1943年パナイ島 宣教師ら処刑事件をめぐる対話 2011:
米元ゲリラ将校の娘・元日本軍将校

I,IIV. 伊吹由歌子 III. 熊井敏美 IV.スーザン・ファーティグ・ダイクス
 

I. 「希望の谷殉教」事件と熊井氏のパナイ・ゲリラ戦の記録英訳プロジェクト

2011年6月23日は私にとって素晴らしい感動の日だった。日本軍の冒したある残虐な行いのシンボル的存在であったスーザン・ファーティグ・ダイクスさんとピッツバーグの米捕虜次世代の大会で、じかにお会いすることができた。「希望の谷殉教事件」としてアメリカで知られるこの事件は、194312月にパナイ島で起きた。よき友で、Victims of Circumstances=「偶然の犠牲者たち」(サント・トマス民間人抑留収容所の記録DVD)製作者であるルー・ゴーパル氏より、2002年、私はショッキングなこの事件の証言を与えられていた。そして2003年、元パナイ島守備隊副官、熊井敏美元大尉の著書を読んだ。著者が従軍したパナイ島におけるゲリラ戦をこの事件を含み日本軍側から書いたまともな記録で、ぜひ関係諸国の人々と共有したいと願った私は、著者に手紙を書き英訳の許可をお願いした。幸いにも熊井さんは承諾してくださり、編集の労をとることを快諾されたマリア・ルイザ・マブナイ教授(比国立大ヴィサヤ校)を紹介してくださった。加えてマブナイ教授は、日本軍占領下フィリピンの権威・歴史学者リカルド・T・ホセ教授(比国立大マニラ・ディリマン校)を陣容に迎えて始めの数章への註釈をいただくことができた。こうして英訳は2009年3月、限定出版のかたちでパナイ島イロイロ市において印刷された。「The Blood and Mud in The Philippines: Anti-Guerilla Warfare on Panay Island」原書の出版は1977年、「フィリピンの血と泥:太平洋戦争最悪のゲリラ戦」(時事通信社)である。

              
フィリピン中央大学構内の「希望の谷」殉教事件の記念碑Hopevale Story, 子供を含む17名の犠牲者氏名Hopevale Martyrs

この本のp110に以下の記述がある:

討伐隊がアクラン川の支流沿いに南下中、ひげだらけのアメリカ人にばったりと出会った。やぶれた半スボン姿、はだしで足を傷つけびっこを引いていた。渡辺大尉はこのアメリカ人を自ら厳しく取り調べた。キングと名乗ったアメリカ人は「ゲリラの将校だったが、日本軍の討伐で自分の隊は四散した。アメリカ人であるため、ゲリラも住民も目立つので面倒を見てくれず、あえもなく、川縁をふらふら歩いているうち日本兵とばったり出会った」と述べた。キングの話から、カリノグ北方一三キロのエグエ付近には多数のアメリカ人が隠れていることがわかった。

渡辺大尉は直ちに全員をエグエ付近に急行させ付近一帯を捜索した。やがて部落の中から十数人のアメリカ人が連行されてきた。中に五十歳近い夫婦と十二,三歳ぐらいの少年を連れた一家もいた。これらのアメリカ人の取調べでさらに奥の部落にもアメリカ人が隠れていることがわかり、その捜索に私の小隊が出動することになった。

私は休みなしの捜索で疲れきっていたが、兵を励まして強行軍、案内の住民を連れて暗闇の山道を這うように歩いた。やっと目的の部落に着いてみると住民はもとより、アメリカ人もすでに逃亡していた。また、重い足を引きずり、真夜中になってやっと本部にたどり着き、ニッパハウスの床下に死んだように眠った。翌朝部隊が出発するとき、捕らえたはずのアメリカ人の姿が見えないので、本部付きの下士官に聞くと「渡辺大尉が全部処刑しましたよ」と教えてくれた。私は捕虜のアメリカ人は当然マニラの捕虜収容所に送られるのでは・・・・と思っていたので、渡辺大尉の残虐なやり方に憤激した。私の隊員たちもこの話を聞いて「民間人とわかる一家三人まで殺すとは・・・・」と同情し、腹を立てた。

