エドワード・
ジャックファート

1921年ウエストヴァージニア州ウェルスバーグ生まれ

- 陸軍航空隊、第28爆撃飛行隊
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マレイベレイ、「鳥取丸」、東京捕虜収容所第二分所(日清製粉・川崎)

インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 3:55
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クラーク飛行場爆撃
1941年12月8日、私たちは曹長に起こされ、日本が真珠湾を攻撃したこと、わが国が戦争状態に入ったことを知らされました。私たちは全員飛行列線に出て、昼食のために兵舎に戻るまで与えられた任務をこなしました。12時30分頃食堂を出て見上げたクラーク軍用飛行場(フィリピン)の上空は、澄み切って雲ひとつない青空でした。すると驚いたことに、飛行機のエンジンの音が聞こえてきたのです。誰かが、海軍の飛行部隊だと叫びました。別の誰かが、海軍の飛行機なんかじゃない、敵機だ、と答えました。それらは約2万フィート(6600メートル)の高度で、まぶしい陽光の中にきらきら輝いていました。彼らはまるで閲兵でも受けるかのように、完璧な編隊を組んで飛んで来たのです。

彼らが間近に迫っているという警告はなく、それが視野に入ってきたときには、先頭部隊はほとんど投弾線に来ていました。爆弾は飛行場を斜めに走る形で線上に投下されました。それらはまず北西角に落ち始め、将校用兵舎の列に炸裂した爆弾は建物を破壊し、多数の死傷者を出しました。爆撃はそのまま前進し、近くにあるP-40司令部、作業工場・格納庫の地域を直撃しました。私は防空壕まで辿り着く時間がなく、付近に爆弾が雷のように炸裂する間、小さな排水路に伏せていました。爆撃がおさまるやいなや、爆撃隊がまた戻ってくる予感がした私は、より安全な場所を求めて一目散に飛行場から離れました。

爆撃隊が去った後には、燃え上がる飛行場が残されました。ほとんどの建物は爆破されあちこちで炎が上がっていましたが、消火器具もなく、兵士たちは燃え崩れる建物を前に為すすべを失っていました。負傷者の呻き声が、飛行場全体から舞い上がる煙の合間から響いていました。

ほどなく飛行場一帯にさらに多くの飛行機の轟音が響き渡り、煙の間を縫った日本軍の追撃が始まりました。追撃機は飛行場の東側の上空から侵入し、地面にわずか1メートル位まで近づいたかと思うと、機関砲追跡装置を使って停止していたB−17の列に照準を定めるや、20ミリ機関砲を打ち込みました。爆撃機がやり残した仕事を追撃機が始末していったのです。

日本の爆撃隊は40分で完璧な仕事をやり終えると、やっと退散しました。戦術基地としてのクラーク飛行場は、ほとんど全壊しました。人的被害も、負傷者約100名死亡者55名という甚大なものでした。


 爆撃後のクラーク基地

川崎空襲
その後日本軍の捕虜となった私は1942年10月、地獄船「鳥取丸」で日本に連れてこられました。

1944年11月1日、私は他の捕虜と共に、日本鋼管の埠頭で石炭船から荷降ろしをする奴隷労働作業を割り当てられました。石炭船から荷を降ろすためシャベルで石炭を袋に詰め込んでいると、短い空襲警報が突然鳴り響きました。警報が長い間鳴り続いた場合は、敵機が接近しているということで、短い破裂音は、空襲がすぐにも始まるかもしれないという意味です。私たちは全員船から避難しましたが、東京の方の空を見ると、市の上空を巨大な飛行機が飛んで行くのが見えました。日本の対空砲火がその飛行機をめがけて射撃したものの、飛行機には全く届きません。その時点で、私たちが眺めていたその飛行機の機種はわかりませんでした。でもまもなくそれがb nijuku (B-29)という飛行機であることを知ったのです。アメリカの飛行機を見るのは、数年ぶりでした。日本が近い将来空襲を受けるほど追い詰められてきたことを知り、私たちは興奮しました。それは、私たちの抑留が終わり再び自由になれる可能性を意味していました。そしてこれは始まりに過ぎなかったのです。

1944年11月24日12時30分、再び空襲警報が鳴り響きました。B−29が東京に向かって飛んでいくのを見ることができました。その日を境に、アメリカのB−29飛来を警告する空襲警報は、毎日のように鳴らされました。1945年に入ると、B−29は、私たちのいる東京捕虜収容所第二分所の上を飛んで、東京を目指していくようになりました。

