父のことを思う―「戦犯の子」として生きた私の戦後

駒井修

私、駒井修は
68歳になる。今は本当に平和であり、私も静かな日々を毎日暮らしている。

思えば、あの大戦では沢山の犠牲者があった。にもかかわらず今、あの大戦から生き残った私達は犠牲者の方々のことを思い出しもせず、毎日毎日のうのうと暮らしている。今、平和で静かな時こそ一番危険である。

815日「負戦の日」(あえて私は「負け戦の日」と言う)を迎える時、私は「絶対再び戦争を起こしていけない。どんな理由があろうとも、戦争を起こしてはいけない。戦争は全てを破壊する。人間ができる最悪の行為である。またこれを阻止出来るのも人間である」との思いを新たにしている。

私の父、駒井光男(1905年生まれ、享年41歳)も、この大戦の犠牲者のひとりである。父は職業軍人ではなかったが、当時タイ国カンチャナブリ捕虜収容所第一分所の副所長をしており、泰緬鉄道建設作業隊に、鉄道隊の要請で連合国捕虜を労務者として派遣していた。

その第一分所で、英国人捕虜が無線機を組み立て情報を傍受しているとおぼしき事件が起こった。父は、その捕虜から事情聴取する過程で、捕虜を殴打し重傷を負わせ、うち二人を死亡させたとの理由で、昭和21314日、シンガポール、チャンギー刑務所で絞首刑に処せられた。

昭和19年に戦争が激しくなると私達家族は大阪吹田市から父母の故郷、盛岡に疎開し、戦後そこで父の処刑を知り、母は毎日毎日泣いていた。私8歳、母37歳であった。

今思うと、もう戦争が終わったので帰ってくると思って私にも「お父さんがもう少しで帰って来られるから良い子になって待っていましょう」と言っていたが、ある日、突然に「もうお父さんは帰って来ない」と言った。どうしてと聞くと母の隣に座っていた伯父さんが「修、お父さんは戦犯で処刑されたんだよ」と言ったが、その時「兄さんもう話さなくていいから」と言って泣いていた母を思い出す。私が「戦争が終わっても名誉の戦死か?」と聞き返すと母は「ばか者!」と私を叱り、ただ泣くだけだった。

父の死についての話は全く母から聞くことが出来ず、また伯父、叔母たちも全然私に教えてくれなかった。それ以降、父の死の事、まして「戦犯」という語はタブーであった。でも私は近所の大人の人がうしろ指をさして小声で「あの子供が戦犯の子供だ」というのを何回も聞かされた。また「この親父達が日本を悪くしたのだ」とか、「今こんな日本になったのはあの親父らのためだ」とも言われた。「戦犯、戦犯」という言葉が耳に入って来ていたが、その意味を母にも学校の先生にも聞くことが出来ず自分の心に秘めたままでいた。

あとで知ったことだが、母は、小学校、中学校、高校の各担任の先生には私が入学するとすぐに、「この子の父親は戦犯で処刑されたものですから、くれぐれも宜しく」とお願いしていたようだ。特に男の子だからグレタリしないようにとのことが一番心配だったらしい。卒業後、先生方にお会いするとこの話を聞かされた。この母も48歳の若さで、私が16歳、高一の時に病死する。私は休学して就職するが、先生から4月からまた一年生としてやり直せとすすめられ復学、4年かけて高校を卒業する。高校時代は友達に恵まれ、この間は静かに苦しくも楽しい学生生活を送った。この友達とは今でも付き合っている。

就職に際して、やっぱりあの問題が出る。「君の両親はいないね。特にお父さんの戦犯ということは話さないように」この時の先生の言葉が気になり、また少し忘れかけていたいやな言葉「戦犯」が頭から離れなくなる。もうこの時点では「戦犯」の意味を知り尽くしていたのでよけい苦しむ。

就職してからが一番淋しく感じた時期であった。千葉県船橋市に就職したが、家庭という所が無い淋しさが募った。お酒を知り飲むと「世の中が悪い、戦争でなぜ負けた。私も戦って勝ちたかった。負けてこの苦しみがあるのだから」―こんな口惜しい思いに駆られた。このころすごく自衛隊に憧れて入隊を望んでいた。今思えばあのころは、私も若く自己中心であり相手のことなど全然眼中になく、遊ぶことに夢中になって父のことも少し忘れていた時代であった。

そして私の新生活の時代に入る。妻の幸子とはお見合い結婚である。すぐ娘、育子が授かる、私30歳である。家庭に入るとむしょうに父の事を思い出し、亡き母から聞いていた父の事を思い出す。お酒、タバコが好きだったとか、家では着物が好きで、特に白のかすりのゆかたを好んで着ていたとか、思い出してすぐ着てみる。特に白カスリのゆかたは欲しく、家内に頼んでお金を工面してもらって入手した。このゆかたは今でも着てお気に入りである。

