サーシャ・ジーン・ジェンセン
ウェインツハイマー)
1932年フィリピン・マニラ生まれ

- 米国民間人
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サント・トマース民間人収容所

インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
(Lou Gopal 氏提供)
時間 3:02
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戦前の思い出

子供の頃、私が住む世界は素晴らしい場所に見えました。

私は、フィリピン島にある砂糖農場で、アメリカ人として生まれました。当時フィリピンは、1898年の米西戦争でその所有権を得た米国に所属していました。この素晴らしい極東の国は、この地を故郷と呼ぶマレー人、ムスリム、ネグリト、東洋人、スペイン人、西洋人など、多様な民族グループから成り立っていました。

フィリピンに住み、ビジネスや教育に従事していたアメリカ人の多くは、彼らの第二の祖国のために力強い将来を築いていました。「教育」は発展のための舵取り役でした。フィリピンの人々に待ちわびた独立を与えるという大計画は、ついに達成間近のところまで来ていました。英国人、オランダ人、フランス人、スペイン人そしてスイス人なども、フィリピン社会の顕著なメンバーでした。

私は1歳半のとき小児麻痺に侵されました。衰弱し、下半身の萎縮が進み筋肉が弱まって、歩くことも立ち上がることもできなくなってしまいました。

私と母は毎年一度、アメリカン・プレジデント・ラインの船に乗って、カリフォルニア州のサンフランシスコまで旅し、素晴らしい整形外科医から歩けるようになるための手術を受けていました。手術とセラピーを受けた後、新しい矯正器具と足に合う靴をもらいました。それから私と母はフィリピンへ帰るのです。

帰りの船はあちこちの国や港に立ち寄り、私たちは、ハワイ・香港・上海・東京・横浜・神戸などを訪問する機会に恵まれました。私は特に日本が好きでした。私たちは船を降りて、あなた達の素晴らしい国を訪問したものです。

人力車に乗って旅館や美味しそうな食堂を探す私たちに、雪がやさしく降りかかったものでした。香り豊かなお茶をいただいた所の、居心地がよくて親切な雰囲気は、本当に楽しいものでした。海老と豆腐が入ったおいしそうな海苔の熱いスープは、私たちの鼻腔を満たし、寒い冬の日に空いたお腹を救ってくれました。私たちは、鮮やかなピンク色で繊細な味のお刺身が、特にお気に入りでした。

そんな折、エレガントな着物を着て食事をする貴国の美しい女性や男性の姿に、目が留まったものです。麗しい白檀やお香の匂い、人々の褒め言葉は、私たちの日本訪問に安らぎを与えてくれました。あなたの国は魅惑的な美しさを保ち、人々は親切で歓迎を惜しみませんでした。

開戦

8歳のとき、私の世界は崩壊しました。

1941年12月8日の朝、私はマニラまで出かけて、理学療法士の下で運動と伸縮訓練を受けることになっていました。ばあやに付き添われて、運転手付きの車で出かけました。12月はフィリピンで一番涼しい月で、その日も美しい日でした。

私が療法士と伸縮訓練をしている時、とてつもなく大きな音がしたかと思うと、ガタガタとすさまじい破壊音、そして叫び声が聞こえてきました。地面は、乱暴に揺れ続けました。調度品は床に叩きつけられ、背の高い本棚は地面に倒れてきました。ラジオは「避難すべし。日本軍はたった今、クラークとニコルス飛行場、そしてマニラの一部を爆撃。彼らはハワイ島の真珠湾を奇襲し、米軍の戦艦は壊滅状態。アメリカは交戦状態にあり。チャンネルをそのままにし て聞き続けよ。」と大声で叫んでいました。

私たちは恐ろしくなり、あわてて車に乗り込んで家に向かいました。通りは、身の回りの物を背負って市内から逃げ出そうとするフィリピン人たちで、ごったがえしていました。みんな半狂乱でした。私たちは火事が起こっている場所を避け、急降下爆撃機に見つからないようにと、祈りました。何時間もかかって、農場の我が家に辿り着きました。

今や私たちの運命は、日本帝国軍により入念に計画され意図的に実行された残虐な戦争に、完全に支配されることになったのです。私たちを襲ったこの恐怖の時代は、それから3年以上も続くことになりました。