このアメリカ人の処刑については部隊長も渡辺大尉も気がとがめるのか、事実について口を閉ざしたまま誰にも語らなかった。後日になって、あの時、アメリカ人逮捕を軍司令部に報告すると、その手続き、身柄の扱い、マニラまでの護送など面倒なことが多くなるので、渡辺大尉は守備隊司令部にだけ報告、命令により、これをうやむやにするため処刑したらしいとの噂を聞かされた。

[上掲書p110 戸塚部隊パナイ島統一討伐経路図(1943年7月3日~12月31日) ]

(2)スーザン・ファーティグ・ダイクスさん 

スーザンを知ったのは、パナイでフィリピン部隊を訓練し、ミンダナオで捕虜となり、輸送船で亡くなった父を持つジョン・B・ルイス氏 (彼の父親の体験を介してで、永年のサポートへの感謝にこの本を一冊贈呈して後、「パナイのジャングルでバナナの葉に生まれ落ちた女性だよ」と紹介してく[ださった。彼女の誕生日は1944年1月9日、「希望の谷」事件からわずか3週間後である。スーザンと私はメール交流を始めてすぐ本を交換した。熊井さんの著書英語版とルイーズ・スペンサー夫人著「ゲリラ・ワイフ」。その著者は献身的な地元民に助けられつつ、スーザンのご両親クロードとラヴァーン・ファーティグ夫妻と、困難な隠れ家生活、安全への逃避行のすべてを共にした方である。この本は著者と彼女の周囲の人々の真っ当で勇気ある精神を伝える。その後スーザンは新書を紹介してくれた。その後スーザンは新著も紹介してくれた。2次的参考文献に熊井著書もあげられているスコット・ウォーカー著「The Edge of Terror(恐怖の淵)」で、著者は個々の犠牲者とその家族について、生存家族の数名にも取材し克明な調査をしている。そのひとりずつを克明に知ることのショックは大きく、私は数ヶ月この本を置かざるを得なかった。話し合いへの信念も揺らぎ、スーザンにさえ長いこと書けなかったのだが、2010年の受難節に短くメモのような文を送ったところ、彼女から非常にやさしく、神様の愛への信仰にたつ慰めの言葉がかえってきた。

2011年4月9日バターン米軍降伏記念の日、レスター・テニー博士がDG ADBC(Descendants Group American Defenders of Bataan and Corregidor バターン・コレヒドール防衛米兵・次世代の会)のメイリング・リストに寄稿した。「なぜ私が?」戦友の多くが日本軍の残酷な処遇で命を落としたのに、自分が生かされ帰還したのはどうしてか絶えず問い続けていると。すぐにスーザンが応えた。「私もまた40年間同じ問いを続けたが、ある日突然気づいた、神の愛が自分に十分であることを知り自分にできることをしていればよいのだ。」丁度ピッツバーグで開催のADBC次世代の年次会に出席登録するところだった私は「会いませんか」と彼女に申し込んだ。スーザンが同意してくれて夢は実現することになった。

(3)熊井さん 対話に参加

対面が確定すると、私は今度は冷静にThe Edge of Terrorを再び読み始めた。読み終わり、2冊の本を熊井さんに紹介した。強い関心をみせ彼は関連箇所を読み、あの状況のなかスーザンが誕生したことを知って大変に驚き喜んだ。彼女が無事に生まれたのは信じがたいほどだ。彼女の父を追っていたに違いない自分だが、私はあの任務に失敗してとても嬉しい。いまではスーザンは一番会いたいひとだ。熊井さんはスーザンさんがもし望めば、と2,3枚の近影を用意し、私にはなぜか手元にあったからと10ドル札を1枚くださった。インターネットをしない熊井さんは、コーヴェル師の顔は覚えているが、彼の名をはじめ犠牲者全員の名をこの2冊の本ではじめて知ったのだった。

熊井さんと最初にお会いしたおり、彼はすでにその場にきておられ、「可哀想なことをしたと思ってね」と初対面ののっつけから真剣なまなざしで、最近ラジオの早朝番組でたまたま上記URLの話を聴いたと話された。この日の熊井さんは想いに沈んでいた。自分に近寄ってきて流暢な日本語で「お手伝いできることがあれば言ってください」と話しかけたひとを第一級の紳士としていまもはっきり覚えているという。こんな山奥でこんな日本語を聞き驚く熊井さんに自分は横浜の大学で教えていたと語った。このひとなら討伐隊長渡辺大尉も気に入るだろうと隊長に紹介、渡辺大尉も捕らえた人物に好印象を受け、大物を手中にした誇りとマニラ司令部からの顕彰を予測し上機嫌だったという。

