ラルフ J. ホレウィンスキー


1921年ミシガン州ゲイロード生まれ

- 米海兵隊 ウェーク島防衛第一大隊
-
「浅間丸」、善通寺、大阪梅田収容所

 

インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 3:39
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ミッドウェーとグァムの間にあるウェーク島は1941128日(ハワイ時間7日)、日本機による最初の攻撃を受けた。当時ウェーク島 を守備していたのは海兵隊449名 、海軍69名 と陸軍6名で、その他に1100名余りの民間 契約労働者が飛行場を建設していた。日本軍による1211日の第一次 攻略は反撃したが、23日の第二次 攻略は成功した。4時間の 戦闘の後、米軍は降伏して捕虜になった。捕虜の大半は19421月「新田丸」で日本と上海に輸送され、残り の捕虜は後日、日本に送られた。194310月、島に 拘留されていた98の民間人が機関銃で射殺された。戦後、日本軍指揮官は戦犯として裁かれ、処刑された。

ウェーク島の防御戦で果敢に戦い、その後日本軍の捕虜になった元海兵隊伍長ラルフ・ホレウィンスキー氏は、最近のインタビューで次のように当時を振り返った。

どうして海兵隊員になったのですか。

私は1921年に生まれ16歳で高校を卒業しましたが、当時は仕事が何にもありませんでした。それで18歳になるのを待って志願したんです。サンディエゴで一年半の訓練を受けた後、私たちの部隊は1941年の11月にウェーク島に送られました。

当時のムードはどのようなものでしたか。アメリカと日本の間に間もなく戦争が始まりそうだという予感はありましたか。

ええ。たぶん日本と戦争になるだろうという話は、私たちの間でいつもしていました。

真珠湾攻撃のことはどのようにして知りましたか。

128日(ハワイ時間7日)の朝食をちょうど食べ終わったころ、 警報が鳴り響き、真珠湾が攻撃されたと放送されました。島には陸軍が、ラジオなどの通信施設を設置していたんです。「これは演習ではない、我々は本当に攻撃された」と放送されました。

でも真珠湾で受けた被害の実態がすぐわかりましたか。というか日米がその後突入していくことになる全面戦争の可能性を実感なさいましたか。

いいえ。そのときは分かりませんでした。私たちの多くは、「この戦争は長くは続かない」と言い合ったものです。私自身、たぶん戦争はウェーク島での自分の兵役期間が終わる前に決着がついているだろうと、思いました。

それがお昼近くになったら、爆撃機が現れたのです。私たちは飛行機の型式を識別する訓練をまだ受けていませんでした。それでその飛行機が飛んでくるのを見たとき、隣にいた 兵士が「あれは(米軍の)B-17だよ」と言ったのです。私は「違う!」と言いました。爆撃機は私たちの飛行場の全ての施設を爆破してしまいました。

日本の爆撃機がウェーク島に襲来したのは、真珠湾攻撃を知ってから本当に数時間後のことだったのですね。

ええ。たった4時間後のことでした。

その後数日経って、日本の軍艦が私たちを砲撃しました。1211日、海兵隊の中尉が、海岸のそばの大砲に弾薬を運ぶ者がいないので、そこに行くようにと私に命じました。最初私はいやだなと思いました。島のいたるところで砲弾が炸裂していましたから。でも日本の軍艦に私たちの砲弾が命中し、 爆発を起こして一分くらいで沈んでしまったのを見て、嬉しくなりました。私たちは日本軍の最初の攻略を撃退したのです。 

(詳細は下記「ウエーキ島の戦い」を参照)

23日に日本軍がまた攻撃してきました。一隻の船が海岸線にとても近づいてきて、もう 一隻が横付けになりました。彼らは夜通し砲撃してきました。私は3インチ高射砲で日本の船をめがけて撃ち返しました。夜明けになって、日本軍が上陸してきました 。敵が近づきすぎたので、私たちは高射砲台から降りて、小銃で応戦しました。9時頃に飛行機が飛来し、私たちのいた場所を機銃掃射しました。私は負傷し、私の両側にいた仲間は戦死しました。10時に、私たちは降伏しました。

