元米捕虜 レイモンド・C・ハイムバック氏の日本再訪    

伊吹由歌子

レイモンド・C ハイムバックさん :元捕虜 : 退役空軍少佐

2009年3月半ば、ハイムバックさんが64年ぶりの日本再訪を決意なさったおり、互いの尊敬する友人で元ADBC会長、エドワード・ジャックファー氏から紹介を受けた。彼の決意に感謝しつつイーメールで準備。福林徹氏(POW研究会)が、レイさんが賃金なしの労働をした四日市と富山の工場訪問に同行を快諾してくださった。

レイさんは1919年10月22日生まれで21歳のとき志願して陸軍航空隊ユタ州ダグラス基地の第5空軍基地グループに任命された。1941年11月20日にマニラへ到着、12月1日にミンダナオ島の新しい部隊に先発基幹部隊として送られる。割り当てられるべきB17機は結局こなかったが、5月10日まで戦闘を続けて捕虜となった。

その後はほとんどダヴァオ厚生園収容所(ダペコル)で労働してのち、1944年6月6日出発し、セブ、マニラ経由で日本へ輸送される。マニラでカナディアン・インヴェンター号、俗称Matte-Matte-Maruの船倉に押し込まれた。全行程は92日、その間ビリビッドで4
,5日を過ごし、マニラから門司までは62日かかった。船はたびたび修理を要して近くの港により、その間捕虜たち全員は船倉にすし詰めのまま、交代でしか座ることもできなかった。1日にコップ杯の水とご飯を2度、熱さ、下痢、船酔いのなか着替えることも風呂もなしで、汗と糞尿の臭気に慣れるほかなかった。このヘルシップの旅はいまも悪夢の対象である。

9月2日、門司に着き、そこから450人が四日市へ列車で送られて、9月5日に到着した。体重は44キロに落ち
ていた。名古屋捕虜収容所第5分所に入り石原産業四日市工場で労働した。1944年から45年への冬は異常な寒さで、12月7日にはM7.9の東南海大地震に遭遇、工場の炉も深刻な損傷を受けた。19名の死者の多くはこの冬だった。1945年6月1日、150人が富山へ移送され、名古屋捕虜収容所第11分所、日本曹達岩瀬鉄鋼所で働き、1945年9月5日に解放された。1961年米空軍を少佐で退役し、民間人としてミサイルの修理、新規購入の契約交渉を担当したのち1978年に退職した。

レイさんの計画に沿って日程表、プレス・リリースを作成し、福林先生によって地元研究者、山口謙次教授と和田雄二郎氏に送られ、レイさん出発の2,3日前には、石原産業がレイさんの訪問を歓迎するとも知らせることができた。

成田空港でレイさんと会う :5月14日(木曜日)

89歳という年齢よりずっと若く見えるレイさんは、フレンドリーな笑顔と固い握手で初対面の挨拶をした。明日から始まる3泊の旅にそなえて必要な列車の手配を済ませ、半蔵門のホテルにチェックイン。

四日市へ:レイさんの2冊の著書:石原産業を訪問:5月15日(金曜日)

