J D・ メラット

1919年 ミシガン州ウォッシュトナウ郡生まれ

米陸軍航空隊、第28爆撃飛行隊

1919年 バターン第二野戦病院で捕虜となる
  その後、マニラ港湾で荷役労働に就かされる

-1944年9月に「能登丸」で日本に到着

-仙台捕虜収容所第6花輪分所(三菱尾去沢銅山)
            


Adapt Or Die: A Former Japanese POW Tells All  
(「適応するか死ぬか:元日本軍捕虜すべてを語る」)

JD・メラット

(書評:徳留絹枝)

読者はこの回想録で、日本軍の捕虜だった米兵の標準的体験からはめったに聞くことの無いエピソードについて、読むことができる。メラット氏が語るのは、冒険に満ち胸をかきむしるほどつらく、時には滑稽で、そして勝利の物語である。、「真実こそはこの本の魂であり、私は、自分が体験したそのままを綴った。」と彼は書いている。

表紙について

日本が降伏したと聞いたその瞬間、私は宿舎に戻り、のみやしらみが棲みついた汚れた上着からこの布製バッジをむしり取った・・・決して二度と、名も無い番号のみの身分にはならない、と誓いながら。」(メラット氏の捕虜番号462)

以下は、本のハイライトからの抜粋。


日本人との友情

JDは1942年4月、バターン戦で負傷して治療を受けていた米軍第2野戦病院に日本軍がなだれ込んできた時、日本軍の捕虜となった。彼は、生き延びるために日本語を学ぶ必要があることに、すぐ気付いた。



バターンの野戦病院
 

第3章:バターン降伏す)

今や日本語を習うことを目標に据えた私は、借りた松葉杖を頼りに、個人教授を探し歩いた。野戦病院は広い地域にまたがっており、毎日さらに奥まで入っていくと、ついに、数人の日本人捕虜が入れられ鉄条網で囲われた営倉に出くわした。私は、バターン戦で捕われた日本兵が第2野戦病院に収監されていたことを知らなかったが、負傷とマラリアを患った哀れな様子の彼らがここにいたのだった。私は期待しながら、鉄条網越しに身振り手振りで話しかけてみた。しかし、彼らは「シーッ」と言ってあっちを向いてしまった。私がしつこく話しかけると、一人の若い兵士がやっとフェンスの所まで這い出してきて、高校で習ったようなブロークン英語で「何、欲しい?」と聞いた。それには答えず、私達は名前を教え合い(彼の名前はモリだった)、家や家族のことを話し始めた。時間はあっという間に過ぎ、帰らなければならない時間になったが、またすぐ来ることを約束した。

翌朝早く、私はその若い兵士モリに大きなおにぎりを持っていってあげたが、彼はそれを貪るように食べた。私のその小さな親切が功を奏したのか、彼は身の上話を始めた。日本軍は兵隊を補充するのに必死で、高校生の年代の男子を全て招集し、彼のクラスも全員が徴兵されたのだという。彼らは、既にバターンで戦っていた部隊を増強するためにフィリピンに送られた。彼はため息をつきながら言った。「僕は負傷したけど、クラスメートの殆んどは戦死してしまった。僕がキリスト教信者でなかったら、自害するんだけど。」

私が話題を変え、彼の国の言葉を習いたいという希望を話すと、彼はたちまち元気になって 「それはいいね。君を助ければ僕の英語も上達する。」 という訳で、めでたく私は日本語の先生を見つけた。最初は、「いくら」「いくつ」などの簡単な表現やいろいろな食物の名前をお互いに教え合い、それから日本の暮らしや文化や礼儀などに関する、より役立つ言葉や表現に進んでいった。私が、覚えた全てのことを小さなノートに記録していくと、彼も、和紙の巻紙に同様に書き込んでいった。