ずいぶん淡々と話されますが、ウェーク島の戦いに関して私が読んだ本に、あなたが守備にあたった3インチ高射砲での様子が次のように書かれています。

2時間半にわたり、ハンナ中尉 指揮下の高射砲で戦った兵士たちは、苦戦しながらも敵を上陸地点に釘付けにした…。誰も生き延びられるとは考えていなかった。撃ち合いが繰り広げられるこの小さな空間にいたのは、あまりにも多くの日本兵とあまりにも少ないアメリカ兵だった。「結末は初めから決まっていた。」戦後、ハンナ中尉はそう語った。「そこから生きて出れないことを当然と考えていた。もう我々はどこへも逃げられなかった。全く絶望的状態であると感じ、もう開き直ってとことんやろうじゃないかという心境だった。」

ホレウィンスキー伍長も似たような思いを抱きかけたが、すぐその思いを振り払った。もし死が避けられないとしたら、少なくとも彼は、最期の瞬間に名誉をもって振舞い、できるだけ多くの日本兵を道連れにしようと考えたのだった。 

        
--John Wukovits, Pacific Alamo, New American Library, 2003


ホレウィンスキー氏が撃ったものと同型の3インチ高射砲
写真提供:ラルフ・ホレウィンスキー

大変な戦いだったのですね。最も記憶に残っているのはどんなことですか。

日本兵が一人わずか7メートル足らずのところまで近づいてきて立ち上がりました。私が 小銃で撃つと彼は倒れました。別の兵士が立ち上がり、倒れたばかりの戦友を見ました。それで私は彼も射殺しました。私の背中に手榴弾の破片が突き刺さりました。私はそれに気が 付かずにいたのですが、背中を血が流れていくのを感じました。それから日本機が頭上に飛んできて、私たちの持場を機銃掃射しました。私は片足を撃たれました。隣にいた民間人は胸部に夥しい弾丸を受け、彼の体は空中に放り出されました。もう一人の民間人も 戦死しました。飛行機がまたやって来て、今度は両方の足を撃たれました。機は旋回してまた戻ってきましたが、私は頭を伏せて死んだ振りをしていました。

降伏するまで、体中4か所を撃たれたそうですね。いったいそれはどんな体験でしたか。当時19歳か20歳だったそうですが、どんなことを考えていたのですか。

20歳でした。本当に、なんと言って説明してよいか難しいですね。高射砲の配置について戦っているときは、もっと生命保険に入っておけばよかったなと、思ったりしました。家族は、自分がどこで死んだかわかるだろうか、とか。特に恐怖は感じませんでした。

それでは20歳の若者であったあなたは、戦争が始まってわずかの間に、この太平洋の小さな島で死ぬであろうという運命を、受け入れていたのですね。

ええ。とても簡単なことでした。両親や妹を、日本軍のアメリカ侵略から守るために…。当時は単純にそう思えたんですよ。

降伏して捕虜になったときのお気持ちを覚えていらっしゃいますか。

私が覚えているのは、「もうこれで死ななくていんだ」と考えたことだけです。降伏したとき、私の小銃には弾が3発しか残っていませんでした。

私の傷はとてもひどく、日本軍は、私を他の大部分の捕虜と同じ船で日本に送ることができませんでした。私は後になってから、外交官交換船の「浅間丸」で日本に送られたのです。

「浅間丸」での航海はいかがでしたか。「地獄船」のようでしたか。

いいえ。待遇はとてもよかったです。プールなどもありました。

何人ぐらいの捕虜が一緒だったのですか。

ウェーク島からこの船に乗った私たちのグループは20人でした。日本に着いた後、大船の尋問収容所に送られました。

そこではどのような取り扱いを受けましたか。

仲間うちで話すことは禁じられました。毎日茶碗一杯のご飯を、一日2回出されました。看守はあまり友好的ではなかったと、言わなければなりませんね。一ヶ月くらいして、プロパガンダ収容所である善通寺収容所に送られました。そこでは、毎日食パンが出たんですよ。

そこで働かなければならなかったんですか。

いいえ。私の背中の傷は2−3年治りませんでした。やっと機銃弾を取り出して貰えたんですが、その傷跡が化膿して手当てが必要 でした。ですから、日本人は私を働かせませんでした。善通寺での待遇は、全体的に見てよかったと思います。それから潜水艦を製造 していた多奈川の収容所に移されました。

