父の足跡を辿って

- L. ネルソン


日本の最初の印象

満席のボーイング機は、ロサンゼルスを発ってから11時間後、東京の北にある成田空港に着陸した。ほとんどがら空きの入管手続所を楽々通過した私は、空港内でドルを円に換えた。さあこれで、1944年から1945年まで日本で捕虜だった父の足跡を辿るという長年の夢を叶えるため、お金も、ビデオも、カメラも、テープレコーダーも、必要なものは全て揃った。

今回の私の日本訪問には、友人で(捕虜問題では)同僚でもある在米29年の日本人徳留絹枝さんが同行した。彼女はドイツ・ホロコーストの本を書いた後、日本軍に捕われた米兵が辿った運命に関心を抱き、この10年近く、捕虜問題について調査し書いてきた。私は、1942年5月6日コレヒドールで日本軍に捕われた父に何が起こったのかを調べるうち、彼女のウエブサイト捕虜:日米の対話 を偶然見つけたのだ。その後私たちは、頻繁にメールを交換するようになっ。今回、日本語と英語を話せる彼女が、日本語も日本の習慣も殆ど知らない私に同行してくれて、本当に助かった。

私たちの共通の友人である伊吹由歌子さんが、空港で出迎えてくれた。インターネットを通して彼女を紹介してくれたのも、徳留さんだった。私が彼女たちに直接会ったのは、わずか数週間前、ケンタッキー州のルイビルで開かれた「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」の年次総会でだった。伊吹さんは、私とADBCの新会長レスター・テニー博士を空港で待っていた。テニー博士は捕虜を代表して日本の首相に会い、正式な謝罪を要請し、日本が戦争中に捕虜に為した残虐行為や奴隷労働を償う意味で、元捕虜や私のような家族を日本に招基金を設立するよう訴えるために、来日したのだ。

急行列車に約1時間乗った後私たちは、忙しく清潔でとても整然とした東京駅に着いた。人々は、それぞれのローカル線に乗るため、足早に無駄なく動いていた。ちょうど夕方6時くらいで、東京のラッシュアワーはまだ続いていたホテルは東京の中心部にあり、皇居からほんの1ブロックか2ブロックしか離れていなかった。すみずみまで清潔で、部屋には宿泊客が必要な全てのものが揃っていた。それでも、宿泊代は驚くほど手ごろだった。

ステーキと卵に慣れた私は、日本食を食べることに少し抵抗があったのだが、最初の晩に食べた日本食は、自分でも驚くほど美味しかった。

私の父が見た日本

私の父が日本に着いたのは、全く異なる状況下においてであった。彼は、地獄船「能登丸」の横12メートル縦18メートルの船倉に、1036人の他の捕虜と一緒に家畜のように押し込まれ、マニラから門司までの11日間を船中で過ごした。彼は、赤痢とかっけの症状から回復しておらず、極度の栄養失調に苛まれていた。船倉は同様な症状の捕虜で溢れ、異臭・熱気・渇き・飢えは耐えられないほどだった。私の父は航海中、意識不明に近い状態で、意識が戻ったり途絶えたりした。

船は捕虜輸送中であることを示す標識をつけておらず、米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、そのうち一発は命中したのだが、不発弾だった。不運にも他の多くの捕虜は、日本に向かう彼らの輸送船が連合軍攻撃されたとき、命を落としている。そのようにして死んだ捕虜は千人から万人と推察されているが、アメリカでよく使われる数は千人である。



捕虜が描いた「能登丸」の船倉の状態

食事は、質の悪い米のご飯が一日1杯、そして水の配給は限られていた。捕虜の将校は、配給された食べ物と水をなるべく公平に配分しようと最大限に努力したが、捕虜が船倉にすし詰めにされた状態では、それもほとんど不可能だった。用便の施設は、船倉の中にクレーンで降ろされ引き上げられる、便所バケツが一つだけだった。それが引き上げられる度に、下にいる捕虜の上に中身が飛び散り、それが降ろされるときは、彼らの上に落ちてくることがあった。

「能登丸」は194427日にマニラを出航し、同年9日に門司に到着している。日本に到着後、捕虜は携帯品を検査され、次にホースからの海水で洗い流された。その後、関門海峡をフェリーで下関に移送され、古い兵器庫のような場所の床に寝せられた。私の父は1942年の終わりから栄養失調のため視力を失い始めており、日本に着く頃までにはかろうじて目の前の物の形を何とか識別するしかできなかったため、彼を取り巻く周囲の状況を表現することは難しかった。彼の視神経はビタミンAの欠乏で徐々に破壊されており、遠くを見る視力は既に失われていた。