今や私の語学好きが役に立った。基本的な日本語、その単純な言葉と用法は、容易に覚えることができた。しかし、別の要素にも助けられた。私達を取り巻く生と死の独特な雰囲気、そして野蛮な兵士の手に握られた銃剣が四六時中目に入ること、それらの全てが、私の呑み込みを早くする助けとなった。

授業時間中、賢いモリは全てのレッスンを和紙に記録した。ほどなく私たちは、よく会っては古い友達のようにふざけ合う仲になり、戦時中の敵対意識を忘れていった。フレンドリーだが真剣な彼の学習意欲を見て、私は、まるで自分の命がそれにかかっているかのように(実際そうだったのだが)、完全に日本語学習に没頭した。

しかしその間中、モリはよく、野戦病院の中を闊歩する日本の占領軍に対する恐怖を語っていた。まだ日本文化の中に潜在する邪悪な陰影に恐ろしいほど無知だった私は、彼に言ったものだ。「モリ、心配するなよ。君はもうすぐ家族の元に帰れるよ。」でも密かに私は考えにふけった。「日本の占領部隊は、一体全体なぜ、今でも彼らの捕虜を解放しないのだろう。」

JDは、フィリピンでの捕虜生活のほとんどを、マニラ港湾で荷役労働者として過ごした。そこで彼は、「帝立丸」に自分のキャビンを持つ退役大佐渡辺(なべさん)と親しくなる。「帝立丸」がマニラに戻ってくる度に、JDはなべさんの部屋を訪ね、彼との会話から日本文化への洞察を学ぶようになる。
 



JDは、マニラ港湾に入るこの病院船 「帝亜丸」のような船で荷役労働に就かされた
 

第4章:驚くべき発見)

帝立丸」がサイゴンから着くと、なべさんは笑顔で、私にベトナム製の上等な箱入り葉巻をくれた。感謝しながら、「それは私達がお茶を飲む時に一緒に吸えるよう、お部屋にしまっておいて下さい」と私は頼んだ。「日本流を早速覚えたね。」と彼はからかった。「それが、教養ある日本の若い紳士の振る舞いだよ。」私達の最初の葉巻夜会で、会話は、私がずっと聞いてみたいと思っていた話題に発展していった。即ち、一見ありふれた日本の言葉や言い回しが持っている複数の意味についてである。モリ少年から初めて日本語を習った時から、私はこのことに好奇心をそそられていたのだ。

そんな言葉で最初に思いつくのは「丸 」という言葉だ。日本の商船は全て最後が丸で終わっていたが、その意味について明快な説明を聞いたことがなかった。ほとんどの日本人は「ああ、その言葉ね。それは市とか船とか、ありきたりのものを意味するのさ。」としか言わなかった。

なべさんは微笑んで座りなおすと、煙草を幸せそうにくゆらしながら、「丸 」について講釈を始めた。それが、日本語を習う私のような外人がぶつかる多くの問題を示す、特別なあやを持つ言葉であることを説明したあと、なべさんは見解を述べた。「ジョーイ、君はとても大きな話題を提示したね。先ず、基本的に丸は円、完全、完成、完璧などを意味するんだよ。」 そして思いついたように彼が、「それから魔法の呪いとかね」と言い添えたとき、私は彼を遮った。「待って、待って先生」「その魔法云々とは何のことですか?」

彼は忍耐強く微笑みながら、迷信深い昔の日本人船乗りは、遠い未知の海原を航海することを恐れていた、と説明した。例えば、神戸の博物館にある昔の海図には、「ここに竜がいる」と枠に書かれていた。無知だった昔の船乗りは、嵐や隠れた浅瀬などの海難の危険を、実態があろうがなかろうが、黒い魔法に結びつけたのだという。 「たぶん」となべさんは微笑んだ。「彼らは、酒を飲みすぎたのかもしれんね。長い間に理由は分からなくなってしまったけど、見知らぬ目的地への航海が無事成功するように、全ての船には、たぶん安全で完璧な円を意味した丸という言葉が付け加えられようになったという訳さ。」

