ジョン L. ルイス
(1901-1945)
 
テネシー州メンフィス生まれ

- 米陸軍 第61野戦砲連隊
-
ダバオ更正開拓園, カバナツアン収容所、「鴨緑丸」, 「江ノ浦丸」, 「ブラジル丸」



の回想録を読んでくださる皆さんへ

当初、私は父の追憶を3人の子ども宛 てに、第2次世界大戦中、彼らの祖父の身の上に起きたことを知らせる手紙として書きました。一人の 人間が軍務を遂行中に国に命を捧げるとき、彼の家族がその詳細な経緯を知ることは、その人の思い出を大切に心に抱き続けていくために、大事なことなのです。この細かな事柄は、誰かが時間をかけて調査し、記録しておかなければ、家族の将来の世代には永遠にわからないままになります。我が子たち、そしてまたその子どもたち に、彼らの祖父に誇りを持ち、捕虜として命を失う結末に終わった私の父が、軍務に献身的であったことを知ってもらいたいと、願います。

第2次世界大戦中の悲惨な時期の状況を調査したとき、私は視野を大きく保ち、16歳の少年として父の死を知ったときに感じた悲痛な苦い想いは、表面に出さないように心がけました。いま結論として思うのは、すべての国の人々が、他国の人々に対してもっと理解と寛容の態度を持たなくてはならない、ということです。遠い地域に離れて住む人たちは、多種多様な要因によって私たちとは違った見方や行動をとるようになります。より深い理解力を養い、より寛容な人間になるには、一つには他の人々についてもっと知ろうと真剣に努力することです。また、全ての人が知らなくてはならないことがあります。いかなる理由であれ、戦争捕虜を虐待してはなりません。戦いにあって、ときには状況が困難になります。しかし、いかなる軍隊も敵兵を捕虜にするなら、捕虜を人道的に処遇し、でるかぎり適切に取り扱う責任があります。

この追憶を読んでくださる皆さんが、私たち家族の父に対する愛情と、また父の有能な軍人としてなし得た国家に対する偉大な献身を私たちが誇りに思う気持ちを、正しく理解してくださるように願っています。

読者の皆さんのご健勝を祈りながら

ジョン・B・ルイス


父陸軍中佐ジョン・L・ルイスを追悼して

1901821日生〜1945125日没

ジョン・B・ルイス

このページの上部にある父のこの写真は、1936年ごろ撮影したものである。当時は陸軍大尉で、アーカンソー州ジョーンズボロの州立大で軍事科学の助教授を務めていた。

ジョン・L・ルイスは1901821日、テネシー州メンフィスで生まれた。アーカンソーのレイク・ビレッジで高校を卒業すると合衆国陸軍士官学校に入校し、1925年に卒業すると同時に陸軍歩兵少尉に任官した。2年ほどして 野戦砲部隊に転出し、数年間、野戦砲のさまざまな任務についた後、第2次大戦が始まる少し前、フィリピンに派遣された。

父は19411023日、「ホルブルック号」でマニラに到着し、その夜、ストッツェンバーグ駐屯地に出頭した。同地でしばらく待機し、19411111日、2名の米陸軍中尉を引き連れ1118日にパナイ島に進出せよとの命令を受けた。パナイに着任と同時に、第61野戦砲連隊(フィリピン陸軍)を組織し、その手始めとして1123日には1,000名のフィリピン人を連隊に入隊させることになっていた。19411122日付けの母宛ての手紙には、料理人も、灯りも、水も、事実上寝る場所のほか何一つない、と書き送っている。不運なことに第61連隊は、日本軍の攻撃を受ける前、旧式の小銃弾でさえ、射撃訓練のため充分に支給されていなかった。連隊が日本軍と戦闘状態に入ったとき、ほとんどのフィリピン兵は生まれてこのかた、ただの一度も小銃を撃った経験がなかったのである。1941121日ごろ、ヒラム・W・ターキントン大佐が第61野砲連隊 を指揮することを命じられた。彼は着任すると連隊長となり、父は連隊副官になった。