陽光の輝くさわやかな日和である。名古屋で福林氏と落ち合う。同行の私たちにレイさんは2冊の著書をくださった。I am One of the Lucky Ones, I Came Home Alive(2000年)と, 5 Brothers in Arms,(2008年)。私たちからも資料を差し上げた。四日市のホームで大阪本社の相談役・太田氏、改札口では総務部の木村さんが会社のマイクロ・バスと待っていてくださり、すぐに話がはじまった。もういまは戦時中のことを知る社員はおらず、5,098人の死者・行方不明を出した1959年の伊勢湾台風で多くの記録も失われたそうだ。創始者・石原廣一郎氏はインドネシアで鉄の鉱脈を発見、戦時下日本の鉄需要の45%をまかなったという(三輪祐児:戦時下に喪われた日本の商船: http://homepage2.nifty.com/i-museum/19440111erie/erie.htm ) パナイ島サン・レミギオ銅山も戦時中、石原産業が運営していた。(熊井敏美著:フィリピンの血と泥) 到着すると石原産業のみなさん、そして三重県歴史教育者教議会 委員長の山口謙次元教授とお目にかかる。広報部・松江さんが英語で司会、小林副工場長が英語で歓迎スピーチののち、レイさんがお話を頼まれた。真摯な暖かい口調で、「私を招いてくださって有難う。是非、石原産業に来たかったのです。はっきり言いますが、民間人には何の敵意もありません。みな、よくしてくれました。兵士でも民間人でも、国のために自分の分をつくしていた人たちを私は尊敬します。それは私の家族がアメリカでしていたのと同じことです。」また彼は自身のPTDSを説明した。「私は泣くことがある。もうひとつ、私はよく冗談を言います。そうやって私は生き延びたのです。でも私の冗談でひとを傷つけるつもりは全くないので、どうぞ理解してください。」誠実な人柄が感じられた。どこで捕虜生活がはじまったかを話した。初代の所長のもとでのミンダナオ、マライバライ収容所の自由な2,3ヶ月後、2代目所長になってそれが変わった。次にダヴァオ厚生園捕虜収容所であらゆる農作業をして働いた。1944年6月6日に日本へ輸送された。この悪夢の体験を語りながら時に泣かれたが、全て話そうとしていた。しかし福林先生からの提案に皆が賛成し、陽のあるうちに工場内見学をし、その後時間の許す限りレイさんの話を聴くことになった。

レイさんの望みのひとつは、昼食に収容所へ戻るので四往復のたびに敬礼をしなくてはならなかった神社を見ることだった。位置は変わっていたが小さな神社はいまもあった。慰霊碑では、金属板の碑に日英両語で「人がその仲間たちのために命を捨てるほど気高い愛はない。自由と民主主義のために第二次大戦で戦いかつ死んだ人々に捧げる。」そして傍らには、日本語で「これは第二次対戦中に不幸にもこの地で死去した占領軍兵士の墓碑である。私たちは平和への熱望の花束でもって彼らの霊魂が永遠に安らかに眠れるようにしましょう。」レイさんは花束を備え挙手の礼をした。



石原産業捕虜慰霊碑前で

当時の桟橋が残る港付近で。三重県歴史教育者協議会 山口委員長と話すレイさん
 

隣に伊勢湾台風の社内犠牲者の碑があり、捕虜碑は台風後に建立し直されたと思われるそうだ。工場敷地内をめぐるが建物は全て建て直され、高い煙突ももうなく、一部、埋め立てで広がった部分もある。これだけが戦前からという桟橋が残っていたが、レイさんは港の近くでは働かなかった。神社の前を通るとき班長としてかけた敬礼の号令を、日本軍の軍隊口調ですらすらと身振りとともにやってみせた。「全体止まれ、右向け右、脱帽、敬礼、直れ、着帽、左向け左、前へ進め。」「日本語は上手だけど10語だけだよ。」という彼の語彙には「サンビャク・ハチジュウ・ロクバン(捕虜番号)」「こら、こっち来い」などがある。山口教授とレイさんは食べ物の話をした。「私たちは豆を食べていました。あなたは?」「1日300gの白いご飯とダイコンがちょっと入った味噌汁。ある日、私たち30人の班の班長がご馳走してくれました。日本人の炊事場へ連れて行き、みなにお椀二杯の煮豆をくれたのです。ほんとに助かりましたよ。」