それから彼は、多くの近代の侍たちも、彼らの強さや技やある種の儀式への忠誠を自慢する時に「丸 」を使った、と付け加えた。それらの侍はまた、彼らの息子の名前に、誇りと、立派な剣闘士に育って欲しいという願いを込めて、「丸 」を付け加えたのだという。
 

日本人の裏をかく

JDの機転と日本語能力は、しばしば彼が処罰から逃れるのに役立った。ある日彼は、埠頭で日本人労務者たちにT シャツを売っているのを見つけられ、収容所長の松井大佐に報告された。このエピソードでは、JDが戦争前に当時のアメリカ車のステユードベーカーのセールスマンをしていた頃、LIFEに掲載された宣伝に使われた彼の写真が、重要な役割を果たすことになる。(松井大佐も、偶然その車に乗っていた。)

(第4章:驚くべき発見)

(松井大佐の事務所がある)税関ビルに向かいながら、私は、なぜ呼ばれたのかと問い続けた。担当の軍曹がついに怒鳴った。「黙れ、馬鹿やろう!松井大佐がお前を調べ終わったら、我々はお前を銃殺の刑に処すんだ。」 

私はその瞬間、自分の脳に語りかけた。「おい、これは大変なことになったぞ。何とかうまく言い逃れをして、今日のこの危機をやり過ごす作戦を考えるんだ」
             
LIFE 誌に載ったJDの写真             
 

鋭い目をした松井大佐の取調べを受けることになった私は、本当に震え上がった。彼の本部では、ガードが、私を脅かすのに完璧な動作をしていた。大佐の部屋の外の木製の硬い椅子に私を座らせると、ガードのちび軍曹は、銃剣で内臓を切り刻むジェスチャーを続けた。しばらくはまだ安全だとみた私は、彼に言った。「静かにしろ。大佐の電話を聞いているんだ。彼の自動車に問題があるようだ。俺が助けられるかもしれない。」 しかし実際の私は、どうやって自分を助けるかを考えるのに必死だった。これだ! 単純でアホらしいがうまく行くかもしれないアイデアが、私の頭で炸裂した。大佐の関心を、できるだけ私の処刑から逸らすことを狙った作戦だ。最上の作戦ではなかったが、それしか無かった。

大佐が電話を終えると、軍曹が私を彼の部屋に押し込み、松井の前の大きなマホガニーの机の前で、気を付けをさせた。私は彼が挨拶する前に自分から喋るべきではないことを、充分知っていた。顔をしかめながら、彼は顔を上げ怒鳴った。「捕虜、今日なぜお前がここに連れてこられたか、分かるか」 神様!有難うございます。と私は思った。その言葉こそ、私が望んでいたものだった。

お辞儀をしながら私は言った。「大佐、イエス、サー!存じております。そして私を呼んで下さったことに、本当に感謝しております。どうぞ、これが私と私の家族全員にとって大変な名誉であることを、ご承知おきください。私の最愛の父は、貴方様のご親切を知ったら、ことさら喜ぶことでしょう。」 ここで深く息を吸うと、私は先を続けた。「私が帰還しましたあかつきには、貴方様から授かった親切なお取扱いを決して忘れはしない、ということをご承知おき下さい。」ふー、言ってしまった。私は口を閉じ、大佐の怒りが爆発する前に冒頭陳述を終えたことに得意になりながら、気を付けの姿勢をとった。そして彼はやはり爆発した。彼の顔には赤い斑点が浮き上がり、しわがれ声で聞き取れないような日本語で、「一体全体お前は何のことを言っているんだ?」深呼吸をすると、私は早口でまくし立てた。