サント・トマース収容所

以下の文章は、今私が書いている本からの抜粋です。当時子供だった私の声で語った箇所もあり、大人の私が皆さんに呼びかけている箇所もあります。 

私は、自分が混乱の雲の中で渦巻いているような気持ちでした。8歳の子供なりの論理で納得できるまで、次から次へと起こる事実をいろいろ並べ替えていました。私が思い浮かべる日本人は、お行儀がよく 、ていねいで、美・静けさ・上品さに溢れた儀式的な生き方を楽しむ人々でした。彼らの芸術的才能は、何よりそれを物語っていました。

私はそれらのイメージを、マニラ市内の公園で日本兵の群れがフィリピン人の男の子を湯船につけて溺れさせたのを見たとき、考えていました。私たちが通り過ぎるとき、彼らは、その男の子の濡れた死体が取り去られるのを見て、高笑いをし、あざけり、嬉しそうに飛び上がっていたのです。その子はちょうど私くらいの年でした。

「日本兵は、私たちを“危険な敵国人”と呼んでいる。いったいどうしてそんなことがあり得るの。私はたった8歳なのに…。」

「お父さん、お母さん、妹、弟そして私の5人家族は、今サント・トマース収容所に入れられている。一緒にいられる私たちは幸運だ。ばらばらになった家族もいる。今は苦労の時だ。」

戦争が始まった時、弟のバドはたった3ヶ月、そして妹のドーディは3歳でした。

「どうして兵士たちは私たちをこんな目に遭わすの?日本人は小さな子供をいとおしむ人々のはずだったのに。」

「私たちは、銃や銃剣を持ったこれらの兵士を“ニップ”とか“ジャップ”と呼んでいる。意地悪で、喋る時は叫んだり怒鳴ったりする。決して普通には喋らない。とても怖い。」

私たちが初めて捕虜収容所に来た時、母と私たち子供は他の30人の母子と一緒に、大きな部屋に入れられました。子供はみんな病気になり、ひっきりなしの泣き声と、吐いたものや下痢の匂いで、病気でない残りの者も気分が悪く なりました。

「これが自由を失うということなのね。誰も決して他人の自由を奪っちゃいけない。こういうことが起こるのが戦争なのだ。私たちはいつも祈っている。」 

「お母さんは今日、悲しいものを見た。若い母親が、3歳の息子の腰にロープを巻きつけた。そして日本兵の台所のそばの大きな残飯入れの缶に降ろしてやって、拾って欲しい残飯の破片を指差した。それから彼女は、彼を缶から引っ張り上げた。こんなことまでしなければならないなんて…。」 

「お父さんと他の男の人たちが小さな小屋を作り、私たちはそれを“掘っ立て小屋”と呼ぶ。それはサワリと竹でできている。私たち家族のは小さな一部屋で、そこで5人が寝たり日中を過ごす。大部屋よりずっとましだ。狭いけど少なくても家族が一緒だ。」

父は、掘っ立て小屋の隣にタロを何本か植えました。それが大きくなると、いろいろ役に立ちました。大きな葉っぱは、耐え難い暑さの中で小屋を涼しく保ってくれました。私は葉っぱの下に寝転んで、本を読み安らぎを覚えました。妹と弟が葉っぱの下で遊ぶ時、彼らはそこがアメリカだと信じていました。まだ幼くて何も分かっていなかったのです。

夜になると簡易ベッドに入り、私たちはゲームをしたものです。アメリカに行けたら最初に何を食べたいか、順番に言うのです。私たちはさんざん考えたすえに選び、なぜそれを食べたいのか説明することを本当に楽しんでいました。食べ物のことを話すと満足して、眠りにつくことができるのでした。 

私がポークチョップにご飯かポテトをたくさん、そしてチョコレートのアイスクリームをデザートに注文すると言うと、妹と弟が、「私も。僕も。」と叫びます。その後で「ポークチョップって何?」と聞くのです。妹は普通の食事を覚えていませんでしたし、弟はルガオ(水っぽいお粥)以外の食べ物を知らないのでした。その事実は衝撃的で、とても悲しいことでした。

私たちが収容所に入れられた時、日本政府は私たちを完全に支配していました。彼らは私たちに食事を与えないと決めたのです。これは、彼らが遵守すると約束していたジュネーブ条約に違反していました。必要な食料は、何でも自分たちで調達しなければならなかったのです。でもそれは大変なことでした。900人の子供を含んだ4千人もの人々を、戦争の真っ只中でどうやって養っていけるというのでしょう。 