翌朝、捕虜は北に向かう列車に乗せられた。移動中、日本兵と同等の内容の弁当を与えられた。中に入っていたのは何かの野菜・梅干・そしてぎっしりと詰められたご飯だったが、それはフィリピンの収容所で食べ慣れていたものより、よい品質だった。父は、食事の質とその量が向上したことと、列車の乗客席にせられたことに驚いた。フィリピンでの列車の旅ではいつもぎゅうぎゅう詰め込まれ息もできないような貨物車ばかりだったからだ。

捕虜たちはこの列車を「ニッポン・エキスプレス」と名づけたが、それが彼らをどこに連れていくのか、知る由なかった。列車は東京までの百キロを、昼も夜も這うように走りながら、あちこちで捕虜のグループを降ろし、弁当箱を運び込んだ。下関から北に40キロほどの尾道の炭鉱では50人の捕虜が降ろされ、さらに人が東京の近くの大森で降ろされた。最後の数日、列車は海抜1200メートル近くまで登り、を日午後時頃、本州の北の果てから約70キロ南にある花輪という小さな町に、最後の500人の捕虜を降ろした。


仙台捕虜収容所第六分所:花輪収容所への旅

私が花輪を訪問したのは、日本滞在の日目だった。徳留さんとホテルのロビーで会い、東京駅までタクシーに乗った。タクシーはトヨタクラウンで、乗客の席には白いレースのシーツがかけられていた。スーツと白い手袋に身を包んだ運転手は、私たちにシートベルトをかけるよう念を押すと、クラウンを巧みに運転しながら東京の混雑をくぐり抜け、最短距離の道を使って私たちを東京駅まで運んだ。右側を走るのに慣れた私は、反対側を走ることに最初は何とも落ち着かなかった、日本で私が乗ったタクシーの運転手は、全員がエキスパートだった。

JRは必ず定刻で出発し、乗客を待ったりしてくれないことを知っていた私たちは、乗り場に急いだ。列車は清潔で超近代的で非常に快適、そして制服を着た乗務員は私たちの号車に入る度出る度に、ていねいにお辞儀をするのだった。列車はすぐスピードを増し、間もなく時速200キロを超える速さで、次の駅仙台に向けて快適に邁進した。私たちは、飲み物や食べ物をワゴンに乗せて車内にやってくる売り子さんから朝食の弁当を買ったが、その中味はレストランで出されるのと同じくらい上等だった。東京地域を後にすると、景色はまたたく間に、商店街やアパートが建つ郊外から田園が広がる農業地帯に変わった。

3時間もしないうちに約400キロを旅して盛岡に着き、私たちを花輪に案内してくれる駒井修氏と会った。駒井氏は戦時中に子供時代を過ごした70歳くらいの人物で、陽気でよく笑い、そして溢れるような情熱の持ち主だった。私が駒井氏の経歴を初めて知ったのは、徳留さんのウエブサイトで、彼が父親のことを書いたエッセイを読んだ時だった。彼の父親は、映画「クワイ川に架ける橋」で有名になったタイ-ビルマ鉄道建設に派遣された日本帝国陸軍の大尉だった。戦時中彼は、秘密でラジオを作った英国人捕虜二人を殴り殺し、その行為のため戦後処刑されている。その後しばらくして母親も亡くなり、駒井氏は戦後の混乱の中でたった一人で生きなければならなかった。私は、駒井氏が気の毒でたまらなかった。

私の父は、彼を捕えた者たちの行為や配慮の欠如で、虐待され盲目にされたが、私にとってはヒーローだった。彼はあらゆる困難を乗り越え生還した。彼は勇敢で強靭で、私の誇りだった。彼は自分に起こったことに愚痴をこぼしたり、自分を哀れんだりすることは、決してなかった。実際、彼に捕虜体験を語らせるは、容易なことではなかった。また私小さい頃、彼を苦しめたジャップに子供っぽい憎しみを表したとき、それを止め、何も恨みは抱いていないこと、前向きに生きるべきこと、を非常に明確に諭したのことを、はっきり覚えている。過去に浸り自分の運命を嘆いていても、何も得られないのだ。

それに比べて駒井氏は、父親も母親もいない中で、戦犯として処刑された父親を持つという不名誉を負って、自分の生き方を探さなければならなかった。それはとても困難なことだったに違いなく、それで、私たちのホストとして楽しそうに親切な気配りをしてくれる彼の振る舞いに、なおさら私は心を打たれたのだった。

