ジャック・リーミング

1919年ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ

- 米海軍、空母「エンタープライズ」所属第6偵察中隊、
電信員兼射手
- 捕虜になった場所:南鳥島、「アルゼンチン丸」にて日本に連行。大船訊問所, 善通寺、大阪、富山の各捕虜収容所

インタビュー・ビデオ - High Quality / Low Quality
時間 2:19
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パール・ハーバー 

平和を愛し楽しく生きている人間にとって、敵の奇襲により突然命が危険に曝される場面に遭遇したら、それはなんと破壊的なことだろう。愛する人々、生き甲斐としてきたこと、そして将来の計画があるならば、尚更だ。突然、 それまでは予想もしなかった恐怖、怒り、危険、軽蔑、挑戦、報復の入り混じたった感情が心の中に湧き上がり、復讐を誓って反撃するだろう。 「あんなやつらに自由は奪わせないぞ」と。

日本軍に対する最初の反攻

2ヶ月もの間、ハルゼー提督が指揮する第8機動部隊は、「エンタープライズ」が3隻の重巡「チェスター」「ノーザンプトン」「ソールトレーク・シティ」、6隻の駆逐艦「ベルチ」「ブルー」「ダンラップ」「マウー」「マッコール」「ラルフ・タルボット」と艦隊油槽艦「プラッテ」を随伴し、太平洋上をあちらこちらと航行した。搭乗員には毎日飛行作業が割り当てられ、敵影を求めて索敵・哨戒が行われたが、全然何も見つからなかった。一体、何事が起こっているのだ。これは いったいどんな戦争なのだ。いつになったらアメリカは互角な形勢で渡り合を始めるのだ。乗組員は次々と疑問を抱いた。
 
1月の終わり頃になると、敵との対決がないために積み重なっていた欲求不満は、次第に収まり始めた。艦隊のコースは一定して南寄りだった。夜空の様子が変わり、満天が星で覆われてきた。今や 、それまでまれにしか見ることのなかった星座の南十字星も夜空に輝いていた。乗組員を取り巻く周囲の状況も、突然変化したように見えた。近づいて来る戦闘に対する期待感が、彼らの考えや世間話に著しく影響した。何事かが起ころうとしているのだ。

そして、それが本当に起こった。1942年2月1日、第8機動部隊はマーシャル諸島を攻撃した。その朝4時45分(1) までに、攻撃隊はロイ島(2)  を爆撃する途上にあった。7時少し前にロイ島を視認。隊長は爆撃態勢に入るため、右梯形編隊を下令した。7時、攻撃隊は14,000フィートから降下を開始し、急降下中であった。早朝の空一面を対空砲火の炸裂した黒煙が覆い、機銃の赤い曳航弾が空一杯に縞模様の尾を引いた。その様相は、まさに悪魔が解き放たれたようだった。
 
筆者の乗機を操縦していたデール・ヒルトン中尉(前席)は爆弾投下を決意し、周囲に炸裂する対空砲火をものともせず、急降下した。この数秒間が永遠のように思われた。高度計の針が猛烈に速く回転した。高度1,500フィートに達したとき、機内通信器で「マーク」
(3)  と叫んだ。ヒルトン中尉は500ポンド爆弾を投下し、乗機が鋭い音を立てながら飛行場上空を横切ったとき、筆者は.30口径機銃の弾倉が空になるまで掃射した。数年後ヒルトン中尉は、あのときの爆弾が日本の国土に投下した第二次世界大戦で4番目の爆弾だっ たと教えてくれた。

ロイ島の上空は熾烈な対空砲で覆われていた。ヒルトン中尉は100ポンド爆弾を投下し、筆者は建物の戸を開けて駆け出してくる敵兵士目がけて機銃を掃射した。機銃弾が命中したとき、彼らの数名がバタバタと倒れた。機銃は発射時の反動で跳ね回った。機銃弾の薬莢は後部座席内や、プロペラ後流のため、キラキラと輝いた真鍮の雨になって飛散
(4)  した。射撃を止めたときに機体が上昇し始めた。そして機首を母艦の方向に向け、島を後にして上昇を続けた。水平線上を隈なく見渡し、機位に対する敵の攻撃方向を絶えず監視しながら、迅速に帰投した。
 
筆者にとって、このときが戦争と戦闘を実体験した瞬間だった。今までに経験したことのない感覚と感情が湧きあがってくるのを感じた。突然、喉がカラカラに渇き、額が火照って汗びっしょりになり、抑制できない小刻みの脈動が指を通って全身に伝わってくる。恐怖による震えであった。
 
