元捕虜生存者 和解を奨励

he Japan Times  201110 23日 幹部記者 アラン・マーティン

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岐阜県神岡の収容所近くにあった鉛鉱山で労働しつつ2年近くを過ごしたロバート・J・フォグラー・ジュニアさんの体重は、奴隷労働と食糧の不足で95キロから35キロに落ちた。

2次大戦の退役軍人で現在90歳のバターン死の行進生存者は、POW研究会によるとその捕虜収容所にいた594人中のひとりである。 戦争の終結まえに、そのうち85名が命を落とした。

しかし、フォグラーさんが一人の看守・岡田政雄さんと長く結んだ友情が縁となり、やがて彼は1997年日本へ戻ってきた。岡田さんはすでにその4年前に他界していたが、そのときの旅はフォルガーさんの心に赦しの感情を育てた。

「彼は友情にあふれていて、私たちは非常に気があった。一度、お年玉に岡田さんが玉子をひとつくれたのです。それまでの3年間、私は玉子を食べたことがありませんでした。」金曜日に行われたジャパン・タイムズの取材にたいしフォグラーさんは思いでを話してくれた。

フォグラーさんは他の6人の捕虜とその家族とともに日本政府の招待を受け、1016日にはじまり8日間にわたる日本訪問の旅で滞在しており、これは米捕虜招聘プログラムで来日する第2回めの代表団である。

2010年、日本政府は最初の代表団にたいし捕虜収容所で彼らがこうむった苦しみについての公式の謝罪をした。

今回の代表団を率いるフォグラーさんは、この最新の旅を、かつて敵だった人びととの和解と友情促進への力となる「前進の一歩」と形容した。

代表団は収容所の跡地を訪れたがこれには大牟田と富山県高岡がふくまれる。

「この日本への旅は、これが実現したこと自体、私の予想と信念を越えるものでした。」金曜日、東京都千代田区にある日本記者クラブで行われた記者会見でフォグラーさんはこのように述べた。

フォグラーさんにとって1997年以来はじめてとなる岡田さんの家族との再会もはたせたが、彼らとはもう何年も文通をしている。

27,000人の米将兵、何万におよぶ他の連合国将兵に加え、戦争中日本軍に捕獲された中国人、フィリピン人、そして半島から駆り集められた朝鮮人とが、企業および日本軍の収容所で奴隷労働を強制され、地獄のような状況のなかで何千という命が失われた。

サンディエゴのランチョ・ベルナルド地域に住むフォグラーさんは、1941年米陸軍航空隊に入隊、悪名高いバターン死の行進を生きのびた後、194210月、鳥取丸によって中国北東部の奉天(現在の瀋陽)に送られた。19445月、彼は神岡捕虜収容所へ送られて、鉛鉱山で労働したが、怪我のためさらに違う部所に割り当てられた。

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そこで彼は捕虜たちを監督していた岡田さんに会ったのである。フォグラーさんはすぐに岡田さんと特別の友情を育てたのだが、他の収容所看守たちとまったく対照的に、岡田さんはフォグラーさんや他の捕虜たちのためできる限り食糧その他の楽しみを与えようと自分の分を超えて努力してくれた。

「彼は中国戦線で地雷により負傷し、収容所で看守をしていました。お互いに話すため私たちは新言語を創りだしました。彼は英語が一言も話せず、私のほうも日本語がひとことも話せなかったのです。」とフォグラーさんは言う。

19458月、神岡収容所が解放され、二人は互いの住所を交換して別れた。しかし、フォグラーさんはすぐ岡田さんとのコンタクトがとれなくなり、1961年になってやっと再び互いに連絡がついたのだが、その頃にはフォグラーさんは除隊していた。

知人の助けを借りてフォグラーさんは神岡市長に手紙を送り、岡田さんを探して、彼のアメリカの住所を渡してくれるよう助力を願った。岡田さんはすぐ彼に手紙を書いた。

「岡田から手紙がきました。あなたはアメリカの辺境地帯近くにいま住んでいるのですね、と書いてあった。」フォグラーさんは面白そうに笑いながら言う。

二人は手紙や写真を送りあい互いの人生のできごとを詳しく知らせあった。しかし、神岡に岡田さんを訪ねようと考えるたびに、捕虜として耐え忍んだ苦しみの記憶が日本への旅を妨げてきた。

あるときにはジェネラル・ダイナミック・コープの仕事でフォグラーさんが東京にきたことがあり、岡田さんと短く電話で話しをした。

「しかしまだ、(神岡訪問は)どうしてもできなかった。」とフォグラーさんは言う。

1993年に岡田さんが亡くなったあと、フォグラーさんは彼の家族と交流を続けた。その後3年して、フォグラーさんと夫人とは、日本からの交換留学生を数週間ホームステイさせる機会があり、この経験が彼のこころを和らげて、19975月の神岡訪問を決意させた。

 フォグラーさんにとってこの訪問旅行は感情をゆすぶられるものだった。「私たちは神岡市長の庁舎へ行ったのですが、そこでは米合衆国の国旗を揚げてくれていました。それから鉱山へゆきましたが、そのころにはまだ操業していて、そこにも米国旗があがっていました。それから地元の学校へ行き子供たちが英語で覚えた三つの歌を歌ってくれました。」フォグラーさんは語る。

収容所における体験の記憶はいまもたえずつきまとう一方、代表団としての今回の旅と1997年の神岡への旅は、捕虜として過ごした年月との折り合いをつける助けになったとフォグラーさんは感じている。

「赦しは何か良いものを生むことができるのです。」と彼は言った。