若い世代の戦後60 ―「日本人」の私たちに何ができるのか

神 直子

今年、2005年は戦後60年。日本では、人口の4分の 3が既に戦後生まれであると言われている。私自身1978年生まれで、母親も戦後生まれ。そして父親は、戦前に生まれているといっても「戦争を知らない世代」である。そんなことを考えていると、戦争を体験した世代がいなくなってしまったら、果たして戦争を知らない私たちが戦争を語り継いでいけるのだろうか、と不安がよぎる。

しかし、厳密に言うと私は戦争を知っている。
情報化社会と言われ、インターネットで検索をすれば求めている情報は必要以上に瞬時にして目の前に現れる。テレビをつければ今現在もなお、世界各地で行なわれている戦()
争の情報が生々しい映像と共に飛び込んでくる。至るところに本屋ができ、図書館もほとんどの市町村で整備され、単純に情報量だけを見ると戦時中より多く、私たちは戦争を知らない、とは言えない環境に置かれている。体験したことはないが、自分の意志で情報を手繰り寄せ、想像力を働かせれば、当時がどのように酷い状態だったか、知ることは可能なのだ。

戦争を知らない、というのはある種「知らないこと」「知ろうとしないこと」の言い訳になってしまわないだろうか。そのことを私が最初に考えさせられたのは高校生の時であった。友達になったドイツ人の女の子が、ある日こんなことを言い出した。「私、ドイツ人だと思われたくないの。過去に酷いことをしたから」

自国の過去についてなど、少しも自分の問題として捉えたことがなかった私は、あまりの衝撃に言葉を失ってしまった。そして、その彼女の言葉は大きなインパクトとなって私の心に刻まれた。そして、数年後、いやでも日本人である、ということを自覚せざるを得ない状況に立つことになった。

それは、2000年の春、大学生数名でフィリピンを訪れた時のこと。「日本人なんか見たくなかったのに何であんたはフィリピンに来たんだい!」 年老いた女性が、細い身体を震わせて泣きじゃくり、訴えてきた。1942年に結婚した翌年、彼女の夫は日本兵に連行され、そのまま戻らぬ人となった。未だに遺体も見つかっておらず、58年間日本人に対する怒りと憎悪が彼女の心の中を渦巻いていたという。全身の力を振り絞って私たちに怒りをぶつけ泣き崩れる彼女を前に、涙をこらえることしかできなかった。

私たちのフィリピン訪問の目的は、単なるレジャーとしての旅ではなく、過去の戦争を真摯に学び友好を築くことであった。そのため、訪問前の事前学習では、雨宮剛先生(現青山学院大学名誉教授)の指導のもと、日比間の歴史を学び、私たち若い世代が過去に対して責任を負うという事はどういう事なのか、ということを徹底的に話し合っていた。その議論の中でも戦争を知らない私たちがなぜ謝罪をしなければならないのか、負い目を感じなければならないのか、ということは何度も何度も誰からともなく口をついて出た。しかし、いざフィリピンに足を踏み入れ、被害者を目の前にすると、そんな過程が全て吹き飛んでしまうほど、私たちは自分たちが意識している以上に日本人であるということを突きつけられたのだ。

当然のことながら、私たちは「あの日本人」という目で見られた。なかなか心を開いて本音で話してくれることはないが、目を覆いたくなるような残虐な話が、フィリピンの至るところに転がっていたのだ。ちょっと立ち寄った定食屋さんの店主も、たまたま乗ったジプニー(フィリピンで一般的な乗り物)の運転手も、未だ癒されない戦争の傷を背負ったまま懸命に生きていた。未亡人の女性には「日本人なんかと再会したくなかった」と言われ、高校生の女の子には、「あなた達に会う前は、日本人は恐ろしい人種だと思っていた」と言われた。私たちは、正真正銘の日本人であり、そこから逃れることはできるはずもなかった。


フィリピンを訪ねて

それ以来、たとえ戦争を体験していなくても、一歩国を出ると日本人として見られることを、若い世代は知っていなくてはいけないと思うようになった。当然のことながら、このような経験がない場合、そう理解するのはとても大変なことだが、「過去の戦争のことはよくわからない」、「自分とは関係がない」、「学校で教えてくれなかった」といった考えでは国際社会では全く通用しないのだ。