花輪に向かう道中で私たちの会話は続き、徳留さんは、駒井氏が私と同じように父親についてずいぶん調査し、タイまでも旅行したと教えてくれた。私たちは、それぞれのやり方で父親を追悼しながら、同じような父親への強い絆を共有しているようだった。彼は、父親が殺した捕虜の仲間である三番目の捕虜を探し出し、英国まで行ってその人物に会い、父親の行為を詫びたのだという。私は、駒井氏の名誉を重んじる心と、父親が傷つけた人物と正面から向かい合い謝罪した勇気に、またしても感心した。私は駒井氏の中に、日本政府も捕虜を奴隷のように扱った日本企業も持ち得ないでいる勇気を見た思いがした。駒井氏の姿勢は、起こったことの真実を探し、そのことに心からの謝罪をし、捕虜やその家族が捕虜の体験を辿ることをできる範囲で手助けする、というごく当たり前のものだった。

興味深いことにこの姿勢は、元日本軍捕虜で作る最大の団体ADBC現会長である元捕虜レスター・テニー博士のものと、基本的に同じである。彼の日本訪問は、元捕虜が受けた残虐行為の事実にしっかりとした認識を確立させ、それらの犯罪に対して誠意ある謝罪を受け取り、私が今回自費でしているような元捕虜とその家族が捕虜の足跡を辿る日本への旅を支援する基金の設立を、訴えるためだった。日本政府による同様な基金は、イギリスやオランダの捕虜を支援してきた。実のところ、テニー博士は、駒井氏が道義的責任を感じるが故に、個人のそして人間のレベルで既にしてきたことを、日本政府と捕虜を虐待した企業にして欲しいと頼んでいるのだ。

ほどなくして私たちは花輪の町に入り、かつて仙台捕虜収容所第六所があった場所に向かった。全国紙と地方紙の記者が数人、そしてNHKとローカルTV局の報道陣が待機していた。捕虜の息子と捕虜を殺して処刑された将校の息子の出会いに、ニュースバリューがあるのは確かのようだった。

収容所の東側を流れる小川 (後ろに尾去沢山が見える)1944年
 

64年前に写真が撮られた同じ場所で 駒井修氏、徳留絹枝さん、筆者
 

      同じ橋は1944年当時仙台捕虜収容所第6分所の入り口として使われた
 

現在の花輪収容所跡地の様子:ビデオクリップ
 


収容所は既に無く、その地には中学校が建っていた。生徒たちは試験中ということだったが、校長
の佐藤亨氏が私たちを校内に招き入れてくれた。彼は、中学校が捕虜収容所跡地に建っていることを知り、驚いた。

(写真)
仙台捕虜収容所第6分所跡地に
建てられた中学校で、佐藤校長と会った筆者。朝日新聞の貫洞欣寛記者と一緒に、昔の写真を調べる


花輪の記憶

中学校の外に出て、父が教えてくれた収容所の様子を鮮明に思い出した。それは幅60メートル長さ百メートル余りの区画で、幅メートル長さ33メートル高さメートルの軒のバラックがあり、メートル半の木造の塀で囲まれていた。各バラックは建てられたばかりだった。床は土、壁は木の枠に薄いベニアが粗雑に打ち付けられただけで、隙間からは風や冷たい雪や雨が舞い込んだ。

収容所の中は、二段式の木造の寝床の列が両側に作り付けられ、薄っぺらい畳が敷かれていた。父はそれを「大きな鶏小屋、但し大きな違いは、鶏はもっとよい食事を与えられ小屋はもっと暖かい」と表現していた。バラックの中心の通路には、捕虜が食事するテーブルあり、一番奥には、だるまストーブがあった。敷地の奥には、立派な造りの監視員棟があり、監視員はそこに住んでいた。その他に幾つか小さな建物があり、その一つは動かせる樽の上に板を敷いた便所だった。時おり、中国人の奴隷労働者が来てその樽を担いで持ち去った。父は、それが、中国人囚人の大半が労働者とし働いていた近くの農場で、肥料として使われたのだろうと推察していた。収容所には他に、保健室と調理場と、コロンビア大学で学んだ収容所長浅香敏則中尉と高橋ほういち軍曹のいる本部室があった。二人は英語をかなり話せた。

