ジェームス T.
マーフィー

1920年テキサス州リビングストン生まれ

- 米陸軍航空隊
- バターン死の行進、オドネル収容所

カバナツアン収容所、ビリビッド収容所、「能登丸」、
仙台捕虜収容所第6尾去沢(花輪)分所




米兵捕虜の日本への移送
捕虜を南方地域から日本に移送するために使用された輸送船は、その後「地獄船」として知られるようになりました。1944年8月、私たち1035名は、フィリピンのマニラから出航する「能登丸」の前方船倉に、文字通りすし詰めの状態で押し込まれました。私たちは隙間もないほど詰め込まれ、立ち上がる場所もありませんでした。南国の熱気は生き地獄を作り出し、やがてハッチの蓋が閉じられたのです。船倉には全く外気が入らず、熱気は耐え難いばかりでした。私たちは病み、飢え、そして窒息状態でした。用便のためにバケツだけがあてがわれました。毎日配給されたのは、コップ一杯の水と少量のご飯が2回だけでした。出航した後は、ハッチの蓋が少し開かれ、船倉の中心部にいた幸運な者だけがわずかな外気に触れることができました。私たちは「能登丸」に12日間乗船していました。

日本軍は、国際法に違反して捕虜輸送船であることを示すマークを付けませんでした。「能登丸」を含む船団は米潜水艦の攻撃を受け、数隻が撃破されました。「能登丸」にも少なくとも2本の魚雷が発射されましたが、魚雷深度が深過ぎ、船底のすぐ下を通過しました。魚雷は爆発せず、1035名のアメリカ人捕虜の命が救われました。私たちのほとんどは、苦しみが一瞬にして終わるよう、むしろ魚雷が命中することを願っていたと思います。戦後、捕虜輸送船のマークを付けていなかった多くの日本船が、連合軍の潜水艦や航空機の攻撃で沈められ、何千人もの捕虜の命が失われたことを知りました。

私たちは門司に上陸し、汽車で北に向かいました。労働班は道中、幾つかの駅で下車していきました。残りの私たち500名は、本州の北端から40マイルの地点に着くまで、汽車に揺られ続けました。

花輪
1944年9月9日、私たち捕虜500名は、花輪の近郊にある三菱銅山に辿り着きました。

私たちは、第二次世界大戦の勃発に続いてフィリピンで起きたバターン・コレヒドール戦の生き残りでした。全員がすでに2年半に及ぶ捕虜生活、そして今度のフィリピンからの地獄のような船旅による病や飢えで、衰弱しきっていました。

花輪の近くにある駅から捕虜収容所まで少し歩かされただけで、すぐに肌を刺すような寒気が分かりました。私たちは、この土地で残酷な酷寒の冬が待ちうけていることを感じとったのです。

捕虜収容所の敷地に入る前、私たちは山間を奥深く切り取った渓流を渡りました。看守棟は収容所の門の外に建っていました。この棟には日本兵が常駐するほか、収容所の規則を破って罰された者が入れられる独房もありました。

捕虜収容所の敷地は60mx100m位の広さで、3.5mもある高い木柵に囲まれていました。敷地内には約6m x 30mのバラックが3棟建っていて、それぞれのバラックは、屋根だけで両側に囲いのない廊下で結ばれていました。バラックの天井は9m位で、両側に2段の就寝用囲い枠が作りつけてありました。この枠には畳が敷かれ、ベッドのような設備になっていました。床は土を固めてありました。中央の通路にはテーブルとベンチが置かれ、食卓の役をしていました。食事は調理室からバケツで運び、捕虜仲間が給仕しました。

その他敷地内にあったのは、セメントの穴の上に置かれたしゃがみ式のトイレが3つ、保健室と医務担当者が常駐する長方形の2棟の建物、調理室と浴室のあるL字型の建物、そして日本軍の本部でした。この施設が、その後12ヶ月私たちが居住する場所になったのです。


開放時の花輪捕虜収容所(1945)

