カルロス R・モントヤ

1915年ニューメキシコ州ペナブランカ生まれ

- 第200沿岸砲兵隊
- バターン死の行進、オドネル収容所

カバナツアン収容所、「 多賀丸」、
新潟捕虜収容所(5-B)
 
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日本軍の捕虜となって

は新婚旅行に独りで行ったようなものです。1941年7月に結婚しましたが、その翌月には、私が所属するニューメキシコ州第200沿岸砲兵連隊が、フィリピンに派兵されたのです。  1941年9月にフィリピンンに到着し、その年の12月8日に戦争が始まりました。わずかばかりの食糧で4ヶ月戦った後、1942年4月9日に私たちは日本軍に降伏しました。

「バターン死の行進」を7日間歩きました。サン・フェルナンドに着いたとき、日本軍はやっと私たちに最初の食事を与えました。私たち全員が空腹の極みにありましたが、その食事といったら!与えられた水っぽいお粥は、飯盒の底を覆うこともできない程少量だったのです。それから日本軍は、私たちを金属製の有蓋貨車に押し込みました。そのままカパスまで行きましたが、あまりにも多くの捕虜が詰め込まれたため、真ん中にいた者たちは呼吸ができず、立ったまま死んでいました。

カパスからまた歩きました。どこに連れていかれるのか、私たちはまだ知りませんでした。貨車から降りた後さらに10キロ歩いて着いたのは、オドネル収容所でした。それはフィリピン兵の訓練用に作られた古い収容所で、その頃はもう使用されていませんでした。この収容所に9,000人近くの捕虜が続々と到着したのに、水道の蛇口はたった一本で、そこから水が細々と出る程度でした。それで私たちは、炎天下に水筒を持ってずっと並びました。宿舎に戻る頃には、5-6人の捕虜仲間がもう死んでいるということも、たびたびありました。

しばらくして私は赤痢とマラリヤに冒されました。食事の列に並べないほど弱った者は、みな「ゼロ病棟」に送られるのです。一旦入ったら、生きてそこを出るチャンスはゼロという意味で、名づけられた病棟でした。150人位の男たちがそこに横たわっていて、私は彼らの中に置き去りにされました。右を見るとその男は死ぬ寸前で、左を見るとその男はもう死んでいました。私は自分に言い聞かせました。「カルロス、ここから脱出しなければ駄目だ」と。私は這いながら、出口の戸から出ました。門番をしていたアメリカ人が、「ここからは出られないぞ」と言いましたが、「みんな死んでいく。僕はここから出なくちゃならないんだ」と答えました。私は宿舎まで這い戻り、ライリーというアメリカ人軍医が赤痢用だとくれた薬を5錠を飲みました。友人のサンチェスがいつも台所からご飯のこげを持ってきて、私に食べさせてくれました。それで私は回復したのです。


   オドネル収容所でのモントヤ氏

5月の末、私を含む302人は、タヤバスというジャングル地域に行き、8月10日まで道路敷設工事に就かされました。最後には、私たちの半分近くがマラリヤで死んでしまいました。私たちはそれからマニラのビリビッド刑務所に送られました。1943年1月には、カバナツアン捕虜収容所に移りました。この収容所の環境はオドネル収容所よりましでした。私はそこで水牛の世話をし、捕虜のために野菜を植える仕事をしました。でも実際には、捕虜が、収穫された野菜を見ることは全くありませんでした。

1943年9月、日本に送られる者のリストの中に私の名前がありました。私たちは甲板から3階下にある船倉に詰め込まれました。足の踏み場もないほどでした。台湾で数日停泊した後、10 月初めに私たちは日本の門司に到着しました。


新潟での強制労働

汽車に3日揺られて、私たちは新潟に着きました。宿舎は2階建てで高さ4メートルの木製の塀でぐるりと囲まれていました。正面は一面の砂地でした。私たちが入所した時、そこには既に約100人のカナダ兵捕虜がいました。

翌朝、収容所の係官が私たち全員を起こし「臨港から人が来て、お前らに話がある。」と言いました。そしてその「臨港」の人物がやってきて、私たちは整列させられました。彼は顎鬚を生やしていましたが、私が顎鬚の日本人を見たのはそれが初めてでした。彼は顎鬚を撫ぜながら、「私は、君らがバターンで戦った勇敢な青年たちだと理解しておる。君らがどれだけ勇敢か、見ようじゃないか。君らには私のために働いてもらう。」と言いました。彼は、「臨海陸運送」の社長だったのです。