捕虜が収容所に入るやいなや、彼らは気を付けの姿勢で立たせられ、点呼をとられ、所長の形式的な演説を聞かせられた。浅香の演説は、日本が戦争に勝つまで捕虜は収容されるという妄想的な、規則やそれを破った時に与えられる厳しい罰則などの現実的な、そして捕虜が三菱尾去沢銅山で激しい労働に就かされるという不吉な内容から、成っていた。もはや父と捕虜仲間の唯一の存在目的は、三菱会社のためにその銅山で、文字通り奴隷として仕えることのようであった。

私の父は、監視員棟の右側にある最初の棟の右側前方の場所を割り当てられた。収容中に到着した時父が身につけていたのは、日に焼けてボロボロになった木綿の夏服の残骸と下帯、そして履き潰した靴だけであった。彼は長ズボンと麻袋で作られたコート、米袋で作られた靴、ソックス、そして木綿の白手袋を、与えられた。しかしコートは鉱山へ往復するときだけしか着用することを許されず、作業中には着れなかった。温度が下がらない地下の坑内や精錬所内で働く捕虜にはそれでもよかったが、鉱山外の地上で働く捕虜にとってコート無しで寒さに晒されるのは、本当に惨めな体験だった。

父が収容所に到着して日後には雪が降り、月末までには、日本の北国の冬の厳しさが、捕虜たちに打撃を与え始めていた。気温が氷点下に下がるやいなや、収容所の水道管が凍りついて破裂し、収容所の水が絶たれた。浴室に水が来ない状態で、捕虜たちの体には、彼らが「動くフケ」と呼ぶしらみが繁殖した。凍てつくような寒さは翌年月まで続き、その冬の積雪はメートル近かったもの推測される。外の雪は、捕虜が入居していた粗末な建物の中にまで吹き込んできた。収容所を囲むメートル半の塀は、雪でさらに高くなった。父や他の捕虜の最も強烈な花輪の思い出の一つは、冬中どんなことをしても、決して暖を取ることができなかったということだ。

だるまストーブにくべる燃料は、通常、朝と夜の一時間分だけだった。それでさえ、断熱されていない大きなバラックに小さなストーブが一つでは、暖を取ることができたのは、ストーブのそばの者に限られていた。日本側は捕虜たちに、日本でよく使われる木製の枕を与えたが、それらはあっという間にストーブの中に消えていった。何人かの捕虜は、燃料の足しにしようと、木片や禁じられていた石炭を持ち込んだところを捕まり、そのために酷く殴られた。

収容所の日課は、あまり変化のないものだった。週末も休日も無かった。捕虜は毎朝時が起床だった。朝食は、小さな茶碗一杯のご飯と、調理場からバケツでバラックまで運ばれてくる水っぽいスープ一杯だった。冬の間、それはいつも冷めてから届いた。その後、監視員が彼らを外に集合させ、点呼を取った。時半には、鉱山までのキロの道のりを時間半かけて歩く毎日の行進が始まる。その小道は、雪や氷に覆われているか汚い泥でぬかっており、傾斜が50度以上の崖のような箇所もあった。作業は時に始まり、捕虜が三菱の班長に引き渡された後は、監視員はバラックに戻った。時間の重労働の後、捕虜は30分の昼食休憩を与えられた。時になると、また時間半の行進をして収容所に帰り、小さな椀一杯のご飯とスープの夕食を済ませ、鶏小屋の木製の寝床で就寝するのだった。病気であれ怪我であれ、いかなる理由でも捕虜が働けないほど弱っている時は、軽作業に回されたが、監視員は彼らのわずかばかりの食事を直ちに半分に減らすのだった。

開放時の花輪収容所 (写真提供:ジェームス・マーフィー氏)マーフィー氏の体験記

父が存命であれば、収容所の跡地に今は学校が立っていることを知って喜んだにちがいないと、私は思った。

父の話していたひどく汚い残酷な場所が、今、みじめな悲しみの声に変わって、子供たちの驚異と笑い声が鳴り響く場所になっている。もう一つ直面している事実があった。国家としての日本は、私の父に拷問の苦しみを与えた国、と考えていた。しかし、個人的に会った「日本人たち」は、見たこともないほど、この上なく親切で礼儀正しく、心底こまやかな人たちであり、かつて私の持っていた残酷な獣ども、という子供時代のイメージをこなごなに打ち砕いてしまった。しかし、戦争という悪は私たち人間を誰しも残酷な獣に変えてしまう。私たちはみな、人間であり、倫理のものさしを崩壊させ、人間性を貶める悪の力の対象となるのだ。
 

