の鉄道での労働

エリック・二デロスト

「ヒューストン」号は、太平洋戦争緒戦のサンダ海峡で絶望的な状況の中、果敢に戦った米海軍の重巡洋艦でした。船は沈められ、生き残った乗組員は日本軍の捕虜となりました。ハワード・ブルックスはその中の一人で、東南アジアに送られ、1957年の映画「クワイ川にかかる橋」で知られる悪名高い泰緬鉄道で奴隷労働者として働かせられました。   

 



サンダ海峡で果敢に戦って沈んだ「ヒューストン号」
 

関連する歴史のリサーチをする過程で、私はハワードや他の元捕虜と知り合い、彼らを友人と思うようになりました。元海兵隊員であるドナルド・ヴァーソー、ウォレン・ジョーゲンソン、そしてラルフ・ホレウィンスキーも同様です。彼らと知り合えたことは、かけがえの無い名誉でした。

彼らと同じ境遇に置かれた人々は、彼らを捉えた日本軍の下で恐ろしい苦しみとサディスティックな暴力に耐えなければなりませんでした。過激な国粋主義は日本の文化と社会を堕落させ、倫理観を歪め、日本軍をして、人間としての基本的な良識を忘れ、殺戮・強姦・拷問などへと向かわせたのでした。残虐性が推奨され、それは賞賛さえされました。

ハワードや他の人々は、現代の日本には何の悪意も抱いていません。でも彼らは、日本政府が、彼らが味わった苦しみを何らかの形で認めて欲しいと、願っているのです。日本は、自らの戦争犯罪を完全に認めること、そして「慰安婦」のような被害者に補償することを拒んでいます。残虐行為は矮小化され、否定さえされます。私は最近、靖国神社で反中国のデモをする人々(ある者は第二次大戦当時の軍服を来ていました)を見て、衝撃を受けました。そしてこれは、日中戦争(1937-1945)勃発の70周年にあたる日に行われたのです!その無神経さは信じ難いものでした。

捕虜や他の被害者は今、人生の黄昏を迎えています。私は彼らが、日本政府が名誉と正義を重んじるかどうか、見極められることを願っています。


の鉄道での労働」( Military Heritage 10月号)から抜粋
 

鉄道建設には3万1千人以上の連合軍捕虜(英国人3万人、オランダ人1万8千人、オーストラリア人1万3千人、アメリカ人700人)が奴隷労働者として使われた。そのうち恐らく1万6千人の連合軍捕虜が、病気、過労、そして残虐な日本人監視員からの虐待で死んだ。その他に20万人のアジア人労務者が鉄道建設の強制労働を課せられ、8万人が死んだ。当然ブルック氏は、死の鉄道でのことを今も鮮明に記憶している。
 

最終的にあなたは1943年の1月にビルマに送られ、死の鉄道で奴隷労働者として働かせられたのですね。

私たちは、モウレメーンからバンコクに通じる鉄道を建設するのだということを知りました。私たちは境界線のある収容所に入れられました。私たちはその境界線の外に出てはならないと、厳しく命じられれていました。ある夜、私たちがこの境界線のそばに立っていると、一人の看守が、私たちが逃亡を企てていたに違いないと糾弾しました。私たちの受けた罰は、膝の後ろに8センチ径ほどの竹を挟んで跪くことでした。ほどなく脚が麻痺して、何も感じなくなりました。どれだけその姿勢を続けさせられたか覚えていませんが、罰が終わったとき、私たちは歩くことができませんでした。それから私たちはよくひっ叩かれました。将校は自分の兵士にも同じことをしていました。

               
  水兵姿のブルック氏(1939年ハワイで)
                          写真提供:ハワード・ブルックス

                             

死の鉄道は、原始的で恐ろしい状況下でほとんど手作業で完成されたそうですね。

とても過酷な仕事でした。最初の仕事は、土を掘り起こして路床に埋め込んでいくことでした。麻袋を竹の棒に通して、捕虜がその両端を一人ずつ担ぐのです。土の採集場まで歩いて行って袋を下げると、掘り方担当の捕虜がそれに土を入れます。それを路線のところまで歩いて運んできて、放出します。この作業を繰り返す捕虜の列が、いつも長く続いていたものです。本当に働きづくめでした。

次に何をしたのですか。

一定区間の路線の地ならしが終わると、次の作業は砂利を敷くことです。彼らはなるべく近くにある岩石群を見つけるとダイナマイトを仕掛けてそれを崩します。私たちは小さなハンマーを持ってその中に座り、岩石の破片を卵くらいの大きさに砕きます。そしてそれらを地ならしされた路線に運ぶのです。

建設の次の作業はどのようなものだったのですか。

捕虜の作業班が、砂利の上に枕木を敷くのです。これらの枕木は一本一本運ばなければならないのですが、軽いものではありません。私たちが見た枕木の多くは、美しいチークかマホガニーでできていました。次は鉄のレールです。最初の分は、フラットカーで運び込まれました。後になって私たちが路線を敷設するに従い、タイヤではなく車輪がついたトラックのような車両が新しくできた路線上で、そのフラットカーを押していきました。

