サミュエル L.
ハイジンガー
(1902-1945)
カリフォルニア州セルマ生まれ

- 米陸軍 法務官

- ダバオ更正開拓園, 「鴨緑丸」, 「江ノ浦丸」



父の発見:息子がさがした亡き父

デユエイン・ハイジンガ

子どものころの記憶には父がいます。フィリピンで一年間の軍務を果たそうと父が志願して出征したとき、私は10歳でした。子供時代の記憶に、自分の調査と旅、古い家族写真が加わって、父がもっとわかるようになり、また第二次大戦中、日本軍の捕虜であったまま彼が迎えた死にいたるまでの父の人生体験を知るよすがとなりました。

父について探査の旅をはじめたのは1992年、3人の娘たちが結婚し、私も仕事を隠退してからです。思い返すと答えを知りたい多くの問いが私にはありました。成功した弁護士としての仕事をもち、愛する妻と3人の幼い息子のいるカリフォルニアを、父はなぜあとにして行ったのか。1941年の春、その年12月の日本との開戦にさきだつこと八ヶ月、父が海外で国のために奉仕をしようと出かけたのはなぜか。知りたかったのです、父がどんな人だったか、どんな性格の持ち主だったか、彼の夢とヴィジョンは? 若くはなかったにもかかわらず父は出征しました。1942年、バターンとコレヒドールでの戦闘で彼がたずさわったことを詳細にしらべました。どんな友達がいたのか、そして日本軍の捕虜だった3年余り、毎日いろいろと起こるなかで、友の存在はどれほどに力となったか。世にいう「地獄船」のひとつで北方の日本へむかった父の最期の、そしておそるべき航海は1944年の12月から1945年の1月のことですが、そこで何が起きたのか事実を知りたいと思いました。やがて発見した事実によれば、およそ4,000人のアメリカ人がこれらの輸送船上で命を落としたが、船倉にすし詰めに押し込まれた「地獄の船」といわれる状況とともに、戦争の後期には、捕虜が乗船中という印はなにも付けていないこれらの船へアメリカ軍の潜水艦や航空機が行った攻撃もまた、捕虜たちの死因をなしていたのです。

父が乗船した鴨緑丸がフィリピン海域で水没した状況、その後、次の船に移された状況を知りたいと思いました。とりわけ知りたかったのは、重症の赤痢、飢えと渇き、そして脳性マラリヤに苦しんでいた父が、細々と生きながらえて死に至るまでの間、傍にいた友人たちのことでした。高雄港で爆撃を受けてから四日目に死は、江ノ浦丸の上部船倉で父のうえにやってきました。遺体はその他のおよそ400体とともに運びだされ、翌日ブラジル丸が全生存者をのせて日本の門司へ向かう前、高雄港の南に突き出た砂洲に大きな穴をいくつか掘ったなかに入れられたのでした。

調査をするなかで、事実が誇張して伝えられるかも知れないと心の準備をしました。探し求め、聞きたいことの答えを、果たして自分は受け止められるか、と自問もしました。それでもなお、知りたかったのです。

求めた答えはほとんど見つけました。元捕虜だった人たちにも数人会いました。父を知っていた人たち、同じ収容所の仲間、彼が死んだとき同じ船にいた人たちなどです。彼らとは別に、収容所内で残したメモ、日記、殴り書きした紙切れによって知った人たちもいます。メモはビンや缶にいれられて残ったり、埋められたり、別の人に渡されたりして、あとになって見つかり、読まれました。この男たちは何とかして最後のことばを家族に伝えたかったのです。父が残したものを読みたかったが、彼の言葉は他の人によって伝えられたものだけです。

フィリピンの南方、ダバオ更正開拓園とよばれる日本軍捕虜収容所で数年間も父と一緒にいた二人のひとに会いました。生存者のひとりは私にこう言いました、「君のお父さんはぼくには親爺のようなひとだった。私には親爺がいなかったからね。」年若かったこのひとにとって、父が家族がわりの役をになったと聞いて私は嬉しく思いました。

父についての情報収集をつづけることは、知ってしまった事実があたえる苦しみと悲しみを受容することでもありました。しかし、もうひとつわかったのは、自分の苦しみは太平洋の両岸で同様に多くのひとの苦しみでもあるということです。愛するものに死が訪れるとき私たちが味わう苦しみに変わりはありません。

