Guerrilla Daughter (ゲリラの娘)

ヴァージニア・ハンセン・ホームズ

7歳の誕生日を迎える数日前、ヴァージニア(ジンジャー)・ハンセン・ホームズは、真珠湾の米軍が攻撃されたことを聞き、自分の生活も変わるのだろうかと不安になりました。当時彼女は、10代の兄2人と11歳の姉、母親、そして東ミンダナオ鉱山の役員だった父親と、フィリピンのミンダナオ島に住んでいました。

「ゲリラの娘」は、1942年春から1945年9月までの日本軍ミンダナオ占領を生き延びた家族の、驚くべき体験を綴った回想記です。家族の男たちが、ゲリラ兵士としてミンダナオ島のレジスタンス活動で戦う間、ジンジャー、母親そして姉は、アメリカ人は処刑すべしという命令を受けた日本軍から、自分たちだけで逃避しなければなりませんでした。見つかったら直ちに処刑されるという状況に面したハンセン家の女たちは、空腹・病気・劣悪な生活環境に苦しみながら、増え続ける日本軍を避け、彼らに捕まらないように、フィリピンのジャングルや人里離れた部落に隠れ暮らしました。  (『ゲリラの娘』背表紙から)

以下は、『ゲリラの娘』からの抜粋です。

第二章:迫り来る戦争とミンダナオ侵略

ミンダナオ島の米・比軍が5月10日降服したことは、東ミンダナオ鉱山にまだ残っていた私たちにとって大きな衝撃でした。フィリピン人従業員の殆どは、既に彼らの町や村に帰っていました。スリガオ郡地域のアメリカ人と他の連合国市民は、日本軍に降服するか或いはミンダナオの奥地に入り込んで隠れるか、というつらい選択を迫られたのです。私たちは見捨てられ、自分たちが作ったのでもない状況に対処させられていると、感じました。マッカーサーと彼のスタッフは既にオーストラリアに脱出し、ルソン島とミンダナオ島の米・比軍は日本軍に降服し、私たちの住む町には、日本軍による侵略と占領が迫ってきていました。

鉱山を去らなければならない時が近づいていました。家族にその先何が起こるか分からないという不安は、重く両親にのしかかっていたに違いありません。ほとんどの両親の同じように、彼らは自分たちより子供達のことを心配していたのです。戦争の最初の数週間、日本軍の捕虜となったらどうなるかは、友人や同僚の間で交わす会話の大事な話題でした。家族の間では、若い女子の方が男子より大きな危険に晒されるというのが、一致した意見でした。それ母と父は、もし日本軍に捕まってしまった場合、私とピーチ(姉)が男の子の振りをしていた方がよいのでないか、と思いついたのです。それで両親は、近くの村から理髪屋を家に呼び、私たちの髪を切らせました。偽装を完成させるために、彼らは家に出入りしていた縫い子を呼び、急いで適当な男子服を作らせました。彼らは、鉱山があることで生計を立てていた地元の人々と同様に、東ミンダナオ鉱山が閉鎖されることを残念がっていました。私たちの運命に同情してくれ、彼らは秘密を守る約束をしてくれました。幸運にも、兄のルディとハンクは前年急成長して、服がきつくなっていたのです。それらは裁断されてピーチと私に合うように縫い直されました。あっという間に、カーキシャツと半ズボンという私たちの服が完成しました。私は少年に生まれ変わったことが嬉しくてたまりませんでした。私は、兄たちの活動に加わるには幼すぎたのですが、それでも男の子のすることがかっこよく見えたのです。今や私も男の子になったので、兄たちのように勇敢で冒険好きになることが楽しみでした。

第7章:日本軍ゲリラ掃討戦を拡大

その時点まで、私たちの家族は何とか巧みに日本軍から逃げていました。しかし、1943年の暮が近づいてきた頃、彼らは島の占領軍を増強し、ゲリラへの攻撃も過激になってきていました。さらには、ミンダナオの日本軍指揮官は、島に居るアメリカ人は即処刑する、そして彼らを助けた者も同じ運命を辿る、と いう通告を発したのです。その言葉どおり、日本軍は、アメリカ人であれフィリピン人であれゲリラを捕らえた時は、即座に首を刎ねて処刑しました。そして、日本軍占領に反抗したり日本軍の敵を助けた者がどのような目に遭うかを示すため、死んだ者の首を広場にある棒に刺して見せしめとしました。日本軍との交戦で死んだAlbert McCarthy はそのようにされました。