日本兵は機嫌がよいときは、私たちの友人や家族が収容所の正門に食事を持ってくることを、許可しました。私たちは、並んでこの贈り物を受け取ることを楽しみにしていたものです。日本兵は意地悪な時もあり、食事を届けてくれるこれらの人々を銃と銃剣で脅かして、追い返してしまうこともありました。そんな日は、私たちは食べるものがありませんでした。これらの心優しい人々の親切だけが頼りだったのです。それから父親たちが作った委員会があって、収容所の外にあるマニラ市内の会社に頭を下げてお金を借り、私たちのために食料を買っていました。本当に厳しい生活でした。

翌年になって日本軍が私たちの食料を管理するようになると、状況はさらに厳しくなりました。早朝のルガオと夕食のルガオの一日二食になってしまったのです。たまに水牛の肉があることもあり、うまくいけば自分たちで野菜を育てることもありました。私たちがさらに飢え食料事情が本当に悪くなった時は、日本兵も食料が足りなく、私たちの割り当てを取ったので、私たちにはほとんど何も残されませんでした。

私たちに打撃を与えたのは、食料の欠乏だけではありませんでした。飢餓は、赤痢・マラリア・熱病・発疹・脚気・壊血病・百日咳などの病気そして餓死をもたらしていたのです。私の足は悪化し、矯正器具と靴は小さくて合わなくなり、それらの補助がなくなった私はとても弱くなっていました。それまで医者にしてもらっていたよい手術も、全部台無しになってしまったのです。(戦争の後、私は何度も手術を受け、リハビリを受けなければなりませんでした。)

米軍がフィリピン奪回のために近づいてくるに従い、日本兵は、いよいよ冷血になっていました。毎日、朝と夜に点呼がありました。でも今度は兵士と将官におじぎをしなければならなくなったのです。その前に、正しいおじぎの仕方を覚えなければなりません。点呼の度に、おじぎの練習がありました。もし“正しく”おじぎをしないと、銃尾で殴られるか顔に平手打ちを受けるのです。これは、立っているのさえつらい年寄りや病人には、非常に厳しいことでした。今日に至るまで私は、生きている限り他人に絶対頭を下げないと、誓っています。

処刑もずいぶんありました。逃亡しようとした3人のアメリカ人の若者は、首を切り落とされました。米軍が私たちを解放する直前、収容所長は4人を連れ出し、処刑しました。何ゆえの行為なのか、説明は一切ありませんでした。私たちが自由を取り戻すわずか数週間前のことです。自由はすぐそこまできていながら、まだ遥かに遠かったのです。本当に悲しいことでした。

1945年2月3日午後9時数分前、私たちはついに解放されました。死や負傷のリスクを侵して来てくれた母国の兵士に救出される喜びは、皆さんにも想像できると思いますので、詳しいことは書きません。その夜、身長170センチの母は体重が35キロまで減り、危篤状態でした。母は、弟に栄養をつけるため、彼が三歳まで母乳をやっていました。アメリカに帰り、栄養のある食品を何週間も取って、やっと彼女は回復したのです。

皆さんが理解しなければならないことがあります。飢えは私たちの体を蝕んだだけでなく、精神をも暗くしたのです。友軍の兵士に発見されたとき、私たちはぼんやりしていて、素早く考えることも話すこともできませんでした。簡単な言葉さえ、たどたどしくしか言えなかったのです。栄養失調は、身体にも精神にも危害を及ぼすのです。

日本の皆さんへ

これは、日本の若い方々への私個人からのメッセージです。これらの言葉が私の真心から発したものであることを、知って下さい。

皆さんのうち何人がこれまで身内のお年寄りに、どのように戦争を生き延びたか、聞かれたことがありますか。食料を得るためにどんなことをしたか、聞いたことがありますか。彼らは戦場で負傷しましたか。彼らはどの戦線で戦ったのでしょう。シンガポール、フィリピン、ブルネオ、中国、満州、それとも沖縄だったのでしょうか。

なぜ戦争が起こったのか、聞いたことがありますか。侵略した国でいったい何をしたのでしょう。なぜそこにいたのですか。真珠湾攻撃の真実を知っていますか。その方たちは何と言いましたか。誰が戦争を始めたか知っていますか。聞いた答えが正しいと確信がもてますか。

もし与えられた答えに満足できなかったら、既成観念から逃れて別の答えを探しなさい。あなたが満足するまで。そしてそれを他の人々と共有するために持ち帰りなさい。 

あなたの周りで何が起こっているか、注意して。聞いてごらんなさい。誰が語っていますか。そして何を語っていますか。あなたも参加して学びなさい。あなたがなれる最高の人になって下さい。あなたのためだけじゃなく、あなたの国のために。「真実は、あなたを自由にする」という古い格言があります。日本は過去から自由にならなければなりません。あなたがそれをする人かもしれません。