部屋へ戻ると、若者が数人レイさんの話を聞こうと参加した。「民間人は間違うと教えてくれた、兵隊のなかにただ罰する人がいた、それが違いだ」と言う。若者に向かいレイさんは言った。「ユーモアのセンスは大切だよ。苦しい状況になったときは自分を笑えないといけない。そうでないと取り込まれてしまう。」彼はまた2001年、石原産業を相手取って起こそうとした訴訟についても話した。何百という捕虜たちのひとりだったが、彼のケースは議会まで行き、国務省が日米の良い関係を損なわないため、と却下した。「私はただ事実を認めてもらいたかったのです。」3時間があっという間でお礼を言いお別れして駅まで送っていただく。みなさんが温かく、熱心にレイさんの話を聞いて知ろうとしてくださったことに、みな嬉しく感動していた。レイさんが言った。「これは予想もしなかった。」社内報には、戦後3回、親切だった社員に会いにきた捕虜関連の訪問が報じられ、お願いしてコピーを送っていただいた。有難うございました。毎日新聞三重版の5月16日にレイさん訪問記事が掲載された。

富山市へ:収容所近くに落ちた原爆模擬爆弾パンプキン:和田雄二郎氏: 5月16 (土曜日)

静かで肌寒い雨の日。4時間の列車の旅で富山へ向かう。夕方、富山空襲を語り継ぐ会の事務局長の和田雄二郎先生とお会いする。収容所そのものは現在残っていない。富山県には6箇所の捕虜収容所があったが第6を除いては、戦争の末期に2,3ヶ月だけ存在したものだった。

合計4個の原爆模擬爆弾が投下され、3個は7月20日で、レイさんははっきり覚えていた。そのうち2個は第11と第7の捕虜収容所付近に落ちた。レイさんは同じB29が3回旋回してきてそのつど1個爆弾を落としたと思っていた。しかし、和田先生はパンプキンはファット・マンと同じ重さ・大きさの5トン、B29一機は1個しか搭載できなかったと説明された。和田氏はまた、推定約3,000人という富山空爆の死亡率には理由がある。前日に落とされた米軍による空爆予告にもかかわらず、市当局と自警団は住民を避難させず、踏みとどまって消火にあたれと命じた。同じく予告を受けた他の都市(水戸・八王子)では住民を疎開させたところもあったと話された。
                                           レイさんのいた#11収容所近くに落ちたパンプキンの碑
 

名古屋捕虜収容所第11分所跡へ:5月17(日曜日    

激しい吹き降りの日となった。第11分所付近の路上では、10人ぐらいの報道陣が待っていて和田氏が訪問者3人を紹介、レイさんは語りかけ、その後質問に答えた。64年たって初めて、昔の場所へ行ってみようか、日本人とあってみようかと思えたという。炉を終日運転するために、1日12時間労働で昼夜兼行で働き、5日ごとに昼と夜が交替するときは、18時間ぶっとおしで働くのだった。夜勤で野菜畑の中の300メートルを歩くとき、捕虜たちは少量を盗んだという彼は、古い工場の3角屋根に見覚えがあるようだという。昔の場所に立ってみてレイさんは言った。「もう、捕虜収容所がなくて嬉しいと思う。戦争は二度とあってはならない。」悪天候のなかを取材してくれた記者たちに感謝し、その午後遅く、地方局2局のニュース番組で印象的に編集された彼の報道が流れた。和田氏は後日、「レイさんの熱さとエネルギーある行動に戦争の事実を覚える努力へ勇気をもらいました」とメールをくださった。

旧日本曹達岩瀬鉄鋼所・現 大平洋ランダム株式会社訪問:5月18日

陽光が戻った。福林先生はレイさんの訪問を願う電話を大平洋ランダムにしてくださった。この会社は戦時中の日本曹達岩瀬鉄鋼所から1949年、1983年の2度の独立を経た企業である。第2次大戦の末、工場は電気溶解炉を使用してマグネシウム、非鉄合金などの生産に携わっていた。急なことだったにも係わらず、この会社でもレイさんの訪問を快く受けてくださった。客室に招じ入れ中島専務、黒坂総務部長が「工場四十年のあゆみ」という1976年、太平洋金属岩瀬工場時代に編纂の社史を見せてくださった。黒坂氏が編集に携わった社史の22ページに十段落ほど75人のオランダ、48人の米、25人の英からなる148人の捕虜の到着が明確に記されている。2名が死亡し、ひとりは事故で、一人は結核・栄養失調による精神錯乱だった。ひとりをレイさんも覚えていた。「彼は米原住民の出身でね、私たちはチーフと呼んでいた。」[ここに記載された数字は全てとても正確です。」と福林先生も太鼓判を押され、黒坂部長はかなりのページ数をコピーしてくださった。

