感動の旅:大嶺町捕虜収容所跡地の訪問

リンダ・マクダビット
米陸軍退役中佐ジェローム・マクダビットの娘

2011年秋、私は、「捕虜:日米の対話」の徳留絹枝さんから、第2次大戦中に父がいた広島第6分所大嶺町捕虜収容所(山口県美祢市)の跡地に、記念碑が建立されていることを知らされました。美祢市に住んでいる人々がそのような事をしてくれていたとは、想像もできませんでしたが、そこを訪ねて(記念碑の建設に尽力されたという)波佐間正己住職に会ってみたい、という気持ちが湧き上がりました。

2012年4月、私は日本を訪ね、その記念碑を見る喜びと機会を与えられました。日本に住む徳留絹枝さんと伊吹由歌子さんのふたりとは、2006年捕虜輸送船のフィリピン慰霊ツアーで会って以来の友人で、米捕虜の組織「バターン・コレヒドール防衛兵の会」、そしてそれを受け継いだ「同次世代の会」の年次総会でいつも会ってきました。彼女達が私の訪日計画を準備し、収容所跡地、(捕虜が働かせられた炭鉱を所有していた)宇部興産株式会社など、当時の捕虜収容所に関連した興味深い幾つかの場所に、二人で同行してくれました。

仏教の僧侶で、第2次大戦中大嶺に収容された捕虜たちの記念碑建立プロジェクトの推進役をされた波左間住職が、前・美祢市市議会議員で当時は村の少年だった山本史雄氏、当日宇部興産を代表し車を運転してくださった宇部無煙炭鉱業所長の飯田正氏と一緒に、現地で私を迎えてくださいました。地元の英語教員の小方宏太郎氏も、一日めの通訳として同行してくださいました。

波左間住職は今年のはじめ、脳梗塞で倒れて入院されたそうで、今回面会は無理だろうと考えていた私は、彼が来てくれたのを見て驚きました。おぼつかない足取りながら、この日の全行程を同行されました。彼のこれまでの人生について伺い、この記念碑をとおし戦争の記憶を受け継いでいこうとする彼の強い思いを知り、私は驚嘆しました。東京の陸軍士官学校で学ばれている16歳のとき、戦争が終わったそうです。彼が一度も戦うことなく、代わりに仏教の指導者となられたことを私は嬉しく思いました。波左間住職のような人が多かったら、世界はより良くなるでしょう。この平和の士に会えた私は本当に幸運でした。 (写真:山口新聞)


一行は、記念碑が建つ捕虜宿舎跡地に私を案内し、話を聞かせてくださいました。父が、そして同僚の司令官で親友のベン・ガイトンさんが、68年前にいた場所に立ったとき、不思議な感慨に襲われました。収容所施設はもうありませんでしたが、なだらかな丘陵の高台や、いまも変わらぬ緑を見る興味はつきませんでした。あたりを見回しながら、私は染み入るような安らぎの想いに包まれていました。これらの捕虜が炭鉱で働いた場所を記憶しようとする努力が、波左間住職によって推進されたという事実は、私を大変幸せな気分にしてくれました。彼に会うことができ、記念碑そして周囲の地域を見ることができて、とても幸福でした。


解放後の大嶺町収容所の捕虜 〔写真提供:Mr. Jack Turner)
マクダビット大尉は前列左から二人目
 


 収容所跡地に建てられた記念碑(
詳細) 
 


山本氏・波佐間住職・徳留さん・伊吹さん・飯田氏と収容所跡地で

父はあの戦争について私に語ったことはなく、だから彼がどんな体験をくぐり抜けたかを、私はあまり知りません。大嶺町捕虜収容所にいたベン・スティールさん、エルトン・ターナーさんと話し、ベン・ガイトンさんの日記の一部を、C・E・チューン将軍編纂による「米と兵隊」という本で読んだのが、当時の状況について私が持つ唯一の手がかりです。父が私に唯一語ったのは、アメリカ人が戦争中に任務を果たしていたのと同様、日本人も与えられた仕事を遂行していたのだから、自分は日本人に対して何の恨みも持たないということでした。看守たちの数名が手に負えない振る舞いをし、捕虜として拘留の期間中、父とベンさんは、それが原因でおきた緊張をやわらげようと努力をしたのでした。

           

( 父は1954年、中佐として退役しました。彼は元日本軍捕虜の団体であるADBCで熱心に活動し、1974年-1975年度の全米会長を務めました。この写真は、大嶺収容所が解放された時に捕虜達が作った星条旗です。左端が私の祖母、左から3人目が父です。)

山本さんが話してくださったのですが、敗戦のとき、村人たちは、捕虜たちがレイプや残酷なことをするのではないかと恐れたそうです。しかし、捕虜たちは飛行機から投下された食糧をわけてくれたそうです。捕虜だったベン・スティールさんが山本少年に出くわすことはなかったでしょうね。このベンさんは投下されたチョコレートを全部食べてすごく具合悪くなったと話してくれたことがあり、彼がお菓子を子供たちと分け合ったことはないのでは、と思うのです。