この男たちが収容所生活で、また彼らの多くが要求された重労働のなかで、直面した飢え、渇き、とても必要だったのに得られなかった医療のことを読みました。その結果、非常な数の人命が失われました。(捕虜の38パーセントは生きて帰ることがなかったのです。)特に戦争初期のフィリピン、バターン北部とマニラの過密に込み合った収容所で、また後期には日本国内の多くの収容所においても同様でした。 何故こんなことになったか?これほど多くの人間の死をもたらす結果になった日本人管理者たちの人命にたいして無関心としか思えないやりかた、食糧の剥奪を物語る多くの記述にこころがひきさかれる想いでした。私自身が人間としてもつ同情心と、これら捕虜の取り扱いとのあいだにみる落差にとまどうばかりでした。日米の男達にこれほど強い影響を与えたものは、戦時の文化か、あるいは他に原因があるのか。彼らが東京の司令部から受けとっていた指令によるのか。もっと知りたいと思い、さらに多くを読みました。難しい語彙を理解しようとつとめました。

自分の旅行体験と1960年代日本における3年間の海軍勤務、そしてたゆまぬ学びとが、そののち私が調べて得た詳細な事実をさらにはっきりと理解するのに役立ちました。自分たちがそこで育ち、あるいはそこにいると自分がホッと寛げる文化と環境、また自分の見方などで、私たちは見聞するところを色眼鏡で見てしまうことがよくあるものだ、と少々は気づいていたのです。自分が聞きたいよう、信じたいように、とかく人間はものごとを理解してしまうことも知っていました。これらをのり越えたところで、日本人の見方、アメリカ人の考え方をわかろうとつとめました。そこに違いはあるのか。同じときもあるのか。戦時中にはこれはどういう意味をもったのか。そのころにはまた違っていたのか。いまはどうなのか。これらすべて、あるいはそのいずれかが、いまの私たちにどう係わってくるのか。

戦争中の出来事について知った多くのことが、いまだに心に重くのしかかり私を悩ませます。父のない息子である私の体験はもうひとつの体験の一部にすぎず、それは3人の息子を自分の方針で育て上げた夫のない未亡人のそれです。

時がたつと自分の考えも気持ちも色あせ失われるだろうと気にかかり、それで私は書きました。孫達のだれかが、私がこの世を去ってからこの本を手にとり、家族のことをもっと知ってくれたらよいと思いました。誠実に正直にこころをこめて書けばたぶん、私が家族にまたさらに他の人びとに遺すものには価値があるでしょう。

私と同様の考えをもつ人たちが日本にもいます。第2次大戦中の出来ごとを分かち合うことは、ふたつの国同士が互いに相手を理解する助けになると私は思うのです。そう考えたいと思います。

調査し、本を書く行程のなかで、私は捕虜の息子たち、娘たちに出会いました。私たちはみな、もっと知りたいのです。私の本は彼らのある者には掛け橋の役割をしました。しかしこの行程は私たちが、ひとりで経験しなくてはならない個人的な体験です。知ることは思いがけない仕方で私たちの人生をひろげてくれます。ここで私たちはみな学ぶのです。

ときに、私の本を読んだひとたちが聞くことがあります。「貴方、怒っていないんですか?」応えはいつも同じです。「いいえ、怒っていませんよ。この本に出てくる人たち、そして私の父が亡くなったのはとても悲しいです。でも、心にいつも怒りや憎しみを抱いてはいられません。怒りとか憎しみを抱えて生きることはできません。母はそのように生きませんでした。私にもできません。」

2003年に本を出版してから、友人の日本女性に、第二次大戦で父を失った日本人男性と会いたいものだが、と頼んでみました。その人と心の想いを語り合えるのではないかと考えたのです。捕虜収容所であろうと、両国の多数の息子と父の命、また多くの日本民間人の生命を奪った特定の事件であろうと、父がおかれた苦しみ多い状況のあとを再訪したいとは思いませんでした。父を失ったいきさつを、自身の気持ちと、その喪失体験が自分と家族におよぼした影響、それだけにしぼり分かち合ってみたかったのです。このような仕方で、相互のより強い信頼関係につなげられたらよいと思いました。

日本人の親友を得てから、かけがえのないときをすごしています。家族のことや、幼いころに父をなくした体験を語り合いながら、家族として、アメリカ人と日本人同士、ふたりが理解しあえることが沢山にあります。日米両国の市民たちに劇的な影響を与えた過去の出来事について、アメリカの他のひとたちも、私のような平和的な理解に到達されることを願っています。

このようにして私は父を「見つけました」。本を書いて、自分の知った事実を理解したとおりに語るのも、また、父とその最期の数年をもっと知るために最善を尽くしたと納得して自分のこれからを生きることも、私には必要でした。自分のこころに理解したことをひとにも伝える、それもまた大切でした。

