セシリー
マットクス マーシャル

1931年フィリピン・マニラ生まれ

開戦の後、ミンダナオ島の山中に家族と13ヶ月間、隠れて暮らす。

-ダバオの民間人捕虜収容所、マニラのサント・トーマス民間人捕虜収容所

-1945年2月3日開放


セシリーは、1920年代にフィリピンに渡った宣教師夫妻の子供として、生まれました。日本軍がフィリピンを攻撃した時、彼女の父親は、ミンダナオ島の臨海市ザンボアンガの聖トリニティー教会の主任牧師で、母親は同市のセント・ジョン中国学校の校長でした。セシリーには、妹と弟がいました。

セシリーの家族は、日本軍に降伏する前の13ヶ月、ミンダナオの山中に隠れて暮らしました。彼らはその後、ダバオ市の民間人捕虜収容所、マニラのサント・トーマス民間人捕虜収容所に収容されました。1945年2月に米軍により解放され、同年5月に米国に帰国しまた。

それらの出来事から60年以上を経て、セシリーは、戦争中につけていた日記をもとに回想録 Happy Life Blue: A Memoir of Survival を出版しました。


以下はHappy Life Blues からの抜粋です。


開戦直後の日々
1942年1月1日

私たちが住む海岸通りの数軒先にあるブレント病院のフリオ・トロタ医師が、お昼ごろやって来ました。彼とお母さんとお父さんは、避難の計画、(ガソリンの備蓄や私たちが逃亡できる場所など)について話し合いました。島の奥まで行く位のガソリンは、米軍が提供できるだろう、ということでした。彼ら全員が、島の奥に避難すべきだと考えていました。海岸沿いにこのまま居るのは、余りにも無防備だったからです。

トロタ医師が帰ろうとする時、飛行機の轟音が聞こえました。

「奴らがきたぞ!」とトロタ医師が叫びました。
                                                                                                  セシリー(中)妹と弟

海の方を見ると、7機の飛行機が水面ぎりぎりに低空飛行をしながら飛んでくるのが、見えました。彼らは、私たちの家にまっすぐめがけて飛んできます。トロタ医師が慌てて戻ってきて、私たちは防空壕に飛び込みました。爆撃が始まるまで警報は鳴りませんせんでした。全員が完全にふいをつかれたのです。2匹の犬が最初に防空壕に入り、その後私たち5人、3人のフィリピン女性が続きました。壕から覗くと、操縦席のパイロットの顔と、両方の翼の下に描かれた紛れもない日の丸が見えました。それは、敵が現実に存在し、ここまで迫っているという最初の証拠でした。

次の瞬間、私たちは何千発もの機関銃の銃弾を浴びせかけられました。それらが防空壕を覆う砂袋の上ではじける音が、聞こえました。家のめっきのブリキの屋根に、銃弾が降り注ぐ金属音が聞こえました。飛行機は、市の上空を数回旋回し、その度に死の銃弾を浴びせていきました。私たちの防空壕のすぐそばの塹壕にいた米兵が、いらいらして飛行機をめがけて撃った ので 、彼の居場所がわかってしまい、私たちはさらなる銃弾を浴びることになりました。

降伏

(セシリーの家族は、山中に隠れて暮らしていましたが、降服を命じられ、ザンボアンガで1ヶ月の収容生活を送りました。)

ザンボアンガで1ヶ月、心を許せる友人や親切な監視に囲まれて比較的快適な日々を過ごした後、私たちは日本軍から移動を命じられました。彼らは、どこへ移動するかは伝えず、ただ「早く用意をしろ」とせき立てました。私たちがわずかな身の回り品を整理するのに、それほど時間はかかりませんでした。でも身支度が終わると今度は、点検のためにそれを全部ほどくように命じられたのです。(これはその後2年間で何度も繰り返される習慣となったのですが。)私たちはポーチの上に立って、埠頭までのバスを待ちました。そこに集められた37人の民間人は、次に展開する運命を待っていました。1943年2月のことでした。

私の日記から:

2月25日:   ついにその日がやってきた。兵士が来た。ダバオだって。恐ろしい。私たちは身の周りのものをまとめて船着場に連れて行かれた。さようならザンボ。輸送船に乗せられ、300人位の日本兵と一緒に船倉に詰め込まれた。臭い!汚い!あーあ!ごみと廃棄物が船倉の真ん中に捨てられていた。


Happy Life Blues
収容容所の名前)