それから私は大阪梅田の収容所に行きました。私の班長が、私を調理場での楽な仕事につけてくれました。ここで面白いエピソードがあったんですよ。民間人の現場監督で、みんなから嫌われている日本人がいました。私は収容所でもらった下剤を持っていたので、ある日彼が食べるご飯の下に混ぜておいたんです。彼はそのご飯を食べたのですが、次の日私たちが仕事に出ると、彼がいないんですよ。別の日本人が、彼が33年間で初めてに病気になった、と言いました。お腹の具合が悪くて、仕事に出てこれなかったのです。「うまくいった!」と私は思いました。実際彼が 勤めていた三菱は、30年勤続賞として、彼に時計を授与したばかりだったのです。
 

  
善通寺
収容所でのホレウィンスキー
    写真提供:
Roger Mansell


それから私がいつも楽しく思い出すエピソードもあります。私たちは毎日電車に乗って労働に行っていました。ある日電車に乗り込むと、反対側に
20歳前後の日本の 娘さんたちが乗っていました。15人から20人位いたでしょうか。日本人監督が私たちをこの女性たちと同じ電車に乗せたことに、私たちは驚きました。ドアが閉まった後、私たちは彼女たちの方に近づいていき、彼女たちも私たちにうちとけてきました。私たちの仲間の何人かが、彼女たちを抱きしめたりキスしたりしましたが、それが電車中に広まり、目的地に着くまで続いたんですよ。

日本女性たちは、それをさせたのですか?

ええ。それは楽しいひとときでした。でも、翌日は彼女たちと同じ電車に乗れず、私たちは皆がっかりしたものです。

それから私たちは裏日本の北の方の収容所に移動しました。1945年の818日だったと思いますが、赤十字の職員が収容所に来て、戦争が終わったこと、私たちが帰国できることを伝えました。97日に私たちは汽車に乗せられて、横浜港に着きました。厚木飛行場からグアムに、そしてハワイに飛びました。私は、本国に帰還した最初の捕虜グループの一人でした。翌年、解放された一周年記念日に、海兵隊の看護婦だった今の妻と結婚しました。

捕虜だった日々を過去のものとすることは、簡単でしたか。恨みを抱くことはありませんでしたか。

ええ、割と簡単でした。恨みのような気持ちも抱きませんでした。私には、捕虜だった間にたたかれたり殴られたりした記憶がないんです。そのような目に遭わなかった捕虜は稀だと思いますが、私には一度もなかったんです。その理由の一つは、私が背中に負傷していることを、彼らが知っていたからだと思います。日本人は、負傷兵には敬意を表していました。

海兵隊には戻られなかったんですね。

はい1947年にミシガン州の故郷の町の郡保安官に立候補しました。ミシガン州史上最年少の保安官になったんですよ。それから34年間勤務しました。

捕虜体験が、法執行者としてのあなたに何がしかの影響を与えましたか。

ええ少し。日本で私はいつも空腹でしたので、郡の留置所に入っている囚人にはまともな食事を与えるようにしていました。私の前任者は、缶詰のスープを開けてそのまま手渡したりしていたのですが、私たちはそんなことはしませんでした。ほとんどの場合、 家内が調理をしていました。

インタビューさせて頂き、ありがとうございました。

2005423日                                 
インタビュアー:徳留絹枝

 

 
最近のホレウィンスキー 氏


ウエーキ島の戦い:日本側の記録から

菅原 (海軍史研究家)

ウエーキ島は東京の南東1,600浬、ハワイの西2,000浬、日米間に戦争が勃発すれば、アメリカの日本本土に対する最前線基地になる位置にあった。逆に日本がこの島を占領すれば、アメリカは太平洋の重要拠点を失うことを意味した。

1941(昭和16)年、日米間の情勢が険悪になるにつれ、アメリカは急速に同島の防備を強化し、海兵隊第1大隊388名の増派、海岸防御設備の増強、飛行場の完成、また開戦直前、空母「エンタープライズ」によるグラマンF4F戦闘機12機の輸送を実施した。