私たちは直ちに敷地内に収容され、整列して点呼を受けた後、新収容所長・浅香中尉が次のような訓辞をする間、気を付けの姿勢を取らされました。「お前たちは日本が戦争に勝つまでこの収容所に留まる。お前たちは看守全員におじぎをし、彼らの指示に従わなければならない。お前たちは収容所の全ての規則に従わなければならない。いかなる違反も厳重に罰せられる。お前たちは三菱銅山で働くことになるが、精出して勤勉に働かねばならない」

その後の2,3日は、収容所や労働班の組織編制に費やされました。鉱山から担当者がきて捕虜各人の技能を審査し、仕事を振り分けました。電気班、機械班、修理班、鋳造班、そして鉱山労働班が編成されました。手に職のない者には、鉱山の奥深く入って終日過ごす運命が待っていたのです。他の者は、地上で一般労働をしました。

捕虜の健康状態が診断され、日本製と 捕獲した米・英製の混じった衣服が支給されました。捕虜全員に具体的に作業班とバラックが割当てられました。三菱会社の民間従業員がそれぞれの班に配属されて「班長」と呼ばれました。班長は大きな重い杖を持ち歩き、捕虜を働かせるためにそれを効果的に使うことに長けていました。日本帝国陸軍と三菱銅山当局者は、こうして日本のために銅を産出するアメリカ人捕虜を用意したのです。

花輪での強制労働
三菱鉱業は、日本帝国陸軍の支援を受け、花輪の近郊にある銅山でアメリカ人捕虜の奴隷的な強制労働力を資本として使いました。三菱と日本陸軍は、500名のアメリカ人捕虜を犠牲と奴隷にし、恐るべき肉体的・精神的な苦痛を与え、この会社が戦争を支援する努力を助けるために悪用しました。日本国が戦争の遂行を助長するため、信じられないほどの利益を手に入れる間に、三菱は捕虜の労働から巨額の利益を得ました。

私たちが花輪に到着した時点で、とても労働に耐えるような状態でなかったことは、日本陸軍にも三菱の従業員にも明らかでした。2年半に及ぶ捕虜生活の後で、飢餓と栄養失調、そして虐待と病で苦しんでいましたが、それでも彼らは私たちの健康上の問題を無視したのです。私たちは信じられないほど危険な作業状態において、 困難な努力を要する肉体労働に就かされました。看守と職員は、毎日私たちから搾取し管理するにあたって、野蛮で残酷になるよう訓練されていました。私たちに対する目にあまる行為は、彼らが棍棒、小銃、シャベル、鶴嘴などで殴ることでした。拳骨で殴られたり、革靴を履いた足で蹴られたり、その度に深い切り傷や打撲傷、潰ように苦しみました。

私たちが栄養失調、飢餓、疾患、病気に苦しんでいる様子は、誰の目にも明らかだったのですが、日本人はその救済策をとりませんでした。満足な食事も与えられず、疾患や病気の治療も受けることなく、より多くの銅を採掘するため、益々 過酷に働かされたのです。

採掘作業
この三菱銅山は日本最古の鉱山の一つで、採掘は1300年にわたって途絶えることなく続いていました。採掘方法は何世紀も変わることがありませんでした。この鉱山に残っている鉱石を掘り出すには大変な労働力が必要で、以前の所有者はもう生産性はないと断言していたのです。しかし三菱は、アメリカ人捕虜の息の根が 続く限り、採掘を続けようと決めたのです。

採掘道具は時代遅れで使い古され、いつも修理が必要で、人間が体力を消耗しながら動かして、辛うじて稼動する状態でした。鉱山に安全管理者はおらず、爆発、陥没、作業場に突然水が氾濫する等、産業事故の危険がいつも存在していました。大きな鉱山災害の可能性は、常に現実のものだったのです。