私たちのザンボアンガ組は、ダバオ市から数キロ離れたマチナという場所の古いキャバレーで既に収容生活を送っていた250人あまりに、合流しました。彼らはどんな人々だったのか。

母の記録から:

私たちは、故郷から遠く離れた異邦人であった。鉱山労働者、エンジニア、農場主、看護婦、機械工、そして教師。私たちの中には6ヶ月の乳児からから81歳の老人までいた。私たちの出身国は12カ国に及び、その中には、フィリピン女性と結婚して43年もアメリカに帰ったことのない、西米戦争(1898年)の退役軍人もいたのだ。

…Happy Life Bluesというのは、今は捕虜収容所になった寂れたキャバレーの入り口にぶら下がった看板に刻まれていた店の名前でした。最初にここに入れられた人々が、それをふざけて受け継いだのです。でもそれは、現実とそれほどかけ離れた名前でもなかったのでした。

12月23日の朝の点呼に、(収容所長)田中本人が現れましたた。彼は、私たちが別の収容所に移送されると、宣言しました。それまで、マニラのサント・トーマス収容所に移されるという噂はありましたが、クリスマスは Happy Life Blues で過ごしたいと、私たちは願っていたのです。

(1994年のクリスマス・イブに、セシリーの家族はダバオからマニラに移送されました。)


サント・トーマス収容所

私たちは、サント・トーマス収容所にいた約4千人のアメリカ人・英国人そして他の連合国の民間人に、合流しました。18歳以下の子供は、800人近くもいました。

お母さんとシャーリー(妹)と私は、学長の部屋だったメインビル2階の30A室に、部屋を割り当てられました。この場所に50人の女性と女子が寝起きを共にしていました。薄い板の折りたたみ式簡易ベッドと薄ペッたらいマットをそれぞれ与えられました。割り当てられた場所は一人当たり、縦1.2メートル横2・1メートルの広さでした。私たちは狭い寝場所には慣れていました。私たちは3つのベッドをくっつけて並べ、横を通れるようにしました。これで、隣で寝ている家族との間に僅かの距離を置くことができたのです。

お父さんと弟は、同じビルの3階の54号室でした。彼らに与えられた場所も同じような広さでした。6歳以下の男子は、母親と暮らすことが許されました。

この収容所に到着してすぐ後、ダバオ組の各人は赤十字の慰問箱を配布されました。元からいた人々はもう受け取っていたのです。戦争中、あちこちの赤十字からこのような慰問箱が届いていたということです。私たちが受け取ったのは、この一箱だけでした。約20キロの重さの慰問箱には、ハムの缶詰、コーンビーフ、固形スープ、鮭缶、粉ミルク、缶詰バター、砂糖数袋、チョコレート、歯磨き粉、煙草、そして小さな石鹸などが入っていました。石鹸の包み紙に印刷されたGAYLAという頭文字を、私たちは"Greetings All You Loyal Americans!"の意味かと思ったものです。ある者は、箱に飛びついて数日間食べ続けました。母は、これらの予備食糧が私たちの命を救う日のために、とって置くと主張しました。私たちは慰問箱をベッドの下にしまい、誰にもとられないように必死で守りました。

最後の日々

生き延びようとする精一杯の闘いが続けられましたが、命が尽きていく人々も出てきました。以前収容所に来ていた霊柩車が、今では、遺体を乗せた荷車に変わっていました。遺体を乗せた荷台の木製の車輪がきしむ音は、死が私たちのすぐ傍まで迫っていることを告げていました。私たちは無力で、祈ること以外に、そのような状況になす術もなかったのです。

何枚かの死亡書に、その理由として「飢え」と書いたことが、日本当局を怒らせました。言葉を書き換えよという命令を拒否した収容所の医師の1人は、真実を曲げるよりも、牢屋に入ることを選びました。

 


                                                                                         サント・トーマス収容所中庭の炊事場
                                                   (マッカーサー記念館資料)

                                                                                                                         

開放

2月3日の午後遅く、何機かの海軍機が収容所の上を低空飛行しました。その中のひとりのパイロットが、メインビルの中庭に飛行用ゴーグルを落として行きました。そのゴーグルの中には、メッセージが入っていたのです。。