上空では全く孤独で、敵のすべての砲火が自分に向けられているように感じるものだ。もし愚かなミスをしたら死ぬのだ。突然、そして一瞬のうちにだ。パイロットがどじを踏んだら、または後をよく見張っていなかったら。何かを見てまだ間に合えば、早くパイロットに知らせるのだ。どっちみち、自分の命を完全に左右 することなどできない。すべてが運命なのだ。平時でさえ人生は運命である。戦争はそのタイミングを加速するに過ぎない。死の終局は恐ろしく、ぞっとする。銃弾が当り死んだ男たちの顔が目をつぶっても目の前に現れ、汗も涙も、それをぼやけさすことも、消すこともできない。
 
次には、これらの感情がみんな一緒に消え、なくなってしまうのだ。消滅するのだ。そして復讐の念が支配する。爆弾を投下し、それが目標目がけて落下していくとき、お国のためなんかに飛んでいるのではない。自分のために飛んでいるのだ。命を大切にして生きろ。生きるのだ。そうすれば、また戦闘に参加できる。

マーカス(南鳥島)

1942年3月4日は灰の水曜日
(5) だった。筆者は、この日を一生忘れないだろう。この日の「総員起こし」は早朝だった。  朝になればまた出撃して死と直面することを知っていたのに、どうしてぐっすり眠れたのか不思議なくらいである。
 
筆者は、大恐慌のために周囲のみんなが貧困の中で育った。継父がアル中になり、母親が心を痛め、絶望的になるのを見た。それで貧困を死のように憎んだ。恐慌からから抜け出して逃れるため、海軍に入隊した。そうしたら戦争が始まった。今は、貧困を憎んだように死を憎んでいる。けりをつけるには、どうすればよいのか。一人の男が何をやり遂げられるのか。

4時45分、攻撃隊は発艦を開始した。5時25分までに38機の攻撃隊は集合を終え、南鳥島に針路を向けた。攻撃隊は全天雲に覆われた雲上を15,000フィートに到達するまで着々と上昇した。この高度ではとても寒く、身震いが止まらなかった。

夜か明け始めるにつれ、上空の眺めは壮観だった。空は血のように真っ赤に染まった。編隊周辺の状況を判断し、次に起きようとしていることについて考えていたそのとき、飛行隊長が前方左手に島を目視した、と無線で知らせてきた。隊長は攻撃命令に備え、左梯形編隊を予令した。

攻撃隊が島の上空に到達するまでに、奇襲の要因は最早なくなっていた。島にあるすべての機銃と高角砲には人員が配置され、激しく打ち上げてきた。筆者は(機銃を射撃するため)後方に向いて座っていたので見えなかったが、機銃弾が我々の直前で交差していたのだ。ヒルトン中尉は直線コースを飛ばざるを得なかった、というのは、どちらかの方向に曲がったら、機銃弾の中に飛び込んだであろう から。この短時間の直線飛行により、日本軍の高角砲の格好な目標となってしまった。

そのとき、二、三発の至近弾が炸裂した。無事に逃げきれるという考えが脳裏をかすめるや否や、砲弾の炸裂で機体が跳ね上がった。

機体は激しくバウンドし、一瞬振動したと同時に、飛行時の騒音よりも大きなガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッン、という騒音(6) が聞こえた。物凄い音だった。それはヘルメットの耳栓を突き抜け、コンクリートの上で鉄板を引きずったときのような音を立てた。「こん畜生、やったな」と思った。

数時間のように思われた数秒が過ぎ、空中の飛行から突然海上に飛沫を上げるという思いがけない推移の間、死を見つめ、何時それが訪れるか と考えていた。紛れもない死の瞬間が訪れたと思ったとき、実際それは起こらなかった。これから直面する困難な状況を思うと、果たして生きていたことが幸運だったのだろうかと考え始めていた。

捕虜

日本軍の兵士を乗せた船がゴムボートに横付けしたとき、二人の兵士が手を差し伸べて、乗船を助けてくれた。彼らがヒルトン中尉と筆者に向かって何を話しているのか、二人ともわからなかった。高校で3年間スペイン語を学んだ以外、外国語に接したことがなかったので、日本語はとても奇妙に思われた。

着剣した小銃を持った兵士に、腹部から数インチのところにそれ突きつけられ、知らない言語で命じられて何かするのは、心地よいことではなかった。死を見つめることは、とても受け入れがたい感覚だった。何故ならば、自分の目をじっと見つめている相手の目をじっと見返すのは、自分が経験していると同じ感情、すなわち怒り、困惑、非常な驚き、当惑を反映しているように見えるからだ。燃えている 飛行機の中で、自分ではどうすることもできないのとは違う。現状を受け入れたくはなかった。しかし、死を免れるために、兵士が銃剣を上下左右に動かし、理解できない言語で行き先を指示している方向に筆者を駆り立てたとき、要求していることを理解しようと最善を尽くして、それに従った。兵士が受けていた命令は、我々を殺すことではなく、連行することだったに違いない。