19411231日の大晦日、パナイの第61野砲連隊はミンダナオ島に向け、翌日移動を開始するように命じられた。19411220日、ミンダナオの南岸沿いのダバオには、日本軍がすでに上陸していた。しかしこの日本軍は大部隊ではなく、ダバオ周辺からさらに外側に支配圏を拡大することはとてもできなかった。1942429日、ミンダナオに対する日本軍の大規模な攻撃が始まり、コトバトが主目標になった。194259日の夕刻、他部隊との連絡保持が著しく 困難になり、伝令に頼る以外に手段がなくなった時点で、ターキントン大佐は連隊の指揮を父に委ね、自分は地域司令部の司令官であるウィリアム・P・モース大佐に会うためにでかけた。ターキントン大佐が部隊を離れたすぐ後、日本軍は第61野砲連隊の守備地点に圧倒的な攻撃をしかけ、父は重傷を負った。フィリピン人の伝令がターキントン大佐の所在を探しあて、「ルイス中佐は胸を撃ち抜かれて戦死した」と報告した。モース大佐から、ミンダナオ島の全米軍は翌日(1942510日)の夜明けに降伏すると知らされた後、ターキントン大佐が連隊に戻ってみると、父は戦死してはいなかったが、重傷を負い、敵を撃退したことを知った。戦後、ターキントン大佐は194255日と194259日の戦闘における英雄的な行為に対し、父のために 顕彰手続きを申請しれくれた。その結果、陸軍省は55日には銀星賞、59日には殊勲十字賞を父に授与し、母が受け取っている。

ミンダナオで投降した捕虜はカシサン収容所に集められたが、ここはミンダナオ島マレーバレーの南西5キロほどのところにある。その後、19421015日にカシサン収容所は閉鎖された。捕虜はトラックでブソに運ばれ、そこから船で(#760丸)ダバオの北東およそ25マイルのラサン木材波止場に上陸した。そしてラサンから残りの15マイルをダバオ更正開拓園まで行進した。 

ダバオ開拓更正園での生活は農作業が主だった。捕虜の多数はマクタンの田んぼで働いた。私が話しを聞いた生存者は、おそらく父は俵づくりを割り当てられていたのだろうという。これはやや年齢の高い 者や健康のすぐれない者の仕事だった。父は年齢が高いほうの捕虜の一人であり、降伏した日の前夜に重傷を負っていた。この作業班は収容所本所に留まって、米の収穫時やさまざまな物品の運搬に用いる俵(straw basket)を編んだ。

1944年6月6日、ダバオ更正開拓園は閉鎖され、生存した捕虜全員(父を含め約1,250名)はトラックに乗せられてラサン木材波止場まで行き(目隠し、数珠繋ぎにして立ったまま)、そこでセブ市まで航海するために「八洲丸」に乗せられた。セブ市で下船するとサン・ペドロ駐屯地まで行進し、3日間そこで待機した後、マニラ行きの「シンゴト丸」に乗せられた。「シンゴト丸」は1944年6月25日、マニラの第7埠頭に到着し、捕虜はビリビッド刑務所まで行進した。  1944年6月28日、ビリビッド刑務所から(父を含む)900名の捕虜がカバナツアン第一収容所に移された。ビリビッドに留まった残りの者は、そこで日本行きの輸送船を待った。1944年7月10日、父はカバナツアン(比島軍第一捕虜収容所)から捕虜郵便ハガキを母に送った。これは父のサインと日付の両方が書かれた唯一のハガキで、また私たちが父からもらった最後の便りでもある。 

194410月、日本軍はカバナツアンの「五体満足な」捕虜を日本に輸送する準備のため、ビリビッド 刑務所に移し始めた。父は19441017日に移動したグループの中にいた。米軍機による攻撃が頻繁になっていたから、日本軍の手中にマニラを出港する船がこれ以上入らないようにと捕虜が願うのも当然だった。無残にも彼らの希望は砕かれ、19441213日、1,619名の捕虜が「鴨緑丸」に乗せられ、船はその夜出航した。1214日の朝、空母「ホーネット」の艦載機は、「鴨緑丸」を含む船団がバターン半島の西側に沿って北上しているのを発見、丸一日におよぶ一連の攻撃を開始した。捕虜は船倉にいた。客室と上部デッキはすべて日本人の女性、子ども、そして他の沈没船の生存者で一杯だった。1214日の攻撃は船の上部にいた日本人に致命的な打撃を与え、捕虜にも若干の死傷者がでた。14日に「鴨緑丸」は相当の損傷を受け、その夜ス ービック湾にかろうじて到着し、日本人生存者はそこで下船した。1215日、「ホーネット」の艦載機は前日にやり残した仕事を片付けようと戻ってきた。爆弾 の一発は後部船倉のハッチを直撃して250名の捕虜が死亡した。その朝しばらくして、生存した捕虜は船から脱出するように命じられた。(註:1947年の秋、合衆国陸軍士官学校で父の同期生だったアーマンド・ホプキンス大佐が、フランス語の教授として母校ウェスト・ポイントに着任された。私がウェスト・ポイントの新入生だったときのことである。教授は私を居室に招き、捕虜当時の体験を詳しく話してくださった。「鴨緑丸」、それに続く「江ノ浦丸」と「ブラジル丸」での航海の間、教授は父と常に一緒だった。その話によると、泳げない教授は捕虜が海中に飛び込まされた後、父の助けで岸に上がることができたという。)

