イギリス人元捕虜アーサー・レイン氏との対話

徳留絹枝

この2年間、イギリス人元捕虜アーサー・レイン氏からメールが来ない日はほとんどありませんでした。(時には何通も届くことがありました。)

それらはイギリス人捕虜の体験に関する彼の思いであったり、彼が書いた詩であったり、どこかで彼が見つけた小噺や美しい写真であったり、時には彼が聞いて欲しい音楽であったりしました。私たちは一度も会ったことがないまま、友人になりました。私は彼との文通を楽しみ、イギリス人捕虜の体験をいろいろ教えてくれる彼の親切な努力に感謝してきましたが、主にアメリカ人捕虜に関する私のウエブサイトで彼を紹介するよい機会がなかなかありませんでした。

しかし、彼の考えや思いには、アメリカ人捕虜のそれと共通するものがあるのではないかと思い、彼と私がメールを通してやりとりした会話を紹介することにしました。

アーサーは1935年 、15マンチェスター連隊に入隊し、機関銃兵・ラッパ手としてエジプト・サイプレス・パレスチナ・シンガポール・マラヤに赴任しました。

1942215日のシンガポール陥落で、彼は約8万人のイギリス・オーストラリア・インド兵と共に、日本軍の捕虜となりました。彼は何千人もの捕虜仲間が死んだ悪名高い
泰緬(たいめん)鉄道建設の強制労働に就かされました。

彼はまた、3,000人を越えるイギリス・オーストラリア・オランダ兵そして日本兵のために、埋葬ラッパを吹奏しました。


彼はこれまで、この戦争に関する
16冊の自分の著書と他の退役軍人が書いた26冊の著書を、出版しています。

彼はさらに三編のドキュメンタリーの製作を支援しました。そのうちの一作 The Last Post on the River Kwaiは、彼ともう1人の元捕虜が、かつて彼らが働かされた泰緬鉄道を辿る姿を描いています。
                       (クワイ川に掛けられた橋を歩くアーサー)

アーサーは1984年、その後 2000人の会員を擁することになる National Ex Services Association全英退役軍人アソシエーション)を設立しました。

最近の著 『マンチェスター兵士の影』で、彼は次のように書いています。

私たちは捕虜として、食肉処理場に送られる子羊のように感じたものです。でも、捕われの身からの開放はもっと酷いものでした。経験ある医者の誰一人も、私たちがどのような病に苦しんだのか分からなかったし、体験したこともなかったし、尋ねてみようともしなかったのです。私が受けた検診は、入隊時のそれと非常に似通ったものでした。

「ズボンを下げて、咳払いして、はいOK、次の人」

誰一人、4年近くにわたって捕われていた男 たちの心の中を、わざわざ検診しようとはしなかったのです。                  

アーサーのこれらの仕事と彼の思いをこのウエブサイトで紹介することで、日本軍捕虜の歴史を人々に伝えようとする彼の類まれな努力を少しでも支援できることを、願っています。また私は、このエッセイを読む人々に、アーサーのような元捕虜たちが私たちに「生きた歴史」というかけがえのないギフトを与えてくれていることを知って欲しいと思います。私たちは、彼らの傷を癒すことはできないかもしれませんが、少なくとも、彼らの体験に耳を傾け、共有しようと努力するべきだと思います。


16冊も本を書かれていますね。どうしてそんなにたくさんの本を書くことになったのですか。

1956年に私は戦争年金を受け取る手続きをしたのですが、受給の条件は”精神科の治療を受ける”というものでした。治療の一環として、軍隊での体験をできるだけ書いてみるよう言われたのです。

私は、自分の捕虜体験も含めて軍隊での体験を書き始めました。1956年、私は100ページの手書きの原稿を完成したので、その後2年ほどあちらこちらの新聞に送ってみましたが、何の応答もありませんでした。

