日本の地獄船でチェコ人の父を失ったふたりの少女

ジェイン・カンブス夫人とハンナ・ヴァラク・ロマンス・ウィザースプーン夫人は最近、日本軍による地獄船を追悼し記念碑の除幕をする旅に参加した。ふたりとも、父親が第二次大戦中にフィリピンで日本軍捕虜となり、1945年の1月、捕虜輸送船のひとつである江ノ浦丸で命を失ったのである。



カパスにあるチェコ人を称える 記念碑に刻まれた父親の名前を指すジェインとハンナ
(photo courtesy: Mr. Casey
Kenaston)

 

ジェインの体験記

私の両親はフィリピンに住むチェコスロヴァキア人だった。父、ジャン・V・ブゾクは商学士で、1936年いらいマニラのチェコスロヴァキア輸出貿易の代表をつとめていた。私は1940年の4月に生まれた。戦争が差し迫った問題となったとき、父と他に13人のチェコ人男性は、日本と戦う米陸軍を支援しようと志願した。こうすることにより、すでにチェコスロヴァキアを占領していた他の枢軸国に対して戦うことになる、と彼らは考えたのである

7人のチェコ人がこの戦いで亡くなり、父もそのひとりとなった。彼の名は、キャパスにあるバターン戦友会の記念碑に、ハンナのお父さん、ヨセフ・ヴァラクとともに、記されている。これらのチェコの男たちが、直接はかかわりがないにもかかわらず、自ら選んで「自分の戦い」とした戦争に最善の努力をしたことに誇りを覚える。そしてこれが父について知るすべてであることが、悲しい。

        ジェインの両親

今回のフィリピンへの旅で、私は戦後はじめてフィリピンへ戻った。私たちは多くの場所を訪れたが、なかには父が戦争中にいた場所もあった。
 

バターン

父はバターン半島南のマリヴヴェレスで米比軍とともに降伏した。ゼロキロメートルの道標があり、バターン死の行進の出発地点です。ここから100キロ、すでに体力を消耗した兵士たちが強制的に歩かされ、その行進は食物も、水も、太陽をさえぎるものも、休憩もない、過酷な状況下で行われたのだった。この過酷な状況のなか、チェコ人のひとりが行進の最後で死んだ。父は生き延びた。冷房のきいたバスで道標から道標へと、この気の毒な兵士たちのことを、彼らの耐えた責め苦を思いつつたどりながら、私自身とても気分が悪くなった。彼らが我慢し、あるいは死の原因となった暑さ、険しく荒れた山々、過酷な状況に、私も衝撃を受けていた。

 

カバナツアン第一収容所

生き残った13人のチェコ人は、バターンで捕虜になった者もコレヒドールで捕虜になった者も、最終的にこの収容所に到着し、長さの違いこそあれそこで収容生活を送ることになった。ほとんど米だけの質の悪い、量的にとても乏しい食事をあてがわれ、水もあてがいぶちのみ、何の衛生設備もなく、過酷な労働作業、サディスチックな看守、荒れ狂うマラリヤ、赤痢、脚気、チフスなどの病気の蔓延、無きにひとしい薬品などに耐えて、父はここで3年近くを過ごした。

一筋の明るいひかりは、ひとりのひとの親切なこころがあったことだ。日本人の収容所軍医は、母が父のために送ったキニーネの小さな包みを収容所ないに持ち込むのを許し、ひそかに運びだされたいくつかの伝言によって、父が実際それを受け取ったことが私たちに分かった。母が再びやってみたときには、その医師はもういなかった。やがて5人のチェコ人 が1944年12月15日、「鴨緑丸」による輸送のためにここを出るのである。

地獄船、「鴨緑丸」の沈むスビック湾

私たち20人がバンカというフィリピンの小船に乗り込み、いまもその船とともに沈む兵士たち、そして日本軍輸送船で苦難をなめたものたちのために小さな祈りのときをもった。こころの奥底に抱く想いをリボンに書いてから、私たちは「鴨緑丸」の上へといくつかの花輪を投げた。父がこの船に乗っており、しかし、このときは死を免れたことを知っている私のこころは抑えきれない感情でいっぱいだった。チェコ人がもうひとり、ここで亡くなり、いまも水底である。4人のチェコ人生存者も、次の「江ノ浦丸」に乗せられ、この4人全員が194419日、台湾、高雄港で船が爆撃を受けた折に命を失ったのである。彼らの死は、日本側の死亡リストに Bzoch #403, Hrdina #404, Varak #405 and Volney #406 として記録されている。彼らは最期まで一緒にいて、苦難の中お互いを助け合ったのだった。これは厳粛なこころに迫る感動のときで、なにか圧倒的で恐ろしいものを目撃している気持ちだった。

スビック湾オロンガポ岬で行われた地獄船記念碑除幕式で、チェコ大使館からの出席者は、魅力的な人柄のイワン・コルチャック夫妻だった。コルチャック氏はチェコ・フィリピン間の実業と貿易を代表するチェコ共和国商業顧問である。大使館から贈られた立架式の美しい盛り花が活けてあり、赤青白のバラでチェコの国旗が表されていた。14人のチェコ人がこのように高く評価されたこと、そして自分もチェコの血筋であることに誇りを感じた。

