アンガス・ロレンゼン

イギリス カーライル生まれ (1935)

中国天津で育つ

- 1941年12月日本軍が真珠湾を攻撃した日に、母親と姉と香港から脱出

- マニラに到着後、サント・トーマス民間人収容所に抑留

- 1945年2月、米軍に開放される。
 



アンガス・ロレンゼン氏は戦前、父親がビジネスマンとして成功していた中国天津に住んでいました。1941年12月初め、母親がアンガスの姉と彼を連れて日本軍占領下の中国から脱出しようとした時、彼は6歳でした。彼らが香港に着いたのは、日本軍が真珠湾を爆撃した日で、香港島に日本軍が上陸するわずか数日前のことでした。彼らは船でマニラに向かいましたが、そこで日本軍に拘束されます。そしてその後3年間、サント・トーマス民間人収容所に収容されました。彼の父親と兄は中国に留まりますが、その後アメリカに帰還することができました。

 

アンガスは最近、当時の体験を綴った著著 「A Lovely Little War: Life in a Japanese prison camp through the eyes of a child.」 (History Publishing Company, 2008) を出版しました。

 

以下は、その著書からの抜粋です。

 

本書について (pp xi)

 

私は当時子供でしたが、子供は大人とは違った視点から戦争を見ます。戦闘が終わったすぐ後に爆撃で破壊された町で遊んでいる子供の写真を、思って下さい。そこに写っているのは一見無邪気な子供たちですが、彼らがつい最近どれほどの恐怖を味わったかを想像することは困難です。彼らの英雄・模範になった兵士の周りに、嬉しそうに群がる子供たちを見ます。彼らは、戦争に対する憎しみと恐れの基となるべき人生経験を、まだ経ていないのです。

 

ですから私は今、子供の世界につきものの無邪気さとユーモアも交えて、戦争時代のストーリーを子供の視点から語ってみたいと思います。血と死と破壊に満ちた苦痛にも拘わらず、私は戦争を、厳しい現実をカラフルに反射するプリズムを通して見ていました。最後の頃になってようやく、後に マニラ市街戦 として知られる破壊的な出来事を、直視するようになったのです。

 

長期収容に備えて(pp. 79-80)

 

私たちが到着して数週間すると、サント・トーマス収容所はとても混雑してきて、居住状況を改める必要が出てきました。当時は、日本軍による占領を予期してそれに備えていたアメリカ人ビジネスマンたちが、収容所の運営に関わっていました。後に彼らは選挙で選ばれるようになり、日本人収容所長の指令と許可の下で、私たちの生活の全ての面に責任をもつ幾つかの委員会が設立されました。最初の収容所長は陸軍将校でしたが、その任務は後に、日本兵に支えられた日本の外交官に引き継がれました。私たちは、常に武装兵の監視下に置かれていたのです。
 

私たちの指導者は、皆の居場所を再配置することにしました。メインビルと付属ビルは、女子と子供の寮に、体育館は男子用の巨大な寮に、そして教育ビルの上階は独身男子と年長の男の子に割り当てられました。収容所を管理する日本人は、教育ビルの下部2階を居住場所・事務所・衛兵所として使いました。

 

再配置の後、母と姉と私は、教育ビルを見下ろすメインビル3階の南東部近くに寝泊り場所を与えられました。そこに行ってみると、大工班の誰かが、私たち全員のために木製の簡易ベッドを作ってくれていたのを発見しました。それは細長い板に短い脚をつけただけのもので、最初は寝心地が悪かったのですが、各人に配給された毛布をたたんでその上に置くと少しましになりました。私たちはほどなく、この固いベッドで寝ることにすっかり慣れました。私たちは、蚊をよけるネットも与えられましたが、それをベッドの上に被せるとわずかなプライバシーが得られ、暑くて湿気の多い季節の訪れと共に群がるようになった蚊を除けるのにも役立ちました。

 

処刑 (pp. 85-86)

 

最初私たちは、収容所のあちこちで見かけるライフルを所持した日本人監視を、恐れることさえしませんでした。彼らに近づいていって、彼らが微笑んで私たちの頭をなぜてくれる間、おしゃべりしたりしたものでした。でも数ヵ月後、全てが変わりました。ある夜、3人が壁を乗り越えて脱出したのです。彼らは一日後に、マニラ市内で日本人に捕まり、サント・トーマス収容所に連れ戻されました。

 

