1943年のメモリアル・デー

ウェス・インヤード


 

今から68年前、参加した者全員の胸を揺さぶる感動的なメモリアル・デー式典が執り行われました。1943年5月30日、フィリピンのカバツアン捕虜収容所で、1,500人の日本軍捕虜が、2,600人の戦友(その内のある者とは数日前に語り合ったばかりだった)の埋葬地に集りました。

その式典を司った米陸軍従軍牧師は、他の多くの捕虜と共にバターン半島で捕われたアルフレッド・オリバー大佐でした。オリバー牧師は、彼の仲間の従軍牧師がどのような運命に耐え、カバナツアン収容所の捕虜たちが絶望的なまでに必要としていた精神的な支え・癒し・慰めを与えるためにいかに苦心したかについて、感動的で生々しい報告を書きました。以下は、「日本軍と我々従軍牧師」と題された報告からの抜粋です。

捕虜収容所長の政策は、特に最初の三ヶ月は、オドネル収容所のそれよりはるかに厳しいものであった。この期間、彼は従軍牧師が宗教的な礼拝を執り行うことを一切禁じていた。死者を葬る時でさえ許そうとしなかった。

従軍牧師たちは毎日一人一人の捕虜に会い、でき得る限りの精神的支援を与えようとした。死人が出た時は、痩せ衰えたそれらの哀れな遺体は狭い遺体置き場に積み重ねられたが、そこで牧師は、命の危険を犯しながらも毎朝ふさわしい礼拝を執り行った。牧師は、遺体に同行して埋葬の礼拝を行うことを許されておらず、アメリカ人捕虜作業班が裸の亡骸を竹の担架に乗せるのを、悲しく傍観していなければならなかった。

1942年の秋になって、日本軍の政策に変化があった。牧師は遺体を埋葬することを許されたが、礼拝を行うためには、説教の写しを毎週木曜日までに収容所の日本人に提出しなければならなかった。説教の多くの部分が日本人による検閲でたびたび削除されたが、牧師にはそれを書き直す時間がなかった。許可を受けた説教をそのまま述べるしかなかった。当時、全ての礼拝は娯楽のために野外に建てられたステージから行われていたが、春には、牧師が収容所図書館の3分の2を礼拝に使うことを許された。違った宗派の礼拝がぶつかることがないよう、時間の割り当ても確立された。日本軍の監視は明らかに緩和されたが、検閲は引き続き行われた。

礼拝が執り行われる建物の前にはいつも通訳が現れ、許可を与えた説教のコピーを手にそこに座るのだった。そのような状況下で説教を唱えることの困難さを知っているのは、牧師だけだった。歌ってよい賛美歌も許可が必要だった。1943年7月4日に近いある日曜日、プロテスタントの牧師は、いちかばちかの思いで信徒達に「アメリカに祝福あれ」を歌わせた。翌朝、日本人収容所長はアメリカ人収容所責任者を呼びつけ、この違反について問いただし、このようなことが繰り返されれば牧師は厳しく罰せられると、警告した。その曲は礼拝の最後の賛美歌として歌われたのだが、日本軍がどうしてそれを知ったのかはいまだに謎である。

1943年5月30日、日本軍は墓地での礼拝を許した。収容所の全ての捕虜がこの特別な礼拝に参加することを望んだが、1,500人だけがそれを許された。殆ど全員の牧師が、墓地の柵の外に並んだ。コーラス隊が、賛美歌「Rock of Ages」と陸海軍賛美歌「Sleep, Comrades, Sleep」を歌った。プロテスタント・カソリックの牧師が祈りを捧げ、ユダヤ教の主唱者がユダヤ教の埋葬儀式の一部を執り行った。この場所が1942年当時の墓場であることに殆ど誰も気付かなかった。当時この地は泥に埋もれ、血を帯びた水が溝に澱み、死体の腐敗臭が付近一帯を覆っていた。今は、墓場を食い荒らしていた蟻塚も除去された。墓地が造られ整地されて通路ができ、周囲に掘られた溝で流れは管理され、この収容所で死んだ2,644人の名前が記された白い十字架が建てられていた。礼拝に参加した捕虜たちは、死んだ仲間がささやかながらも尊厳をもって埋葬されたことに感謝しながら、収容所に戻ったのだった。


カバナツアン収容所跡地に建てられた慰霊碑

2011年のメモリアル・デーにあたり、私たちもまた、祖国や愛する者から何千マイルも離れた地に建てられた白い十字架の下に一度は埋葬された人々の苦難と犠牲を、深い感謝を持って思い出します。そして私たちは特に、これらの果敢で敬虔な牧師達を思い出します。彼らは、何千人もの捕虜に神の加護を与えるため、受けることより与えることを選び、多くは彼らの全てを捧げたのです。

オリバー牧師は、他の500人以上の捕虜と共に、1945年1月30日、有名な陸軍アラモレンジャー部隊により、カバナツアン捕虜収容所から救出されました。彼は以下の通り、短く感動的なストーリーで報告を終えています。

今や有名になった自由への25マイルの行進で、ルソン中心部東側の日本軍占領地沿いを、数人のアメリカ人捕虜が列から遅れ、静かに歩いていた。疲れきった一人の兵士が、牧師と連れ立って歩こうと近づき、しばらく無言で歩いた。裸足で、シャツも帽子も身につけず、着ていたのはつぎはぎだらけのズボンだけだった。彼は近くの物には目もくれず、遠くを見るような様子で、ゆっくり話し始めた。頭をまっすぐ上げ、西の空に消えてゆく星を見ながら、こう言った。「牧師。あの地獄のような収容所で僕は全てを失った。自分の健康も含めてこの世の全てをね。でも僕は、神は失わなかったよ。」彼はそれ以上何も言わなかった。そして、このぼろぼろの兵士と疲れきった牧師は、解放と神の自由に向かって進んでいった。



オリバー牧師の証言はこちら。

http://www.criticalpast.com/video/65675062299_American-prisoners-of-war_Alfred-Oliver_chaplain-being-interviewed_thatched-hut


ウェス・インヤード氏は以下の二つのウエブサイトを運営しています。

Prisoner of War Camp #1 Fukuoka, Japan
Center for Research Allied POWS Under the Japanese