ピッツバーグの一晩と半日、スーザンと私はこもごも話し合った。明晰な頭脳と暖かいチャーミングな人柄の彼女はこのころは教会で働いていた。以前、米国国際開発局で働いていた当時はセルヴィア、モンテネグロ、コソヴォなど戦争の傷を負った地域を訪ね、クロアチアとボスニアには紛争のさなかとその後の6年、別な組織の一員として住みこんで働いた。90年代には会議で日本へきて慰安婦問題で首相官邸の会見にも臨んだ。笑顔で熊井さんの写真を受け取り彼へのメッセージを書いてくれたのは感謝だった。非常によいときを過ごし、二人とも次の大会での再会を楽しみにしている。

スーザンのメッセージを読んだ熊井さんはとても喜んだ。私の不在中に彼は真珠湾攻撃隊の総隊長をつとめた元日本海軍パイロット・淵田美津雄牧師が、コーヴェル一家の話を聞き、元ドゥーリトル爆撃隊員、デシェイザー牧師に会い、クリスチャンとなった回想記を読んだ。いま熊井さんは「希望の谷殉教事件」が日本でもっと知られ覚えられるように努力する、これが私の最後のご奉公と熱意を燃やしておられる。淵田氏がこれをルソン島の事件と聞き伝えていることも、熊井さんの真実を伝える願いに拍車をかける。彼の平和への願いは、パナイの米ゲリラ将校の娘、スーザンを知ってさらに拍車をかけられた。

翻訳をはじめると熊井さんは信頼のおけるアドヴァイザーで正確な記憶力、リーサーチに基づいた深い知識、つちかったパナイ人脈をお持ちだった。耳が遠いが、必要な資料はすべて整理しておられ、疲れを見せぬ集中力があり、忍耐強く、謙虚でひとへの思いやりと強い責任感の持ち主である。彼は専門学校で林業と農芸化学を学び、1942年3月フィリピンへ補充の機関銃小隊長として送られてからは、戦争のさまざまの場面で何とか英語でコミュニケーションをとることができた。(熊井さんのバターン戦記英語版:www.kumaibuki.com)日本語でも英語でもその軍隊用語の知識には助けられた。著書の英訳版が二人の多忙な教授の大変な努力で進むなか、熊井さんは山奥の慰霊碑をイロイロ市に移す永年の願いを、ご自身が集めた資料をもとにした戦史ミュージアムの開設とともに可能にするスポンサーと出会われた。仏教ご住職のこのスポンサーとは、戦前からフィリピンにいた邦人の研究を専門とするマブナイ教授の論文をとおして知り合われたのだった。(2009年パナイ訪問英文レポート:www.kumaibuki.com
 

                    
          スヤック邦人自決記念碑で2001年コンペソール知事の甥         マブナイ教授と2009年3月イロイロ市PNV
 

1945年3月、パナイ島への米軍上陸のおり、日本軍守備隊は食料と水のあるボカリ盆地へ退却し立てこもった。イロイロ市を焼くことなく破壊をまぬかれた軍関係書類は、現在は米軍から返還され防衛省戦史研に保管されている。(数年まえ、そのうち慰安婦関連資料は学者・研究者により梨の木舎から出版された。)九月はじめ守備隊は命令伝達を受けて降伏し、熊井さん他の将兵たちはやがて戦争犯罪容疑で捕らわれた。ゲリラ戦により住民1万人が巻き添えとなり犠牲になったためである。熊井さんは25年の刑を受けて巣鴨に1954年まで服役した。部隊長とともに死刑判決を受けた親しい同僚たちもある。

II 熊井敏美氏の戦後から現在まで

戦後、熊井さんは化学技術者としてどうにか復職することができ、結婚し家族をなし、やがて化学物など危険物の航空輸送を扱う小さなビジネスを立ち上げた。戦時中の経験がすべて役立ったという。一方で、1970年代からはパナイを再訪しはじめたが、それは女性・子供・老人を主体に邦人40名あまりが安全を求め、部隊についてボカリへと歩き続けたものの途中で力尽き集団自決した1点の場所探しから始まった。遺族の数人がパナイ守備隊生存将校のうちで最も高官の熊井さんに協力を求めたのである。