翌日私たちは埠頭に行きましたが、そこには12メートルもの高さの架台が取り付けられていて、埠頭一帯を動いていました。一方は川で、もう一方は湾になっていました。架台の下には、12台もの鉄道貨車が入ってきていました。私たちの仕事は、これらの貨車の上にいって、石炭を下の貨車に積み込むことでした。石炭は、コンべイヤーで架台に運ばれていました。



1930年代後期の臨港石炭埠頭(写真提供:グレゴリー・ハドリー氏)

「臨港」従業員の看守の一人は、私をことの他嫌っていました。お互いの性格がぶつかり合っていたのか、私が彼を怒らすような何かをしたのか、理由はわかりませんでした。でもとにかく彼は私に悪意を持ち、頻繁に残虐な暴力を振るったのです。ある冬の日、埠頭で働くのがあまりにも寒くて、私たちの何人かはトイレの中に隠れていました。それをこの看守が見つけたのですが、罰として殴られたのは私だけだったのです。彼は「バカヤロー、バカヤロー」とわめきながら、私を棒で殴りつけました。私の体は血だらけになりました。彼は、私の罪を収容所の軍人看守にも報告したので、私は収容所に帰ってからもう一度、罰を受けました。


戦後の苦しみ

戦争が終わった後の5年間、私は酒浸りとなりました。怒りが収まらなかったのです。つらい思い出を打ち消すために、飲みました。健康を回復するために、陸軍病院に8ヶ月間入院していました。そして身体障害者として、退院しました。戦前の私は公務員でしたので、復員した後、どの部署に行きたいかと、聞かれました。退役軍人省を選びました。でも一日に5-6時間しか働くことができなかったのです。それ以上になると精神状態が疲労してしまい、半日だけ仕事をしていました。

一年くらい経っても私の状態はよくならず、むしろ悪くなっていました。当時私は(退役軍人に大学進学の機会を与える)GIビルの事務所で働いていました。退役軍人はみんな大学に行こうとしていました。私の仕事は、彼らの行きたい大学に入学手続きをとってやり、給料を配分することでしたが、その仕事がまた私を憂鬱にしていたのです。それで上司に「申し訳ありませんが、私はこの職場でこれ以上働けそうにありません。私の状態はちっともよくならず、悪くなる一方です。」と告げました。

その後アルバカーキの友人から、「レストランでもやってみれば?」と言われたのです。小さい店を見つけた私は、妻と2-4人程度の従業員と一緒に、何とかやっていけるのではないかと思いました。それでメキシカン・レストランをオープンしたのです。まだ怒りや幻覚に襲われることがありましたが、私の精神状態は回復に向かい始めていました。

怒りを感じる時はいつも、自分自身の中に怒りがこみ上げてくるのがわかるのです。そんな時は妻に「家から出て行くんだ。怒りがこみ上げてくるぞ」と警告するものでした。彼女は二人の子供を連れて、家から避難するのです。彼女が帰ってくる頃には、家中が破壊されていました。ごく些細なことでも、私の怒りを誘発したものです。妻は私のことを、動物のようだと言っていました。

ある時、妊娠していた妻を、銀行のビルの3階にある医者に連れていきました。一階のロビーでエレベーターを待っていたのです。エレベーターのドアが開いて、日本人が出てきました。私はその瞬間、この人物に飛びかかって首を絞めていたのです。さらに床に倒して、蹴りつけ殴りつけていました。周りの人々は何が起こったのか分からず、警察を呼びました。警察官が来て、いったい何が問題なのかと聞きました。そこで妻が、私が日本で捕虜だったことを、この警察官に説明したのです。私はこの日本人を殺しかねない状態でした。事情を知った警察官は、気の毒なこの日本人に、すぐ立ち去るようにと言いました。

そんなことがあり、私は日本人に出会わないよう、気をつけなければなりませんでした。


新潟再訪

1972年、私の妻と彼女の友人は、日本とその頃ちょうど息子が滞在していた韓国に、一緒に旅行する計画を立てていました。彼女たちは、札幌冬季オリンピックにも行く予定でした。それが直前になって、妻の友人が行けないことになったのです。それで私は妻に、「もし君が僕が捕虜だった新潟に一緒に来てくれるなら、この旅行に行ってもいいよ」と言いました。彼女が同意したので、私は1945年以来初めて、日本に行くことになったのです。

私は、捕虜時代に私を虐待した看守を殺したいと思っていました。彼に報復したかったのです。妻にはこのことを言っていませんでしたので、彼女は知りませんでした。でも、私は本気でその男を殺すつもりで行ったのです。旅行荷物の中にピストルを入れて行きました。今振り返ると、当時の私はまだ精神的に病気だったのです。私の中で怒りが渦巻いていました。