日本人が私たちをやさしくなど扱ってくれないことを思い知らされる最初の出来事が、始まろうとしていました。男たちは、教育ビルの端にある衛兵所内の留置所で3日間拷問されたのです。教育ビルに寝泊りしていた人々は、どんな理由か知る由もありませんが、監視に著しい苦しみを与えられる彼らの悲鳴が聞こえてきたと、言っていました。日本兵は、罰する人間をただ痛めつけたかったのです。拷問を受けた後、彼らはマニラ北墓地に連れて行かれ、自分の墓穴を掘らせられました。収容者の指導層の何人かが目撃者として同行させられました。逃亡を企てた者は穴の淵に座らせられ、後ろから頭を撃たれて墓穴に蹴り落されました。

 

締め付け (pp. 106-07)

 

1943年の始め頃までには、私はすっかり同年代の男の子供達に受け入れられていました。私たちは5人か6人の徒党を組んで、収容所内で見つけられる面白いことやいたずらを、探し歩くものでした。一つだけ気をつけていたのは、日本人監視には近づかないことで、監視が来るのが見えると、私たちはすぐさま四方に散るようにしていました。

 

私たちの平均的服装は半ズボンで、靴やシャツはなし、それで全員よく陽に焼け野蛮人の一団のように見えました。一日の半分は学校でしたが、それでも自由な時間はたっぷりあったのです。私たちは、缶をけったり、お互いの上に群がったり、隠れんぼをしたりと、その年代の子供達がよくする遊びをして過ごしたものでした。

 

飢えの年 (pp. 116-17)

 

1944年1月6日、捕虜となって2年目の翌日、私たちが置かれた状況は一段と厳しくなりました。サント・トーマス収容所は正式に、森本将軍が率いる戦争捕虜局の直接監督下に置かれ、日本の憲兵隊に管理されることになったのです。日本陸軍の監視兵が収容所内をパトロールするようになりました。それまでにも監視兵は見かけたのですが、今や彼らの存在はもっと顕著になっていました。

 

私たちは、日本兵にさらなる敬意を示さなければならないと警告されました。兵士や将校に出会ったら、私たちは立ち止まり、お辞儀をするのです。適切なお辞儀の仕方は、上半身を地面と平行になるくらいにして、足を揃え、両腕を脚の脇にぴったりと付ける

姿勢を取ることだと、指示されました。1日2度の点呼も、日本人監視兵が直接監督するようになりました。点呼の時は、自分たちの部屋の外の廊下の壁を背にして、2列に並ばされました。監視兵が近づいて来ると、部屋の担当者が私たちにお辞儀の命令を出します。「ワン、ツウー、スリー、礼!」そして私たちはいっせいに揃ってお辞儀をするのです。

(pp. 118-19)

誰もが、食べ物のことばかり考えていました。夕食は5時に出されましたが、私は、4時半には走っていって列に並ぶものでした。それでも、私の前にはもう大勢の人が並んでいたのです。食事が出る場所で食器に入れてもらうと、それを私たちの小屋に注意深く持って帰りました。(日中は、中庭に作られた小屋で過ごすことが許されていた)母と姉が合流し、私たちはゆっくりと食事を味わうのです。実際は、味わうという言葉は正しくありませんでした。私は、シチュウに入っている固形物をより分けているうちに、それが何か気味悪いものだと気付くことを、ほとんど恐れていたからです。

 

今になって考えてみると、収容所内には犬や猫がいなくなっていました。残飯はなく、排水溝から逃げ出さない限り犬は痩せ細る一方だったのですから、彼らが居なくなった理由を想像するのは簡単でした。でも猫は排水溝や菜園の周辺に繁殖した鼠を食べて生き延びられました。時が経つにつれて全ての犬と猫が消えていきましたが、誰が捕まえて食膳に乗せていたかは公然の秘密でした。

                                                                                 
                        
         中庭に建てられた小屋
                                                                           (マッカーサー記念館所蔵写真)

開放!(pp. 141-42)

 

そのとき私たちは、三階の寮の部屋の外で消灯前のひととき、乾パンの最後の粒を口に入れているところでした。すると、遠くの方から無数の叫び声が轟音のように聞こえてきたのです。興奮している様子ははっきりわかりましたが、何を叫んでいるのか最初は聞き取れませんでした。新しいグループによって順番に引き継がれた叫びは、洪水のように階段を駆け上がり廊下を押し寄せてきました。メッセージは人から人へと伝えられ、私たちがはっきりと聞こえるようになるまで何度も何度も繰り返されました。「彼ら(米軍)が来たぞ。彼らが来たぞ!」