それで私はその原稿を押入れにしまい込んで、1986年に中古のタイプライターを購入して何とか一本指で打てるようになるまで放っておいたのです。私は、『二等兵』というタイトルの、200ページの原稿を仕上げました。このタイトルはその後出版社によって『一人の神、多くの悪魔』と変えられました。不幸なことに、この出版社も悪魔の一人で、1500冊も私の本を売りながら、私にはびた一文払わなかったのです。

そんな訳で私は今、自分の出版社を通して軍人の本を無料で出版しています。印刷にかかった費用をカバーする冊数を売ったら、残りはいつも寄付しています。私は、少しでも収益が出たら、誰かにそれを盗まれるより寄付した方がましだと考えています。

振り返ってみられて、本を書いたことはあなたにどのような影響を与えましたか。

自分の心の中を探し、自分が知っていることや体験したこと全てを覚えている限り書き出しなさい、という私の精神科医がくれたアドバイスは、私が想像もしていなかったことを可能にしてくれました。

私は最初の本を出版した後、自分の人生の”地獄“とも言うべき時期に関して、全ての真実を発見するために全力を尽くすと決心しました。

1970年から1992年の間、私は、タナカと ハシモトという二人の戦争犯罪人のエンジニア(私は彼らが悪質な方法で数人の男を殺したのを目撃していました)を探すため、何度もシンガポールとタイに戻りました。戦争が終わった時、二人ともマレイシアに逃亡し、そこでマラヤの英国支配を転覆させようとしていた共産軍に加わりました。私は、自分の計画を進めるために、イギリスに私立探偵社を設立しました。

1990年、ついに私は、タイに潜んでいた二人を見つけました。私はタイに行き、英国大使館に私の告訴を提出しました。残念なことに、大使館の誰かが日本大使館にその情報を流し、彼らはタイ政府から訴追免責を手に入れたのです。二人とも日本に英雄として帰国しましたが、そのことは、自分が不運にも出会った戦争犯罪人に関する真実を暴露することを、私に誓わせたのです。
 

アーサーの告発を報道する当時の新聞記事

引き続き調査して書いているうちに、私は、さらなる真実を見つけ出したくなりました。そうすることはまた、物事にはいつでも反対の面があるのだという事実に、私の目と心を開いてくれました。答えはいつでもあるのだ、全ての面を調査するまで、何事も額面どおりに受け取ってはいけない、ということです。私は、調査やその他の仕事に取り組む時、中国系やマラヤ系の友人や知り合いを通して戦争犯罪人の居場所を捜査するのに充分な時間をかけます。タナカに関する情報を受け取った時、全てのクリスマスと誕生日が一緒にやってきたような気持ちになりました。不幸にも、私はタナカと ハシモトを逃がそうとしているタイ国に対して、アメリカの影響力を行使させることをしなかったのです。

それはどういう意味ですか。

アメリカが太平洋地域で大きな影響力を持つ一方でイギリスは全く影響力を持っていないというのは、よく知られたことでした。私の調査を知った駐バンコクのアメリカ大使は、イギリスの戦争犯罪捜査官が追跡している全ての日本人と他のアジア人に、一括免責を与えてしまったのです。私が要請したアメリカ総領事との面談は最初妨害され、その後拒否されました。イギリス政府に陳情すると、その問題はタイ政府の責任であるという答えだったのですが、タイ政府は証拠を見せて欲しいと頼むことも無く、一括免責を発行したのです。

今の私の心境は、調べたり答を見つけようとしたりして晩年の多くの時間を無駄にしてしまった自分を、叱りたい思いです。

私が見つけた唯一の答は、戦争というものが、神のような存在になることを望む人間によって作り出され、君たちは正義と自由のために戦っているのだと言われてそれを真実と受け入れた私のような人間は、結局は彼らのおろかな手先に過ぎなかったということです。