捕虜が岸泳ぎ着いてから、彼らは旧オロンガポ海軍基地のテニス・コートに移され、5〜6日収容された後、パンパンガのサン・フェルナンドにトラックで移送された。その後、1944年の1224日、生存した捕虜全員が、ラ・ユニオンのサン・フェルナンドに列車で移送され、クリスマスの日の午前2時に到着した。

19441227日、捕虜は2隻 − 約236名は「ブラジル丸」、そして約1,069名が「江ノ浦丸」− に乗船した。ごく最近まで、私はこの航海で父がどちらの船に乗ったのか知るすべがなかった。しかし、数人の有能なリサーチャーの友人が情報を提供してくれ、ホプキンス大佐が1947年に語ってくれたことと総合すると、父が「江ノ浦丸」に乗っていたことが明らかになったのである。この2隻の船は一緒に航海して19441231日、台湾の高雄に到着した。捕虜は194516日まで2隻の船倉に閉じ込められていた。ここで日本軍は、生存していた捕虜全員を「江ノ浦丸」に集結させた。19日、空母「ホーネット」の艦載機は高雄港に停泊中の船団を発見、攻撃を開始した。「江ノ浦丸」は、ほぼ同じ大きさのタンカーと同じブイに繋留されていたので、格好の目標となった。この攻撃で「江ノ浦丸 」は甚大な損傷を受け、爆弾の一発は前部船倉のハッチを直撃し、さらに350名の捕虜が死亡した。それから数日間、捕虜は死んだ仲間の遺体を運び出すことも許されなかった。やっと死者は艀に乗せられ岸へ運ばれた。日本軍が遺体を荼毘に付したという報告もあったが、後日確認された事実によれば、死者は砂浜の穴に埋められたのであった。戦後、この遺体は掘り起こされ、ハワイに運ばれてパンチボール墓地に埋葬された。

114日、生存していた捕虜は「ブラジル丸」に移され、船団を組んで日本に向けて出航した。気温は零度以下になった。寒い気候に季節はずれの衣服、負傷者、そして多くの重病人のため、「ブラジル丸」の捕虜の死亡率は150名という多数に達した。1945125日、陸軍中佐ジョン・ルウェリン・ルイスは、この航海中に生命を落とした者の一人となった。このおそろしい運命を家族が知るのに、さらに8ヶ月の月日が経った。

19458月下旬、無条件降伏調印式の舞台となるため、戦艦「ミズーリ」が東京湾に向けて航海していたころ、 米本国では毎日、地方のラジオ放送局が、解放された捕虜の長いリストを読み上げていた。私の家族も、この放送のたびごと、父の名前が読み上げられるのを待ち、耳をそばだてる家族の一つだった。家族の皆で父が家に帰る日のお祝いを計画し、母は誕生日、父の日、クリスマスごとのプレゼントを全部、居間のテーブルに並べていた。1941年のクリスマスから順番に始めて1945821日の44歳の誕生日プレゼントまで、一つひとつを父に開けてもらうつもりだった。そして、1945831日の夕刻早く、陸軍省から一通の電報が届き、私たちの希望も計画もすべてが大きな泡のように飛び散ったのである。その電報は第2次世界大戦中に人びとが恐怖の念とともに記憶した次の言葉で始まっていた。「陸軍長官は、ご夫君ジョン・L・ルイス陸軍中佐が1945128日死去されたことに深甚なる弔意をお伝えするように申しております」。後日、死亡年月日は1945125日に訂正された。