「戦後世代の私に何ができるか」。

「過去」に目をそむけることなく向き合うと同時に、若い世代として戦争体験者の想いを受けとめ、それを伝えていきたいと思うようになった。フィリピン訪問後、色々と資料を見る中で、軍人としての自分の行為を悔やんでいる元日本兵がいる、ということも知った。自分が関わった残虐行為を、亡くなる直前まで老人ホームでうわごとのように嘆き続けた方がいたと知人から聞いた。ぶつけるところのない怒りが未だに渦巻いているフィリピンへ、当時のことを悔やんでいるという元兵士の想いをビデオメッセージとして届けたい、いつしか私はそう思うようになっていた。

ただ、私のように若い世代に「心の傷」をそのまま打ち明けられるはずはない。現在、ビデオメッセージ作成のために、比島戦に参加した元兵士への取材を進めているが、元兵士の反応は様々だ。中には、私 が日本の戦争責任について触れたところ、それまで穏やかに話していたのに、急に声をあらげた方もいた。「侵略したといわれるかも分からんけど、日本の戦争のおかげでアジアが独立できたんじゃないか。」そう言い放つと、それから怒涛のように日本軍のよいところを、熱く、ツバを飛ばしながら続けた。しかし、一通り話し終えると、我に返ったのか「個々の人間はみんないい人。戦争が人間を悪くするんだ。」と暗い表情で、つぶやくように言った。加害者であると同時に、時の為政者によって彼ら自身が「被害者」になっていたと言えないだろうか。当時のことを懸命に正当化しながら、そこに動揺が見え隠れしているようで、痛々しいと感じずにはいられなかった。

また、逆に「日本人は悪いことをしてきた。素直に認めりゃいいんだよ」とおっしゃる方もいた。「でも、兵隊は人を殺したことは絶対に言わない。歴史も教えない。このことを認めなあかん」と付け加えた。この方が言うように、多くの元兵士は自分の戦争体験を封印しようとするようだ。

さらに、重い口を開けて話そうとしても、周囲がそれを妨げることもある。取材依頼の手紙を差し上げた直後、娘さんから「父をそっとしておいてください」と返信が届くケースもあった。戦争を生き延びてその後も精一杯生きてきた人にとって、戦争は思い出したくもない暗い過去の出来事であり、家族にすらほとんど話さないこともある。このケースは親を思いやっての行動だと思われるが、だからと言って話さないことが果たして最善かは疑問だ。

人は思い出したくない過去ともしっかり向き合うことで、その忌まわしい体験から解放されることもある。様々な理由で心に傷を負った方が心理療法を受ける際、その一つの方法が体験を解き放つことである。心の中に凝り固まった体験を、人に話すことで少しずつ癒されることもある。口にせず、自分の中にだけ留めていることが必ずしもよい方法であるとは言えない。むしろ、私はこれまで話せなかった方にこそ、口を開いて過去と向き合ってほしいと考えている。

話を聞かせてくれた元兵士のほとんどが、口を揃えて言う事がある。「同じ体験を二度と誰にも経験してほしくない」 そう言って、戦時の異常心理状態について取材した多くの方が言及してくださった。また、若い世代の私と話すことで、最初に会った時は頑なに日本が正しかったと断言していた方が、少しずつ感じていた矛盾などを口にしてくださるようになってきた。元兵士が過去と向き合うことで、被害者でもある彼らが心安らかに余生を過ごしてほしいと願わずにはいられない。そして、私はその過去からしっかりと学びとりたいと思っている。

今年は戦後60年だが、小泉首相を始めとし、戦前生まれでも実際には戦争を知らない世代の政治家たちは相変わらず靖国神社参拝を支持し、謝罪は済んだと言い張っている。友との喧嘩でもそうだが、相手の心が穏やかにならないうちは、懸命に過ちを認め続ける姿勢が真の友情を築くことにつながる。相手を思いやり、相手の立場に立つということはそういうことであろう。

日本人の若い世代として、私は真摯に過去の歴史を受けとめ、「自分の事」としてとらえた上で他国との友好関係を築くことを真剣に考えていきたい。戦争体験者がいなくなってしまったら、語り継いでいくのは私たち「戦争を知らない世代」である。それまで、少しでも平和への架け橋になれるよう、戦争体験者の声にしっかりと耳を傾けていきたい。そしてもし、戦争の起こる原因が特定の国の経済発展や資源確保のためであるならば、私は奪い合いのない持続可能な循環型社会を目指し、持てるものだけで暮らせる方法を模索したい。次世代のために、私は地道に実践していきたいと思っている。


フィリピンの子供たちと