それは悲しい結論ですね。でも、私はあなたが無駄な時間を費やしたとは思いません。あなたの書かれたものは将来の世代への力強いメッセージにきっとなると思いますので。

私は1996年ウィーンで、有名なナチ・ハンターのサイモン・ヴィーゼンタールにインタビューする光栄に浴したことがあります。私は彼に、「もう半世紀以上も過ぎているのに、ナチ戦犯を追い続けることがなぜそれほど重要なのですか」と尋ねました。彼はこう答えました。

私は、彼らの犯罪が50年以上も前のものであっても、世界がそれを知ることは重要だと信じます。彼らが捕まり裁判にかけられれば、新聞は彼らが戦時中にしたことを詳細に伝え、世界はそれに関心を示します。これは、私たちの子供やその子供達のためにしなければならないことなのです。もし今後、(戦争犯罪の)歴史が繰り返されるとしたら、それは将来の世代の責任ではなく、歴史を彼らに伝えなかった私たちの世代の失敗なのです。

因みにヴィーゼンタールは、彼が見つけ出したナチ戦犯がいかに厳しく処罰されるかということにはそれほど関心がなかったそうです。彼にとっては、彼らの犯罪が将来の世代に伝えられることの方が、ずっと大事だったのです。彼はまた、世界が被害者を忘れないよう、戦争犯罪人が法に基づいて裁かれることを助けることが、ホロコーストに生き残った自分の責任と感じていました。あなたも、同じように感じられたのですか?

私の理由はごく個人的なものでした。鉄道建設の最初の数ヶ月、私は、職業エンジニアだったタナカのために働かされました。私の仕事は、彼の測量機器全部と標識に使う何本かの木の杭を抱えて歩くことでした。2、3ヶ月するうちに、私は、彼の動きや感情の起伏のほとんどがわかるようになりました。私の本に、彼と数人の捕虜とエンジニアが、岩肌を下りていきながらドリルで穴をあけてダイナマイト爆弾を仕掛けた時のことが書いてあります。日本人の一人が滑って岩肌を転がり落ち、下の川に落ちました。私たちのうち何人かが何とか彼に辿りついたのですが、タナカは彼自身の部下を救出することには関心がありませんでした。彼は私に、水の中に入ってその兵士が担いでいた機器を取り戻せ、と怒鳴ったのです。

私は彼が殺した男達のリストを持っています。

彼の特別なやり方は、まず捕虜たちに
ドリルで岩肌に穴を掘らせ、ダイナマイトとヒューズを埋め込ませるのです。ヒューズが充電装置に繋げられたら、法律に従い、そして人道的な見地からも、タナカは作業をしている男たちに警告し避難させなければならなかったのですが、彼はそれをせず、その代わり、猛スピードで走って点火装置を押したのです。捕虜たちの上に岩の破片が滝のように降り注ぎました。大勢が怪我をして、二人が即死しました。

泰緬鉄道沿いで、仲間の捕虜が墜落死した場所を見上げるアーサー

最後に、鉄道が完成する2ヶ月ほど前、彼は何人かの捕虜が爆破地点のすぐ下の洞穴で休んでいるのを見ました。彼は、捕虜が洞穴にいるのに、爆破させたのです。その時、日本人の高級将校が近くにいました。彼はそれを目撃すると、タナカをすぐプロジェクトから外しました。タナカは私が最も憎しみを感じた人物でした。

タナカがしたことは、本当にひどいことでした。タナカは 、一人だけでなく多くの人間を死に至らしめました。私はたった一人の処刑銃殺隊になりたいと思っていました。彼を撃つ前に、どんな気分か彼に聞いてみたかったのです。

ある時は私の怒りが納まらず、彼を軍の射撃訓練所の標的に使うべきだと、提案したこともあります。私は、アメリカ軍が徹底的に戦って、軍人だけでなく全ての日本人を抹殺することを願いました。それほど憎しみでいっぱいだったのです。

軍隊で私の友人だったジョー・ダックワースは、日本人と朝鮮人の看守に殺されました。仕事中の喫煙は禁じられていたのですが、彼はその規則を破ったのです。彼はトイレに行く許可をもらい、煙草を作って吸おうとした時に、看守に見つかったのです。彼がどう罰せられたか分かりますか?