「大佐閣下」(こう呼ばれて彼が喜ぶのを私は知っていた)「私は、貴方が乗用車に関して賢い選択をなさったとお見受けしました。大佐であられる貴方は、どんな車でも選べたはずですが、貴方はアメリカ車の中でも最高のステユードベーカー・プレジデントを、お選びになりました。閣下、貴方の行為は、インディアナ州サウスベンドにあるステユードベーカー本社の社長で主任デザイナ-である私の父にとって、大変な名誉であります。」 一瞬言葉を失った大佐は、彼の椅子にふんぞり返ると、日本人が深く考えていることを示す典型的なジェスチャーである、両方の指を合わせて尖らせる動作をした。

ついに大佐が私を見つめて、「若いの、おまえが父親とステユードベーカー社について本当のことを言っていると、どうやって証明できるのか?」と聞いた。待ってましたとばかりの笑顔を浮かべ、私は言った。「閣下、ライフ誌に掲載されたこの写真を見て下さい。きっとご存知のはずです。」その時点まで、私と愛車が写ったライフ誌の写真は、私のシャツのポケットの中で今や遅しとその質問を待っていた。大佐は英語を喋らなかったから、私の大事な写真を見せても大丈夫と踏んでいた。彼が広告の中で読める言葉はステユードベーカーという言葉だけだ。注意深く写真を見た後、私と写真を見比べていた彼は、ついに言った。「いい写真だな、若いの。ハンサムな青年だったんだな。そして今もそうだが。」 感謝しながら私は頭を下げた。「閣下、本当に慈悲深いことです。閣下のご親切は、私が帰還し、東洋での体験を父と語り合う時、今日の会見について説明したいという思いを、なおさら強めました。」

私の誠意か或いは写真に感心したのか、彼は懐疑的な監視兵にお茶と菓子と酒を持って来るよう命じた。それを待っている間、私たちは、主に自動車について友好的にお喋りを続けた。やがて濃くて薫り高いお茶が運ばれてきて、私たちは会話に一息入れた。それは、私が、心臓の鼓動をやっと何とか正常に戻す手助けになった。次の一服が足された時、私のホストは、何気なくたっぷりの酒を注いだ。彼が私のホラ話を受け入れたのではないか、という新しい期待が膨れ上がった。

酒が効いてきた私は、ステユードベーカーのセールスマンなら誰もが覚えなければならなかった「ステユードベーカーの歴史」を思い起こしていた。詩人のような流暢さで、私は祖父のことを語った。元百姓、鍛冶工、発明家、荷馬車製造者のヘンリー・ステユードベーカーが1852年、彼の最初の荷馬車工場を牛の牧場に建てたことを。酒の勢いに乗った私の演説は今や佳境に入り、祖父が生産した荷馬車が、1800年代の勇敢な入植者たちのアメリカ西部開拓にいかに役立ったかを、とうとうと大佐に語った。今や熱心に聞き入っている大佐は、私の方に体を傾けると、話を続けるよう駆り立てた。「自動車の時代が到来すると」私は続けた。「父が25歳になった1902年、ステユードベーカー会社を改造し、荷馬車と平行して電気自動車を生産するべく、祖父のために働くことになったのです。」

「そして1904年、父は、ガソリンで走る自動車を生産するよう祖父を説得しました。 1913年、ついにステユードベーカーが同じ名前のガソリン自動車の生産を開始した時、私の父は社長・主任デザイナーになったのです。」「彼のリーダーシップの下で」私は自慢した。「新会社は、みるまに最高の評価を受けるようになったのですが、いつでも約束した以上のものを提供するという会社の新しいスローガンが全てを物語っていました。」そして私は結論へと移った。「今やステユードベーカーは、アメリカの最高の高級車であります。」 自分も農民の出であるかもしれない大佐が、農場と最初の頃の物語が気に入った様子を見て取り、そこで私は口を閉じた。

次の瞬間、松井大佐は真剣になり、彼の運転手が知っておくべきステユードベーカー車の特別な秘密があるか、と尋ねた。(ほとんどの日本人はメカに弱かった。)