筆者は下士官兵だったので、日本軍はより協力的だと推量したのだろう。大半の質問は筆者に対して行われた。先ず、次の質問があった。
「どの艦の所属か」
「合衆国軍艦『ヨークタウン』」
「艦隊は何隻いたか」
「3隻」

南鳥島は絶海の孤島なので、日本軍は疑うべくもなく我々が母艦から攻撃したことを知っていた。日本軍にとって、どの質問が重要なのだろうか。最後に筆者が 聞いた限りでは、空母「ヨークタウン」は大西洋にいた。それで「ヨークタウン」が、我々が発進した母艦になった。日本兵に本当のことを言いたくなかったのだ。奴らには用事はない。

質問は簡単だった。終わったところで、再び目隠しをしてトラックに乗せられた。宿舎に連れて行かれるのだ。何とエリートにふさわしい待遇なのだ。その部屋は8フィート (2.4メートル)四方で、部屋の半分が残りの半分よりも4インチほど高いセメントの床になっていて、壁の下半分がセメント、上半分は板だった。戸の内側には取っ手がなく、物凄くじめじめしていた。防水カバーが一枚、木製荷運び台の上に広げてあった。これが我々のベッドである。椅子はなかった。帝国海軍版の営倉に違いない。日本軍は二人の所持品をすべて取り上げ、乾いた服をくれた。白いつなぎの日本海軍水兵が着る典型的な作業衣である。

日が経つにつれ、日本軍には最早攻撃がないことが明らかになった。そして寛いだとき、この島の幾人かの兵士は自由に好奇心を満たした。部屋の戸には小さな窓があって、頻繁に訪れた詮索好きな訪問者は、島を攻撃したアメリカ人を見ることができた。この戸は外側からは開いたが、内側からは開けられなかった。番兵はとても友好的だった。彼らはキャンデーや煙草をくれ、ほとんどの時間一緒におしゃべりをした。我々が島を攻撃した後なのに、彼らがとても友好的なのが不思議に思えた。

最も頻繁に話したのはお互いの私的な世間話で、出身地や家族についてだった。彼らは軍事的なことを質問しなかった。一日中一度も訪問者がいないと、等閑にされているように感じた。彼らは和・英語集を持っていたので、それを使い、手まね足まねでお互いによく理解し合えた。毎日が楽しい日だった。彼らが冗談をまじえて話したり、大日本帝国の偉大な軍事行動の達成を知らせたりするために来なかったら、 寂しいくらいだった。

筆者にとって、彼らを「敵」と呼ばねばならなかったことが残念だった。しかし、アメリカ人の誰もが、この戦争は我々の責任ではないことを 当然と考えたし、個人的には何の怨恨もなかった。本当にいい奴らだった。高橋辰三、森田太郎(自称東京のゲーリー・クーパー)、星文平、市ヶ谷三郎、サキサカ・マサオ、ホソダ(名不詳)。
それぞれ違った個性を持っていたが、みんないい奴らだった。いつも元気一杯で、愉快で、彼らと一緒にいると退屈な時間はなかった。戦争が終わったら我々二人を東京で案内する、そして何時かアメリカに会いに行くと力説した。彼らはお互いの住所を交換しようと言い、筆者の手元には、今でも彼らの手書きの住所がある。

 

解放

次の42ヶ月の間、我々捕虜は飢餓や汚辱に耐え、動物のように生きてきた。囚われの身となり、殺生与奪の権を完全に敵の手中に奪われた状況下において生き延びるためには、無抵抗、我慢、そして環境に甘んじる以外に道はないのだ。骨折しても治って元通りなるが、心の傷はそんなに簡単には治らない。

捕虜になることは、その人間の精神状態をぶち壊し、一部分を失う という体験だ。その過去を取り除くのは難しい。それは、心と感情がある限り、広がり、次々と思い出させる心の傷跡を残す。それを振り払うことはできるかも知れないが、 意識がある限り、そこにあることはわかっているのだ。

我々は、いつも危険に曝されていた。敵の収容所内で武器を持たずに生き残るのは、勇気の要ることだった。捕虜はほとんどの者が 、想像もしない方法で試された。彼らは威厳と国家に対する忠誠心を持続した。筆者は跪いて生きるよりも、立ち上がって死ぬ方がよかった。鷲と一緒に大空高く舞い上がりたかった。