みなさん出てきて下さい!クリスマスがきますよ。日曜日か月曜日にお会いします

たちは、落とされたメッセージの重要さへの興奮と憶測に包まれながら食事の列に並びました。夕食のお粥を食べた後は、時間はありませんでした。夜間外出禁止令と灯火管制が敷かれていましたが、暗いホールは静かにはなりませんでした。ひそひそ話の声が廊下に低く流れていました。収容者は部屋の外に固まって、ゴーグルのメッセージの意味、そして日曜日か月曜日では遅すぎないかと、議論し合っていました。

しかしほどなく、遠くから轟音が聞こえてきたのです。ビルが揺れました。鮮やかな色をした曳光弾が、ピューッと窓のそばを飛び、機関銃の砲火が、壁の外側にガタガタと当たりました。母親たちは必死で、子供たちを窓から遠ざけようとしました。遠くの轟音とうなり音が、近づいてきました。

「日本軍は、何をしているんだ」 と私たちは問いました。

私たちは、そのような轟音をそれまで聞いたことがありませんでした。私たちは、近い将来に私たちが殺されるだろうという噂を、ずっと前から聞いていました。多くの人が、捕虜の処刑に関する通知を見た、と言い張りました。その時がやってきたのでしょうか。9時が近づいてきても、誰も落ち着きませんでした。その頃までには、轟音と揺れは、隣接する道路で起こっているようでした。壁の向こうからは、フィリピン人の叫び声が聞こえました。そして突然、揺れと爆撃が止まったのです。

その瞬間、叫びながらホールを走って来る収容者の声が静けさを破りました。「アメリカ軍がきたぞ、アメリカ軍がきたぞ!」
 

収容者はホールから正面の広場になだれ出ました。ある者は、即興で「God Bless America」を歌い始めました。シャーリーと私は他の何人かと裏の階段を駆け下りました。お母さんが正面の階段は危険だと思ったからです。そのとおりでした。

ビルの裏側の入り口に停まっていたのは、アメリカ軍の戦車でした。戦車の横に立っていたのは、たった今ゲートから突入してきた戦闘服姿のアメリカ兵でした。これまで見たなかで一番背の高い人々に見えたものです。 
                                                                                    開放米軍の戦車に登る収容所の子供たち
                                  (マッカーサー記念館資料)

私たちは本当に解放されたのでしょうか。数百人の兵士がマニラの市街を突き抜け、収容所に入りましたが、外には、不意を突かれた日本軍がいるのです。

私の日記から:

2月4日: Education棟に立て篭もった日本軍は降服しようとしない。収容者は3階に居る。撃ち合いが続く。食糧はたくさんある。日本軍の狙撃兵がアメリカ兵を狙い撃ちする。豆とコーンビーフが入った素晴らしく濃いスープ。また一晩起きていた。飛行機もっと来て!

…2月7日の朝、メインプラザで正式な祝賀が開かれました。誰かがアメリカ国旗を何年も隠し持っていて、今こそそれを出して誇り高く掲げる時がきたのです。何人かのグループが広場を見下ろせる玄関のひさしの上に立ち、そこからWalter Foley 医師が星条旗を翻すと、下に集まった群衆は熱狂的に手を振り、突然湧き上がるように国歌を歌いだしました。

それから間もなく、有名な訪問者が今まさに収容所に姿を現すところだと、警告されました。正面の門から随行団の車が入ってきて、その中の一台から降り立ったのはダグラス・マッカーサー将軍でした。彼はあっという間に、開放を感謝する元捕虜たちに囲まれました。もちろん彼は群集の中に知った顔や戦前の取り巻きを見つけました。彼は、みすぼらしい身なりをした骸骨のような人波を押し分け、メインビルに入ると2階まで上がってきました。私が彼のそばまで近づいて、彼の腕に触ることができたのは、この時だったのです。

…2月7日の午後、マッカーサーの収容所訪問のすぐ後、大惨事が起きました。私たち子供が正面の広場で遊んでいると、通りの向かい側から砲弾を発射する轟音が響き渡ったのです。しかし、この砲弾は軍事施設を標的としたのではなく、私たちのメインビルを狙ったのものでした。一瞬の後、砲弾がビルの一角に命中し、巨大な爆発音が響き渡りました。

…私たちが避難した場所の隣に救急室がしつらえられ、負傷したり死にそうな収容者を衛生兵が担架に乗せて運び込んできました。あっという間に、手当てを待つ民間人・軍人の負傷者が横たわった担架の列が、私たちの目の前に並べられました。かわいそうな人たち。たった数時間前に自由になったことを祝ったばかりだったのに、今は重傷を負い、死んでいこうとしているなんて…