                  
ハンナとジェイン:チェコ国旗の盛り花の前で
(photo courtesyMr. Casey Kenaston)

マニラでの生活

日本軍が占領するマニラの生活では、母と私は日本が発行した身分証を持ち、私にも自分だけのがあった。それを月一回マニラ・ホテルの日本軍司令部に提示すること、また街中でも要求されればいつでも見せることになっていた。

この写真はそのような時のものである。この日本兵はとても礼儀正しく、私たちと写真を撮らせてほしいと頼んだ。彼は敬意をもって私たちを扱い、謝礼を払いさえした。二人の女の子たちはロシア人で友達だった。

アメリカ人たちが帰国したとき、母はマニラ市街の戦闘ですべて失った。彼女は文字通り日本軍とアメリカ軍の交戦にさらされて、建物の入り口、茂み、破壊された建造物のコンクリート基礎部分などに隠れていた。火はたちまちマニラのほとんど全域を覆い、すべてが焼けてしまった。

彼女はどうにか、マニラの焼失を免れた地域にあったロシア人の友人家族のもとに辿りついた。血なまぐさい死闘が行われると予想されたため、私はバギオのフィリピン人家族のところへやられていた。バギオも日本軍が司令部を置いたところで、ここでも戦闘と爆撃はあり、私たちは数週間金鉱で暮らすはめになった。   
                                                                              
  日本兵とジェイン(右端)

母と私は再会したのは日本軍降伏の後だった。私たちは60日間のヴィザを交付され、アメリカ陸軍部隊の輸送護衛艦、USSマニング将軍号によって無料で輸送してもらった。日本軍潜水艦がまだ太平洋をパトロールしていたので、絶えず救命着をつけていなくてはならなかった。米合衆国につくと、医師たちの検査によって母が重い肺結核であることがわかった。彼女は3年間隔離病棟に入院が必要だった。6歳の私は農場の養父母のところへ送られたが、私が16歳以下だったため、入院中の母を見舞うことは許可されなかった。ついに1949年に彼女は回復して私たちは一緒になることができた。私の人生はやっと正常に戻り始めたのである。

*ジェインの父親は、絶望的な食糧難に瀕していた米軍のために敵陣内の精米所から36時間もかけて米を運んだ功労を認められ、アメリカ政府が民間人に与える最高の勲章である”自由のメダル”を 、死後授与された。

ハンナの体験記 

私の父 ヨセフ・バラクは191759日、チェコスロヴァキアのモラビア地方、スティパに生まれた。チェコのツリンにあるバタ製靴会社の機械技術者だった。ヨーロッパを覆う政治情勢のため、ジャン・アントニン・バタ氏が主要株主兼理事長であるバタ製靴会社は、海外の本部をアメリカに移さざるを得なくなった。1939年父とその他149人のチェコ工場の従業員が選ばれ、米合衆国メリーランド州のベルカンプへ、新工場建設のために送られた。このなかには、私の母で、技術指導者だった ヨセファ・ザプルタロヴァもいた。彼らは無事に工場業務をスタートさせ、1940年には製品を世に送り出していた。

 

      ハンナの父親

19411月、バタ氏は当時米国領土だったフィリピンに新しい工場をオープンすることを決定した。このころには、アメリカへ渡ったチェコ人たちのヴィザが切れていたのである。ジョセフ・ヴァラとジョセファ・サプルタロヴァもフィリピンへ行くものたちのうちに入れられた。新工場が始まった。ドイツがチェコを占領し、バタ工場を管理していたため、マニラの工場はゲルベック・フルディナ株式会社として登録され、店はG&H製靴会社と呼ばれた。

128日、日本軍はパール・ハーバーを爆撃し、宣戦を布告した。同じ日の数時間後、彼らはマニラをも爆撃した。日本とドイツは同盟を結んでいたから、フィリピンにいた少数のチェコ民間人たちは戦争の米国側にたって支援することを決めた。敵である日本軍とドイツ軍を負かすためならできることを何でもしたかった。14人のチェコ人がアメリカ陸軍に志願しようとした。マイケル・ク ィン将軍は米陸軍へ正規の登録はしないほうがよい、と忠告した。もしアメリカが負けた場合、チェコ人たちは裏切り者とみなされて銃殺されるだろう。軍属として米国防省に雇われる道を彼は許可した。

19411230日、チェコ人志願者たちは、午後にマニラの陸海軍クラブへ出頭せよと知らせを受けた。そこでの会合から彼らは窓を遮蔽した軍用車で、マニラの南西、マニラ湾に面したバターン半島へつれて行かれた。着の身着のままで、家族にわかれを告げるひまもなかったのである。到着すると、米合衆国への忠誠を誓うよう求められ、米国防省の軍属であるという身分証明書を各自、支給された。また階級章のないカーキ色の制服を支給され、三つのグループに分けられた。父のグループには5人のバタの職員がいた。そこから数マイル奥地のジャングルにある車輌兵站部へ連れてゆかれ、任務を与えられた。それは道路を巡回して使える車輌をすべて、また修理できない車輌からは使える部品を、持ち帰ることだった。彼らの受け持ち区域は半島東側の30マイルほどであった。