パナイの元ゲリラ将兵たちの協力を得、熊井さんと生還した仲間たちは6人の子供たちがスビック地域の住民に助けられ成人しているのを発見し、そのうち数人は日本に家族もみつかった。彼らはまたできる限り日本兵の遺骨を探して持ち帰り、フィリピン、日米の戦争犠牲者を追悼する記念碑をいくつか建立したが、それらが朽ちた現状に心を痛めている。2009年のパナイ訪問は6回目だった。

熊井さんは最近、WAM(女達の戦争と平和資料館http://www.wam-peace.org/english/)での第9回特別展「フィリピン・立上がるロラたち:日本軍に踏みにじられた南の島から」に協力、617日オープニングでのスピーチ、109日の講演と質疑の会をした。7月7日、この企画を機会にマニラから来日したフェリシダドさんらと展覧会場に集い、14歳のとき、小学校へきた日本兵からおもちゃを餌にだまされ日本軍宿舎に三日間拘留・レイプされた彼女の体験に熊井さんはショックを受けた。

                                                                    (スーザンと私) 
 


フェリシダド・デ・ロス・レイエスさんとLila Pilipina代表レチルダ・A・エクストレマドラさんを囲んで
2列目左端はWAM館長池田恵理子さん

8月、パナイ島アンティケ州に住む85歳の祖母の誕生日に、熊井さんからメッセージがほしいとその孫娘からメールで依頼がきた。祖母フロレシータさんと妹たちはアンティケ州の有名な美人で、イロイロ市の日本企業で働いていた。(熊井著書p112)彼女は熊井さんの部下のひとりと淡い恋仲であり、戦後の日本軍遺骨捜索では彼も熊井さんと共に働き、フェリシータさんのご主人も協力してくださった。お祖母さまのビッグ・スマイル間違いなし、とカレンさんの言うメッセージ、お許しを得て引用させていただく。

フロレシータさん 
85歳の誕生日おめでとう。今日こうしてお祝いの言えること 戦時を思えばこれ夢のようだね。 戦争は悪であり、このような時代のないことを祈っている。この悪い戦争によってあなたは私の親友になった。 日本の軍人がアンチケの美人と友達になることはパナイの歴史にはもうないと 私は信じています。 
健康と長寿を祈ります。     

8月15日                                                          熊井 敏美
 

この記事は夏に書き始め、外務省「捕虜と日本人友好プログラム」による米、豪の元捕虜招聘で中断、12月に再開して19日、熊井さんにお会いした。WAMに協力するうち、同じ敷地内にバプティスト・ユニオン東京本部があると知った彼は、122068周年の記念日に会見の約束をしており整えた資料をもって記念事業の依頼にゆくところだった。関東学院大学では学生食堂にコーヴェル・ホールと名づけているが、これでは不十分と熊井さんは考える。心臓の不調が悪化しているが、恒のように、彼の精神は強く敏捷で、明るい。「急がなくてはならんのです。」
 

III.熊井敏美氏の知る「希望の谷」殉難事件:

19432,14軍司令官として新たに着任した田中静壱中将は幕僚たちとパナイを視察した。セブ市守備隊の井上少将の忠告を無視して一行は高級車を連ねハニワイ地域を強行視察の結果、ゲリラに襲撃を受け、司令官が泥に這いつくばって逃げる屈辱を受けた。194377日から1231日、報復的な統一パナイ大討伐が行われた。「希望の谷殉難事件」はその終了間際に起きた。戸塚良一大隊長はすでにイロイロ市に、渡辺英海参謀はセブ市に帰還し、戸塚部隊の他の二つの中隊は違うルートでイロイロに帰還しつつあった。

パナイ統一討伐隊本部中隊は三つのセクションからなった。本部スタッフは渡辺大尉以下、剣の達人・大塚准尉、英語とビサヤ語の通訳2名、通信、暗号班の数名、ほか荷物運びや密偵の地元民など12,3人。本部小隊は約35人の現役兵からなり桑野曹長が小隊長、本部雑兵約30名を臨時小隊として部隊長討伐副官である熊井中尉が小隊長を務め、本部中隊総勢は約80名の構成だった。

