バターン死の行進追悼マラソン
― ニューメキシコ州ホワイトサンズ

 ナンシー A.マーフィー

ジム・マーフィーが、ニューメキシコ州ホワイトサンズで開催される第17回「バターン死の行進追悼マラソン」への出席を考え始めると、よいことが起こり始めました。それから1ヶ月が過ぎましたが、その 恒例の行進に参加した結果、よいことはまだ起こっています。

1942年4月9日にフィリピンで始まった「死の行進」の生還者の多くがそうであるように、ジムはこれまで、その体験を語ることがなかなかできませんでした。それは行進中とその後の恐ろしい光景を 思い起こさせ、日本軍の捕虜になった者でなければとても信じられないだろうと、生還者に思わせたのです。それでもそれらの想いの陰には、仲間同士で交し合った「もし助かって本国に帰れた者は、自分 たちに起こったことが必ず語り継がれるようにしよう」という約束の記憶がありました。

それは、世界が彼らの体験を知ることで、そのような悲惨な事件を再び起こさない助けになる、という思いに根ざしていました。
                                                 
                                                                                                    
                                                                                         
 2006年 「
バターン死の行進追悼マラソン」 ポスター

マーフィー家の追悼マラソン参加旅行は3月24日、ホワイトサンズ・ミサイル発射場の駐屯地に到着し、宿舎をあてがわれた時に始まりました。宿舎はジムと私、運転手を務めてくれた息子のトムとローリーのカップル、そして3,900人の行進参加者の一人となった息子のケンに、充分な広さでした。ケンは、「死の行進」の生還者である父親に敬意を 表すため、砂漠の中を上り下りする26.2マイルのコースを、 歩きとおしたのでした。

       
          Laurie,    Nancy,    Jim  Murphy,   son, Tom                 Nancy,       son, Ken,     Jim Murphy

ジムは、参加者・支援者・主催者の一人一人に、感謝の思いを示す記念品を贈りたいと願いましたが、参加者が3,900人にもなると聞き、それだけの量をとても運べ ませんでした。何か他によい物がないだろうかと探すうちに、地元の不動産業者が、グラフィックデザイナーである息子のロス・ブラウン氏によいアイデアがあるかもしれないと、提案しました。ジムとロスは、「感謝状」を 作成することに決めました。その感謝状は、捕虜、特にニューメキシコ州の沿岸警備隊と予備軍に敬意を示してくれた各人に感謝し、主催者を称えるものでした。ニューメキシコ州沿岸警備隊と予備軍は、1941年12月に戦争が始まる直前にフィリピンに到着しました。彼らの部隊は多数の 死者を出しましたので、ニューメキシコ州でこの行進を再現するのは、とてもふさわしいことでした。
 



ジムの感謝状


土曜日になると、ホワイトサンズのミサイル発射 場駐屯地には、行進参加者のテント村が現れました。駐屯地の体育館は、登録につめかけた大学生やボーイスカウトの若いグループ、予備役将校訓練隊兵で一杯になりました。人々は登録 を済ませ、替えソックス・救急用品・日焼け止めなどを補充すると、過去の行進で知り合った友人と再会しました。そして新しい友人を作りました。

(ジェラルド・シュアーツ退役陸軍大佐と。シュアーツ大佐の父親は「バターン死の行進」に生き残った後、捕虜輸送の地獄船 「鴨緑丸」で死亡)

午後になって駐屯地の劇場では、今回出席した20人の生還者の歓迎会が開かれました。聴衆の中には、行進の参加者やその家族が混じっていました。ニューメキシコ州予備役将校訓練兵が、オリジナルの「死の行進」の歴史を手短かに説明しました。女優のジュエル・グリーンバーグが、バターンで捕われた看護婦 たちの物語を、語りました。ホワイトサンズミサイル発射場の人員が、残りのプログラムを進めました。

そして人々は別の場所に移りました。生還者の一人一人が、1942年の生還体験を語り、聴衆からの質問に答えられるよう、個別の部屋と聴衆を与えられました。フロンティアクラブで、参加者全員に夕食が提供されました。(カバナツアン捕虜収容所救出作戦を描いた)映画 「The Great Raid」が再度上映されました。


日曜日の日の出までには、行進者・支援者・生還者が、開会式に集まりました。それは歓迎の辞に始まり、国家斉唱・祈祷・諸旗の掲揚・昨年の行進以後亡くなった者への葬送ラッパ吹奏と続きました。バグパイパーが「アメージング・グレース」を奏で、行進者を厳しい26.2マイルの砂漠コースへの出発点 に導きました。

1942年の生還者が二人ずつ椅子に座り、参加者と握手し健闘を祈って、第17回「バターン死の行進追悼マラソン」は開幕しました。

 



生還者と握手する参加者達

お昼頃になると、生還者の何人かはバスに乗せてもらい、行進の中間地点まで様子を見に行きました。彼らの全員が、多くの行進者が行進を一時止め、彼らに触れ、敬意を表し、新たな感謝を述べてくれたことが、本当に嬉しかったと報告しました。参加者は生還者の一人一人に何度も伝えました。「国のために尽くし、苦難の行進を耐えたあなた方は、私たち全員にとって本当に英雄です。私たちはフルーツや冷たい水や飲み物をもらい、足に豆ができたり具合が悪くなったら応急処置をしてもらえます。私たちは、あなた方全員が、病と栄養失調に苦しみ、医療も食糧も適切な靴や帽子や衣服も与えられないまま、行進を始めたことを知っています。」 そのような認識が、これほど多くの誠意ある人々から表明されることは、かつてなかったことでした。

閉会式は午後3時に、フィニッシュラインの近くで開かれました。司会者が一人一人の生還者を紹介し、既に行進を終了した優勝グループの名前を読みあげ、そして発射場責任者のTom Berard 氏が紹介されました。彼は続いて生還者各人の上着に、「陸軍自由チーム」の一員を示すバッジを付けました。式の最後に、生還者への最後の敬意を示すために、司会者が朗唱したのは、フランク・ヒューレットが1942年書いた詩 「バターンの厄介者兵士」 でした。

俺たちゃ、バターンの厄介者兵士
おっかさんも、おとっつあんもいねえし、祖国からも見捨てられたのさ
おばさん、おじさん、いとこ、めいごっこも、いねえ
薬もねえし、飛行機も、武器もねえ
俺たちのことなんぞ、誰も気にかけちゃいないのさ


それから司会者は少し間を置くと、叫びました。

でも今じゃみんなの英雄さ

それを聞いた聴衆は、いっせいに拍手喝さいしました。

日が沈んでだいぶ過ぎてからも、まだ行進中の参加者がいました。関係者はジープを走らせ、彼らのために道を照らし、全員がとにかく無事にゴールインできるようにしました。

2日がかりのドライブで家に帰り着いた後、ジムは言いました。「これまでは、自分が死んだら誰もバターン死の行進のことなんか語り継がないし、自分たちが払った犠牲のことなど誰も思い出してくれないと、思っていた。でもホワイトサンズで恒例の行進を見て、自分は、数え切れないほどの行進者(過去の行進者も将来の行進者も)がこの歴史を語り継ごうとしていることを、知った。そのことが、自分たち生還者にどれほど安心感を与えてくれていることか…」
 



1946年撮影の自分の写真を持つジム・マーフィー氏
マーフィー氏は計23年間、空軍に所属していました

photo courtesy: Mr.
Ed Sousa/Santa Maria Times


ジム・マーフィー氏の捕虜体験の詳細は:マーフィー