 その頃、夜中働けるようにと、大かがり火が燃やされていました。看守と日本兵全員が集まり、ジョーの口・耳・鼻に煙草を差し込むと、そのかがり火で煙草の火をつけるよう命じたのです。彼はいやがっていましたが、彼らは棒でこずいたのです。ジョーは顔をまっすぐ火に向けたまま倒れ、数秒のうちに死んでいました。私は戦闘で多くの友人を失いましたが、それはある程度予想できたことです。でもこのような状況で友人を失うというのは、私の理解を超えたことでした。        ジョー(左端)とアーサー(2人目)
                                                     
今私は、死んでいった者たちに償いをすることは誰にもできないし、実際に許すことができるのは彼らだけだ、ということを受け入れています。

日本から謝罪と補償を求める運動には関わりましたか?

日本政府から謝罪と補償を得ようとする私たちの試みは、イギリス政府によって妨害されました。そしてその後私たちは、自分たちの政府が1950年代に私たちを裏切っていたことを発見したのです。

日本とのサンフランシスコ平和条約第26条は、「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」と定めています。イギリス政府がサンフランシスコ条約に署名した後、私たちは76ポンドを受け取りました。

しかし私たちの政府は、日本がその後11カ国とさらなる平和条約を結び、イギリス人がそれぞれ受け取った額より多い補償を支払うことに同意して支払っていたことを、知っていたのです。それなのに私たちの政府は、サンフランシスコ条約第26条を発動しないことを決めました。イギリス外務省のメモは、「もちろんこの決断は公表すべきでない」と書き、財務省高官は「大蔵大臣は、連合軍捕虜との関係において、国内政治的にはきまりの悪いことになる可能性にも拘わらず、外交関係を鑑みて下されたこの決断を、受け入れた」とも書きました。

これらの文書を発見した私たちは、以下のような請求を政府に提出しました。

今こそ政府は、中立の調査捜査官を指名し、60年以上も前に日本軍によって3年半にわたり監禁された者たちが裏切られたことを、調査させるべきではないか。生存している者はもはや多くはないが、生き残った私たちは、自分たちが戦前にも戦後にも裏切られたのだという知識とともに毎日過ごしている。今こそ権力の地位にある者が、事実を調査すべきではないか。

元日本軍捕虜は2000年、全員が、イギリス国民の税金で賄われた形ばかりの補償金1ポンド(当時約200万円相当)を受け取りました。

つい昨年、やっと日本政府は正式にアメリカの元捕虜に謝罪し、招聘プログラムを開始しました。日本政府は最近まで、イギリスの元捕虜とその家族を対象に15年間招聘プログラムを実施していました。800人以上が日本に招待されました。このプログラムをどう思われますか?

私は招待されたことはありませんし、もし招待されていても拒絶していたでしょう。私は捕虜として日本には送られませんでしたから、日本に行っても和解の助けにはなりません。今でも、私を含めて、どのような形の和解をも敬遠している元捕虜がいるんですよ。たぶんそれは、私が自分の人生を通して、失われてしまった物を取り戻そうとしても(焼き払った橋を掛け直そうとしても)無駄なことだ、という信念をもってきたからかもしれません。

でも、新しい橋をかけることはどうですか。あなたは2年以上、あなたの思いを私と共有してくれました。日本人である私に語りかけることに、あなたが何らかの意味を見出してくれたと思いたいのですが。

自分自身の敵にだったら 「あなたを許します」ということは、何と簡単かと思います。私自身についていうなら、私は、兵士として兵士の職務に就いていました。その立場で私は、私と全く同じ職務に就く敵を、尊敬していました。ですから私は、兵士としての規範に従う日本兵には、尊敬以外の何物も抱いていません。でも、一旦勝利を手にすると、多くの日本兵がいろいろな面で非人道的になりました。それが、命令だったのか自己の欲望を満たすためだったのか、私には分かりません。