アクラン川支流でキングさんとばったり出会ったのは熊井小隊の兵だった。消耗し体力がなくびっこを引いていた。渡辺大尉による取調べの後、中隊全員がタパスにアメリカ人たちを追って移動する間は熊井小隊と行動し、小屋の中で座ると良い声で “Mama Yo Quiero”などフィリピンの歌を歌って楽しませてくれた。タパス付近へくると本部の渡辺大尉に呼ばれ、500メートルほどさきを指差した。午前9時ごろで、10時ごろには十数人のアメリカ人が捕らえられた。熊井小隊が一休みしていると日本語の堪能な紳士が自分に近づき話しかけた。

ゲリラ将校を含むアメリカ人たちがまだ奥の部落にいるとの情報をアメリカ人たちから得て、渡辺大尉が近くにいた熊井小隊長に「お前、行け。これはゲリラ将校たちなんだ。」と命令したのは昼頃だった。ゲリラによる地雷使用の待ち伏せ事件はよくあって守備隊はかなりの兵力を失っており、ゲリラ部隊には爆発物にアクセスできる数名の鉱山技師が関わっていると信じられていた。地元民を案内として部落近くに到着、暗くなるのを待って一軒づつ捜索したがすべて空家になっていた。深夜近く中隊本部にたどりつき、小屋の下で死んだように眠った。翌朝、しかし、アメリカ人たちは消え去っていた。

19448月、熊井中尉は守備隊副官となり、そのため部下となった本部の兵たち、特に通信兵たちに個人的に訊くことができた。討伐隊本部中隊の携帯する無線機は小さくて性能が悪く、渡辺大尉の「大戦果」報告はイロイロ市本部経由でセブ市に中継されねばならなかった。渡辺英海参謀も賞賛を期待しマニラ司令部に送った。マニラから直接伝えられた返信は、非難と叱責の文面で渡辺大尉は驚愕したそうだ。「すぐに付近住民の誰にも知れず処分せよ」という命令だった。戦果を狙う両渡辺の賞賛の期待とはまったく逆に、マニラ本部トップは宣教師捕獲などに一切関わりたくなかったのだと思う。それが「跡も残さぬ処刑」となった。都合のよい小屋を選び、ひとりずつ呼び入れられ、声を出す間もなく斬首されたことだろう。中隊本部にはそんな剣の使い手が二人いた。その後、遺体は小屋ごと焼かれたに違いない。すべては1220日の1日だったと記憶する。最も上品な紳士として今でもコーヴェルさんをはっきり覚えている。何故彼が自分を頼りとして自分のところへ来られ、話しかけられたのか、とよく考える。キングさんの口添えかとも思うその信頼に応えたい。

IV. スーザンさんから「捕虜 日米の対話」に寄せられたメッセージ

ユカさんと最初数回のメール交換を始めてすぐ、ふたりは友達になれると思った。最初はすこし試行錯誤があり、たぶん相手を怒らせてはと互いに怖かったのだ。しかし、こころを開いて何でも本音で語り合えることがお互い、すぐわかった。スコット・ウォーカー氏の本を読んだユカさんのように、熊井さんの本を受け取った私も少し読んでは本を置かなくてはならなかった。自分が触れてきた視点や情報とは違う角度から読むことには、厳しいものがあった。これらが起きたころ赤ん坊だった私には何の個人的な記憶もなく、両親その他、すべてを自ら体験した人たちからのオーラル・ヒストリーしか知らなくても、怒りを感じることもあった。

ユカさんがADBC大会で会おうと提案し、親切にも部屋をシェアしようと言ってくれたとき、それまで出席を考えたことはなかったのだけれども、行って彼女に会わなくてはと思った。 5時間のドライブのすえ到着し、エレベータを待っているとドアが開き、現われたのはユカさんだと瞬時にわかった。ふたりハグしたのち顔と顔を合わせて知り合おうと最初の数分を過ごせる静かな場所を見つけた。楽しかった。ユカさんは穏やかで思いやりがあり、たちどころに親しみを感じた。あの場所で彼女に会ってみるとわかるのだが、この生還者たちのグループではよく知られた人気もので二人だけで語る時間さえままならないほどだった。