記念碑と収容所周辺のほか、宇部興産の飯田さんは、私たち一行を炭鉱に入る坑道のひとつへ案内してくださり、またシャフトその他の情報がすべて入った鉱山のスケッチも私にくださいました。捕虜たちが毎日3キロあまりを歩いて炭鉱へ通い、仕事現場まで坑内へ降りて長い距離を歩き、また徒歩で収容所に戻ったのを知り、驚きました。これらの捕虜が内心に強い帰還の願いを持っていたのは確かで、彼らはまた、今日ではあまり見かけないような頑強な性格の持ち主でもあったのです。

        
              坑道入り口の前で            
1945年当時の同じ坑道入り

近くの歴史資料館へも行き、炭鉱に関する展示物・絵画による描写によって、アメリカ人や英国人のみならず朝鮮人も炭鉱で働いていたことを、知りました。これまで私が知らなかった興味ある事実でした。

  
     美祢市市民グループによる歓迎夕食会             波佐間住職

その翌日は、現在の宇部興産の施設を見学する日でした。

朝、波左間住職は義理のお嬢さんに伴われて私たちにさよならを言いに来てくださいましたが、療養中のため自宅へ戻らなくてはならず、残念でした。彼のような方に会う機会を得られたのは感動的で、生涯、私はそのお仕事や言葉を忘れません。

宇部では、会社が輸入石炭運搬に使用する数多くのケンウッド・トラック(米国製)の一台の運転席に座らせてもらいました。会社施設の概要を見たあと、広報部を訪ねて西村真紀子さんに案内していただきながら、この会社が長年どのように成長してきたか知ることができました。面白いことに、現在もう石炭採掘は行なっていないが、オーストラリアから輸入しているとのことでした。また社の化学製品は、現在私たちが日常的に使う品々のあらゆる分野で見ることができるということでした。


現在の宇部興産


宇部興産の田中利男さんと西村真紀子さんが歓迎

宇部興産は、自社の歴史に詳しい社員の田中利男さんも派遣してくださり、彼が調査して見つけた別の収容所を訪ねました。ここでは海底炭鉱で捕虜たちが働いたということです。


宇部興産の田中利男氏が周辺を案内

大嶺町での父の体験を学ぶ私の旅に、社員・車・資料を提供してくださった宇部興産、宿・食事などを提供してくださった地元有志の方々の寛大さは、私にとって生涯忘れられない経験で、本当に光栄なことでした。世界一早い新幹線に乗る興奮までついて、訪日体験すべてが驚くことばかり。ユカさんが一緒にいてくれたのは幸運で、でなければ今でも私は乗るべき列車を探していたことでしょう。

飯田さん、山本さん、波左間住職が週末の時間を割き、彼らが知り得たことを教えてくださり、私はとても幸運でした。多分私が(父を働かせた会社に)否定的な気持ちを抱えていると思われたか、飯田さんは最初少し緊張気味でした。でも、父のいた所を探しに来ただけ、父もそうだったように、私も日本人に敵意など全く抱いていないと知ると、くつろいでくださいました。この旅行は、絹枝さんとユカさんの助力なしでは不可能だったでしょう。二人によるアレンジ全てに心から感謝します。滞在中に可成り箸が使えるようになり、日本料理を堪能しました。

捕虜の子供の皆さん、もし父親の居た場所を訪ねる機会があったなら、是非行くことをお勧めします。父親たちの人生と彼らが生きた歴史を辿れる素晴らしい旅だからです。おそらく皆さんもそこを訪ねた後、平和な気持ちでその地を去ることでしょう。その地を訪ねても、そこで起きた歴史を変えることはできません。しかしその旅は、その地に住む人々が収容所にまつわる出来事を記憶してくれていることを、教えてくれます。

元日本軍捕虜の会「バターン・コレヒドール防衛兵の会」会長を務めた頃のジェローム・マクダビット退役中佐


                                              2012年9月25日掲載



リンダ・マクダビット様へ
                                

リンダさん、貴女の大嶺収容所跡地記念碑の訪問記、徳留さん、伊吹さんの訳文を通して接することができ、大変うれしくもあり、懐かしくもあり、喜んで読ませていただきました。

この文章に秘められた家族愛や父に対する親子関係を汲み取ることができました。特に捕虜宿舎跡地に立った時に68年前の建物の姿は全くないために、「なだらかな丘陵の高台に今も変わらぬ緑の草原を見た時に、私は染み入るような安らぎの思いにつつまれました。」とありました。まさに言語を絶する名言であります。

アメリカ人の気質、こんな細やかな感触に接し、アメリカのすばらしさに敬服した次第です。これからもその気持ちを大切にされまして、同志のアメリカの方に一人でも多く語りかけて頂きますようお願い申しあげます。

最後に戦争のない世界平和のために頑張りましょう。          

敬白

元教師 前・美祢市 市議会議員       
山本史雄