私は幼い頃は大阪吹田市で育ち本当に恵まれていたので、あの苦しかった少年時代を早く乗り越えたい、楽しい明るい家庭が欲しいと願って、38歳で家も建て一家の柱として生活を営んでいた。

こんな一番元気のある時代のある日に、新聞で永瀬隆氏のことを知り、お手紙を出し泰俘会を教えてもらう。197711月、旧泰緬鉄道とシンガポール慰霊巡拝旅行に参加する。一番の思い出として、暑いシンガポール、チャンギー刑務所に入って内部を見せてもらい帰る時、「ある人が鉄格子を両手で握りしめて『お前達は帰国できるが俺だけまだここに残る』と言って皆と別れた」と大声で説明している人が居たのが、今でも忘れられない。

その時日本大使館に行って領事に全員でご挨拶をすると領事から「皆様のお気持ちは理解できるが、シンガポールの人達にもあの戦争の大きな傷があることを知って欲しい。特に日本人墓地での行動、拝み方等には気を遣って欲しい」との注意事項があった。私はこの時から、相手の人と国に傷を付けないように心掛けることの大切さがようやくわかりはじめた。

その後私が仕事に打ち込む時代となり、父に関することから少し遠くなるが、決して忘れていない。どうしても父の処刑された理由を知りたいという思いがあり、東京の泰俘会にも参加したが、父の事に関してはだれも全く話してくれなかった。私は会の人に、今この場に元気で居られる皆様には私達(遺族)に対して、当時の事を教える義務が有ると言ったが、何の返事もなかった。ある人は「XX君は、元気で英国人捕虜を殴ったり、軍刀を抜いて驚かしたりしていたが、私達はそんなことはできず、むしろ捕虜から慕われていた。あんな暴力を振るわなければ助かったのに」といった調子であった。こんな話を聞かされた私は唖然とした。そんなことも有り泰俘会からも自然に離れていった。

当時国会議員の板垣正先生に、手紙で父の裁判関係の調査をお願いするとすぐに、英国・シンガポール裁判「事件番号2殴打虐殺事件」として「起訴理由の概要」を記した文書が送られてきた。これにより少しは事情を知る事ができたが、今まで以上に英国軍人の事を考えるようになって来た。特にこの殴打によって死亡させられた英国軍人にも家族があり、国で私と同じ気持ちで待っていた人が居ると思うと、心からひとり思い悩まずにはおれなかった。

1996年『岩手日報』に「旧日本軍を裁いた英国の全記録、ロンドンで発見」という見出しの日本近代史研究者・関東学院大学林博史助教授(当時42歳)の記事を発見し、スクラップする。

1999年私は会社を退社、家内と初めての外国旅行をシンガポールに行き、チャンギー刑務所と日本人墓地を訪れたのちタイ国カンチャナブリ市泰緬鉄道に乗って、一応慰霊旅行を終る。

ふとあの旧日本軍を裁いた英国の全記録の記事が頭をよぎり、林先生に突然お手紙を差し上げたところ、すぐ気持ちよく父に関する裁判記録の英文原文を抜粋して送って下さった。私は英語はあまり読めないが、英文の文字を目で追うとそこにはKOMAI MITSUO、判決  DEATH BY HANGINGとはっきり記してある。この父の名前があった場所を手でこすり、思わず「苦しかったんだね」と声が出て泣けてきた。55年前のことだがまるで父と会ったみたいに泣けてきた。私は英文が読めず知人に依頼して訳してもらうと、ロマックス中尉を激しく殴打して重傷を負わせ、ハウレー 大尉、アーミテージ中尉を激しく殴打して死に至らしめたとあった。55年目で英国軍人捕虜の名前を知り本当にショックを受けた。自然に頭が下がり、まず心から謝罪をする。すぐ永瀬さんにこの公文書全文をお送りする。

永瀬さんからの返事で、私が謝罪したいと思っていたロマックス氏が今もお元気で英国でお暮らしとのこと、そして永瀬氏の友人であることを知った。私はすぐ永瀬さんに「ロマックス氏にお会いして、父に代わって謝罪したい」旨お願いする。私は「一方的にでも良いからとにかく謝罪したい。どうしてもロマックス氏が私と会う事を拒否されたら、近いうちに英国に行って、ロンドンのホワイト・ホール通りにある国立戦没者記念碑を訪れ謝罪したい」と思ってきた。