地形や気候は酷いものだったでしょうね。特にろくに食べ物も与えられず熱帯に慣れていなかった捕虜たちにとっては。

建設過程は単純で簡単にさえ聞こえるでしょうが、多くの山や谷があり、その山々の多くは固い岩盤を含んでいましたのでダイナマイトをかけて掘り進んで行かなければならなかったのです。それは、長い単調な重労働の日々を意味していました。日本人技術者がダイナマイトを仕掛ける穴を掘るために、一人の捕虜が長いのみを押さえ、他の捕虜がそれを大きなハンマーで打つのです。その過程で、小さな石の破片が飛び散るのですが、それに当たるとその傷は熱帯性潰瘍になってしまいます。そのような潰瘍は、多くの捕虜が命を落とす原因となったのです。

1957年の有名な映画「クワイ川にかかる橋」は、鉄道建設の様子を、実際起こったことに比べれば、天国のように描いています。このデービッド・リーン監督の映画をどう思われますか。

全ての捕虜にとって恥ずべき映画で、ハリウッドが金儲けのために美化したものです。オーストラリアやイギリスの元捕虜とも話しましたが、彼らも私の意見に心底同意していました。日本政府はこれまで捕虜の取り扱い(の歴史)に関して断固として、残酷さを軽視してきています。彼らが今後変わることはあり得ない、と私は思っています。PBS(アメリカの公共テレビ局)は、死の鉄道に関するドキュメンタリーを放映しましたが、(現在も再放映され続けています)鉄道建設に従事した高齢の元日本軍の技師が出てきます。彼はそのドキュメンタリーの中で、捕虜が虐待されたことは全く無かったと証言しているのです。
(因みにブルック氏もそのドキュメンタリーに登場している。)

鉄道建設で何年くらい働いたのですか。

2年半です。食事は全く酷いものでした。それが多くの捕虜が死んだ理由の一つでした。何を食べているのか見えるのは、昼食だけなのです。他の時は暗くて見えないんです。食べるのは夜明け前の暗いうち、昼、そして日没後でした。昼食はご飯とスープでしたが、それはほとんど水で少し野菜片が入っているくらいでした。スープには時々うじ虫が入っていましたが、見えなければ、それも食べるのです。

医療品はほとんど無かったんですね。病院というのは名ばかりで、実際は、働けないほど病気になった捕虜を日本軍が捨て去る場所だったのですね。そこは死に場所でした。

捕虜体験で最悪だったことは、仲間が飢えで死んでいくのを見ることでした。我々の一人が病気になるか飢えで歩けなくなると、その人間は終わりだということを知っていました。そして熱帯性潰瘍になれば、それに食い尽くされるのです。

どのように開放されたのですか。

1944年の終わりごろ、私は百人ぐらいのグループと一緒に仏領インドシナのサイゴンに送られました。1945年8月15日、日本人将校が来て、「戦争が終わったので君たちは祖国に帰る。」とスピーチしました。でも私たちは、フランス人民間人から原爆のことを聞き、何が本当に戦争を終結させたのかを知りました。それから私たちは、4発の米軍機3機がサイゴン上空を飛ぶのを見ました。後になってそれが軍用輸送機C-47であることを知りました。

それで開放が近いと実感なさったんですね。

収容所にジープが入って来て、それに2人の米将校が乗っていました。「明朝、出発できるか」と彼らは言いました。彼らは、キャンディと煙草を私たちに配り、ジープに乗せてパレードさせ、そして、私たちの名前、軍階級、自宅の住所、電話番号を報告させました。その晩は、誰も寝れなかったと思います。

翌朝、C-47が待っている飛行場まで輸送車で連れて行かれたのですね。

パイロット達は19歳か20歳そこそこにしか見ませんでしたが、弱りきった捕虜の目には眩しいほどでした。もちろん、私たちの多くは嬉し涙を流しました。嬉しくて信じられないほどでした。バンコクとラングーンで給油のために止まりました。午後遅くインドに着陸し、カルカッタにあった第42陸軍の病院にトラックで輸送されました。私たちは全員新しい服を与えられ、食堂に連れて行かれたときは並べられた料理の写真を撮りたいほどでした。本当に撮った者もいました。

それから何が起こったのですか。

その夜は真っ白なシーツの上で眠り、翌日簡単な健康診断を受けました。2週間ほどして、C-54機で祖国に向かいました。エジプトのカイロ、カサブランカにそれぞれ一泊し、アメリカに到着する前にニューファウンドランドの基地にも寄りました。カルカッタに着いてすぐ、私たちは家に電話することができたのです。

故郷への帰還は、感慨深かったでしょうね。

両親、兄弟、姉妹そして隣人たちに再会した時の感激は、決して忘れられませんね。

当然あったはずのトラウマの他に、捕虜としての体験はあなたの人生にどのような影響を与えましたか。

生活の中にある単純なことに感謝するようになりました。金持ちにならなくても、幸せで満足のある人生を送れるということです。



ブルック氏(左)元捕虜仲間のジョン・W. レンジャー氏と(1993年)
 

*エリック・二デロスト氏は、カリフォルニア州ヘイワード市チャボット大学の歴史学講師。
フリーランス作家としてこれまで300編近い米国・ヨーロッパ史に関する記事を発表。