もう一度言いますが、私が許すことは簡単なのです。でも、「あなたを許します」と言うべきなのは被害者であって、私ではありません。私には、何も許すべきことはありません。私自身も、名前を知ることも無い日本兵たちに死をもたらしました。部外者が、戦闘に関わった者に「許したらどうですか」と言うのは簡単なことです。なぜなら彼らは、残忍な行為が(仲間に)加えられるのを見る痛みを、味わったことがないからです。

あなたの答を聞いて、私の亡き友人デユエィン・ハイジンガーが癌と闘っていた頃、私に書いてきた言葉を思い出しました。デユエィンの父親は、捕虜輸送船上で亡くなったのです。彼は、捕虜だった父親がいかに生きそして死んだかを探す自分の旅を綴った 『Father Found』 という美しい本を書きました。彼は、私がこのウエブサイトを立ち上げたばかりで苦労していた時、心から励ましてくれました。彼はこう書いてきました。

絹枝、結局の所、あなたも僕も、これらの出来事を他人(の体験)を通して見ているだけで、そして暗く曇った鏡を通して見ているんだよ。この歴史が自分や他の人々にどのような意味をもっているかを書こうとする僕たちは、動機は悪くないけれど、明らかに想像の領域に居て何とか理解しようと漠然とした把握をし、そしてそれを書き表そうとしているに過ぎないんだ。 このことをできる限り理解することは、僕にとってとても大事なことだった。 なぜなら僕は、“父のためにそして自分自身のために書いていたから”。 それで僕はあの本を書いたんだ。でもその意味では、僕の書いたものは、父の気持ち…それを僕が知り得ないことは明確…のほんの一部を洞察してみたに過ぎない。

真実というものは往々にして相対的なもので、歴史もしばしばそれを書く者によって歪められたりするものだけど、それでも書き留めることは過去を扱う唯一の方法です。だから僕たち全員が努力して、誠意をもって書いてみるべきだと思う。

私はそれを読んで、本当に謙虚な気持ちにさせられました。“捕虜だった父親について本を書くために7年を費やした人物が、父親の気持ちを自分は知り得ないのだということをこれほど謙虚に認めているとしたら、捕虜と何の関係も無く、まして彼らにこれほど多くの苦しみを与えた国の人間である自分が、何かを知っているように振舞うことなど、どうしてできるだろう”と感じたのです。でも、私は彼が「僕たち全員が努力して、誠意をもって書いてみるべきだと思う」 と強く励ましてくれたことに、勇気付けられました。

私自身は、武器を捨てた捕虜や一般市民を不必要に殺害した日本人以外の、全ての日本人を許すことができます。

今、私はあなたとの交流を通じて…多分あなたが私の言語を理解してくれたからだと思いますが…自分の中にあった亡霊を暴露することができ、心の底から 「私はもはや、いかなる報復も願っていない」 と言うことができます。あなたを通して、私は自分の中にあった憎しみのほとんどを、書き出すことができました。

充分辛い思いをして苦しんだ日本人には、何も求めません。私の願いは、世界の国々の指導者と呼ばれる人々が、全ての武器を破壊する話し合いを始めるべきだということです。

日本軍捕虜の歴史に関して何を望みますか。私自身は、元捕虜の友人たちを代弁することはできませんが、でも謝罪が何らかの意味を持つと主張する元捕虜がいる限り、彼らがそれを得る努力を支援したいと考えているのですが。

私が何を考えようと、第二次大戦、特に太平洋と極東地域におけるそれは、既に現代の人々の心と記憶から消されようとしています。私は、生き残ったことの罪滅ぼしとして、書き続け調査を続けるのみです。