その電報が与えた心情的な打撃を語るのは難しい。今でも(20043月)、日本軍が捕虜になった私たちの愛する者に加えた、筆舌に尽くし難いおそるべき取り扱いや、またどのようにして日本軍がこれほど多数の捕虜を必要もないのに死に至らしめたかを詳細に書くことは 、わたしにとって容易なことではない。彼らの取り扱いについて、私が知った多くの細かな事実をここに述べることはしなかったが、それらはどんな時にも私の心に重くのしかかっている。

母が19953月に亡くなったとき妹が言った。「ママとパパはやっとまた会えたのね。こんどは天国で」


沈没商船の調査を続きてきた日本人より

ジョン・ルイス様

1941年のクリスマスから1945年の誕生日まで一つ一つのプレゼントを丁寧に包装し、心を込めたカードやリボンを掛け、希望に胸を膨らませながら再会の日を待ちわびておられたご家族の情景を思い浮かべています。そして、一通の電報によって全ての希望が打ち砕かれた瞬間のご家族のみなさまの挫折感、絶望と苦悩には今私からは哀悼の気持ちをお伝えすることしかできません。

私たち日本人と皆さんとが相互に理解しあうことができるとしたら、その基礎は、不幸なことですが「悲しみを共有すること」から始まるのではないかと思っています。愛する者を喪った悲しみ、肉親が人知の及ばぬ不条理のなかで苦しみながら死んでいったという報せを受ける苦痛と憎しみ、そして他者を憎むということがもたらす更なる苦痛。私たちは喜びやプライドを共有するよりもより多く、「悲しみ」をこそ共有し共感できるのではないかと思います。

戦没商船の調査を続けてきた私は、日本人の遺族に齎された悲しみの深さを理解することが出来るようになったからこそ、いまみなさま方のご家族のご心痛にも共感を抱くことができるのだと思います。

海に囲まれた島国である日本は、海外の資源や文化や知識を全て船を使って輸入し、製品や文化や人材を船で輸出し、そして船で外国に軍隊を送りだしました。それゆえ戦時下では夥しい船が犠牲となりました。「江の浦丸」や「ぶらじる丸」のような老朽船や戦争末期に粗製濫造された船舶を含め、2500隻の商船と5000隻の小型船舶や漁船が連合軍の猛攻で撃沈され、夥しい人命、ときには1隻で5000人もの生命が喪われたのです。兵士だけでなく、占領地に赴く会社関係者、病院船の看護婦、疎開する学童たち。

クリスマスはなかったけれど、彼らにも暖かい日本のご飯とお味噌汁を用意して帰りを待ちわびている家族がおりました。その家族にも多くの場合、戦死の報せは一片の短い通知文で届けられました。船の沈没が軍の機密として扱われた場合戦死の報せが届けられることも無く、肉親は戦後何年間も父や子の帰りを空しく待ちつづけたという例もあります。あるいは死を覚悟した兵から両親や兄弟あてに、惜別の思いを綴った手紙が届くこともありました。(もしお気持ちが許すのであれば、それらのご遺書なども一度お読みいただきたいと思います。)

そしてまた犠牲になったのは、日本と連合国の人々ばかりではありませんでした。フィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、ビルマ、南洋諸島の激戦地にも戦争で肉親を喪ったたくさんの家族がおりました。私たちはそれら多くの人々やご遺族、遺児の気持ちを相互に理解しあうことが必要だし、悲しみを共有することが、理解のための大きな足がかりになることを信じております。

私の尊敬する友人に、画家の上田毅八郎氏がいます。太平洋戦争中、陸軍兵として商船護衛の任務を与えられた上田氏は、右腕を負傷されましたが、その後左手で画筆を取られ、商船を含む数多くの船を描かれました。次の絵は彼が描いた「鴨緑丸」です。あなたの追悼記に添えて、ここに紹介したいと思います。


三輪祐児

* 三輪氏の「戦時下に喪われた日本の商船サイト」
   http://homepage2.nifty.com/i-museum/

 



ジョン L. ルイス中佐とマリー・リン・シムス夫人と子供たち
フランシス・スコット(7),  マリー・リン(4)  ジョン・ブローダス(9)