熊井さんが私宛に書いてくださった手紙をユカさんが英訳して渡してくれたとき、なんとも不思議な気分になったと告白しなくてはならない。両親が生きていたら何と思うだろうか。大学でも、成人後の人生ではいつも、日本人の友人たちがいた。実は数十年まえ、夫と子供たちとの家庭に若い日本人夫婦が数ヶ月同居したこともあり、その間、その若い夫は仕事でアメリカ式ビジネスを学んだのだった。この人たちとの友情と、戦時中のパナイで自分の両親の周囲で起きたこと、また彼らの友人たちの虐殺事件との区別は、しかし、つねに私の心の中でついていた。

それが突如、これは良いことなのか自分では決めかねるひとつの人間関係について決断を迫られることになった。 この元日本人将校が両親を殺そうとしたのかもしれないとしたら?問題のかぎはユカさんだった。彼女が私たちのあいだの橋だった。彼女がコミュニケーションの仲介をしてくれて、私は熊井さんとのたやすくはないつながりを受容することができた。60年以上たったいま、私は彼との友情さえも考えることができた。これは赦しの問題ではない。私が赦す筋合いはないのである。私自身には害がおよばず、両親も殺されなかったからだけでなく、何が起きたかの判定をする立場にさえ私自身はいない。それは神のなさること、神様は諮りがたい理由から私を選んで害毒からよけさせてくださった。その神様の意図を自分が果たせるよう私はただ望むばかりである。だからいま、熊井さんと私はユカさんをとおして通信しあっており、会話は続く。

(V) 終わりに

熊井さんの願う真実の共有と記憶、そして平和への祈りに私も心を合わせ協力を惜しまず、重ねてスーザンへ感謝と愛を伝えたい。彼女の理解とサポートはアジア太平洋戦争で日本軍のもと心身の傷を受けた諸国の人々との交流と友情を願う者たちにとって大きな力である。未曾有の自然・人的災害が日本を襲った年だが、米など元捕虜たちの日本人への思いやりが外務省の第2回元捕虜と家族招聘でも強く感じられた。日本の経団連が捕虜使役の過去を認め教育基金設定を表明していただきたい。希望の未来につながるご明察であり、高潔さの証であろう。

もうひとつ書いてみたい。20112月、ブリッジ・フォー・ピースという名、神直子さんが創設・代表理事のNPOツアーに参加した。直子さんとグループによるフィリピンの犠牲者との和解活動は2007年にスタートした。比島攻略戦従軍の元日本兵にインタビューしそのヴィデオ映像をフィリピンの生存者たちに持参して見ていただくのである。その努力が徐々に認められ、2011年、直子さんはマニラ市街戦の追悼行事でスピーチをするよう、主催団体メモラーレ・マニラから招かれたのである。

多数の元日本将兵がいま深い罪責感とともに、アジア太平洋戦争の事実を語り継ぐことに熱意を示しておられる。しかし、悲しいことに、その方々の多くは実際現地に行き謝るなんて、出来ることではないと信じておられる。実際に、現地のひとが待ち望むのはまさに相手のその気持ちなのだ。人間の罪を許す神の愛というコンセプトが日本文化の一部であったことはなく、心からの謝罪を一死を持って表すほうが伝統的だったと言えるだろう。あの狂信的な戦争の終わり、多くの上官は部下に向かい、皇軍の恥を決して口にすることなく墓場まで持って行け、と命令した。元兵士たちは次世代のため、少なくとも、この呪縛からは自らを解放しつつある。

スーザンと熊井さんの間に起こっていることを見て深い感謝を覚える。マブナイ教授は対話が続くこと。。。そして未来の世代が学べるようさらに続いていくことをとても喜んでおられる。彼女は言う「こうして実現する触れ合いによって分かることがまだこんなにあるのですね。」これらが起こるよう手を貸してくださった方々すべてに心からの感謝を捧げる。最後に私の英文をより良くしようと尽力してくださったジェイムズ・ネルソンさんのご努力に心からお礼を申し上げる。
 


20111030日米捕虜と市民交流会にて:3列左端熊井さん
隣はルソン島通信隊で終戦の河村敏郎さん:最後列右から
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人目はロバート・
フォグラーさん