過去を理解すればより強くなれます。そうすることで私たちはみな、よりよくなれるからです。


* ハイジンガー大佐は2006年5月1日に逝去しました。


第二次大戦で父親を亡くした日本の友人より

親愛なるデュエイン、

貴方から最初の電子メールを頂いたのは2003年の9月3日でした。それが私達二人の連絡と友情の始まりでした。その一週間後には貴方のお書きになった著書、「Father Found」が届きました。読みながら私は涙が止まりませんでした。多くの捕虜の人々の苦しみに私の胸は張り裂けるようでした。読み終えて私は声も出ませんでした。中でも73ページに掲載されていた方のご家族の写真を見た途端、迫る思いがありました。それは1941年4月21日に撮影された貴方のお父様がフィリピンに向けサンフランシスコを出港なさる時のものです。お父様との最後の写真と承りました。貴方が10才の時でした。その写真を見て、瞬時に私の胸に呼び起こされた写真があります。それは1943年の8月に広島県の厳島神社で撮影された父の私達との最後の写真です。その写真撮影の後、父はペナンに旅立ち、二度と戻る事はありませんでした。私の父は1944年7月17日、英国潜水艦の雷撃を受け、ペナンとシンガポールの間で乗っていた伊号第百六十六潜水艦と共に海底に沈みました。私が3才の時でした。

              
鶴亀氏と父親(右端)

その後の貴方からの電子メールによる励ましや著書から得た情報は私の父と87名の戦友と伊号第百六十六潜水艦を捜し求める旅の良き案内役となりました。日本からマレーシアからオランダからアイルランドから英国と旅を続ける間中、ずっと貴方の著書は私と一緒にありました。貴方を始め多くの方々のご支援のお陰で、私の調査は大成功に終わりました。父の子供時代の生活から父の初恋物語、母との出会いと結婚、19年間に渡る海軍生活、そして最後の死の日まで、父の38年の命を辿る事が出来ました。また思わぬ出会いもありました。父の潜水艦は1941年のクリスマスの日に、ボルネオ沖でオランダの潜水艦、K−16を撃沈していますが、その乗組員のご遺族にも会う事が出来ました。今では私と一つ違いのそのお嬢さんと兄妹みたいな親しい友人となりました。驚くべき発見もありました。父の潜水艦を沈めた英国潜水艦テレマカスの艦長さんとの出会いです。現在も94才でご健在でアイルランドにお住まいである事が判り、すぐ訪ねて行きました。15世紀に作られたお城の中にお住まいでした。今年8月には日本、オランダ、英国という三つの国の三つの潜水艦の三つの家族の三つの世代がアイルランドに集い、一緒に平和と友情の木をお城の中庭に植えました。

私の調査の旅で私は元英国海軍の将校で日本軍の捕虜として終戦までシンガポールの捕虜収容所で数々の屈辱と苦難を受けた方と出会いました。彼は今年3月、和解と友情の旅で日本を訪れました。たまたま東京で出会った私の依頼を受け、テレマカスの艦長さんを探し出してくれました。オランダでは父が日本軍捕虜として釜石で強制労働に従事していた方と会いました。彼の母親は一般市民でしたが、インドネシアの収容所で亡くなったそうです。心動かされる話を聞きました。まだ幼い少年の彼が、死につつある母親を慰めようと思い、「自分が大きくなったら、必ず日本人に仕返しをするから」と言うと、彼女は「憎しみからは何も生まれない。赦しなさい」と諭したそうです。彼は母親のその言葉に従うように努め、自分の心と格闘しながら、長い時間を掛けて乗り越え、現在はオランダと日本の友好のために尽力しているそうです。前述の和解と友情の旅で出会った元捕虜の子供達とも親しくなりました。現在でもメールのやり取りが続いています。貴方はメールの中で、「自分はキリスト教信者として、常にどこにあっても和解の道を探らなければいけない」とおっしゃっています。それは人間として最も崇高な事だと思いますが、同時にまたそれは言葉に尽くせないような悲惨さを経験なさった多くの捕虜の方には極めて困難な事であろうと思います。

来年8月15日は第二次世界大戦が終了し、60周年を迎えます。研究者によりますと、世界中で五千万人以上の犠牲者が出たと言われます。私は捕虜の皆さまの為に制作されたこのホームページが世界の多くの人に読まれ、和解と友情と平和のために私達を導いてくれる事を心から祈ります。有難うございました。

 

愛と友情を込めて、

 鶴亀彰


1941年4月21日サンフランシスコから出発するハイシンガー氏 
(左から)ハイジンガー氏の母、ダグラス、ハイジンガー氏、ゲーリー、母グレース、デユェイン