マニラ開放63周年:日本軍米民間人捕虜の集い

第二次大戦中、1万4千人あまりの米民間人が日本軍により収容され、そのうち約1,500人が、収容中の過酷な扱いで死亡しました。彼らの大半は、フィリピンの収容所に入れられていました。

1945年2月3日、4千人近くの民間人が収容されていたマニラ市のサント・トーマス収容所が、米軍により開放されました。数週間後には、ラス・バニョス収容所から2千人近くが開放されました。開放63周年の日、カリフォルニア州フリモント市で開かれた Manila Liberation Reunion に参加するため、全米から200人以上の元日本軍民間人捕虜が集まりました。
 

       

    民間人収容所になったサント・トーマス大学          開放の日


今回の集会は、最近アメリカの公共テレビPBSで放映されたドキュメンタリー「戦争」で、サント・トーマス収容所で過ごした子供時代の思い出が紹介されたサーシャ・ウェインツハイマー・ジェンセンさんが計画して、開かれました。 (「戦争」のクリップは以下のリンクから)
  http://www.pbs.org/thewar/detail_5353.htm    http://www.pbs.org/thewar/detail_5240.htm


                                              
       (PBS「The War」から)
    収容所でのサーシャと弟のバディ       
    会場でのサーシャとバディ           


ジェンセンさんが副会長を務める BACEPOW (Bay Area civilian Ex-Prisoners of War)の会長アンガス・ロレンゼン氏は、この団体について次のように説明しています。

1980年代、第二次大戦中フィリピンで日本軍の捕虜になった民間人のグループが定期的に集まり、お互いの体験を語り合うようになりました。その後グループは組織化され、軍人捕虜の団体である全米元捕虜の会(AXPOW)の支部として、認定されました。支部の名前を(サンフランシスコ湾周辺の元捕虜の意味で)BACEPOW ( Bay Area Civilian Ex-POWs) と定めました。


現在 BACEPOWは、元民間人捕虜のために存在する組織としては唯一の団体です。サンフランシスコ湾周辺で始まった時は小さな団体でしたが、その後、会員は全米に広がりました。日本軍はアジア地域に100箇所もの民間人収容所を設立しましたが、そこにいた民間人なら誰でも会員になれます。大半の会員はフィリピンで収容された人々ですが、それは1941年当時、そこがアメリカの自治領で、多くのアメリカ人が暮らし働いていたからです。

BACEPOWのゴールは、元民間人捕虜の福祉を促進し、会員の間で情報を交換できる組織を提供し、父母や祖父母の人生を大きく変えた体験を理解し調べたいと願う次世代の、手助けをすることです。収容体験に関係するスピーカーを呼び、年に2回の昼食会と1回の総会(リユニオン)開いています。」

会には、アーノルド・シュワッツネーガー州知事からも挨拶が寄せられました。


                    
 
  

会場には、苦しかった収容所での体験を偲ばせる多くの展示が出展されました。

1938年にマニラで生まれたテッド・カドワラダー氏は、幼児時代をサント・トーマス収容所で過ごしました。サント・トーマスとラス・バニョスの収容所に入れられたカドワラダー家の家族は合計13人でした。彼の叔父ウィリアム・B.ハリングトン海軍予備軍中尉は、ハーバード大学を卒業した弁護士でしたが、日本軍の捕虜輸送船である地獄船上で死んでいます。

カドワラダー氏は、全米元捕虜の会(AXPOW)で長い間活発に活動してきており、現在はサクラメント支部の副部長を務めています。彼は同時に、全米元捕虜の会の民間人捕虜委員会の議長も勤めています。

「私たち民間人捕虜は、太平洋戦争の継子のような存在ですね。私たちの話を知る者は殆ど誰もいません。自分たちで集まってそれぞれの体験を何度も語り合いますが、外部の人で私たちの歴史を知る人はいません。サクラメント地域の人々に話すことがありますが、子供を含めて1万4千人もの米民間人が第二次大戦中にアジア地域で日本軍に捕われていたと聞くと、彼らは驚きます。」
 