さらなる機会を感じ取った私は、言った。「大佐、貴方の自動車には、運転手が知っておくべき多くの秘密があります。」大佐は目を輝かせると「私の運転手に、それらの秘密を教えてくれんかね」と言った。喜んでさせて頂きますと答えると、彼は飛び上がり、クリスマスパーティの子供のように叫んだ。「若いの。私の運転手が明日の朝8時に、お前を宿舎に迎えに行く。用意しておけ。」そして彼はからかった。「わしが、お前の考えていることを全部調べるまでは、埠頭に帰ることなどは決して考えるなよ。」私の手を握ると、彼は古いメリカ流の強く上下させる握手をした。 やれやれ、本当に危ないところだった。

悲しい別れ

この本の中には、日本軍に殺された捕虜仲間、フィリピン人や日本兵の友人たちとのつらい別れのエピソードも描かれている。

以下は、JDが、日本軍の管理下に置かれた第2野戦病院にいた頃、埋葬作業を命じられた時の描写である。

            (第3章:バターン降伏す)

シャベルを持った私たちは、日本人軍曹の後に着いて来るように命じられた。(捕虜仲間の)ブラッキーが足が不自由な振りをしてついて来ながら怒鳴った。「こんなに弱 りきった俺らに、いったいどんなシャベル作業ができるっていうんだ。」 日本人捕虜が収容されていた囲みに近づいた私達は、すぐそれを知ることになる。そこには、肉処理場のような鼻をつくむかつく臭気が、甘い死の匂いと共に溢れていた。私達を待ち受けていた地獄のような風景に、何人かのアメリカ兵は、たちまち気分が悪くなった。躊躇しながら柵の中に入ると、そこには、余りにも恐ろしくて私達が生きている限り忘れることができないであろう、ダンテの「地獄編」のような場面があった。(日本人)捕虜達の切り刻まれた体、そしてあちこちには叩き切られた頭や腕や足、切り開かれた胴体、血の固まりの中で腐敗する内臓が散らばっていた。この狂気の行為は、それを為した怪物が正気ではなかったことを、無言で語っていた。

そして私達が、かつては人間だった遺体の破片を砂で覆い始めると、死肉に群がる緑のハエの一群が、臓器の匂いに寄せ付けられて雲のように集り、私達を攻撃した。シャツをひっぱって頭に被り、私たちは必死になって臓器を食うハエが私達の目や耳や口に入らないようにした。しばらくして、私はモリの片方の腕を見つけた。彼の小さな茶色の手に、まだあの大切な和紙が握られているのを見た私は、ほとんど気絶寸前だった。私は、いかなるアメリカ人も日本人も、兵士が自国民をあのように残虐に切り刻んで処刑するなどということを、とうてい想像できないと思う。身の毛もよだつような仕事がやっと終わった時、私は自分の最初の日本人の友人だった可哀想なモリのために祈った。そして自分に誓った。「きまぐれで卑劣で凶暴な人間以下の野蛮人の捕虜になったということを、一瞬たりとも忘れるな。」 幸運にも、さらに酷い残虐行為がその先に待っていることを、この時私は知らなかった

無意味な死はJDがマニラの港湾地域に移され、荷役労働をするようになってからも続いた。しかし彼は、日本人でさえ忌み嫌う極めつけの残虐行為の加害者に向かって、戦い返す機会にも遭遇した。

積み下ろし作業の間に休んでいた私は、埠頭の方で、誰かが嗄れ声の汚い日本語で騒いでいるのを聞いた。手すりの方に走っていくと、怒った日本人軍曹が、私達の仲間の一人を踏みつけ蹴りつけているのが見えた。もっとよく見える高い場所から見てみると、それは42年の11月にカバナツアン捕虜収容所から来た痩せ細って痛ましい連中の一人、小さなレッドだと分かった。アルと私が、巻き上げ機を止めて船の中を走り、船から埠頭に下りるまでには、港湾地域の看守による最も極悪な暴行は終わっていた。監視員や捕虜の港湾人夫を掻き分けて進むと、私は、子供のようなその捕虜の傍に跪いた。血にまみれ、あばら骨は歪み、連打された口から舌がだらりと垂れていた。脈を触ってみると、それは既に無かった。あのろくでなしの軍曹に冷酷に殺されて、彼は死んだのだった。