あなたは、書くことによって将来の世代にとても重要な貢献をしていると思います。いつか、「過去はもう過ぎ去ったことです。でもそれは、同じ道を決して再び歩まないように、という警告でもあるんですよ」 と書いてきて下さいましたね。私は、あなたがヴィーゼンタールと同じことをしているように思います。

でも、あなたのフラストレーションも理解できます。ヴィーゼンタールは、自分が探し出した1,000人以上のナチ戦犯に関する資料を、ドイツ当局に提出することができました。それらの戦犯を裁判にかけるためです。彼は、正義を追及し続けた活動により、米国政府が民間人に与える最高の栄誉である「大統領の自由勲章」さえ受けました。日本には、違う基準が与えられてきたようですね。

それでも私は、あなたが私たちのためにそして将来の世代のために、書き続けていることに感謝したいと思います。

あなたはつい最近、1,400ページもの最新作 『70 Days to Hell』の原稿を私に送って下さいましたね。本当に有難うございます。元英海軍大尉のジョン・ニクソン博士が書いた前書きが、この本をよくまとめていると思います。

アーサーは、二つの理由からこの本を書きました。彼は、俗に言う ”シンガポールの偉大な降伏“ に至るまでの70日間の出来事を記録する本を書こうと、努力しました。その目的を果たすために彼の本は、戦死者と彼らが命を落とした実際の場所をリストした参照セクションを含まなければなりませんでした。アーサーは、この膨大な作業を”マラヤの陥落“の11日を一章にすることで、成し遂げたのです。そのような本を作り出そうとした意図は、将来、行方不明あるいはその場しのぎの非公式な戦争墓地に埋葬されている英兵士の行方に興味を持った誰にでも使ってもらえるような、歴史の記録を残すことでした。

アーサーの二番目の目的は、彼の他の著書そして他の大勢の極東で第二次大戦を戦った退役軍人の著書に通じるもので、シンガポールとマラヤにおける”英軍の偉大な降伏“にまつわる神話と事実誤認を、打ち消すことでした。

一般的に信じられている誤認識を正すことで、彼は、その勇敢さと英雄的行為が十分に認められてこなかった英国兵士たちの名誉を回復しようとしたのです。この本で彼は、彼らがふさわしい尊敬を受けずに汚名を着せられ、敗北者として隠されてきたと、論じました。アーサーは特に、今日の、政治的に当たり障りのない立場をとる風潮の中で歴史が書き換えられていくことと、シンガポール陥落に関して不正確或いは偏った作品を作り続けるドキュメンタリー製作者に、敏感でした。パーシバル将軍自身の戦闘記録を用い…(私はそれが、この本のメッセージにさらなる正当性を与えていると感じています)…彼は、その時そこに居合わせた人間として、そしてその後68年以上にわたってそれに参加してきた人間として、彼が強く信じる真実を綴ったのです。

私自身の父も彼と体験を共にした一人ですので、アーサーの超人的努力に感謝し、この本の成功を祈ります。

私は、シンガポール陥落に至る70日間の11日に起こった出来事が、本当に詳細に描かれていることに感心しました。あなたは、その日その日の日本軍の動きと英・豪軍の動きを示す地図、そしてその日死んだ兵士の名前と彼らの埋葬地を網羅していますね。


Singapore February 9, 1942

この本が、日本人を含む多くの人々に読まれ、資料集として使われることを願っています。頂いた原稿は、シンガポール陥落時の歴史研究では最も尊敬されている日本人学者の一人に送りました。

ここで、National Ex Services Associationについて聞かせて下さい。なぜこの組織を作られたのですか。

私が除隊した1950年、さまざまな退役軍人組織や元連隊組織があることに気付きました。あちこちの戦場で一緒に戦った兵士からなる組織や、政治的思惑を持ついろいろな組織です。私は、自分の隊の団体やさまざまな元捕虜の団体に加入するよう誘われましたが、彼らには一つ共通点がありました。彼らは全員過去のことを思い出したかったのです。「ジムを覚えているかい?ビルを覚えているかい?どこどこの戦いを覚えているかい?」