49日、部隊の司令官が彼らに米軍が公式に降伏したことを告げた。みなは使える 装備のすべてを破壊したのち、バターン南方のマリヴェレス空港へ移動することになった。このとき父と数人の男たちは高い崖のうえにいたが、彼らは人ごみの狭い道を歩くより、崖をおりて海沿いに出ることにした。日常の 備品調達活動で何度もしていたからである。

海沿いに出ると、彼らはコレヒドールの兵士たちは降伏していないことに気づいた。コレヒドールとの距離は船がなくては行けない。南へと目指すうち、海岸近くに船が一艘あるのが見えた。近くの洞穴に隠れていた中国系の住民が、船のエンジンがかからないと訴えた。父は腕のいい機械工だったので、すぐに動くようになった。中国人が言うには、海は魚雷でいっぱいで、崖のうえでは日本軍が大砲をすえつけている、マリヴェレス方面へ海岸沿いに進んで、コレヒドールへの水路があるところまで行くほうがよいと教えてくれた。彼が一緒に来てくれて、みなはこの船にできるだけ多くの兵士を乗せた。すごい定員オーバーだったが船は無事にコレヒドールへ着いたのだった。

コレヒドールの守備隊のなかに、チェコ系の海兵隊員がいてチェコ語を話した。彼はみなをマリンタ・トンネルの近くの峡谷にある食料倉庫へつれていってくれた。この島で彼らはマリヴェレスから米海軍によって避難してきた他の4人のチェコ人と合流したのであった。

コレヒドール陥落の後、彼らは捕虜となってビリビッド、次にカバナツアン第一収容所に入れられた。

             
            
           ビリビッド(刑務所)収容所                 現在のビリビッド刑務所

カレル・アスター氏と父を含む13人のチェコ人は、カバナツアン第1収容所に入れられた。収容所の一隅に「病院」なるものが設けられていた。病気のものが自分で身の回りのことができなかったり、ひとりで歩けなかったりするとここに入れられた。大概のものはここから戻ってくることはなかった。そして死ねば、共同墓地に埋められるのだった。

あるとき、父は大変体調が悪くなり、「病院」へ送られた。チェコ人の友人たちは、もう助からないものとあきらめた。ところが、マニラからの伝言が収容所ないにこっそり持ち込まれ、母が赤子を出産してハンナと名づけたことが知らされた。友人たちが彼に告げたときも彼は分からなかったようで、ただうつろに見えたという。2,3日ののち、奇跡的な回復が起こり、彼は「病院」から開放された。

父はそれから日本への輸送のため「鴨緑丸」に送られた。船はスビック湾まで航行し、1944年の1215日、米海軍ホーネットから飛び立った艦載機により撃沈された。幸運にも、父は生き延びた。

スビックから捕虜たちは別の列車に乗せられてサンフェルナンド・ラユニオンへ送られて、「江ノ浦丸」に乗船した。「江ノ浦丸」は台湾へ向かい、実際、港に到着したのである。そして194519、再び米海軍ホーネット号の艦載機による攻撃を受けた。私の知る限りでは、父はこの船上で亡くなったのである。

そのあいだ、母と私はマニラに住んでいた。日本軍が私たちの家を焼いた。そのとき、私たちは2階にいた。母も文字通り私を下へ投げ落とし、炎を逃れようとしていた誰かが受け止めてくれたのである。私たちは火を逃れて海岸へ行った。その後、母はテニシー州パイクヴィル出身でフィリピンに駐屯していたアメリカ軍人と出会った。19458月13日、彼らは結婚し、彼は私を養女とした。

戦争が終わったとき、彼はテネシーへ帰り、母はすぐ彼を追った。私はカーティス・ランバート米軍大佐夫妻の手もとに残された。1948年824日、6歳の誕生日に、私はアメリカへ行くため米戦艦ミーグス将軍号に乗船した。継父がサンフランシスコに私を出迎えていて、テネシーへ連れ帰った。パイクヴィルにつくと、そこに母と弟がいた。

これら情報の多くは父のチェコ人の友だったカレル・アスター氏の著書「吾が戦時の思い出」からとられたものである。彼は、民間人として米陸軍省の軍属となった14人のチェコ人のうち、生還した7人のひとりである。

バンカに乗って「鴨緑丸」沈没地点で水上に花輪を捧げていたときの私の想い。チェコ人だった父がアメリカ軍に民間人として志願し、「江ノ浦丸」船上で亡くなった、その結果、チェコ人の母が3歳のときにアメリカ兵と結婚し彼が私を養女とした。アメリカ人となり、いまの素晴らしい人生があることを光栄に思うものである。 



地獄船で死んだ者と苦しんだ者に花輪を捧げる
(photo courtesy: Mr. Casey Kenaston)