中島氏は昔のことを聞いておられ、お二人が残存する古い建物を示しつつ、場内をドライブしていただく。レイさんは自分たちが働いた収容所に隣接の近辺しか知らない、と言う。ついに、昨日いたところから塀ひとつ隔てたあたりで車を降り、昔から建つ建物のひとつに入る。レイさんにはなじみがあるように思える。中島専務は当時の仕事は多分こうだったろう、と身振りを交えて説明してくださる。レイさんはとても嬉しそうで、「言葉はわからないが、彼が話している内容は、私のよく知っていることだ。」と言う。

            中島常務と昔の話がはずむレイさん

 

そこを出て、次の建物に入った。中島氏が言われる。「機械は変わっていますが、これと似たものだったのではないでしょうか。」レイさんは同意した。「すっかり同じではないが、このようなものだった。」今はもう使用していない機械だった。しかし、レイさんは言った。「もう十分です。これが見たかったのです。」2時間の楽しい訪問だった。「お時間をとっていただき本当に有難うございました。どうかもう仕事に戻ってください。そしてどうぞお幸せに。」とレイさんが感謝した。お二人は門まで出て、手を振って見送ってくださった。福林先生は京都に、レイさんと私は東京へ。大分お疲れがみえ、翌日はゆっくり過ごすことになる。後日、中島・黒坂両氏は今回の訪問を日米間の架け橋として評価してくださった。

                                                                                       レイさんの作業した建物の前で

 

レイさん歓迎の夕食会 :5月19日

10人ほどがレイさんを囲み、ホテルのラウンジでくつろいだ夕食会をもった。藤田議員も参加してくださり、研究者,ジャーナリスト、市民活動家など連合軍捕虜の問題に関心を寄せる人々が集まり、レイさんの誠実な話をきいた。

民主党 捕虜問題小委員会の勉強会:5月20

藤田議員の尽力で民主党内に新たに設置された捕虜問題小委員会にレイさんは出席することができた。急なことだったにもかかわらず、事務局長大島九州男議員の司会のもと、藤田幸久幹事長はじめ4人の議員出席。

民主党捕虜問題小委員会勉強会 (藤田事務所提供)
右端に藤田幹事長議員・その隣大島事務局長

ジャパン・タイムズのアレックス・マーティン氏による記事が21日に掲載された:http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20090521a4.html

NHK録画取材:帰国:5月21日

午前中、NHKディレクターが貴重な資料として突っ込んだ録画取材をしてくださり、昼食をご馳走になる。

成田へ向かいつつ「捕虜体験の苦しい思い出を毎日話していただき辛い思いをさせてすみませんでした。」とお詫び。翌日、福林先生と私にメールが届いた、「私も小文を書こうとして、資料を集めている。A Trip Down Memory Lane(記憶の小道を辿る旅)とするつもりだ。この1週間で64年前のきっかり1年を、同じ場に立ち、64年前のように生きなおすことができた。」大分お疲れになったようだがこの拙稿に助力を頂いた。ご助力をいただいた皆様、有難うございました。


追記:

この報告を読んだ後、石原産業四日市広報部の松江輝明氏は、以下の手紙を伊吹由歌子さんに送ってこられました。

伊吹由歌子様

レイ・ハイムバックさんの日本再訪に関する記事掲載のご連絡を頂きありがとうございました。早速に貴殿がご執筆されたエッセイを拝読致しました。

弊社四日市工場往訪の部分につきましては、四日市へのご到着からご出発までを丁寧に記載頂き、約4週間前のハイムバックさんのご来場のことが昨日のことのように思い浮かんできます。また、日本での行動が、同じようにご到着からご出発まで、丁寧に記載され、各地での場面が臨場感にあふれており目に浮かんできました。