また最近、横浜英連邦戦没者追悼礼拝にも初めて参加することが出来、心から感謝している。今まで心の中にあった心からの謝罪が少しでも出来たことである。今考えると残念だったことがひとつある。各国の代表者が参加されていたが、この中の英国大使館付武官ジェームス・ボイド大佐に一言「本当にすみませんでした」と謝罪したかった。だが、私は英語ができず実行出来なかったことを今悔んでいる。

私は父と会いたいとむしょうに思う。今まで夢にも一度も会ったことがない。少し淋しくも思う。私が父を思うと同様に英国の遺族の方々も同じ気持ちであることが、ようやく私にも分かって来た。今、遅すぎた感も有るが、今からでも遅くないこの気持ちを表したい。私以上に悲しい思いをされている人々が多いと思うが、こんな苦しみや悲しみを味わうことは私達だけにして欲しい。また二度と同じ過ちを繰り返すことなく平和であって欲しい。今この平和を維持するために私は何が出来るか?皆、それぞれ出来ることを実行して絶対に戦争を起こしてはいけない。戦争は全てを破壊する。また人間は心身ともに壊される。

私達戦争体験者として、少しでも今の若き人達に話し伝え残して置きたい。忘れられると大変な事になる。聞く方も良く聞いてあとあとまで伝えて欲しい。これが孫への伝言であると思う。

最後になるが、今までの戦争で犠牲になった全世界の人々にあらためて合掌をする。
 

父のこと思い過ぎし日五十年
ふみよみて思わず声をつまらせるなり


親愛なる駒井修さま

あなたの書かれた文章に、一文を寄せることをどうぞお許し下さい。

あなたと私はどちらも、第二次大戦で父親を失いました。その不幸は、遠い昔に成長する年月を通じて、私たちがどのような人間になるかをある程度決定づけました。私たちは当然、その結果家族にもたらされた変化と子供時代そしてその後の年月にも影響を及ぼすことになる運命の異なる流れを前にして、戸惑いました。太平洋を挟んだそれぞれの国で、私たちは成長し、どちらも何とか家庭生活を築いてくることができました。

私はあなたに提言したいと思います。即ち、「私たちは、個人としての自分たちがどのような人間であるのか、どのような人格を形成してきたのか、家族や同僚などの周りの人々とどのような人間関係を築いてきたのか、どのような友人や出会いを選んできたのか、などによって最もよく評価してもらうことができる」ということです。いかなる告発(あなたの場合は第二次大戦でお父様が受けられた告発)によっても、私たちが本当に重要な意味で評価されることはありません。それらの告発が真実であるか否かは、あなたがどんな人間であるかを左右するものではないのです。 あなたの書かれた文章から拝察し、私はあなたが、過去の真実を知ることを望み人と人との間に理解を求める立派な人格の方と、お見受けしました。そのようなあなたを、私は尊敬します。

あなたと私は、祖国が敵同士として戦ったあの戦争で父親を亡くしましたが、私は、あの当時のことを基に自分の日本に対する気持ちそしてあなたに対する気持ちを推し量ることはしませんし、将来もすることはありません。「勝った者が支配できる」とはよく言われることです。選挙ではそうかもしれませんが、人生では違います。友情を通して相手に手を差し伸べようとする時の、その人物の真の人間性こそが大事なのです。私は、父親の足跡を辿り理解しようとつらい旅路を歩かれるあなたに手を差し伸べ、幸運を祈りたいと思います。その道のりは安易なものではないでしょう。感情に翻弄され深く傷つくこともあるでしょうし、過去の出来事故にあなたに個人的な汚名を背負わせたいと願う者もいるかもしれません。私はそんなことは願いません。でも、知ろうとすること、そしてお父様のつらい過去の出来事を理解しようとすることで、あなたは自分自身をより理解することでしょう。そして、あなたのお子さま・奥さまに対してしてより完璧な父親・夫となるでしょう。あなたが求めていた、そしてたぶん今も求めていらっしゃるであろう、さらなる理解を得ることでしょうし、今の世界にとても大切な、他者との触れ合いによる友情の架け橋を築かれることでしょう。

あなたのお父様と私の父がもし出会っていたなら、きっと友情を分かち合えたと思います。私もあなたの文章を読み、あなたを知り得たことを嬉しく思っています。

友人であるあなたのご健勝を祈って。

第二次大戦中日本軍の捕虜として死んだ
サミュエル・ローレンス・ハイジンガーの息子
デュエイン・ハイジンガー

ハイジンガー氏のエッセイ:  父の発見:息子がさがした亡き父

* ハイジンガー氏は2006年5月1日逝去 


追記:駒井氏は2007年7月、ロマックスを訪ねました。

訪問時の写真を含む記事
ロマックス氏の捕虜体験は2012年、映画化が進んでいます。