私は後になって、なぜあのサディスティックな軍曹がレッドを選んで罰したのか、港湾地区の誰も思いつかないと言っていることを知った。根っから明るくてのんきな性格だった彼が、あの軍曹を怒らせるようなことを言ったりしたりするなど、考えられないことだった。あのろくでなしが、自分の感情の昂ぶりから、最も弱い捕虜に八つ当たりしたということのようだった。ゴミ袋のように遺体を湾に放り込まれるというレッドの最後の屈辱の後、私は、可哀想だった友人のために、復讐を企て始めていた。あのろくでなしは消えなければならない。そして運命は、私を判事・陪審員・執行人に指名したのだ。


不幸な別れは他にもあった。
JDが恋に落ち戦争が終わったら結婚するはずだった日本人従軍看護婦の物語などだ。

日本での捕虜生活

1944年、JDは、北日本の山あいの町花輪に送られ、そこの三菱尾去沢銅山で強制労働に就かされた。彼は、その地の美しさと捕虜がそこで生きた暗い日々について、書いている。

          (第5章:花輪)

点呼の後、仲間達は慣れない寒さから逃げ出そうと収容所に駆け戻っていったが、私はしばらく居残ることにした。花輪での初めての夕暮れを見たいという、私の中の何か本能的な欲求が、私をそこに釘付けにして待たせたのだった。そしてその甲斐があった。大きな真紅の太陽がゆっくりと西に沈んで行くと、その光線はレーザーのように、張り詰めて澄み切った空気を薄く刻んでいった。近くには巨大な黒曜石のオベリスクが、消え行く光からの小さな粒子を反射して、まるで蛍の一軍のように見えた。そして薄紫の陰気な山々が、まだ黄金色の稲の藁が深く地面を覆う寂しげな谷間に、無愛想な監視兵のように、形を表してきた。その谷間と接するえぞ松ともみの木の木立は、背筋を真っ直ぐにして夕刻の退却をする連隊のように見えた。花輪の谷間の田んぼのさらに向こうには、昔ながらの農業を営む人家の灯りと思われる小さな点がきらめく紫色の丘が見えた。右側にはもうひとつの広い谷間が開け、回りの山々がさまざまな色で紫色っぽく見えるのとは対照的に、青々とした緑を反射してかすかに見えていた。この素晴らしい眺めは、黄金の秋と真紅の木々の葉を誇らしげに見せてはいたが、冬はもうそこまで近づいていることを警告していた。
 



現在の尾去沢銅山跡地

絶え間ない雪と悪天候が容赦なく厳しくなり、それは、不親切な日本人よりもっと恐ろしいい敵となった。それは、今や私達が毎日挑む挑戦であった。薄っぺらな黄麻の上着を着て、厳寒の強風には殆んど防寒とならないズボンを履き、すぐ磨り減ってしまう煩わしい草鞋を履き、私たちは、克服できそうもない邪悪に立ち向かっていた。その冬、私達の多くがなぜ凍傷で足を失わなかったか、不思議なくらいだ。皮肉なことに、捕虜の中でカバナツアン収容所の生き残りである何人かはまだ皮製の軍靴を持っていたのだが、それを履くことを禁じられていたのだ。近隣の住民の感情を害するかもしれない、という理由からだった。風の吹きすさぶ花輪の冬が、私達の命をも奪うほどの悪魔の残酷さを帯びてきた時の情景を想像してもらうには、当時の私達捕虜の様子を言葉で表現することが一番いいだろう。捕虜達はあらゆる常識を超えて働かされた。1日800カロリーの食事だけで、殴打・落盤・事故がいつ起こるかも知れない劣悪な労働環境下で、常に死に怯えながら、毎日16トンの原石を積み込む作業を強要されていた。読者の皆さん、物語にしては奇抜すぎると思われるだろうか?いいえ。これは事実だったんです。