私の日記から:

2月10日:EさんとB夫人をEducationの病院にお見舞いに行った。日本軍がまた砲撃してきて、私はそれに巻き込まれてしまった。とても怖かった。ビルから出て、トラックの下に飛び込まなければならなかった。メインビルは、10回砲撃を受けた。

私は、スクラップペーパーを利用してサイン帳を作りました。それを、「Autographs of Freedom」と呼ぶことにしました。私は、解放してくれた何人もの兵士にサインして欲しいと頼みました。

その後何年もの間、私はその中の何人かと連絡を取り合って来ました。何年か前、対空部隊にいたHayden Rice氏に、覚えていることを書いてもらったことがあります。彼は当時マニラに3日間駐屯していたのです。彼は次のように書いてきました。

「門から入ってこれらの人々特に子供たちを見た時、自分の故郷のことを思い出し、日本軍の捕虜だったこれらの人々に深い同情を感じました。」

米国への帰還を待っている間、私はいとこのメアリーに、次のような手紙を書きました。

1945年3月20マニラから:

メアリーへ

自由になるって何て素晴らしい気持ちなんでしょう!2月3日に米軍が進軍してきた夜の気持ちは、とても言葉では言い表せません。マニラの市街が燃える炎が、何日も夜空を照らしていました。私たちは本国帰還の手続きを済ませました。アメリカ軍がマニラを奪還してから私の体重は8キロも増え、今は40キロあります。お父さんは50キロくらいまで減っていたのですが、今は65キロにまでなりました。お母さんは36キロだったのが44キロです。もし解放軍があの時来てくれなかったら、私たちの収容体験を語れる人はあまり残らなかったかもしれません。状況は本当に最悪でした。でも今は何百万倍もよくなり、私たちの家族も元気です。

エピローグ

私の両親は、家の中で戦時中の体験について話すことは、ほとんどありませんでした。私たちは皆、過去を過去として、前向きに生きたのです。でも、開放50周年が近づき、リユニオン(同窓会)をすると聞き胸が躍りました。友人がラスベガスでリユニオンが開かれると教えてくれ、私はそれに出席しました。それは、鉄条網と鉄扉の中で生活を共にした私たちにとって、新しい人生の一章の始まりとなったのです。

                                                                                    戦後初めて撮った家族写真(1945年6月)

...私たちの人生は、窮乏、爆撃、飢餓、劣悪な生活環境などによって鍛えられ形成されました。私たちは、その後の人生を生きていくのにとても折り合いをつけられないような出来事を目撃しました。でも結局折り合いをつけたのです。私たちの多くは、人生につきものの試練、楽しさ、失望、喜び、喪失を経験してきました。でも私たちは、それらの問題に面した時、遠い日々に味わった苦しい体験を思い出したのです。私たちは、物心ついた幼い頃から、立ち上がり前進することを学んでいたのです。


セシリーからウエブサイト訪問者へのメッセージ

戦火に巻き込まれた時、子供たちは無邪気さを失います。彼らの世界はひっくり返り、全てが永久に変わってしまいます。

私がHappy Life Blues: A Memoir of Survival で語ろうとしたのは、第二次大戦は、どこの戦線であれ、何千人もの子供から子供時代を奪ったけれど、それを生き延びた後、生産的人生を送った人々がたくさんいる、ということでした。多くの者が、子供時代の悲劇的な体験を、成人してから教訓として使いました。

当時の出来事を綴ることで、次の世代の人々が、歴史家による歴史書には書かれていないことを、学んで欲しいと願いました。このような物語を読むことで得られた知識が、将来同じようなことが繰り返されるのを防ぐかもしれません。それが重要なのです。

あの時代のトラウマを生きた家族は、それぞれがストーリーを抱えています。ここに書いたのは、その一つに過ぎないのです。

                          
       
                      

                    セシリー・マットクス・マーシャル

はマサチュセッツ州のボイルストンとサンドイッチに、夫のピーターと住んでいます。4人の子供と15人の孫がいます。バーモント州のミドルベリー大学を出て、学校の教師を長く務めました。最後は、マサチュセッツ州教育委員会で、バイリンガル教育のコーディネーターを務めました。



Happy Life Blues: A Memoir of Survival  was published by Angus MacGregor Books
75 Green Street, P.O. Box 968, Clinton MA 01510