第10章:戦争の終結

私たちは家族として戦争に生き残り、新しいメンバーも一人加わりました。(1944年の9月にジンジャーの弟エドワードが誕生) 私は、父と母が一生懸命作りあげようとした世界が劇的に変わった1941年12月8日のことを、忘れることができません。私たちは瞬時にして、家と快活な生活を失いました。私たちは着の身着のままで、わずかな所持品を持って(父が働いていた)鉱山の町を後にしました。フィリピン人の友人の助けで、私たちは何とか生き延びました。日本軍からの逃亡生活の最初の一年は、食糧や隠れ家や健康維持など、行き当たりばったりであらゆる局面を乗り切らなければならず、最も困難な時期でした。でも私たちは、そのような困難な状況下で生き延びたのです。
 



ハンセン一家(マニラ1935年後半)
 

地図の上で私たちの戦争中の逃亡の跡を辿るとき、さまざまな記憶が蘇ってきます。最初に思い出すのは、鉱山にあった我が家から Tagana-an への旅です。私たちはそこで、初めて原始的な生活を強いられました。Surigaoの海岸線沿いを南に逃亡しながら、私たちはClaver, Carrascal, Cantilan, Tandag, Tago そして最後は Bayabas で暮らしました。でも父が、初期のゲリラ・レジスタンス活動のリーダーだったモーガン中佐に出会ったのは、Tagana-an でした。父と兄たちにとって、それは日本軍の占領と迫害に抵抗する組織的戦いに参加する機会でした。ゲリラに関わることは、父にとって大きな試練でした。彼の主な任務は、第10軍の110部隊のゲリラ軍が日本軍と戦う間、彼らの食糧を提供することだったからです。兄たちは、前線で戦う兵士として、日本兵との接近戦という激しい体験をしました。

姉のこと

私たちが日本軍から逃れる遍歴を始めたとき、姉のピーチはたった11歳の女の子でした。鉱山を後にしてTagana-an に移動してから彼女の日々の責任は増え、それにつれて彼女は大人びていきました。逃亡生活の当初、私はあまり手伝いを要求されることもなかったので、当時そのことに気付きませんでした。私は、学校が無くて遊んでいられるという夢の世界に住んでいたのですが、戦争が続くにつれて、私の責任や仕事も増えてきました。Tagana-an での最初の数週間でピーチは、屠殺されたばかりの豚をさばき、それを煮込んだり料理すること、土地の新鮮な野菜を摘むこと、ココナツをすり潰した汁を料理のソースやオイルにしたり、ランプの燃料にすることを、学びました。

波乱に富んだこの時期のことを振り返るとき、ピーチが11歳から15歳の間でどれほど変わっていったかに驚かされます。大人としての責任を引き受けるようになっていった彼女の成長は、著しいものでした。長い年月が過ぎた後に、私はやっとそのことを理解し、ピーチが家族や他の人々のため払った犠牲に感謝するようになりました。難しい仕事をこなす彼女の能力は、母の負担を軽くしたのはもちろん、私自身の戦争体験を、実際の危険な状況ではなく胸躍る冒険のようにしてくれたのでした。

母のこと

戦時逃亡が終わった時のスターは、間違いなく母でした。1940年代は彼女にとって、ほとんどの人間を絶望させるような出来事が多く起こった年でした。1941年9月、彼女が母としての希望と夢を託していた長男のエドワードが、無意味な暴力で死にました。その悲しみから立ち直ろうとしている時、日本軍の侵略が始まり、家族・家・そしてそこそこに裕福な暮らしといった快適な生活の物質的面が破壊されてしまったのです。これらは、1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃と共に、全て潰されました。その後の4年間は母にとって、危険と不安と生存をかけた逃亡の旅でした。それらの危険に立ち向かうには、聖人の強さが必要とされていたのです。