尾去沢銅山のパラドックス

中学校長とお会いした後 、駒井さん、徳留さんと私は、山を上る険しいドライヴに出発したが、報道関係者たちを満載した車が数台ついてきた。道路はかって捕虜たちが辿った山道に沿って建設されていた。

 尾去沢銅山への道:ビデオクリップ

道の頂上まで行き着き、銅山を見たとき、そこで起きたいろいろなことを考えると、ぞっと身震いがした。私は初めて他の人々を離れ、自分の思いと感情をまとめようと、独りになった。その時になってやっと山々の美しさが私の心に染入ってきた。駒井氏との会話があまりに強烈だったために、それまでは気づきもしなかった美しさ。父の話では、またこれまで見た写真でも、銅山はむさ苦しい場所だった。そして今私は、美しく広がる谷間を見下ろしているが、それは視力を失った父には一度として見えなかったものだ。その時私は、眼を保護する覆いもなく、どのように父が溶接の仕事をさせられ、彼を盲目にするプロセスが完了したかに思いを馳せた。

染み入るような美しさと非常なおぞましさ。その矛盾を身近にこれほど感じたことはない。やがてタバコを吸いに食堂から出てきたひとりのカメラマンが、私を夢想から現実へゆり戻した。


昼食後、私たちは銅山の
支配人である遠藤稔氏と会見した。この事業所は今も三菱の所有だが、もう銅は産出せず、「マインランド」という観光施設になっている。ゴー・カート場、ミュジアム、ギフト・ショップがあり、もちろん、目玉は銅山ツアーである。

 

 



尾去沢銅山はどこにでもある鉱山ではなく、日本最古ではないにしろ、最も古い銅山のひとつだった。
1630年代、金山として操業が始まり、次いで銅山となった。実に総計700kmの縦坑がある。

(写真)
博物館に展示された尾去沢銅山内の網の目のような縦坑の模型

 

 

 


遠藤氏の説明によると、銅の採掘はほとんど坑道を水平でなく縦方向に上へ延長する方法でなされたという。格子を組んで鉱石を上部からゆるめて落とし、縦坑の底から二輪車で運び出し、鉱外やふもとで鉱石の粉砕・溶解精錬の行程が行われた。

遠藤支配人の案内で、坑道を歩く駒井氏と筆者 (NHK)


 

鉱山の歴史は資料によってよく記録され、展示もすぐれている。だが例外は捕虜労働で、年表中に「1945年に朝鮮人、中国人徴用労務者および外 人俘虜帰国」と、短い記述があるばかりだ。捕虜たちの奴隷労働についてはその他に何も記されていなかった。鉱山の歴史の一部として私は遠藤氏に、これまで収集した写真、そして捕虜が働いた時期の概要をお送りするつもりだ。鉱山史の欠落を埋める資料として使用してくださることを願っている。ただの観光客だったら、マインランドの旅を私は心から楽しんだろう。しかし捕虜の息子である私の想いは、何人かの捕虜監視員や民間人が収容所解放後に有罪となったような戦争犯罪行為を、父がそこで体験していたことを知るがゆえに、錯綜していた。

父はまたすべての監視員や監督が捕虜たちに残酷なわけではなかったことも、明確に話していた。「ハッピイ」という看守は日本のクリスチャンだったが、自分の信仰に忠実なひとで例外的に捕虜たちに親切だった。収容所が解放されたとき、数人が一緒になってハッピイのため、元捕虜監視員として彼がMPに拘束された場合に備えて、「担当者へ」という彼の親切を証言する手紙を書いた。鉱山の台所で働いていたひとりの日本女性は、監督に殴られる危険を冒し、捕虜たちのため、できるときには食物やタバコをこっそり持ち込んでくれた。

熟練労働者は総じてうまくいっており、未熟なものたちは鉱山のもっとも深い危険な場所で掘ったり、運んだりの労働をさせられると知っていたと父は話した。班長に尋ねられて、父はうそをつき、自分は溶接工で銅山の上部でもっといい仕事がしたいと言った。かれらは粉砕機の溶接を彼に割り当てた。しかし、そこに問題があり、かれらは眼を守る装具を何も支給せず、ゴーグルなしの溶接作業が父に残されていた視力を破壊したのだ。その結果、溶接はうまくゆかず、彼は格下げされ、粉砕機の周囲を這いずりながら、コンベヤー・ベルトから落ちた鉱石を手探りし粉砕機に投げ込んでいた。