新潟に着き、レンタカーで、強制労働をさせられていた臨港の石炭埠頭を見つけようとしました。その頃は新潟は大都会になっていて、私たちが尋ねた誰も臨港を知りませんでした。それで、海に流れ込む川の場所を聞くことにしました。その川を見つけさえしたら、臨港の場所もすぐ見つけられることを、知っていたからです。私は、なんとまだ営業していたその会社を見つけました。その事務所に行ってみると、そこには18-22歳くらいの若者がいただけでした。臨港の社長のことを聞いてみましたが、彼はそこにはもういませんでした。それで例の看守のことを聞くと、彼らはそんな名前は聞いたことがないということでした。その若者たちに、戦争中ここに捕虜がいたことを知っているか尋ねてみると、知らないという返事でした。埠頭を歩いてもよいかと聞く私に、彼らはどうぞと答えるのでした。

埠頭に入ってみると、あの架台はもうありませんでした。なくなっていたのです。石炭も姿を消し、そこにあったのは他の鉱石や石油タンクだけでした。私が覚えていたのとは全く違う構造になっていました。あれほど長い間、私の記憶にあったのは石炭に溢れた埠頭だったのに、私は、それがもはや存在しないことを自分の目で確かめたのです。あの看守を見つけることはできないと悟った私の中で、全てが変わり始めていました。心が回復し始めたのです。体の中で変化がおきていることを、私は感じていました。

その後私は収容所があった場所に行ってみました。跡地はすぐわかりました。でも収容所はもうありませんでした。舗装された道路が走り、2階建てのビルが建っていました。全く違う場所になっていたのです。それを見てさらに気持ちが軽くなりました。それまで私が新潟に関して抱いていたイメージの全てが、ゆっくりと消えていきました。

なぜ気分がよくなったのか、自分でもわからないのです。たぶん、私が自由の身で新潟を訪れその町を見ることができたからかもしれません。恐れることもなかったし、怯えることもありませんでした。言いたいことを何でも言うことができたのです。捕虜だった頃は、全ての思いを押し殺さなければなりませんでした。

旅行中に出会った日本人も、捕虜だった頃に私が知っていた人々とは、違っていました。彼らはもっと親切でした。北海道から本州に向かう船の中で、3人の日本人男性と出会いました。私が日本の捕虜だったことを告げると、彼らは船に乗っていたもう一人の日本人でアメリカ軍の捕虜だったという男性を連れてきました。この人物は、アメリカ人に親切にしてもらったと、私に言いました。これらの男性は全員、「バターン死の行進」のことも日本軍による捕虜虐待のことも知っていて、私に謝罪をしたのです。私が新潟で強制労働に就かされていたことを説明すると、「外で働くのは、さぞ寒かったでしょうね」と言ってくれました。

今になって思うのは、戦時中の日本人は異質な人々だったのだということです。明らかに当時の政府は、全ての日本人がアメリカ人を憎むように洗脳していました。私たちを虐待するやり方から、彼らがアメリカ人に憎しみを抱いていることは、私にも分かりました。でも1972年、私は戦争当時とは異なる、そして変化した日本に出会ったのです。私たちアメリカ人もまた、戦後変化したと思います。もっと世界のことを知るようになったし、日本人や他の国の人々のことを理解するようになりました。彼らは人間として、私たちと何ら違わないということです。

今でも悪夢にうなされることはありますが、これが今の私の心境です。


ヘルシップ追悼碑

長い間、私はフィリピンには絶対行かないと自分に誓っていました。辛い思い出があまりにも多かったからです。でも昨年、スービック湾に建設される「ヘルシップ追悼碑」の鍬入れ式に参加するため、フィリピンの地を再び踏む決心をしました。(追悼碑に関する詳細は   http://www.hellshipsmemorial.org/index.htm追悼碑は、日本の捕虜輸送船上で死んだ多くの捕虜、そしてそれらの船で地獄のような体験をした生還者に、永久に捧げられる尊敬のしるしとなります。

妻もこの旅行に同行し、私たちはバターンやビリビッド刑務所を訪れました。私がフィリピンで捕虜として過ごした日々がどのようなものであったのか、感じることができたと、彼女は言っていました。

ヘルシップ追悼碑の鍬入れ式は、とても美しい式典でした。たくさんの人々が参加し、式を準備した人物は、軍服で正装した軍楽隊まで呼んでいました。私たちは、追悼碑建設の開始を記念して鍬入れをしました。それは2006年の1月に完成することになっています。