解放されて故国に帰還したとき、この戦争の歳月は膨大な時間的損失であり、どんなにしても、決して取り返すことができないと気付 いた。特に若いときに失われた年月は損失は大きく、歳を重ねるにつれて喪失感は大きくなる。どんなに努力しても、失われた歳月は取り返しがつかない。最終的には、もし遅すぎなければ (失ったという)事実を受け入れ、人生を前向きに生き、楽しくやることだ。

過去が将来に影響 を与える事は、避けられない。筆者のいた収容所は、読んだり聞いたりした他の多くの収容所よりも人道的であったとはいえ、戦闘員であり、狂信的な敵の手中に陥っていたという事実は消えない。敵は我々を好き勝手に扱えたし、またできる立場にあった。いつ でも実施可能な死刑もそれに含まれていた。

戦争が終わっても、決して戦いは終わりではない。次の戦争が起こる。戦争は決して終わることがなく、かっての戦士の心の中で続くのである。 幾ばくかの気休めがあるとしたら、人生そのものが本来は敗北であると気付くことだ。人生は厳しい不変の負け戦である。勇気を奮い起こして障害を乗り越え、現実と将来がもたらすものに耐えるのが最善である。だからベストを尽くして、そして… BE HAPPY!

1)現地時間。米側は何処へ行っても現地時間を使用した。
2)日本側は「ルオット」と呼称した。
3)爆弾投下の合図。
4)機銃の薬室から跳び出す空薬莢を受ける容器がないため、空薬莢は空中に飛散する。
5)大斎始日
6)砲弾の破片が主翼に穴を開け、火災が発生した音。


日本の友人から

私はフリーランスの翻訳・編集と第二次世界大戦の戦史を研究している者で、菅原完と申します。戦争中は海軍兵学校に在籍しました。ジャック・リーミング氏と知り合ったのは、1942年2月1日、米空母「エンタープライズ」がマーシャル諸島を奇襲したとき、同艦に体当たり攻撃を試みた日本軍の双発爆撃機のことを覚えている人を探していたときです。

リーミング氏から返事は来たのですが、直接私宛にではなく、「エンタープライズ」戦友会経由でした。彼は戦時中日本軍の捕虜になっていたことを知っていましたので、このことから、彼は今も日本人に対して悪感情を持っているのではないか、と思いました。それ故、筆の運びは重かったのですが、礼状は彼が捕虜であったことを念頭において書きました(正確な表現は覚えていませんが、彼の不運について心からの同情を申し述べました)。彼から来たメールの件名には、「貴方の返事を感謝します」とあり、文中では大阪で捕虜生活を送った悲惨な日々のこと。朝鮮事変当時岩国基地で勤務したこと。そして帰国する途上、大阪の戦時中に強制労働させられた場所に行き、そこで一緒に働いた労働者と会い、短時間ではあったが久闊を叙し、抱き合って別れを告げたことが書いてありました。

リーミング氏と文通を重ねて行くうちに、彼が戦時中いた場所、特に大阪がどのようになっているか知りたがっていることが分りました。大阪市役所や港区役所に連絡して情報を集め、彼に報せました。市役所、区役所ともにとても好意的に情報の収集を手伝ってくれ、彼は近い将来、是非とも来阪したいと希望していたのですが、戦災のために往時を偲ぶ何物も残っていないと分り、断念せざるを得ませんでした。

その後、リーミング氏は1942(昭和17)年3月4日、南鳥島を空襲し、日本軍の対空火器により撃墜されたときに出会った日本海軍軍人のことを話してくれました。彼の話では、彼らはリーミング氏とパイロットのデール・ヒルトン中尉を捕虜としてではなく、人間として扱ってくれたそうです。このことを聞いたとき、私は二つの理由から、即刻彼ら見つける手助けをしようと決心しました。一つは、リーミング氏に彼らとの再会を果たして貰いたかったからです。もう一つは、戦時中における日本軍の捕虜に対する取扱方は非常に悪評を買っていますが、例外もあったのだ、ということを世界に知らせたかったからです。リーミング氏が彼らの氏名・住所を知らせてきましたので、関係市・区役所に問い合わせたのですが、残念ながら、二人については該当者なし、もう一人は復員後交通事故で亡くなった、という連絡を受けました。

その後、この尋ね人の件について、サンケイ新聞、旧海軍海交会が隔月に刊行する『海交』、関連するホーム・ページにも掲載していただきましたが、今日現在、手懸りがありません。

近い将来、リーミング氏が元気なうちに南鳥島で親切にしていただいた旧海軍軍人の方々と再会できる日が来ることを、心から願っている次第です。

菅原 完


最近のリーミング氏


                                         2004年11月掲載