最も激しい爆撃は1945年の3月に行われました。そのときも、B−29は、私たちの収容所の真上を通過して、東京に向かいました。爆弾が破裂する度に雷のような爆発音が聞こえ、私たちは火の嵐で東京を壊滅させることになる炎を目撃しました。私たちは窓から飛行機を見ようとしましたが、看守は、私たちが窓際に集まって空襲の見物を続けるなら撃つぞと威嚇しました。東京大空襲は夜空を明るく染め、外はまるで昼間のような明るさとなり、私たちはB−29によってもたらされた破壊を知ったのです。私たちは、爆撃が私たちの収容生活の終わりを意味していることを思い、喜び興奮しましたが、同時に空襲で多くの命が失われたことに少し愕然としました。

1945年5月24日、私たちの収容所付近は、空襲警戒警報のサイレンが鳴らないうちに、B−29から爆撃を受けました。私たちは寝床から飛び起きると、手当たり次第に服を着て、三井埠頭の防空壕に逃げました。その後5月29日、私は三井埠頭で、55キロほどの米袋を貨車まで運ぶ労働に就いていました。朝の7時に警戒警報が鳴りましたが、私たちは三井埠頭と倉庫周辺で作業を続けました。9時頃、短いサイレンが鳴り響き、空襲が間近であることを告げましたが、私たちは引き続きその場に留まって作業を続けることを、強いられたのです。9時過ぎになって、飛行機のエンジン音を聞いた私たちが横浜の方に目を向けると、何機ものB−29が市の上空に見えました。爆弾が市中に投下されるたびに、爆撃音が聞こえてきました。爆撃を受けた辺りからは、まもなく大きな煙が巻き上がり、私たちは大きな被害があり多くの市民死んだであろうことを、知りました。飛行機が横浜地域を去る際、私たちが働いていた三井埠頭の真上を飛んでいきました。私たちの日本人監視員は、この爆撃の間、私たちが防空壕に避難することを許しませんでした。

私たちは、日本鋼管の収容所にいた捕虜は全て危険の少ない場所に避難したと聞きました。しかし日本の当局は、私たちを東京捕虜収容所第二分所に収容し続け、安全地域に避難させることを拒んだのです。ここで一つ注目を要するのは、三井埠頭で私たちと一緒に働いていた日本人作業員たちは、その地域から避難し始めており、B−29の爆撃の恐れがある三井の施設で働くことを拒絶していたという点です。三井埠頭での作業に駆り出せるのは、アメリカ人捕虜だけになっていたのです。

1945年7月25日、B−29は私たちの収容所を直撃し甚大な破壊と死者をもたらしました。収容所の建物の外にあった防空壕にいた22人の捕虜仲間が、直撃されて死にました。その他に、11人の日本人看守と4人の収容所職員もこの爆撃で命を落としました。翌日、私たちは、爆撃で死んだ捕虜仲間の飛び散った肉片を片付けさせられたのです。その後私たちは、最近空き家になった近くの日清製粉の捕虜施設に収容されました。


(1) Our camp compound destroyed by bombs on July 25, 1945. (2) Power plant. (3) Large cranes operated by American POWs. (4) Smaller coal cranes operated by Americans. (5) Crane destroyed by bombs. (6) Hayama Oil Refinery target of the B-29s. (7) Showa Denko Chemical plant. (8) Mitsui warehouses where we worked
(9) Mitsui office building with little damage.

8月6日になって日本人から、アメリカが広島に巨大な地雷のようなものを投下し何千人もの人が死んだと、聞かされました。それを知らせる彼らの顔が恐怖で怯えているのが分かりました。私たちは、それが原子爆弾であることは、日本が降伏する後までわかりませんでした。広島と長崎に原爆が投下された後も、B−29と戦闘機による収容所周辺への爆撃と追撃は続きました。

8月15日、天皇が降伏のスピーチをしたことを知らされました。自分たちが生き残ったこと、そして自由の身に戻れることを知って、私たちは狂喜しました。私たちが収容所の屋根にPWと大きくペイントすると、8月27日に数機のB−29が私たちの収容所を見つけ、何トンもの食料・衣料品・医薬品を投下してくれました。私たちはものすごい勢いでそれらの食料をむさぼり、あっという間に体重を増やしました。やっと祖国に帰れるのだと思うと、天にもるような気持ちでした。

日本の人々へのメッセージ
第二次大戦が終結してもう59年になりますが、米国内あるいは世界の他の地域には、日本軍がその時期に犯した多くの残虐行為ゆえに、今でもある種の悪感情を持っている人々がいます。現代の日本人が第二次大戦中に起こったことに責任があるとは、誰も考えていません。日本人は世界中に住む他の人々と同様に勤勉で、家族を育て人生の喜びを得たいと願っています。でも、彼らには取り組むべき大事な問題があると思います。