ローズマリー・バーリーさんとジュデイス・ヨハンスさんは、1941年12月7日に、上海からイギリスに向かう船でマニラに到着しました。

戦争が始まり、姉妹の家族はカドワラダー氏の祖母が所有していたアパートメントホテルに住むようになりましたが、まもなく日本軍によってカドワラダー氏の家族ともどもサント・トーマスに収容されました。



      
 ロス・バニョスで開放されたジョン・モンテサ氏とジョアン夫人               ウエブサイトについて説明する徳留絹枝
  ドナルド・トンプソン氏                                                  (写真:ロン・パーソンズ氏) 

会には、旧満州にあった奉天捕虜収容所を記憶する会(MPOWRS)のメンバーと、中国瀋陽からの一行も参加し、1,500人近くのアメリカ人捕虜が収容されていた奉天収容所の縮小モデルを展示しました。中国政府と瀋陽市は、この捕虜収容所を歴史博物館にする作業を進めています。
 



奉天捕虜収容所モデル (写真:ロン・パーソンズ)

 



父親がバターン死の行進に生き残り奉天の収容所に送られたフレッド・バルデサレ氏と妹のスーさん
MPOWRSの代表エイオー・ワン氏 (左) と瀋陽から参加した
Zhang Yi Bo 教授(右)
 

ドーティ・ストーンさん(79歳)は、自分の体験が紹介された新聞 2007年12月11日付けのGlendale News-Press) を持参しました。

その記事によれば、日本軍が真珠湾を攻撃した1941年12月7日、中国からストーンさんと家族が乗船した船は、真珠湾にまさに近づきつつありました。船は方向転換してフィリピンに向けて引き返しました。家族はそこで日本軍に捕われ、サント・トーマス収容所に送られ、1945年2月の開放までそこで暮らすことになります。ストーンさんの二人の友人は、解放直前に日本軍の砲撃を受けて死にました。

ストーンさんは記事の中でこう語っています。「私が本当に納得できないのは、アメリカ国内で収容された人々の話ばかりが話題になることです。そのこと自体はいいのですが、でも私たちはどうなるのですか。」

 


日本軍の捕虜だった退役軍人と同様、元民間人捕虜だった人々も、最近は彼らの子供や孫たちに体験を語り継ぐことに、力を入れています。ある者は回想記を書き、子孫や彼らの捕虜体験に関心を持つ人々のために、遺産を残そうと努めているのです。

1931年にマニラで生まれ、戦時中両親と妹弟とサント・トーマスに収容されたセシリー・マトックス・マーシャルさんは、子供時代の回想記 Happy Life Bluesを2007年に出版しました。

イントロダクションにマーシャルさんは次のように書いています。

「私の記憶が忘却の彼方に消えてしまう前の、そして体験者の多くが亡くなってしまう前の今こそ、私が育った異常な時代について皆さんに語るときなのです。」


後日マーシャルさんは、「捕虜:日米の対話」の代表徳留絹枝に、次のように書いてきました。
 

私たち一家が戦後アメリカに戻ってきたばかりのある日曜日の朝、父(牧師)は、日本人の牧師を自分の教会に招待し、共に説教壇に立ちました。その瞬間をもって私の父は、戦争から平和への移行を果たしたのです。

ですからある意味で、確かに正式な謝罪があれば素晴らしいですが、捕われの身で苦しんだ私たちは、当時起こったことをどう理解すべきかそれぞれのやり方で模索して来なければならなかったのです。時折私は、3年余の年月が私の人生から失われたこと(これは両国の人々に言えることです)に怒りを感じることがありますが、よく考えてみると、それらの体験は私を頑なにした反面、同時にその後の人生で逆境に立ち向かえる強さも与えてくれたと思います。


* 今回のマニラ開放記念集会に招待して下さったサーシャ・ウェインツハイマー・ジェンセンさんに、心から感謝します。                            -徳留絹枝               


サント・トーマス民間人収容所に関するドキュメンタリー「Victims of Circumstance」 (Lou Gopal and Michelle Bunn 制作)は以下のサイトから。  http://www.lougopal.com/