花輪の三菱銅山はごく一般的に運営されていましたが、私たちは、この使い古した廃墟から、これ以上の鉱石を搾り出すことはほとんど不可能だと、いつも感じていました。

私たちは5時に起床し、小さなお椀にご飯か麦か粟を一杯、それに水っぽいスープ一杯の朝食をとりました。それから点呼があり、その後、3キロ半近く離れた鉱山までの上り坂を歩くために出発します。私たちは発破をかけるか、短い柄の鶴嘴を使って、鉱石を掘り出さなければなりませんでした。それから、鉱石の塊を短い柄の大ハンマーで砕き、細かく砕いた鉱石を小さな手押し車に手で積み込むのです。手押し車をがたつきながら線路上を走らせ、鉱山の外までの長い距離を押して、砕岩機のそばの一時的な貯蔵所に鉱石をどっと落とすのです。手押し車はよく脱線し、その都度梃子で持ち上げて線路上に戻さなければなりませんでした。

私たちに割当てられた仕事量は、絶えず増えていきました。鉱石の採掘量が充分だったことは決してなく、働きが悪 いか、動きが遅いかで、いつも増え続ける割当量を満足しないと、残忍な仕打ちをされました。

多くの横に広がった鉱床は、私たちが這って出入りしなければならないほどの低さでした。その中の幾つかには水が溜まっていて、それが突然溢れる危険性もありました。明かりは不十分で、ほとんどの箇所は陥没を防ぐための突っ支いがありませんでした。作業は危険で、多くの事故が起こりました。ガス探知装置は存在せず、カーバイドの燃える覆いのないヘッドランプが爆発を引き起こす危険と、いつも隣り合わせだったのです。私たちが三菱のボスに、なぜ陥没を防ぐために坑内に突っ支いをしないのかと尋ねると、材木がないといわれました。ここは深い森林に囲まれているではないかと私たちがいうと、彼らの答えは、日本は森林資源を長持ちさせるために、注意深く統制・管理しなければならない、と 言いました。そして彼らは古くて腐った木材を何度も使うのでした。

私たちが爆発性ガスの充満を探知する安全対策の欠如と、カーバイドの燃える覆いのないランプが爆発の 引き金になる危険性について尋ねると、彼らの返事はまたもや奇怪なものでした。昔アメリカの鉱山では、ガスを探知するために、鉱夫がカナリヤを入れた籠を持ち歩いたことを教えました。彼らは、銅山は炭鉱ほどの危険はないと 言いました。あったとしても、先に坑内に入るのは捕虜だから、もし爆発があっても死ぬのは捕虜であり、それは大した損害ではないというのでした。

危険な陥没や落石についても、彼らの考えは似たようなものでした。捕虜 を先に入坑させ、安全なようであれば、三菱の従業員が続いて入坑するといった具合でした。

地上での作業を割り振られた捕虜は、電気工、機械工、水車大工、修理工などのより技術的な仕事か、一般労働をしました。

日本帝国陸軍と三菱当局者の間に交わされた契約は、陸軍が週 6日間、毎日決まった人数の捕虜を鉱山に引き渡すことを命じていました。捕虜は作業に従事するため、毎日会社に引き渡されるのです。会社が、捕虜の病気や衰弱を考慮に入れることはありませんでした。捕虜はフィリピンで既に健康を害していて、地獄船での体験のため、長い距離を歩けない者や非常な努力を要する仕事に耐えられない者もいたのです。毎日の割り当て人数を揃えるために、健康な捕虜は弱った者を鉱山まで支えて登らねばなりませんでした。鉱山に辿り着いた後も、やつれきった捕虜に何らかの仕事をさせることは、どんな強要をもってしても不可能なことでした。日本人は、鉱山まで登れない者は収容所内で働けるように、計画を変更しました。日本人は誰でも働くものと考えていたのです。実際、もし私たちが働くことができなければ、その日の食事は半分に減らされました。収容所の敷地内に軽作業が用意されました。戦争の遂行に貢献するための鍛冶屋、釘やロープ作りなどでした。

