ロバートB. ヒーア

1921年アイオワ州生まれ

- 米陸軍航空隊第19爆撃隊

- マライベレイ(ミンダナオ)、花蓮港・屏東・台北(台湾)
  赤平(北海道)

 


ロバート・ヒーア氏にとって、捕虜時代の思い出は尽きません。以下は、その中でも特に忘れ難い思い出について、彼が書いたエッセイです。

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祖国へのメッセージ??

19432月、花蓮港捕虜収容所(台湾)の日本人所長は、私たち捕虜を収容所の前に集合させました。そして、家族への短いメッセージを準備するよう命じのです。彼は、それらのメッセージはまとめて東京に送られ、私たちの祖国に向けて放送されると、保障しました。これまでの私たちに対する日本人の行動からして、メッセージが放送されること、それどころかそれらのメッセージが東京に送られることさえ、信じる捕虜は誰もいませんでした。家族と私の間の音信が途絶えてから、その時点で一年以上が経過していました。

東京から祖国に届きそうも無いと思いつつ私が書いたメッセージは以下のようなものでした。

ロバート B. ヒーアより
20歳 米陸軍航空隊 一等兵
1942年510 
フィリピン、ミンダナオ島のマライベレイで捕囚

このメッセージを読む皆が、健康で幸せであることを願います。僕もすこぶる元気で、これまで何の病気にもかかっていません。これからも手紙を書きたいと思います。もしできたら、チョコレートバー、キャンディ、ガム、そして暇を潰すためのトランプ、それから家族の写真を送って下さい。赤十字箱も忘れないで。アーレイや僕の友達たちによろしく。 もしこれまで僕のことを心配していたなら、このメッセージを読んで安心してくれることを願います。また会える日が遠くないことを願っています。

皆への愛を込めて

ロバート
 

戦争が終わって194510月に帰宅した時、妹のシャーロッテが、私が花蓮港で書いた短いメッセージを傍受し書き留めてくれたアメリカ中の人々から届いた手紙葉書を、私に手渡しました。メッセージは1943年3月27日、少なくとも16人のアメリカ人短波放送愛好家によってアメリカ側で受信されていたのです。


私のメッセージは、東京の中心部にあるラジオ局
JLG-4から発信されました。1943年327日にそれを放送したのは、日本軍心理作戦班から、日本軍に有利な時事ニュースを読んだり、ジャズや流行曲を流したり、日本帝国各地の収容所に拘束された連合国捕虜からのメッセージを読むことを強要された、捕虜のグループでした。

 

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ロバートにとってもう一つの大切な思い出は、戦争をできる限り早く終わらせ、ロバートが1日も早く生還できるよう、彼の父親・母親・姉・弟の全員が入隊したことです。2歳の娘がいた妹だけが参戦しませんでした。

彼の父親は1942年末、41歳で陸軍に入隊しました。中東に送られ、ロシアに戦時物資を供給する任務に従事しました。母親は19439月、40歳で女性兵補助部隊に入隊し、欧州戦線で任務に就きました。姉は19425月に入隊し、通信士・管制塔要員として働きました。弟は1943年、高校を卒業するとすぐ海軍に志願し、硫黄島の戦いに参加しました。彼らは、全員が生還しました。

                                    
     父親 アール     母親 ベッシー    姉 エヴェリン     弟 ジェームズ

ロバートが、家族が自分のためにしてくれたことを知ったのは、彼が無事帰宅した後のことでした。彼は今も、彼らをとても誇りに思っています。

 
パティ・マーレイ上院議員からパープル・ハート勲章を受けるロバート 
(マーレイ議員の公式ウエブサイトから:2002816日)

戦後ロバートの母親は、彼のメッセージを傍受し書き留めてくれた短波ラジオ愛好家の一人に手紙を書きました。 「ロバートは、捕虜収容所でのことは何も話さないんですよ。ただ忘れてしまいたい、という様子です。」そして彼女はロバートが2枚のレコードDon’t Fence Me In Sentimental Journey を何度も何度も繰り返してかけていると、付け加えています。

ロバートの故郷へのセンチメンタルジャーニーは、北海道赤平のこのフェンスで囲まれた捕虜収容所(そこで彼は住友鉱山のために強制労働に就かされていました)から始まったのです。
 

彼は最近、当ウエブサイトに以下のような感想を寄せました。

私の日本人に対する気持ちは、戦前住んでいたカリフォルニア州リバーサイド市の高校でハロルド・ハラダという友人がいた頃から、変っていません。ハロルドの両親は、ユタ州トパーズの収容所で亡くなったのです。ハロルドと彼の兄は、ヨーロッパ戦線で戦った442部隊のメンバーでした。彼らの部隊は第二次大戦時のどの部隊よりも多くの勲章を受けました。

私たちが入れられた捕虜収容所の殆どの日本人は、サムライ或いは武士道精神の熱烈な信者で、私たち捕虜は彼らを避ける方法をすぐに学びました。でも、何人かの日本人監視員そして私たちが一緒に働いた多くの民間人は、長かった3年半の捕虜生活中、私たちにもっと寛容で親切でさえありました。
 


Karen and Robert Heer


* ゼロアワー

捕虜のメッセージは、ラジオ東京(NHK)が放送していたプロパガンダ番組「ゼロアワー」の一部でした。このプログラムの最も有名なアナウンサーは、太平洋戦線の連合軍兵士に“東京ローズ”と呼ばれた“孤児アン”でした。彼女の放送はこちらから聞くことができます。

時には、捕虜自身がメッセージを読むこともありました。カナダ人捕虜が読んだメッセージの録音が残っています。