銅山の外で粉砕機があった辺り:ビデオクリップ

花輪で、父は希望を失いかけた。1944年から45年の冬には、戦前の70キロから体重は40キロほどにまで落ちた。彼は3年間というもの収容所での嘘に悩まされていた。戦争がもうすぐ終わるという希望は失っており、三菱の班長たちは日本軍がシカゴを占領しニューヨークとワシントンでの最終決戦をめざし東へ進軍していると、捕虜たちに語りつづけた。父はほとんど全盲になっており、班長たちの割り当てをこなす役に立たなくなるにしたがい、処遇の厳しさはますます度を強めた。粉砕室の床を、悲壮な思いで落ちた鉱石を探して手探りで這い回り、石を機械に投げ入れていると、毎度のように蹴られたり、踏んづけられたりするようになった。彼はまだ20歳でいながら、もう非常な苦痛なしでは動き回ることができなくなっていた。いつも体調が悪く、未来への希望は全て失っていた。

彼の希望の壷はほとんど空っぽであり、それがどういうことかを自分で知っていた。果てしなく続くとみえるこのみじめな状況から素早く確実に抜けだす道があることも知っていた。彼は人間ひとりを数秒でこなごなにする巨大な鉱石粉砕機から、いつも6メートルと離れることはなかったのだ。きれいとはいえなくても、素早い死は確実だった。その日、彼は粉砕機の端まで身を引きずっていき、もう少しで全てを終えようとした。そのとき、私たち皆のなかにいる聖霊が彼のところへきて、文字通りの地獄の穴から彼を引き戻したのだ。愛されていると感じ、平安を得たことを彼は覚えており、粉砕機から離れ、その日からずっと誠実なクリスチャンでありつづけた。興味深いことだが、今回の銅山訪問ちゅうに、徳川時代のクリスチャン迫害の時期、この銅山は日本人キリスト教徒の避難場所として使われたことを発見したのである。もしかするとこの銅山は慰めと保護のための場所なのかもしれない。



父親が強制労働を課された尾去沢鉱山を一人で歩く筆者
(NHKのニュースから)
 

共通性

銅山ツアーが終わると、報道陣のひとりで、以前私がいたウィスコンシン大で勉強した朝日新聞の貫洞記者が話してくれた。1970年代初期に銅山の閉山により、この地域は経済不振となり、マインランドのような観光施設が地元経済の振興を助けているそうだ。私にも無関係なこととはいえない。なぜならカンサスの私の住む地域は同じような経済状況にあり、地元の雇用を増やし経済発展をめざす大変な努力に、私も深くかかわっているからだ。

貫洞記者は イラク戦争の報道を担当させられ中東で4年を過ごした後、彼の見た恐怖の体験から回復するため花輪地域の報道活動に回されていた。挑発にのったわけではない戦争も、捕虜の虐待も、日本に限ったことではなく、私自身の国もまた十分に、規模の違いはあるにせよ、同様の行為を成し遂げたことを、彼との会話は思い出させてくれた。

まもなく私たちは車に戻って盛岡をめざして山を下り、駒井さんは私たちを山奥の伝統的な日本の温泉に案内してくれた。静かなドライヴのあいだ、私は父を想い、また周囲の山々の美しさに引き込まれていた。子供時代に何度もした、ヴァーモントのホワイト・マウンテンやニュー・ハンプシャーへの家族旅行が思い出され、その途中では、マインランドのような施設に寄って観光をしたものだ。父は日本でもアメリカでも、こうした美しい場所を見ることがなかったのが気の毒だった。

温泉に着くとまるで王侯と錯覚するような挨拶をうけた。日本での体験すべてにいえることだが、どこもかしこもきちんと清潔で庭はよく手入れされロビーはしみひとつなく、滞在が心地よくなるよう、丁重なスタッフたちが必要などんなことでもしてくれた。私たちは部屋に案内され、駒井さんは私が鉱泉の熱い浴槽につかるよう非常に気遣ってくれた。数年前、背骨を折っている私にこのような長い一日はこたえることを彼は知っていたのだ。湯が熱すぎないかと彼は心配したが、家にもひとつあるので温度には慣れているからと、彼を安心させた。温泉は素晴らしく、約半時間も私はここちよい水中で背中をリラックスさせることができた。入浴のあとは伝統的日本料理のディナーが予定されており、日本式浴衣を着ると駒井さんは笑い出した。私の着付けを指して駒井さんは「女だ」と言い、すぐに気づいて私は左巻きから右へと着付けなおした。にっこりした彼はボディ・ビルダーのように両腕を曲げ、「男です」と言った。二人は腹の底から大笑いし、ディナーにむかった。