取扱い
私が花輪で日本人から受けた、そして3年半の捕虜生活中に各地の捕虜収容所で受けた取扱いは、文明社会のあらゆる規範に反するものであり、捕虜の取扱いに関するジュネーブ条約で採択された規則に準拠するものではありませんでした。飢餓、医療の不許可、強制行進、奴隷労働、不適切な衣類と住居、 通信の拒否、その他無数の残虐行為は、残忍、野蛮、邪悪、冷酷かつ堕落、凶悪、非人道的な取扱いであり、無意味なものでした。

日本の人々へのメッセージ
日本のみなさんこんにちは。第二次世界大戦中に日本帝国政府の捕虜になった私の体験談を読んでいただき、ありがとうございます。

悲惨な戦争の廃墟から立ち上がり、今や独立・存続できる国を作り上げた日本のみなさんに、おめでとうと申し上げます。私は、みなさんがそれを一生懸命に働いて成し遂げたこと、そしてみなさんが築き上げた勤勉な国家が、新しい民主主義の下で、これからも発展し繁栄していくことを知っています。みなさんは、もっと偉大な国になれるのです。どうぞ読み進んで、みなさんが歴史的事実に真正面から向かい合い、日本が第二次世界大戦中に行った卑劣な行為から許されるために必要な行動を取なければならないという、私が誠心誠意信じていることを受け入れて下さい。

日本枢軸に参加・米国と隣国を攻撃
日本は米国と東南アジアを攻撃する前、欧州の枢軸国と外交・軍事政策を協調するため、三国同盟を結びました。連合国と戦った枢軸国は、ドイツ・イタリア・日本とその他の国でした。ドイツを中心とする枢軸陣営は、アドルフ・ヒトラーを指導者とした国家社会党(ナチス党)の支配下にありましした。ヒトラーは、全体主義政府、領土拡大、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義を主張しました。ドイツの邪悪な行為と大量虐殺の試みは、世界中に知られています。

日本帝国軍が攻撃するにつれて、中国の大部分、満州、朝鮮全土、台湾、ベトナム、カンボジア、ビルマ、マレー半島、マレイシア、ボルネオ、スマトラ、セレベス、ニューギニア、フィリピン、グアムそして無数の島々が、日本帝国主義者の残忍な猛攻撃で崩壊しました。

日本は征服した国に圧制を敷き、反対者を殺害し、原住民を奴隷にし、飢えさせ、私有財産を没収するなどの虐待をしました。それぞれの国は、日本の帝国主義を推進するため、その天然資源を略奪されました。国々は破壊され、土地は不毛となり、奴隷にされた人々は死に至るまで酷使されました。

日本の指導者は、負けた敵を中世的な野蛮な方法で征服、支配しました。日本は暗黒時代の原理的思想をもって、支配下にある人々を奴隷化、大量殺戮、迫害し、飢えさせ、医療や最低限の必需品も与えなかったのです。日本は、征服した人々に対し、残忍かつ非人道的で非文明的な感情を露わにしました。

「大東亜共栄圏」と銘打たれた日本の政策は、その影響下に置かれた全ての国々を壊滅させたのです。

私の体験
私自身が第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となった米兵として体験したことは、とても描写できるものではありません。

バターンで日本軍に降伏したとき、私は「バターン死の 行進」を歩かせられましたが、その間、空腹、渇き、疲労、衰弱、病気や何かで体力が消耗し、行進を続けられないというだけの理由で、何千人もの米兵とフィリピン兵が残忍に殴られ、殺されました。日本軍は、食事や水を与えたり医療を施したりして、この状況を緩和しようとはしませんでした。彼らは動けなくなった者の運送を拒み、代わりに殺すことを選んだのです。

私はフィリピンから日本に連行され、いつ殺されるかという絶え間ない恐怖の 中で奴隷労働を強いられました。私が働かせられたのは、三菱鉱業が運営する尾張沢銅山のアメリカ人捕虜奴隷収容所でした。その場所は仙台軍管区捕虜収容所第六花輪分所で、本州の秋田県にありました。私が花輪で受けた残忍な取扱いは、前述のとおりです。私たち捕虜への残酷で野蛮な行為は、日本が連合軍に無条件降伏を余儀なくされたその日まで続きました。