長い年月の後、ついにフィリピンを訪問したことを、私は嬉しく思いました。



                     スービック湾で行われたヘルシップ追悼碑鍬入れ式でのモントヤ氏(左)
                                   (写真提供:Mr. Kevin Hamdorf)  


モントヤ氏が新潟に残したもの:語り継がれる体験

グレゴリー・ハドリー

私が新潟市に住むようになって15年近くになりますが、この数年は、新潟県内にあった捕虜収容所の歴史、特に収容所5-Bについて調べてきました。奴隷労働者として連れてこられた連合軍の捕虜は、1850年代に新潟が西洋世界に開かれて以来、大挙してこの地を踏んだ最初の西洋人たちでした。(第二次西洋人移住ブームは1980年代後半から1990年代初頭に起こりますが、私もその一人でした。)


リサーチを進めるうち、私は他の元捕虜たちから、ある男が、捕虜時代に残忍な監視員から受けた虐待に復讐するため、拳銃をもって新潟を再訪したという話を聞きました。そしてその人物の心が、予想もしない展開となったその旅で出会った日本人からの親切によって、不思議なほど和んでいったと聞き、興味を掻き立てられました。でも今日こうしてモントヤ氏の話を読むまで、その人物が誰であったのかを知ることも、そしてその人に感謝の気持ちを伝えることも、私にはできなかったのです。

新潟での長い年月、私自身もそれなりに、甚だしく不親切な人々そして数多くの心優しい愛情深い人々のどちらにも出会いました。異国に住むと、人間はこのようなことにより感じやすくなるのかもしれませんが、それにしても、私がこの地で暮らし始めた当初の思い出として甦ってくるのは、職場や公共の場で遭遇する甚だ無礼な人々-多くの場合中年男性でした-との日々のやりとりだけだったような気がするのです。私が遭遇したことは、モントヤ氏の体験とはおよそ比べようもない次元のものですが、何年もの間、彼らからの仕返しを恐れて自分の感情を押し殺さなければならず、私自身もモントヤ氏と同様に、内に秘めた怒り、消耗、抑鬱そしてその結果生まれる新たな憤りという、酷い悪循環に陥っていたのです。

Frederick Buechnerはかつて、憎しみを「饗宴」と定義しました。但し食卓に向かう痩せこけた人間は、自分自身なのです。モントヤ氏もそして新潟や他の異国に住む外国人も、これが私たちの内面で起こっている現象の的確な描写だと、同意すると思います。別な言い方をするなら、私たちの多くが、自分の中にある憎しみの捕われ人だったということです。

私自身の旅路も、モントヤ氏と同じような行程を辿りました。私もまた私が彼らに何をしてやれるかではなく、お互いの人間性に基づいて友情を育むことができる何人かの同年輩の日本人男性と、最終的に出会ったのです。私は、自分が理解され受け入れてもらえていると、感じました。積年の怒りが消え始め、憤りの重荷の全てが私の肩から取り除かれました。戦争が終わった後の新潟で、何百人もの捕虜たちが、食糧や親睦や笑いを分かち合ったように、私自身も生活を取り戻し始めたのです。私はついに解放され、そして新潟は私の第二の故郷となりました。

どのようにして憎しみから開放されたのか、勇気を持って語ってくれたモントヤ氏に、私は感謝したいと思います。捕虜の物語はこの新潟の西洋人社会で、今でも強い感心を持って語られています。また私は、自分が知りえた、戦後の平和と和解に関する逸話を、紹介したことがありました。新潟に最近着いたばかりで、私が味わったのと同様の怒りと内なる憎しみのサイクルを味わっている外国人に、それらの話をすることもあります。

5-B 収容所はもう存在しませんし、モントヤ氏を虐待した看守も恐らく生きてはいないでしょう。でも素晴らしく皮肉なことに、モントヤ氏が体験した癒しと彼の静かなる和解の物語は、今後何年も新潟で語り継がれていくことでしょう。彼の物語-その全て-が、忘れ去られることはありません。


新潟市は1990年代半ばになって初めて、かつての捕虜収容所の存在を認めた。港を隔てて臨港石炭埠頭を見渡す小さな公園に建てられたひそやかな追悼碑は、新潟に送られた何百人もの捕虜に加えて、戦時中の新潟で同様に奴隷労働者だった何千人もの朝鮮人・中国人を追悼している。
                                                        (写真・キャプション提供:グレゴリー・ハドリー氏)

グレゴリー・ハドリー:新潟国際情報大学「英語・アメリカ文化」教授
 

 

 最近のモントヤ氏


* モントヤ氏は2010年8月24日、逝去しました。