意味をやっと理解した私は、飛び上がって叫びながら、中央階段をめがけて廊下を駆け出しました。ほとんど転がるような勢いで二階から一階のロビーに行こうとしましたが、階段の中二階のところまで来ると、人が群がっていてそれ以上は進めません。そこに立ってメインロビーを見下ろしました。そしてそこに見えたものに、私の心臓は破裂しそうになりました。私のアドレナリンは既に全開で、息は切れ、そこに見えた風景に私は完全に圧倒されていました。

 

ロビーの大きなダブル扉が広場に向かって開かれ、戦車の先がその主砲を私の方に向けて突っ込んでいたのです。回りでは、収容者が飛び上がったり叫んだりしながら、兵士たちに抱きつきキスをしていました。若い兵士たちは、大きな笑顔をみせながら突っ立っていました。

 

マッカーサーの訪問 (p. 159)

 

私たちが広場についた時、もうそこは人で一杯でした。将軍は陸軍の乗用車でキャンパスに乗りつけ、私たちが立っていた場所のほとんど正面の、メインビルの入り口で止まりました。彼は車から降りると、私たち群衆に向かって一言二言の挨拶をしました。彼の車の近くに立っていた私たちの周りと前は、記者やカメラマンや映画を撮る人々でごったがえをしていました。

 

母は私を車にできるだけ近づくように押し、もし新聞記事に私の写真が出たら、父がそれを見るかもしれないと、囁きました。式典では、民間人捕虜の一人が日本軍から隠して持っていた星条旗が、正門のポーチから掲げ下ろしました。その瞬間は映画に撮られ、また見開きの大きな写真が、雑誌 『LIFE』 に掲載されました。でも後年それらの写真を調べる機会があった時、その喜びに包まれた群集の中に私の家族も私自身も判別することができませんでした。いずれにしても、父が私を最後に見てからの3年半で私はすっかり変わっていたので、彼が私を見つけられたかどうか疑問です。

 

                     サント・トーマス収容所開放の様子 (YouTubeビデオ)

 

 

日本軍からの砲撃 (pp.160-62)

 

式典はとても短く、マッカーサーは車に乗り込んで去っていきました。間もなく広場は、メインビルの隣に停まっていた何台かの軍用車と何人かの人々以外は、すっかり人気が無くなりました。大きな爆発があった時、私はもう一人の友人とまだ広場の真ん中にいました。瓦礫と煙が、私たちがいた場所からそれほど離れていないビルの西側から、飛び散りました。私たちは地面に倒れましたが、二回目の爆発がないとみるや、起き上がってメインビルの入り口めがけて走りました。60年以上も知らなかったのですが、陸軍通信班のカメラマンが、爆発が起こったときに広場の反対側から映画を撮っていたのです。彼は、ビルの陰から瓦礫が飛んでくる様子を写した後、ズームインして、私と友人が広場を横切って走る姿を捉えていました。

 

 

 

 

  日本軍の砲撃を受けるサント・トーマス収容所        逃げるアンガス(矢印)

 


日本軍が反撃に出たのです。打ち込まれた砲弾は、メインビルの西側で炸裂しました。それは、メインビルと教育ビルを標的に打ち込まれた多くの砲弾の、最初の一発だったのです。

 

エピローグ (pp. 216-17)

 

私が戦後初めてサント・トーマスを訪問したのは1997年になってからでした。その短い一日の訪問は、そこで何が起こったのかもっと理解したいという欲求を、搔き立てました。2005年に開放60周年記念のフィリピン旅行があると聞いた私は、すぐ申し込みました。私たちのツアーグループは、サント・トーマスとロス・バノス収容所にいた元民間人捕虜、解放軍に所属していた退役軍人、それからバターンとコレヒドールで捕われた元捕虜から編成されていました。私たちは「死の行進」のルートを辿り、カバナツアンとオドネルの捕虜収容所跡地を訪問し、収容所の跡地を巡り、マニラ戦での破壊から大方修復されたイントラムロスを訪ねました。この旅行は、1941年12月から45年4月の間に自分の回りで起こった全てのことに関して、私の理解を深めることになったのです。

 