私は軍隊に12年在籍して、兵士らしく務めました。私は、誰に何処で何が起こったのかを常に思い出すことを強いられるのが嫌でした。それで私は、兵士時代にそうだったように、お互いを助け合うことができるような組織を作ろうと、決心したのです。たった7人で始めたのですが、2000人以上の会員を持つ組織に育ちました。

組織としてどんなことをなさってきたのですか。

兵士もただの人間です。魔が差して悪事をはたらき刑務所に入ってしまった者もいます。最初私たちは、これらの不運な者たちを訪問したりしました。それから病院を訪問したり、極東の捕虜だけでなく、化学兵器の実験に使われた兵士や、核実験が行われたクリスマス島の住人に補償を求める抗議運動をしたり、世界中で戦っている兵士たちに関わるいろいろな問題に取り組みました。

今日私たちの組織は、アフガニスタンに派遣されている兵士たちを 数多くの面で支援しています。私のように、抗争の最前線に居たものは、殺戮は問題解決の答ではないと感じています。でも、それでは代わりにどんな方法があるのでしょう?

ウエブサイト http://www.nesa.org.uk/ )も情報が満載ですね。あなたが管理しているのですか。

私自身と、コンピューターグラフィックがとても得意な仲間の Rob Eyre と二人でやっています。寄付も募っていますが、今のところ私の持ち出しでやっています。額は多くありませんが、本の売り上げと商業写真家の息子からも資金を得ています。

息子さんがあなたと一緒に泰緬鉄道に旅行された時に撮った写真を送って下さいましたね。有難うございます。

                            


 

息子さんが成長なさる時、あなたの捕虜体験を教えましたか。

私の息子は、娘が生まれた10年後の1957年に生まれました。彼は戦争には全く関心がありません。年配の元兵士たちに会うことは楽しんでいましたが、抗争を解決するために人を殺すことがあるということに、どうしても納得しないのです。私は何とか説明しようと試みましたが、彼は父親と同じくらい頑固者なんですよ。

私の娘は63歳で、私を色々な面で支援してくれています。彼女は母親がそうだったように看護婦で、職業を通して他人の痛みや苦しみを見てきています。 35歳の孫娘と28歳の孫息子もいますが、彼らも私と私の活動を支援してきてくれました。

実際私は、いろいろな意味で、娘に応えるようにあなたとやりとりしてきました。私たちは議論し、時には私が命令します。彼女にも勝たせることがありますが、度々ではありません。

                                                                                                        アーサーの娘 Glennys

さてここで、あなたの詩についてお聞きしなくてはなりません。たくさん送って下さいましたが、とても感慨深く読ませて頂きました。詩を書くということは、あなたにとって自然にできることですか。それとも、ぴったりの言葉を見つけるために悶々とするのですか。

私は、“兵士のための詩人” と呼ばれるような存在です。叫んで訴えたいと思うようなことがあった時だけ活気付くんです。これまで新聞に投稿したりしてきましたが、期待したような返事をもらえたためしがありません。それで私は、自分の怒りや気持ちや感情を、ただ紙に書きます。たいがいの場合、私は自分の怒りを散文で書き、それをくしゃくしゃに丸めて屑篭に捨てることの方が多いんですが。

以下、送って下さった詩の幾つかです。有難うございました。

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Nightmares

Did you ever hear the sound of a bullet which missed.
Or a ricochet as it whines between the tree's.
Have you ever felt so useless tasted the bitter bile of fear
As it rises in the gut from God knows where

Have you ever heard the rattle of a mortar on it's way
And the crashing sound as it hits the roof above?
Have you heard the screams of men as they meet a horrid death,
Or smelled the stench of cordite mixed with urine guts and blood?