おそらく彼女の最も勇敢な行動は、 ピーチと一緒に何キロも歩いてClaver 村に残していた品を取り戻してきたことでしょう。それらの品は、やがて生まれる彼女の息子のために使われることになったのです。妊娠中の母は、ピーチと共に海岸沿いの道をClaver に向けて北上しました。日本軍に既に襲撃を受けた地域を通って移動する彼らは、捕まるかもしれないという危険に常に晒されていました。三週間の旅は自己犠牲の極みでした。その日その日、食べ物が手に入るか、泊まるところがあるかさえ、知り得ない状況でした。その道程で出会ったフィリピン人の親切なもてなしのおかげで、母は、新しい息子を迎えるために必要な品々を持ち帰ることができたのでした。

そうです。母は、私たちを戦争中守り通した勇気ある人でした。彼女の不断の努力と犠牲がなかったら、私たちは生き延びていなかったかもしれません。私は、私の子供や孫たちが、困難な時代に母が見せた人間性の偉大さを知って欲しいと思います。彼女は、迫り来る危険の下で、優雅さを失いませんでした。神様は戦争の動乱の年月、彼女に役割を与えましたが、彼女はそれを不屈の精神と自己犠牲によって果たしたのです。彼女はそれが、神が彼女に用意した道だと知り、受け入れていたに違いありません。そうでなければ、いったいどうして彼女は、あれだけのことを優雅に尊厳をもってできたというのでしょう。
 



ジンジャーとピーチ(2001)

Guerrilla Daughter, Virginia Hansen Holmes. The Kent University Press, 2009
http://upress.kent.edu/books/Holmes_V.htm


ヴァージニア・ハンセン・ホームズさんへのインタビュー

この本は、家族プロジェクトという感じですね。貴女のご主人も、背景リサーチに深く関わりました。子供時代の思い出を辿り、それを本に書くというのはどのような体験でしたか。

もちろん兄のハンクと姉のピーチは、戦争中のいろいろな出来事に関して私より鮮明に記憶していましたから、私自身が覚えていた出来事の記憶にさらに詳細な説明を足すにあたっては、彼らに頼りました。皆で、テープレコーダーを置いたテーブルを囲んで座り、夫のケントがいろいろ聞き出すような質問をすると、私たちが長く忘れていた記憶が洪水のように蘇ってきました。つらい生活と恐怖を味わったあの時代、そして同時に私たちが出会った全てのフィリピン人から無条件の忠誠と支援を受けたあの時代を振り返ることは、感情的な体験でした。見知らぬ人でもすぐ友人になったのです。

ケントはいつでも、私たちの普通ではない体験に興味を持っていて、第二次大戦に至る時期に世界の他の場所で起こっていた出来事に関して、そして多くの国の政府の最上部で下された決定がミンダナオ島の北東突端の鉱山で暮らしていたハンセン一家の暮らしにいかに影響を与えたかを調べました。幾つかの章に出てくる彼の歴史的視点は、読者に全体像を伝える目的で加えられました。

お子さんやお孫さんは、この本について何とおっしゃっていますか。

日本軍を逃れてミンダナオ島の人里離れた地に隠れた私の家族の経験について、長年断片的に聞いてきた子供や孫たちは、やっと総合的にそれらを理解することができて、喜んでいます。彼らは今、チャールス(父)とトリニティ(母)ハンセンの不屈の精神と、極限状態で生きのび子供たちを守ろうとした意思を、より理解できるようになったと思います。

現代の日本人にどのような感情をお持ちですか。

1941年12月以前に私が会った唯一の日本人は、ミンダナオの鉱山にあった私たちの家の一部を改築した大工の監督だけでした。戦争時代の子供の頃は、日本軍に捕まったら私たちだけでなく、私たちをかくまったフィリピン人も酷い目に遭うというので、どんなことがあっても捕まったらいけないと学びました。日本人について悪い印象を持つのは、私にとって当然のことでした。

成人してから日本に旅行する機会があり、さまざまな普通の日本人に会い、彼らが、私が覚えていた日本軍人の印象と、とても違うことを発見しました。彼らはフレンドリーで親切でした。嬉しいことに、私の友人の中には今、何人かの日本女性がいます。このことは、ある国の一部の人々の行為をもって、その国全体を判断すべきでないことを示しています。

                                     
 (インタビュー:徳留絹枝)