太平洋戦争の後64年 スビックとコレヒドールの二日間

三輪祐児さんと伊吹十之・由歌子は最近フィリピンへの短い旅をした。太平洋戦争のバターン攻防戦、また日本による米捕虜の扱いについてもっと知り、未来を考えるよすがとしたかった。当初の計画ではマリヴェリス、サマット山地域で1日を過ごし、バターン死の行進ルートの一部も歩いてみたかった。しかし初日に起きた成田空港での事故により最初の30時間がカットされた。それでも受け入れ側友人たちの絶大な助力により、2日半の旅は十分に充実したときとなった。3月24日、20時マニラ着、スビックのケヴィン・ハムドルフ氏の指示を電話で仰ぎながら夜行バスでオロンガポへ。タクシーでスビック特別市にある地元での呼び名「ベース」内のホテルに深夜無事到着した。

2009325

ケヴィンとその友人たちと朝食で落合い、ケヴィンの車で行動開始してまずヘルシップ記念碑へ。2006 1 23日の除幕式を想い、水底に沈んだ愛するものたちを憶えてたたずむ。碑への上がり口に愛らしい花々が咲き、円形の碑の周囲をかこむ低い壁にはすでにいくつかのメモリアル碑文が嵌め込まれ、ご遺族、部隊名と彼らの想いが刻まれている。デュエイン・ハイジンガー氏の大きな存在はいま地上を離れた。広やかな心で美しい祈りを捧げてくださった当時90歳のジェイムズ・ロイター神父は、とても嬉しいことにいまもマニラでお元気に活動を続けておられるそうだ。(当サイト関連記事)

       

                   スビック ヘルシップ・メモリアル訪問の願いを叶えた三輪祐児さん

 

    「戦時下に喪われた日本の商船」主宰: http://homepage2.nifty.com/i-museum/

    著書「海の墓標」の7章では当サイトの鴨緑丸・阿利山丸遺族の手記を引用している:

John B Lewis: http://www.us-japandialogueonpows.org/Lewis-J.htm

William Bowen : http://www.us-japandialogueonpows.org/essays/Bowen.jp

 

       

      円形の碑への入口に咲く花                   碑文のひとつ

 
 
次にスビック市歴史センター内のヘルシップ展示コーナーである。2006年早春、元日本兵・上田毅八郎氏の描く鴨緑丸水彩画寄贈の希望がヘルシップ慰霊碑委員会に打診された。(関連記事をご覧ください:http://www.us-japandialogueonpows.org/news-J.htm )三輪氏がスビック湾のヘルシップ記念碑建立を知り上田氏に諮ったところ、彼はすぐに新しく「鴨緑丸」を描き、ランディ・アンダーソン委員長も申し出を快諾してくださった。日本のリサーチャー組織POW研究会が輸送費を負担され、ケヴィンは上田氏のメッセージ、写真とともにローズウッドの美しい額に絵を整え、スビック湾に沈む「鴨緑丸」の絵画が、参戦した日本人の和解への祈りと共にこのコーナーに展示された。(上田メッセージと写真:http://www2.ttcn.ne.jp/~chibuki/Message from Ueda j.html)ケヴィンがカメラをすえ一同を撮ってくれた。89歳の上田さんは「ぜひ写真を」と楽しみにしておられる。

     

 左から:ケヴィン、三輪氏、伊吹由歌子・十之、
M.A.チップ・チルダーズ氏。

「ベース」はフリーポートで関税のかからない貿易ができるが、出入りには許可が必要で市警察の検問ゲートがある。ケヴィンの車は緑の多い海沿いの道をえらんでサマット山へ向かったが、結局これは断念し、高速道路でカブカベンへ。1942年4月9日にいたる日本軍バターン攻略当時、米軍第2陸軍病院のあったあたりなどをケヴィンが回ってくれたあと、コレヒドールのスティーヴ・クイチンスキー氏に手配をお願いしたバンカで彼の迎えを受け、カブカベンを出発した。快適な30分の船旅だった。