全体を通して、やさしさと暖かさにあふれているように感じます。今回の日本再訪を契機としてハイムバックさんのPTDSが快方に向かえば、と心より祈念致しております。

弊社を代表して伊吹様のご尽力に重ねて感謝しお礼申上げます。ハイムバックさん、福林先生にもご機会があれば宜しくお伝えください。

石原産業株式会社
四日市広報部 松江
 

大平洋ランダム株式会社の中島眞一氏からも、以下の手紙が寄せられました。

伊吹由歌子様

おはようございます。お元気でお過ごしですか。富山は梅雨入り後も雨が降らず空梅雨の状態です。

先日は富山まで遠路はるばる当社をご訪問いただき有難うございました。また、伊吹様の記事を拝見させて戴き、当日の様々な情景をつい先日のことのように思い出しております。

5月18日朝に、福林様から突然のお電話を戴き、前日の17日に当社外周の捕虜収容所があったと思わ れる所を訪問され、多数の報道陣の方々が取材されたことを初めて知りびっくり致しました。当社をご訪問戴いた2時間ほどでは余り詳しいこともご説明できなかったのではと残念に思っております。

このたび、伊吹様の大変詳しく、また分かり易く書かれている記事を拝見し、レイモンドさんが捕虜となられて、その後1944年6月から、輸送船による長い日本への移送を経て、門司― 四日市―富山と移動された経緯をお聞きするにつけ、捕虜として大変過酷な体験をされたことを知りました。それだけに今回、レイモンドさんがこのつらい体験を乗り越えられ、ようやく日本を訪問される気持ちになられたことは大変良かったと思います。また、私どもの会社を訪ねていただき、レイモンドさんが作業されたと思われる場所で当時の様子をお聞きしたとき、私の入社当時―昭和35年ーの電炉作業とほぼ同じような作業をされておられたのだと思い、手振り、身振りで説明いたしました。そのことを大変喜んでいただいたとのこと、うれしく思っております。機会がありましたらレイモンドさんにもくれぐれもよろしくお伝え下さい。

最後になりましたが、伊吹様、福林様をはじめ多くの皆様が、日米の架け橋となってご活躍されてこられたことが、人々の心を開き、新たな人の輪を広げていくことに繋がっているのだと思っております。これからも一層のご活躍をお祈り申し上げます。時節がらお身体に気をつけてお過ごし下さい。

         大平洋ランダム株式会社     
      中 島 眞 一
 

同社の黒坂康之氏からは、POW研究会代表の福林徹氏に以下の手紙が届きました。

福林さま

ご丁寧なメールと記念の写真を送っていただき大変有難うございます。

突然の訪問だったので、準備や十分なおもてなしが行き届かず失礼しました。

当社の遠い過去の歴史の一こまであった捕虜の収容については社史を編纂した時に、先輩から聞いて詩っていましたが、目前に歴史の真実を語る人が現れるとは思ってもいませんでしたので、驚きとともに大変感激いたしました。

高齢にもかかわらず、遠路よりこの目的のために富山をお訪れられた事に対し、敬意を表し、また大変嬉しく思いました。私は戦後生まれで戦争当時の事は記録でしか判りませんが、当時の
事を体験談として語ってくださる人は、少なくなってきました。福林さんや伊吹さんはPOWのお世話をしておられる様子にも接し、戦争の歴史を友好の架け橋として活躍されていることに対し大変偉大なお仕事をしておられると尊敬いたしました。またレイモンドさんも、今まで背負っておられた念願が叶い、今回の訪問の目的が達成され、良かったと思います。

当社にとっても、今後社史を継続して行くなかで、今回のご訪問は歴史の一ページを記録するものになると思います。

いろいろと有難うございました。

最後になりましたが、ますますの今後のご活躍をお祈り申し上げます。

大平洋ランダム㈱
黒坂康之