我々は何故向島にメモリアルプレートを設置したのか
68年目の星条旗

小林晧志
 


 

199811月、英国から極東連合軍捕虜と遺族の団体24名が向島を訪問した。訪問団の中には向島にいた捕虜が1名いた。名前はノーマン・ウイドレイクで、彼は私に、墓標の写っている1枚の写真を見せてくれた。それと向島で亡くなった23名の英国兵捕虜の名前を書いたプレートの写真をくれた(内、1名は終戦直後に亡くなったため、遺骨は英国に送還されたと説明を受けた)

(写真: 英兵捕虜の墓標)

訪問団の帰国後、対応した我々10名は反省会を開いたが、その席で一人のシベリア帰りの老人(故、江頭 悟氏)が「この写真に写っている墓標は向島のどこか近くの山中にあるはずだ。我々が知らないとしたら、日本人の恥だ!」と声を荒げた。それから我々関係者は収容所近くの丘や山中を1年かけて探したが、見つからなかった。しばらくして、あるお寺のお坊さんが「それは尾道市刑務所(本土側)近くの山側の市営共同墓地の1角にあったものだ」と伝えてきた。それから現場に行ってみると、墓標らしき物は既になく、近くで畑仕事をしていた1人の百姓に話しを聞くことができた。彼は「ここに墓標らしきものが昭和22年頃まであったが、23人の人が来て墓を掘り起して、どこかに持って行ったようだ」と言った。彼らの遺骨は現在、横浜の英連邦戦死者墓地に移されている。
                                                                              
それから、南沢満雄さん(向島キリスト教会の元牧師)と私の間で、今からは毎年のように英国から訪問団が向島に来るようなので、亡くなった英国兵捕虜23名のメモリアルプレートを作った方がいいのではーーーという話が持ち上がった。南沢さんはキリスト教会からの支援だけでなく、一般の人たちからも寄付金を集める中心になった。そして、捕虜収容所の建物だった向島紡績()の協力もあって、20023月、メモリアルプレートを完成させ、元収容所の赤レンガ壁に取り付けた。そして、同月、英国からの訪問団と一緒にプレートの除幕式を行った。現在までに、向島を訪問した英国兵捕虜及び遺族は合計180人にのぼる。


元向島捕虜収容所(英兵捕虜のメモリアルプレート付)

そのメモリアルプレートを設置したその年に、向島にいた米国兵捕虜Harold Baker (200412月没)より、突然手紙を受け取った。手紙の中には、アメリカ兵100名の内、1 George B. Scott 1945213日に亡くなっていることが記されていた。そこで初めて私は米国兵捕虜の死を知った。また、日立造船向島工場で強制労働をさせられていた時、やさしかった日本人の担当班長福岡 薫さんのことも書いてあった。以上の2件は、近く訪日を予定している Edward Malikowski 氏からの手紙にも書いてあり、彼は向島捕虜Francis Malikowski (1997年没)の弟です。


100名の米兵捕虜

亡くなった捕虜 Scott 氏のメモリアルプレートへの追加の思いは念頭にあったが、思いがけなくも、201112月に向島紡績()の廃業とともに、英国兵捕虜のプレートを撤去せざるを得なくなった。95年の歴史を持つ赤レンガ壁については、当初「保存すべきだ」という声も多々聞かれたが、民間会社の所有物でもあり、営業上の理由から解体・撤去されることとなった.幸いにも跡地を引き継いだスーパー「エブリイ」のご厚意により、敷地の1角を無償貸与してもらうことになった。これを機に米国兵捕虜のプレート設置への機運が一気に高まり、会社倒産から13カ月を経て新たなプレート完成にこぎつけた。
 


左から、英兵メモリアルプレートと米兵メモリアルプレート(碑文
 


スチュワート司令官  米海兵隊岩国航空基地司令部
 

そして、2013415日に移設した英国兵捕虜のプレートと共に、新設した米国兵捕虜のプレートの除幕式を行った。式典には、米海兵隊岩国航空基地からジェームス C. スチュワート 司令官、大阪からサイモン・フィシャー総領事を迎え、また尾道市副市長郷力和晴氏、地元関係者、及び向島中央小学校4年生73名、その他計約120名が参列した。式典では、ギター演奏「アメイジング・グレース」で始まり、聖書朗読とお祈り、次に仏教による法要を行い、除幕、献花、来賓挨拶と続いた。
 

下記は向島中央小学校4年生、大出あおいさんの挨拶文です:

今日は日米英友好メモリアルの除幕セレモニーに参加させて頂き、ありがとうございます。私たちが生まれ育っているここ向島に昔、捕虜収容所があったことを、学校の勉強で知りました。

向島中学校のそばに「記念碑―時の翼モニュメント」があることは知っていましたが、今立っているこの場所が捕虜収容所だったことを先生に教えてもらって勉強しました。今こうして、「日本とアメリカ・日本とイギリス」との平和の証としての記念碑を前に、平和の大切さとありがたさを感じています。

私たちは幸せに、68年前と同じこの場所で生活しています。その事に感謝し、この式典に参加させて頂いたのをきっかけに、ふるさと向島の歴史と平和の大切さについて学びを深めていきたいと思っています。


英国総領事サイモン・フィシャー、大出あおい
(9)、筆者

 



 手前から今岡樹音(いまおか なお、9才)とスチュワート司令官


19458月の終戦直後に向島の地で初めて星条旗が掲揚されたが、これは日本で最初の掲揚とあり、米軍機が食料をパラシュートで落としたそのパラシュートの布で間に合わせに作ったものであった。初めての星条旗掲揚に際して、クリフォード・オムトベット軍曹は次のように述べている。

「それそれの捕虜の痩せこけた頬からは涙がこぼれ落ちた。何人かは飢えのため非常に弱っていて、気を付けの姿勢で立つこともほとんど出来なかった」。そして、1945913日、解放された捕虜たちは星条旗を掲げて尾道港まで行進し、帰路に着いた。

それから68年後の除幕式で、向島収容所の跡地に真新しい星条旗がふたたび翻った。私は15年におよぶ向島への思いに終止符を打つことができた。
 

*小林晧志氏は広島県福山市在住で、POW研究会の会員。