カブカベンからコレヒドールへバンカの旅:ケヴィン・ハムドルフ提供

 
コレヒドール:
2009326日           

コレヒドール島のウェイ砲台には、194255日夜11時の日本軍上陸のとき、まだ一台の12インチ砲が健在だった。 その砲を担当したウォルター・クイチンスキーWalter Kwiecinsky見習い軍曹は、1980年に再訪してそのときの体験を語った。砲弾の重さは650ポンド、彼と彼のクルーは日本軍ゼロ戦の攻撃をうけながら夜通し、126発の砲丸を込めては打ち続け、14隻ほど日本軍上陸用舟艇を沈めた。バターンからの砲弾も飛来して炸裂、破片があたりに飛び散り多くの犠牲者、負傷者を出したが、6フィート6インチのウォルター見習い軍曹は無傷だった。翌朝6時、砲撃中止命令を受けたが、熱にやられた砲身も限界にきていた。ウォルターさんはビリビッド、カバナツアンを経て、19436月ヘルシップとあだ名される捕虜輸送船Canadian Inventor号で日本に輸送され、大牟田第17分所、福岡第2分所(小倉)での奴隷労働の後、帰国した。結婚し、妻Mary Anneとのあいだに3人の子供、孫8人に恵まれ、1988年に逝去した。息子のスティーヴが有限会社Valor Toursの協力を得て2007年に設置した碑文にこれらが写真とともに掲載してある。

          

           父のライセンス・プレートの付けられたスティーヴのジープとウェイ砲台の碑文    

スティーヴが脱稿した父上の体験記の発刊が待たれるが、彼は優れた知識とガイド能力を見込まれ、聡明で美しいマーシャ夫人と共に200810月からコレヒドールに常駐しガイド活動をしている。彼らのニュースレターは冒険、自然、国境をこえた交流が満載されており、購読希望者はコンタクトをしてください: steveontherock@gmail.com 日本軍に関する戦中、戦後の事実も含め、日本からの私たち3人も彼により多くを学んだ。


                  

                 ヒルトップのマッカーサー兵舎       その時空に現れたもやの季節の太陽と虹

            

                 フィリピン・メモリアルにて          海べりに残る震洋隊 洞窟

マニラ:3月28

コレヒドールはメモリアル・アイランドの指定をうけている。熱帯性気候のなかで、記念碑、歴史的遺構の維持は内外を問わず、太平洋戦の戦友・遺族たちの共通した懸念となってきた。コレヒドールの記念碑に日本人墓地も含まれている事実は、もっと多くの日本人に知っていただきたいことだ。ルソン滞在の最後の27日、空港への途次、スティーヴとマーシャの紹介でレスリー・アン・ミュレイ夫人をマニラのオフィスにお訪ねすることができた。他の責任ある地位に加え、FAME=Filipino American Maintenance Endowment(記念碑等維持のための米比基金)の第一副会長をしておられる。彼女も現在の問題は維持すること、と仰る。子供時代はサント・トマス・民間人抑留所に収容された方だそうだ。同世代の日本人として、戦争体験に向き合い活動する有能な夫人の暖かさに親しみを感じ、日本人もFAMEなどの組織とより緊密に働くことができないだろうか、と思う。フィリピンの人々との共同プロジェクトで活動する一般日本人は多い。しかし、戦後64年、同じ戦争に従事した日米の人々のあいだにより対話が進み、太平洋戦争でおきたことを一緒に記憶し、学ぶことができるよう願うものだ。
                                            
 ミュレイ夫人

                       

                                                       ロンさんとコレヒドール・イン前で

3人の短い滞在をとおし、私はその後パナイの四日間をふくめ、すべてを素晴らしい体験としてくれた米比豪の新旧の友人たちとの交流にこころから感謝する。よりよき対話の進展のために、私たち3人は心からの願いとして、日本政府が米捕虜とその家族にも手を差し伸べ、1995年発足した英蘭豪元捕虜への「平和友好交流計画」に彼らをも含めることを強く希望する。(レスター・テニー博士オバマ大統領への手紙)

三輪祐児・伊吹十之両氏とともに 伊吹由歌子