どうか、戦争で人生が大きな影響を受けた老婦人のお説教癖を赦してください。真実を前にして、正しいことを行いたいという私の気持ちは今でもとても強いのです。真実を知っているからです。私はそこにいたのですから。


以下は同じ時代を生きたマニラ生まれの日本人女性の体験を伊吹由歌子が聞き取りした記録である

マニラ・ルソン山中での戦時体験

若尾静子

私は1927121日にマニラで生まれました。広島出身の父は、アメリカでも成功した経験があり、雑貨屋を営んでいました。1940年当時、マニラには沖縄、広島などから移住した日本人の移民が1500人ほどいました。彼らは勤勉で、フィリピン人とも相性がよく、現地社会に溶け込んで経済発展の一端を担っていました。私の通っていた日本人学校では、フィリピン人やスペインとの混血の友達が多く、一番よく使う言葉はタガログ語でした。

国際情勢が悪くなり、間もなく開戦と同時に邦人は数箇所に別れ、食糧持参で収容所生活に入いりました。収容所の入り口にはフィリピン兵が銃を構え、外に出ることはできませんでした。やがて日本軍の進駐により我が家に帰れましたが、家財道具は全てが持ち去られていました。

当時17歳だった私は、日本人学校高等科の卒業前に軍司令部に徴用されました。配属された治安班では、当時の憲兵隊の恐ろしさを嫌というほど見せ付けられました。コレヒドールが陥落してからは、参謀部第二課の政務班に配置換えになり、尊敬する軍人とも仕事ができました。

1944年になって、マニラ市内のフィリピン人の間では、米やその他の食糧、洋服生地などが不足し、我が家では世話になったフィリピン人の友人家族たちにできるだけの事をしました。9月から12月にかけて多く米艦載機が上空を飛び交うようになり、マニラ湾からの米艦艇の艦砲射撃も激しくなりました。

軍司令部も解散し、日本に引き揚げる人も多くなりましたが、我が家は現地に留まり、兄と姉は海軍病院の軍属として行動を共にしました。

残留邦人は、「女子供といえども捕虜になるな」と訓示を受けてルソン山地に疎開することになり、父と私は兄と姉の笑顔に見送られて軍用トラックに乗りました。最初の避難先サンホセに着くまでに、艦載機の機銃掃射を受けて2人が亡くなりました。

ここである日、兵站司令部の通訳として食糧集めに駆り出されました。そのとき、「この水牛がいなくては家族を養えない。それだけは…」と泣きながら拝む老人に、兵隊は無理やりに軍票の束をおしつけて水牛を連れ去りました。私は兵隊の仕打ちが悲しくて、老人と手を取り合って、ただ泣きました。

このとき以来、父が山中で餓死したこと、姉の自決、足に負傷した兄は行方不明と聞いても、私はもう泣けませんでした。その後、私は陸軍病院の補助看に再徴用されて父とは別行動になったのですが、おそいかかる砲弾と飢えのなかで、死んだ母親の傍に蹲る子供、雨季の山道の粘りつくぬかるみに足をとられ、生きようともがく負傷兵や日本民間人を見ても、恐怖心、驚き、情愛などといった人間らしい感情もなく、山中を逃げさまよって泥のようただ生きる日々でした。

私は米軍のビラで終戦を知ると同時に山を降り、米軍の手厚い看護を受けました。キャンガンの野戦病院では、米軍医が迫撃砲弾の破片で化膿していた傷をペニシリン粉末で消毒し、真新しいガーゼを当ててくれました。山中の日本軍野戦病院では、使用済みの包帯を煮沸し、ウジを掬って次の包帯を洗っていたのです。

幸運にも、サント・トマース収容所は当時米軍の病院に使われていて、2名の米軍医に外傷とマラリヤの手当を受け、ナース、フィリピン人ヘルパーの世話になりました。そのときは、結核などで山中に行かないまま入院していた日本人元会社員、韓国人の元慰安婦などの女性患者3人と同室でした。日本本土爆撃に参加した航空隊の患者から鮮明な航空写真を見せられたときは、「大国を相手にバカな戦争を!」という父の言葉を思い出ました。

その後、健康を回復して邦人女性収容所に移され、キッチン係長、ついで捕虜病院の通訳を担当したのち、初めてみる日本へ「帰国」しました。


若尾さんの体験は、以下のサイトで英語で紹介されています。 
http://www.wakao.lougopal.com/
 

 


最近のジャンセン氏

2007年PBSのドキュメンタリーThe War』に出演したジャンセン氏