ディナーは豪華版で何コースもあり、正装した女性が給仕してくれた。私たちは魚、肉、色々な野菜、ワイン、日本酒を味わい、一刻、一刻を楽しんだ。何時間も食べ、父について、また戦争と平和への想いを語り合ったあと、私たちは部屋へ引き取った。各部屋は畳敷きの和室で、戻ってみるともう布団がきちんと伸べられてられていた。私はぐっすりと眠り、シンプルなしつらえを楽しんだ。現代式の浴室があり、さっとシャワーのあと、盛岡の駅へむかい、駒井さんに別れを告げたが、最高に親切な主人役の彼は温泉での費用を肩代わりしてくれたのである。


靖国神社と退役日本兵との出会い

日本へついて2日目、伊吹さんと、彼女ら夫妻の家にホームステイ中の英国人学生エリオット・カーター君、そして私は、この神社へゆき所属の戦争博物館を見学した。そのとき私はまだこれが保守守義者にとって栄光の大東亜戦争の殿堂とは実感していなかった。西欧では第2次大戦の太平洋戦争として知られる戦いである。見学中に気づいたのは、真珠湾攻撃の正当化がはなはだしく、連合軍捕虜そしてまた戦時中日本の冒した残虐行為には殆ど何の記述もないことだった。多くの政治的「ひねり」があることは確かだった。

神社を見た後、私たちは皇居の堀に面した素敵なレストランへ歩いて行った。ここの昼食で、日比友好を願う比島戦友・曙光会の近藤敏郎事務局長と会うことができた。曙光会員・河村俊郎さんはルソン島で戦い、松下政市さんはリンガイェンで負傷し、しばらくして米軍の捕虜となった。皆さんは1944年から45年にかけてのフィリピン奪還作戦に参加した兵士である。また「戦時下に失われた日本商船」という素晴らしいウェブサイトを主宰する三輪祐児さんも居られて、彼のサイトは日米の研究者のあいだでよく知られている。

河村氏  エリオット君  筆者 松下氏  三輪氏   近藤氏   伊吹さん

1941年から42年の最初の比島作戦で、父と戦った元日本兵の方々にお会いしたいと望んでいたけれどもそれは適わなかった。しかしながら、日本側からのこれらの体験の反芻は、戦時中の日本兵たちの展望、そして彼らを捕獲し、または降伏に際してのアメリカ側の処遇を理解するうえで、貴重この上ないものだった。この方々が時間をとって私と会い、私の理解を助けてくださったことに感謝している。戦時中の父について書いている本には、日本兵からの見方も入れたいと思っているからだ。

その夜は、テニー博士の素晴らしい講演会に行った。彼の捕虜時代は、父の体験と大変よく似通っていた。彼はまた日本政府そして企業からの正式で心からの謝罪も繰り返して希望し、また基金の設立を希望した。


京都ツアーそして池田幸一氏との出会い

花輪から戻った翌日、徳留さんと私はまた別の列車で京都へ行き、金閣寺、竜安寺、そして二条城を訪ねて、少々ショッピングも楽しんだ。私たちはそれから池田幸一氏と会った。池田氏は日本軍が朝鮮と満州から撤退したときに置き去りにされ、ソ連軍の意のままにと差し出された不運な何十万人のひとりである。彼はロシア人に一網打尽にされ、中央アジアの収容所のひとつに入れられた。ロシア人に拘留された数年間、彼は絶え間なく共産主義を叩き込まれ、他には殆ど何もなかった。解放されて日本に帰国するや、共産主義の洗脳への恐れから疑いの眼で取り扱われ、仕事探しは困難だった。連合軍捕虜たちと同じように、彼は日本でこの抑留が語られることに関心をむけ、自分たちをロシア人の手に捨て去ったことに対し、日本政府からの補償を求めた。ながながと会話をしたのち、私たちは伊吹さん、テニー夫妻、そして捕虜問題研究家の福林徹氏と落ち合い、京都の街中にある伝統的日本料理屋で、またもや信じられないほど豪華なディナーの席についた。

池田氏、テニー夫妻、福林氏
伊吹さん、徳留さん、筆者、池田夫人
 

福林氏、そして笹本妙子さんはともにPOW研究会の会員だが、捕虜についての彼らの調査結果から、仙台第6収容所について膨大な量の資料書類を提供していただいた。英文のものも日本語のものもあるが、その範疇は収容所についての詳細な描写、その人事構成、県の憲兵による収容所報告書、戦争犯罪で起訴された人員や捕虜たちの証言録取書、また収容所内外の数多くの写真などにおよび、私の本に使用するために送ってくれた。資料のなかのいくつかを手がかりとして私はアメリカ公文書館で追跡調査をし、父が残した証言記録取書など彼の拘留時期のさらに多くの資料に行き着くことができた。これまで私のためにしてくれたすべての仕事にたいし、私は福林さんにたっぷりと礼をのべ、彼の仕事の量と質に心から感謝したが、その調査の多くはいまだに米国では出版されていない新資料である。