Have you ever reached a point in life, when nothing really matters
That death would be a welcome peaceful thing?
Have you ever looked in awe at the bloody useless body
Of a comrade or a friend as before your eyes his life's blood ebbs away?

Did you ever pray to God, then find he wasn't there
and in desperation cry out for mum or dad?
Have you ever fought a one sided useless fight
betrayed by those you thought that you could trust,
Then be taken prisoner by a bestial Japanese?

I was! and I wish I never had.

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Thoughts of a Soldier

I joined the army as a soldier then a killer by command
Became judge and executioner in my time
Maimed and killed my country's enemies with total disregard
Performed the duties of a soldier down the line

I've been spat at sworn and thrown at,
Stoned and thrashed with bamboo canes.
Sometimes belted with a rifle or a lash,
Then left strung up rigid by the arms

Suffered the water treatment and decapitation threat,
Gone without food or drink for days beneath the sun.
Worked and treated like a coolie for fifteen hours a day
With nothing left to show for what I had done

Yet! there's nothing more soul destroying
Or anything which brings me pain
Than being betrayed by one's own government
For whom I had fought and served in vain.

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Arthur self portrait

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A SERVICE MAN’S PRAYER

AND WE THAT ARE LEFT TO GROW OLD WITH THE YEARS
REMEMBERING THE HEARTACHE, THE PAIN AND THE TEARS.
HOPING AND PRAYING THAT NEVER AGAIN
WILL MAN SINK TO SUCH SORROW AND SHAME
THE PRICE THEY PAID WE WILL ALWAYS REMEMBER
EVERY DAY EVERY MONTH, NOT JUST IN NOVEMBER

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Night Terror

I dreamt last night of hate-filled eyes
In a twisted snarling face,
And a voice that bellowed, hoarse with rage,
And knew I was back in that place.
For the blood and the brains and the slivers of bone,
And the pitiful stares of the dead
And the last bubbling gasps in a dying child’s throat,
Are all locked away in my head.

All under control, and quickly subdued,
Not meant for casual ears;
Yet, still today, I know the taste
Of bitter salty tears.
Scalding tears of rage, that men
Could do that to a child;
So when we found them later that day,
We let the boys run wild.

Training fought hate for control of my mind;
The race was very close-run;
Though later I came to admit we were wrong,
I refuse to regret what was done.
Those eyes, that face and that voice are all mine
There’s no other sound that I hear;
Except for that throat filled with blood at the last,
That always rings out loud and clear.

And I awake with a pounding heart,
Teeth clenched to keep from screaming
And wonder what I’ve done of late
To trigger off such dreaming.
Maybe there’s something in all of us,
However deeply hidden,
That makes us relish in our dreams
The things that are forbidden?

The most savage of beasts that stalks the world
Takes no delight in killing;
Except for the one that walks erect;
And that one’s always willing.

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ONE GOD, TOO MANY DEVILS

I saw his face so many times
Three thousand maybe more,
I saw him first in Palestine
Then again in Singapore. 

When the world was all in flames
And man a beast became,
He would call to see me every day
But would not give his name. 

His eyes were black like un-forged steel
The smile was more a grin,
With arm outstretched he showed the way
Like a slave I followed him. 

It was more than forty years ago
That he visited each day,
More recently just once or twice
Has he called around this way.

Where my hair now has turned quite grey
And my face accentuates the strain,
He appears still young with his crooked grin
And eyes which still show flame.

He waves his hand and beckons
For me to follow him again,
But I smile right back and say “No more”
And he slowly goes away.

 

                                                                                                      2011年12月8日掲載


Telegraph 紙に出たアーサーに関する記事
'Forgotten army' of POWs hold final remembrance service for fallen comrades

BBCで紹介されたアーサー
Veterans recall WWII's South-East Asian campaign

* 第二次大戦中、香港・シンガポール・上海その他の地域で捕われた約8万人の英国兵が、日本軍の捕虜になりました。彼らのうち、戦争終結後に生還したのは約4万6千人と言われています。