ツアーのハイライトは、再び4万人の学生を擁する立派な大学になったサント・トーマスで過ごした一日でした。ここで、私たち15人の元収容者とゲストは、スター扱いでした。ここでかつて起こったことを殆ど知らない学生や教職員に、彼らの愛するキャンパスで起こった恐ろしい出来事について、私たちは説明しました。彼らが質問をしたとき、彼らがこれまで気付かなかったメインビルの日本軍砲撃の跡を示し、彼らが今も使っているまさにその教室内で爆発で死んだ人々の話をしました。

 

私はよく、日本が与えた苦しみについてフィリピンの人は今どう感じているのだろう、と聞かれることがあります。これらの若い人々と話してみて、彼らの中に悪感情は見出せませんでした。実際、何が起こったのか彼らは殆ど知らなかったのです。彼らにとっては、マニラの戦いは、私が学校で習った南北戦争と同じように、遠い過去の出来事でした。時の流れは、戦いの傷を癒す素晴らしい力を持っていて、よく言われるように「昨日の敵は今日の友」なのです。

年配の人々は、最良の視点を提供してくれました。開放記念式典では、米国大使・フィリピン議会の上院議員・大学長も挨拶しましたが、全員が一つのテーマについて語りました。「ここで起こったことを、世代を超えて語り継いでいかければなりません。」 

しかし私が聞いた最も明瞭な発言は、元ゲリラで開放の夜に死にそうな彼のリーダーをキャンパス(収容所)に運んできた
Diosdado Guaytingco の言葉でした。80代ながら今でも現職の弁護士である彼は、こう言ったのです。「僕たちは、日本がしたことをやっと許すことができる。でも僕たちは決して忘れてはいけないんだ。」

Mr. Guaytingco and Angus in 2005
 

サント・トーマス民間人収容所に関するドキュメンタリーVictims of Circumstance」 (Lou Gopal and Michelle Bunn 制作)」については以下のサイトから。  http://www.lougopal.com/


アンガス・ロレンゼン氏とのインタビュー

 

この本を書くことはどんな体験でしたか?

 

自分の体験を書くのですから簡単でした。そして当時の歴史に関するリサーチは、他の本を書くためにほとんど終えていましたので。当時母が、私たちの体験について書き留めておいたらと提案したので、私の記憶は確かなものなったと思います。そのノートはもうないのですが、記憶を私の心の中に固定するのに役立ちました。

 

貴方は子供時代の収容体験が、その後の人生に大きな影響を与えたとは思わなかったそうですが、今もそう思われますか?

 

個別の状況がある人間の人生にどのような影響を与えたかは、決して分からないと思います。戦争がなければ、多分アメリカには来ていなかったでしょう。でも一端この国に来たからには、「過去を忘れて、前向きに生きよ」というのがルールでした。そして私は、過去を振り返ることなく、それをしたのです。

 

今貴方は、元日本軍民間人捕虜の会の代表を務めていらっしゃいますね。会の活動を通してどのようなことを達成したいとお考えですか?

 

私たちが達成しようとしていることは幾つかあります。まず第一に、同じ体験をした者同しとての親睦と相互支援です。第二に、プロパガンダやフィクションで失われつつある、あの暗い時代の真実の歴史を掘り起こし、記録することです。第三は、それらの時代の遺産を、私たちの次世代に引き継いでいくことです。第四は、非営利団体を設立し、私たちが絶望的な状態にあった時に助けてくれたフィリピンの人々を支援することです。第五は、アジア、特に日本で、これらの民間人捕虜収容所で私たちに起こったことに関して、理解を促進することです。

 

何か日本人、特に日本の若者へのメッセージはありますか?

 

 

若い人々への私のメッセージは、戦争中に起こったことを恥じたり申し訳ないと思わないで、というものです。それは何十年も前に起こったことですし、2世代・3世代そしてもっと前の人たちの責任なのです。今は全く違う時代で、私たちはみな、あのような恐ろしいことが二度と起こらないよう、そして若い人々が、それを起こさないための努力の先頭に立つことを、願っています。

 

年配の人々、特に政治家には、日本が東アジアで大量虐殺をしたという責任を否定することを止めなければならない、と言いたいと思います。今こそ、日本の野心のために疫病・拷問・死の苦しみを味わった人々に (彼らは今、消えていこうとしています)謝る時です。真実を語って下さい。貴方たちがしたことをプロパガンダ化しないで下さい。


 
                                                                                                                  (interviewed by Kinue Tokudome)