東アジア全域における日本軍の連合国捕虜の取扱いに関する研究は、それが どこでも同じであったことを示しています。このことは、この非人道的取扱いの命令が、日本帝国の最上層部から直接出されていたことを証明します。この野蛮な虐待は、人間が他の人間に対していかに非人道的になれるかを、如実に示しています。それは、日本の海外侵略から自国の領土を守ろうと名誉をかけて防衛することだけを任務とした連合軍兵士の身の上に降りかかりました。

終戦近く日本で捕虜として収容されていた私は、日本が、連合軍の本土上陸を迎え撃つために準備していたことを、主観的に知っています。後日、間もなく始まるはずだったその上陸戦の計画についても、調べる機会がありました。私は、日本人男女、そして子供までが、本土決戦となれば最期まで戦うと誓っていたことを知っています。

差し迫っていた日本本土の上陸戦が実際行われていれば、子供も含めた何百万人もの日本人が死んだのは確かですし、百万人の連合軍兵士も命を落としていたでしょう。そして日本に囚われていた6万人の捕虜は即座に殺害されていたはずです。

幸いにも、米大統領は、戦争を直ちに終結させ無数の日本人の死を避ける作戦を採用する勇気を持っていました。戦争は終わり、人々の命は救われたのです。

知られざる秘密
これまであまり知られておらず、そして今でも慎重に閉ざされている秘密は、日本帝国主義が東南アジアに拡張していく過程で、支配下に置いた国々で行った野蛮な行為が、ナチスドイツのヨーロッパにおける行為に類似していたということです。

第二次世界大戦後の大きな違いは、ドイツ国民はヨーロッパ全域で紛れもない残虐行為のあったことを認め、世界の人々に謝罪し、二度と同様な行動はとらないと約束し、自らの残虐行為の改善を助けるために寛大な返報を提供したことです。

一方、ナチスの同盟国であった日本は、同様な残虐行為に関して責任をとることを拒んでいます。

新生日本の偉大さは、近代ドイツがとったと同様な行為を日本がとるまでは、決して文明国家の世界連合から完全に認められることも、受け入れられることもないでしょう。

日本は、歴史的事実を受け入れ、認めなければなりません。その真実を学校の歴史教科書で教えなければなりません。傷つけた人々に謝らなければなりません。そのような残虐行為を二度と繰り返さないと約束しなければなりません。そして傷つけた人々に満足いく 補償を提供しなければなりません。

日本がこのような行動をとらない限り、またとるまでは、日本は引き続き、疑惑と疑念と不信の暗雲の 中で生きていくことになるでしょう。

日本の第二次世界大戦中の記録を浄化するのは、日本の新しい世代のみなさんの義務です。そうすることによって、偉大な新生日本国家は、過去の問題が永久に解決されたことを知り、毅然として誇りと名誉を持って世界の文明国と接していけるのです。


花輪への旅
徳留絹枝

親愛なるジムさん

あなたの花輪捕虜収容所での体験記を読んだとき、あなたやお仲間の捕虜が言葉では言い尽くせない苦しみを味わったその場所に、私は行ってみなくてはならないと思いました。60年もの年月が流れた今、当時の捕虜収容所を偲ばせるものが何も残っていないであろうことは、承知の上でした。でもあなたの捕虜時代の思い出があまりにも痛ましくて、日本人の私ができることは、せめてその場所を訪れ“感じる”ことだと思ったのです。

花輪の古めかしい小さな駅に着いた私を待っていたのは、美しい山並みに囲まれたのどかで小さな町でした。駅前バスターミナルの女性が、三菱尾去沢銅山跡地への行き方を教えてくれました。1978年に閉山した後テーマパークになり、その主要坑道を実際に歩くことができるようになっていました。