テニー博士は岡山での別の講演予定があったので、私はひとりで列車に乗り東京へ戻った。
 

NHKが伝えた花輪訪問

その翌朝7時ごろ、徳留さんが電話してきて、たったいまNHK名越章浩プロデューサーから電話による知らせがあり、その朝8時に私たちの花輪訪問のニュースが放映されるというのだ。私はすぐにテレビをつけて胸を高鳴らせてその部分を待った。日本語であったが、そのニュースの概要は視覚だけでも十分鮮明に伝わった。

番組が終わると同時に私は徳留さんに電話し、そこで語られたことの大意を聞くだけでなく、しばらく話し合い、あの旅、またNHKの取材について、想いのいくらかを私は吐露することができた。NHKの報道を観て、花輪での錯綜した感情の多くが再び甦った。

番組中、父の写真がしばしスクリーンに映し出されていたことに、私はとくに感動した。

捕虜という言葉に接した多くの日本人視聴者は、それに人間の顔を与えることができる。日本人の手中にあった捕虜たちの運命を気づくことのなかった人々が、戦争の引き起こしたこのひどい事実の一端が、生身の人間たちに本当に起こったことを実感できる。こう認識して、父の味わった苦しみが証明されたというふうに私には感じられた。

NHK ニュースで、テレビ画面に映し出された筆者の父ジョン・ネルソン氏の写真
 

駒井さんが、彼の父への想い、また戦争について、幾分か語る機会を得たことも、私は嬉しかった。残酷な戦争の両極で巻き込まれた父をもつ二人の男、彼らが過去を水に流し、それぞれの父との体験を評価し、友人となって別れたことを、最終的に番組はみせたと私は思った。ひとがいったん心の傷を認め、それを癒そうと積極的な態度をとることができるなら、その人自身も住む世界もよりよい場所になる。傷などないという振りをしたり、そんなことはなかったと偽るなら、おそらく何世代にもわたってわだかまりが残るだけで、これはアメリカ人にも日本人にとっても悲しいことだ。国家間の真の友情には貿易再開を上回る進展がある。その達成は事実の検証にはじまり、真実の受容、嘆きのうちにいる人たちが一緒にその苦痛が癒せるよう、明快な策を講じる結果としてうまれる。駒井さんと私は、とても個人的なレヴェルでこれを成し遂げることができた。だからこそ私は、戦時下のできごとがこれ以上ただれ腐るのを防ぐには、捕虜とその子供たちを日本へ連れ戻す基金の創設というテニー博士の訴えが、唯一の道と考える。彼らが自分の人生史を調査し、日本のひとたちと個人として出会うためである。
 

駒井氏に別れを告げる筆者(NHK)


友人とのひととき 

初めての日本訪問の素晴らしい副産物として、私は親しい友、菅原 完さんと会うことになっていた。1904年、日露戦争は対馬海峡におけるロシア軍バルティック艦隊の驚くべき敗北戦で、東郷元帥の旗艦をつとめた日本帝国海軍「戦艦三笠」の見学をするためである。完さんと私は長年、インターネット上で交流しており、私がバターン死の行進について論文を書くにあたっての準備段階で、彼は評価しつくせないほどの力となってくれた。(筆者の記事

これが最初の出会いの栄誉だった。相互の友人である徳留さんが、たいへん物静かな日本紳士との対面を予告してくれていたが、間違いなかった。70代の完さんは、きちんとした身じまいで、柔らかな語り口、日本帝国海軍についての紛れもない知識の宝庫だった。完さんに会うのに同行してくれたエリオット・カーター君は、海軍条例や戦艦の能力について討議する私たちに辟易したのではなかろうか。一緒に素敵なレストランで食事したのち完さんに別れを告げ、私たちはホテルに戻った。

72日、帰国のため成田に向かった。ただ8日間の旅だったが生涯忘れることはないだろう。たくさんの素晴らしい人たちと会い、日本文化と社会には多大の感銘を受けた。そして最も重要だったのは、私が父の足跡を辿ったことである。


カンサス州バーリンゲイムにて

2008