147人の捕虜が死んだことを、人々に知らせるものは何も無かった。それは林の中の小さな空き地にすぎなかった。

マリーアンは小枝を拾って十字架を作り、持参した小さな花をその前に供えた。追悼碑も追悼の標識もない… 彼女自身が作った小さな小枝の十字架だけ…。それが彼女が父親の63年目の命日におこなった供養だった。

父親が死んだ捕虜収容所跡地でのマリーアン・スティクニー
(マリーアンの九州旅行を案内したウエス・インヤード氏撮影)

彼女は、何万人もの捕虜が地獄船で輸送された後に到着した門司の港を見下ろす丘にも、登った。捕虜が耐えた悲惨な輸送船の歴史を伝えるものは、やはり何も無かった。
 



奴隷労働者となる何万人もの捕虜が到着した門司港
ウエス・インヤード氏撮影) 

マリーアンは、父親が捕虜として生き、そして死んだ地を訪れた感想を、次のように筆者に語った。

行って本当によかったと思います。悲しいだけの旅ではありませんでした。父がいた日本に自分がいるということに、彼が歩いた同じ地を歩くことに、恐ろしいほど感激しました。静かに空気を吸い込み、彼の存在を、そして生還した人々はいったいどうしてそれができたのだろうという驚きの思いを、味わいました。
 

確かにダムでは、ろくな服も着ないで凍るような風の中で働かされたであろうことや、空腹で殴られながらの厳しい重労働のことを思って、涙がこぼれました。そんな日を来る日も来る日も、彼らはどうやって耐えることができたのでしょう。そしてもちろん、63年前のその日に父がそこで死んだことに思いを馳せた、あの松の木の下。彼は最後まで生きようと、がんばったのです。

でも私たちは、父が今は天国でイエスと共に歩み、天使と一緒に賛美の歌を歌っていることを、喜ぶことができます。それこそ真の勝利、大勝利です。

その他に私の旅で印象に残ったのは、日本の人々と過ごしたことです。私は人間に悪意を持つということは、これまで決してありませんでした。(但し、日本政府と日本軍となると話は別ですが) 私は、私たちの文化の間に、違いよりも類似点をより多く見ました。とても洞察に富んだ教訓でした。

      父親や他の捕虜の奴隷労働で造られた相当ダムに触るマリーアン(ウエス・インヤード氏撮影)


マリーアンの日本訪問は、日米が共有する歴史の中で悲劇に巻き込まれたこれらの捕虜を記憶し敬意を表する共同作業を、両国が一日も早く開始しなければならないと、痛感させる。アメリカ人捕虜の歴史が日本で全く知られていないなどということは、二国間の親しい関係にふさわしくない。そのような状態を米国が放置しておくなどということは、二国間の友好関係にふさわしくない。

レスターテニー博士は、名誉ある解決法を既に提案している― それは日本政府と捕虜に奴隷労働を課した企業が共同で基金を設立することだ。そのような基金で、日本政府が他の旧連合国の元捕虜や家族を日本に招待してきたように、米国の元捕虜とその家族を日本に招くことができる。さらには、日本の人々が、戦時中の国内に130箇所もあった捕虜収容所で何が起こったのかを学べるような、共同研究を支援することもできる。両国の人々がいつの日か、門司の丘に追悼碑を建てる日がくるかもしれない。

そのような努力は、過去の傷を癒し、日米の人々がより親しくなることに役立つはずだ。

                                                                            (2008年8月15日掲載)