三菱尾去沢銅山 2004年

その日はほとんど観光客がいなくて、私はたった一人で暗い坑道を20分ほど歩きました。不気味な静けさでした。でもやっと坑道の出口に近づいたところに小さな店があり、年配の男性が銅鉱石の標本を売っていたのです。私は、彼が戦時中この町に住んでいたのか知りたくて、思わず尋ねてしまいました。そうすると、この町に住んでいたばかりか、45年の春には15歳で三菱銅山で働き始めたというのです。次にもちろん私は、アメリカ人捕虜が銅山内で働いていたのを覚えているか、聞いてみました。日本人従業員は当時、捕虜に話しかけることは禁じられていたそうですが、この男性は、毎日行進させられて銅山に働きに来ていた捕虜の姿をよく覚えているというのです。私は、あなたやお仲間の捕虜が強制労働に就かされていたことを覚えている人物に会うことができ、とても嬉しく思いました。

私はこの男性に、あなたの戦時中の体験を説明しました。いつも空腹で寒さに震えていたこと、打たれていたこと、そして危険な奴隷労働に従事しなければならなかったこと…。彼の年代の日本人男性に共通することですが、あまり感情を表にするのは得意でない人のようで、静かに黙って聞いていました。それから彼は銅の鉱石を取り出すと、あなたに差し上げてくれないかと、私に頼んだのです。私は驚きましたが、必ず渡しますと約束しました。

ジムさん、一人の日本人があなたがかつていた収容所を訪れたこと、その地で出会ったもう一人の日本人があなたに鉱石をくれたことが、あなたにとって何がしかの意味をもつのか、私には分かりません。そうであって欲しいと願っています。過ぎ去った遠い日のつらい思い出を甦らせてしまうかもしれませんが…。

あなたもご存知のように、私はこれまで日本の出版物に、日本政府と企業は戦時中の捕虜強制労働の道義的責任をとるべきだと、繰り返し書いてきました。その思いは今でも変わりません。でもあなた達との間に何か和解の思いを生み出すために、一人ひとりの日本人ができることそしてすべきこともあると、信じたいのです。あなたが語ってくれたような捕虜の個人体験を学ぼうとすることも、その一つです。そのような努力は、決して日本政府と企業からの正式謝罪に代わるものではありません。でも、太平洋戦争のこの暗い一章を共に学ぶことで、私たちがより近づき合えることを心から願っています。

もうすぐお目にかかります。
敬具


親愛なる絹枝さん

このバイリンガル・ウエブサイトを作成するために長い時間、献身的に働いてくれて有難う。貴女の努力が、第二次大戦中の数年間日本軍の捕虜として私が受けた傷を癒すのを助ける前向きな一歩であることは、間違いありません。貴女がこのウエブサイトを作ろうと決断するためには、勇気と深い理解が必要だったことと思います。

貴女の献身的な行為の一つは言うまでもなく、花輪まで旅し、三菱銅山を訪問してくれたことです。私たちが毎日鉱山で働かせられていたことを覚えている人から贈られた鉱石を受け取ることは、私たちの間の溝を埋めるための具体的な表現です。そればかりでなく、貴女は一日かけてドライブして私の家を訪問し、その鉱石を直接手渡してくれました。有難う。

貴女の我が家への訪問は、感動的な出来事でした。そのことに感謝し、あなたの努力を評価したいと思います。私はこの鉱石の標本を、鉱山で働いている間に死んだ8人の捕虜と奴隷だった500人の捕虜のために、受け取りたいと思います。

貴女は、日本人と私たち元捕虜の関係を少しずつ向上させるためのアイデアをいろいろ話してくれましたね。貴女は、日本が私たち捕虜に苦しみをもたらした戦時中の残虐行為の責任を日本人が受け入れられるよう、努力していくと言いました。貴女と三菱鉱山の土産物売り場の男性の行為は、日本人が第二次大戦中の行動に対する責任を受け入れる真の運動の始まりとなり、60年前の傷を癒し始めるでしょう。

貴女の仕事とプロジェクトに寄せる情熱に、成功を祈ります。第二次大戦中の日本軍による捕虜虐待に関する理解を深めるための貴女の努力に、感謝します。本当に有難う。

ジム  T. マーフィー

 

 


最近のマーフィー夫妻