日本もハワイ奇襲とともに同島を占領する必要性を認識した。そして同島の攻略に第6水雷戦隊・旗艦(軽巡)「夕張」、駆逐艦「追風」「疾風」「睦月」「如月」「弥生」「望月」6隻、輸送船「金竜丸」「金剛丸」2隻、第3233哨戒艇2隻、陸戦隊2個中隊560名、支援部隊軽巡「天竜」「龍田」等が参加した。

上陸作戦開始前の128日から10日までの3日間、マーシャル諸島所在の陸上攻撃機約30機による同島の爆撃が連日実施されて相当の損害を与えたが、F4F4機残存し、ピーコック岬とウイルクス島砲台は健在であった。しかし、日本側は航空勢力は壊滅したものと思い、航空部隊の支援は不要と判断した。これは開戦前に実施した図上演習の結果、グアム島の攻略は容易ではないが、ウエーキ島は鎧袖一触という結果が出ていたためかも知れない。

128日にマーシャル諸島を発進した日本の攻略部隊は、12102300頃ウエーキ島の沖合に接近、上陸命令が下された。当時は本船の舷側から上陸用舟艇をロープやワイヤーで海面に降ろした後、兵員を縄梯子で移乗させていた。この日は視程10キロ、風向東14米、波浪・うねり大であった。そのため、輸送船から上陸用舟艇を降ろす作業が捗らず、上陸時刻を夜明け以降に変更し、0325艦艇による同島の砲撃を開始した。米軍の反撃がなかったため、輸送船は更に岸から2~4キロまで接近したところ、0400に同島の4つの砲台が一斉に猛烈な射撃を開始し、0403「疾風」は轟沈、「追風」「弥生」も死傷者を出した。F4Fは機銃掃射で「天竜」「龍田」に損傷を与え、攻略部隊は上陸を断念せざるを得なくなった。そして退避中の0542、「如月」は爆撃で沈没した。

かくして、同島の第一次攻略作戦は頓挫した。ハワイやマレー沖で日本海軍の航空部隊が赫々たる戦果を上げていたときに、太平洋の孤島では3隻の巡洋艦を含む艦隊が、「たった四杯の蒸気船」ならぬ4機の戦闘機に翻弄されたとは、まったく皮肉と言わざるを得ない。

連合艦隊は、ハワイ奇襲から帰投途上の第1航空艦隊に命じて第2航空戦隊の「蒼龍」「飛龍」を分派し、ウエーキ島の攻略を支援させた。攻略部隊も喪失した駆逐艦2隻を「朝凪」と「夕凪」で補充し、特別陸戦隊も1個小隊を増強、1223日を目標として再挙を図った。

上陸に先駆け21日朝、2航戦は艦上爆撃機29機、艦上攻撃機2、零戦18機をもって同島を攻撃したが、うるさく反撃するF4Fとは会敵しなかったので地上施設を銃爆撃した。翌22日は艦攻33機、零戦6機が攻撃に参加したが、護衛の戦闘機数が不足した。このため、反撃した2機のF4Fに不意を衝かれ、艦攻2機を喪失した。しかし、アメリカも最後の2機が未帰還となった。全機を失ったプットナム海兵隊少佐はパイロットや整備員の部下20名とともにカニングハム海軍中佐の指揮下に入った。

23日午前1時頃上陸に成功した特別陸戦隊員3個中隊約800名は、米海兵隊の熾烈な抵抗を受け、海岸線に釘付けとなり戦線は一時膠着したが、主力と分離してピーコック岬の西側に0400に上陸した決死隊約60名は、飛行場の東側を北進し、海兵隊大隊長デペルクズ少佐、続いて指揮官カニングハム中佐を捕虜にした。今や劣勢のアメリカ軍は水上艦艇で包囲されていた。0925、全島のアメリカ軍は降伏し、戦闘は終結した。アメリカの死傷者50余名に対し、日本の死傷者は220余名に達した。

ウエーキ島守備隊の健闘はアメリカ国民を感動させ、負けたアメリカの方が意気高揚したという。

参考文献
「戦史草書」中部太平洋方面海軍作戦<1>・朝雲新聞