米国内の多くの人々は、日本政府が、戦時中に日本軍が犯した悪事から発生した問題を充分解決してこなかったと、信じています。これらの問題は解決できるものですし、されなければなりません。先ず第一に私たちは、日本政府はかつて日本の侵略的政策の犠牲になった個人や国々に対して、公式な世界に向けた謝罪をするべきだと信じます。第二に私たちは、私たち捕虜の多くを奴隷として使った企業は、彼らの監督下でなされた虐待のゆえに、私たちに何らかの補償を支払うべきだと信じます。

日本の国民の間に、この問題を解決しようとする大衆の声が上がるべきなのです。日本の国は日本の人々のもので、種々の決定を下す政府機関のものではありません。この問題を解決しようとする政治家を選出することで、達成できるのです。さらには日本のメディアも、第二次大戦に関連する真実を報道し、日本の支配下で苦しんだ国々や個人に対する責任を日本が認めるよう主張することで、この問題の解決を助けることができます。そうしてこそ、私たちは国や国民の間に憎しみのない、平和な世界で生きることができるのです。そのことが私たちの世界を本当によりよい場所にすると思います。
 


戦時補償―米捕虜訴訟の政治的解決を

藤田 幸久 

朝日新聞 「私の視点」 2001年9月28日掲載     
参議院議員

 

 

日本に独立、民主主義と繁栄を与えたサンフランシスコ講和条約の最大の成果は対日賠償請求権の放棄である。これが日本の早期復興ばかりか、地域の長期的安定を実現したという意味で、20世紀で最も成功した講和条約と言えよう。

しかし、中国、台湾、韓国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は会議に招かれず、ソ連も講和に反対したため、近隣諸国との講和と過去の清算は遅れた。講和条約はあくまでも国家間の法的解決にすぎず、被害者個々人との和解や道義的解決は先送りされた。

講和から50年、今のツケが噴出している。日系企業の強制労働に対する米軍元捕虜の訴訟が相次ぎ、米国議会も支援法案を可決。アジア系米国人や欧州の人々も連携し、運動は世界的広がりを見せ始めた。

一方、世界では「過去の清算」をめざす道義的、人道的潮流が勢いを増している。戦争中の日系人抑留に対する米大統領の謝罪と補償(90年)、フランス大統領(95年)やローマ法王(00年)のユダヤ人迫害に対する謝罪、オーストラリア市民百万人による原住民アボリジニーへの謝罪行進(00年)などである。

伏されてきた歴史が、情報開示と"現在の正義の基準"に基いて謝罪の対象となり、今日の当事者が過去の歴史を謝罪している。

こうした潮流にあって、「米軍元捕虜の訴えは講和条約で法的に決着済み」と突っ張る日本は、世界に逆行するイメージを際立たせている。老い先短い元捕虜が望んでいるのは金銭ではなく、こころの傷をいやす謝罪だと聞く。訴訟問題で表面上、日本側の法的立場を支持している米政府も、靖国神社参拝問題などで見られた"過去の清算能力"のない日本にいらだっており、本音では日本主導の政治決着を望んでいる。 

講和条約は個人の請求権を必ずしも否定していないとの学説や、戦時中の中国・朝鮮人の強制連行に関する日本政府の責任を指摘する地方裁判所の判決など、新しい流れも出てきた。

元米兵がドイツの企業を相手に起こした強制労働訴訟では、ドイツ側は勝訴できたにもかかわらず、「記憶・責任・未来基金」を設立して原告側と和解。しかも、これで最終決着とすることを米独政府に認めさせた。日系企業も裁判では勝訴するだろうが、不買運動や世論の反発による代償は大きい。

私は来年4月の講和条約発効50周年をめどに、以下の提案をしたい。
@関係企業の連携による法廷外での和解。
A元捕虜の生存中の解決。
B捕虜個人に対する日本政府による謝罪。
Cこれら解決案に関する米政府との合意。である。 

私は、国際MRA(道徳再武装協会)の役員として「和解への課題」と題するセミナーを提唱し、毎年スイスで紛争当事者間の対話を行っているが、和解の原点は過去の清算と正義の確立であることを痛感した。今回の米同時テロでも、日本は法と正義に基づきテロ集団と対決すると同時に、貧困の除去などの非軍事的手段でテロの温床を断つことに尽力すべきだが、そうした貢献がスムーズに運ぶためにも、過去をきっぱり清算し、世界の信頼を得る必要があると思う。

 


最近のジャックファート氏