尾去沢銅山の鳥瞰図

1944年11月、私の短気な友人ジャクソン軍医は、捕虜のロバート・リングの死について、日本人衛生兵と激しい言い争いになった。ボブは、ジャクソン軍医の努力にも拘わらず、栄養失調で徐々に骨と皮のようになって死んだのだった。ジャクソン軍医が、死因を栄養失調とネグレクトと書いた時、担当の衛生兵は、死亡証明書を事故死と書き換えるよう言い張った。ジャクソン軍医は、怒って遺体からシーツをひっぺがすと、叫んだ。「かつては頑健だったこの男の今の姿を見てみろ。ただの骸骨じゃないか。」それを聞いた衛生兵は、狂ったように刀を掴むと、「出て行け、出て行け!」と言いながらその鞘でジャクソン軍医を殴り始めた。

米軍指導者への怒り

自分に正直なJDは、彼自身の国の軍指導者をも容赦なく批判している。

            (第5章:私達の地獄船-能登丸)

連合軍の兵士達は、私達の友軍の潜水艦や爆撃機によって殺された。その同じ問いが蘇った。日本の敗北が近づいていたのに、なぜ米軍は、捕虜の他には何の価値もない物資を運んでいた古い貨物船を沈めなければならなかったのか。マッカーサーの部隊は、捕虜を乗せた日本の船がいつマニラを出港するか、正確に知っていたはずなのだ。埠頭で働いていて、私たちはいつでもそれを知っていた。私たちは、それらの哀れな捕虜を見ていたし、私達と一緒にいてそれを見ていたフィリピン人ゲリラ達は、毎日マッカーサーの部隊とラジオ交信をしていたのだ。「全ての地獄船への攻撃を止めよ」 という命令が、なぜ出されなかったのか。皮肉屋の私には、マッカーサーと彼の部隊が、哀れな私達捕虜のことなど全く気にかけておらず、彼らのエゴをかきたて、既に敗北している敵にさらなるダメージを与えることで昇進することしか考えていなかったのは、明白だ。マッカーサーの顧問達の良心が、何千人もの自国兵の殺害をいかにして許せたのか、頭の固い私のような老兵にはとても理解できない。見て見ぬ振りをしていたマッカーサー、サザランド、ハルゼイやその他の徒党は、反逆罪で裁判にかけられ、絞首刑にされるべきだったのだ。悲しいかな、もう遅い...


戦争の終結と禁じられた回想記

JDは、花輪の最悪の冬とそして戦争を生き延びた。しかしその後、 彼の本の出版を半世紀以上も遅らせることになる出来事があった。
 



開放時の花輪捕虜収容所
 

1945年8月に日本が降伏した後、私達捕虜は段階的に本国に送還された。 汽車に乗せられて着いた仙台には、病院船 「Rescue」が待っていた。次の中継地点の横浜で、CIC (後にCIAとなる対敵諜報活動班、)の班員が私達に事情聴取をしたが、私を含む何人かは、捕虜体験について書いたり喋ったりしないよう命じられた。怒って彼らの部屋を出た私は、この馬鹿げた命令の件はそれで終わりだろうと思っていたのだが、次の中継地点であるマニラで、さらに強力なグループが待っていた。

今回は、命令に従わなければ、私の年老いた両親に危害が及ぶという脅しも加えられた。一人の高級将校が、命令は、新しい世界枠組における日本の信頼を確立するという、困難な重責を担う軍上層部から来ているのだと告げた。私は、70に近い父や体の弱い母を思い、自分が目撃した残虐行為に関して50年間は本を書いたり講演したりしないと、しぶしぶ口頭で合意した。そして私は1995年に私の本『 Adapt Or Die 』を書き始めるまで、誠実にその約束を守ったのだった。

捕虜仲間の多くは、憲法で保障された権利を放棄するような書類に署名したと理解しているが、私のアイルランド堅気の頑固さが、そんな不名誉な行為に参加しないよう守ってくれた。


著者JDメラット氏へのインタビュー

捕虜だった間、日記を付けていらしたのですか。

ええ。部隊と名づけた日記に書き込んでいました。英語のスラング、タガログ、そして日本語をごちゃごちゃに混ぜて付けていました。もし誰かにその小さなノートを没収されても、何が書いてあるのか訳がわからないように、第4海兵隊が悪ふざけする時に使っていた無意味な隠語も混ぜていました。解読するのが難しい暗号のようにね。

                                                                        最近のメラット氏

50年間は回想録を書かないという米国政府との約束を、意識して守ったのですか。

はい。私は約束したことは本気で守りますよ。

回想録を書いてみようと決心させたのは何だったのですか。

約束の50年が過ぎました。1995年でしたが、私の健康状態はまだよかったので、私はもう15年生きると決めたのです。第二次大戦は本当のところどのようにして始まったのか、そしてフィリピンで生贄の子羊とされた私たちに何が起こったのか、正確な記憶と像にも負けない強い意志を持った一兵卒が見たままに世界に伝えるため、多くの文献や メモや日記を使って書くことにしたのです。

回想録を書くのはどんな体験でしたか。どの位の年月がかかったのですか。悲しい出来事を思い出すのはつらかったですか。それともそれらについてやっと書くことができて嬉しかったですか?

書くのに15年かかりました。その間、私は自分自身を再発見したような気持ちでした。1945年にアメリカに帰還したとき、他の兵士と同様、私は社会的品位というものを全く欠いていました。そんなでは、新参者として再び参加する社会から受け入れて貰えないと知って、私は、自分の家族や自分の命が危険に晒されない限り、決して誰にも暴力は振るわないと誓いました。しばらくの間、それは簡単ではありませんでしたが、自制力で何とか努力しました。ええ。起こったさまざまなことを振り返るのは、本当につらかったです。多くの男女が死にましたが、運命は彼らに別れを告げることを私に許してくれませんでした。

読者には、貴方の回想録からどんなことを感じ取って欲しいですか。

真実こそは私の本の魂です。読者には、この本が、危険な最前線に46時中実際にいた人物によって書かれたということを、知って欲しいです。さらには、地獄であってもそれに直接対決するのではなく、それに適応することで、いくらかは受け入れやすいものにできる、ということを学んでくれるよう願います。もしかしたら、現代社会の多くの個人的な問題も、私の適応の理論で解決できるのではないでしょうか。試してみる価値はありますよね。


この著書から浮かび上がるのは、人間としての基本的な良識を踏み外す者は決して許そうとしない、意思の強い時には冷酷にも見えるメラット氏の人物像です。しかし読者は同時に、彼が、戦時中の敵国の男女にまで愛と思いやりを寄せる、やさしい心を持った人物であることにも気付くでしょう。

1942年の2月、JDは両親に手紙を書くことを許されました。その頃までに米軍は、マラリアの蔓延するバターンのジャングルで食糧も不足し、負け戦を戦っていました。しかし彼は、何も心配しなくていいよと書いたのです。そして次のように締めくくりました。
                                             
  戦争前のJD

でも早く我が家に飛んで帰って、皆が元気なことを知り、一緒にたくさんのご馳走を食べられる日が近いことを、祈っています。しばしのさようならです。全ての愛を込めて、 貴方の息子ジョーより。

その手紙は1942年8月にミシガンの両親に届き、彼が3年後に帰還するまで、母親に希望を与え続けたそうです。(実際の手紙

JDは、65年前に自分の政府から禁じられた回想録を、今回ついに仕上げたのです。

   彼のウエブサイトも、ご覧下さい。