We Band of Angels 著者 エリザベス・ノーマン教授へのインタビュー


We Band of Angels: The Untold Story of American Nurses Trapped on Bataan by the Japanese (天使の一群:日本軍によりバターンに追い詰められた米看護婦の知られざる物語)』は、著者エリザベス・ノーマンが、フィリピンで捕虜となった米看護婦に関する調査とインタビューに8年間を費やし、1999年に出版した著書です。自身も看護婦でニューヨーク大学の教授である著者は、前書きで、これらの看護婦について以下のように説明しています。

「日本帝国海軍がハワイ真珠湾の米海軍基地に奇襲攻撃をかけた1941年12月8日、彼らはフィリピン島の米海陸軍基地、飛行場、港湾をも攻撃した。

爆撃とその後の殺人的な侵攻のただ中に追い詰められたのは、99人の米陸海軍所属の看護婦であった。戦闘訓練も戦時訓練も全く受けていなかった彼女達のほとんどは、よく訓練され装備万端の精鋭日本軍から逃れるため、海を背後にしたバターン半島に追い詰められた。

彼女達は飢え、怯え、爆撃の時は防空壕に飛び込みながらも、何千人もの負傷兵の世話をしていた。コレヒドールでついに捕まる前、24人余りの看護婦が、船や小型飛行機で敵軍封鎖の中を潜り抜けて脱出した。しかし大部分の看護婦-2つの大戦に挟まれた時代のアメリカを代表するような77人の女性たち-は日本軍に捕われ、コンクリートと鉄条網で囲まれた捕虜収容所で3年の年月を過ごすことになった。

バターンとコレヒドールの米看護婦は、まとまって戦闘状況に置かれた最初の米国女性の集団であり、敵国の捕虜となり収容された最初の米女性兵の集団であった。」

著者は日記やインタビューをもとに、これらの看護婦が任務に就いた状況を克明に描き出していきます。

「バターンの全域が崩壊し、野戦病院は夥しい数の負傷者で溢れた。患者は竹の3段ベッドに詰め込まれ、殆どの看護婦が今や夜明けから夜まで働いていた。これらのベッドが足りなくなると、ジャングルの地べたに敷いた毛布が男達の医療ベッドとなった。ある夕方、(看護婦の)サリー・べレーンが彼女の担当の病棟を眺めたとき、至る所に横たわる無数の患者が『風と共に去りぬ』の駅のパノラマシーンを思い起こさせるようだと、気付いた。病んで血を流す男達が、見渡す限りのジャングルの地べたに横たわっていたのだった。

補給は決定的に不足していた。300人余りを収容する平均的な1病棟にあったのは、6個の医療眼鏡、15本の体温計そしてたった1本の匙だけだった。看護婦達はあまりにも忙しく、最も出血が酷いか不潔な包帯だけを交換した。定期的な体温の測定も止めた。彼女達に世話して貰えるのは、文字通り熱で震えている男達だけだった。手術室では、麻酔担当の看護婦がエーテルを節約するため、外科医がメスを降ろす直前に、最小限の麻酔と弛緩剤を施すだけだった。

3月の末までには、小バギオの第一野戦病院は1,500人、第2野戦病院は3,000人以上の患者で膨れ上がっていた。この夥しい数の患者を看護していたのは、67人の将校(軍医)、83人の看護婦、250人の衛生兵そして200人の民間人雇用者だった。(民間人は、野戦病院のすぐ外にあった難民避難所から来ていた。)」

バターンの米比軍が降伏する前夜、看護婦達はコレヒドールに避難し、その後もマリンタ・トンネル(要塞)内の病院で働き続けます。1942年5月6日、コレヒドールも陥落し、米看護婦は日本軍の捕虜となりました。著者はその様子を以下のように描写しています。

「昼12時を期して、ラッパ吹奏者が葬送曲を奏でる中、二人の将校がマリンタ・トンネルの外にある掲揚塔から星条旗を降ろし、代わりに白いベッドシーツを掲げた。一人の将校が、旗の小片を思い出として切り取り、残りの星条旗に火をつけた。

地下壕では女達が、記憶を残そうとしていた。彼女達は粗織りのモスリンのベッドシーツから大きな正方形を切り裂き、最上部にコレヒドールが陥落したときにマリンタ・トンネルにいた陸軍看護隊と民間人女性と題した。その下に3列に署名したのは、69人の女達だった。

もし私たちが消え去るような事態が起きた場合に備えて、記録を残して置きたかったのです。自分達に何が起こるのか、想像もつかなかったのですとケーシー(看護婦)は言った。」




Names of the Army nurses and civilian women who were in Malinta tunnel
when Corregidor fell


看護婦たちは最終的に、日本軍に捕らえれらた3,800人余りの民間人の収容所になっていたマニラ市内のサント・トーマス大学に、収容されます。 自分達も栄養失調やさまざまな病気に苦しみながら、看護婦達は 収容所内の病院で働き続け、1945年2月ついに米軍によって解放されます。米国に帰還した彼女達は、熱狂的な歓迎を受けました。

著者はフィリピンの米看護婦の物語を、バターンの生還兵たちが建てた記念碑に刻まれた碑文を引用して終えています。

「第二次大戦緒戦に於いて、献身的に働いた勇敢な米軍女性を称えて。彼女達は、長時間の辛い任務に従事しつつ、飢えに耐え、爆撃・機銃掃射・狙撃・病や疫病に晒されながら生き延びた。彼女達は文字通り、バターンとコレヒドールの天使たちという呼び名を勝ち取ったのだ。」


エリザベス・ノーマン教授へのインタビュー

この本を書くために8年を費やされたそうですね。これらの女性達について伝えたいと、本当に強く思われたのですね。なぜ彼女達のことを書きたかったのですか。

私は1990年に、ベトナム戦争(1965-1973)に従軍した50人の米軍看護婦に焦点を当てた博士論文を出版しました。リサーチをする間に私が気付いたことは、戦場で働く看護婦の体験は、時を超えて普遍的なものだということでした。その看護婦がアメリカ人であろうが、日本人であろうが、ロシア人・英国人であろうが、同じことです。彼女達の仕事は、故国から遠く離れた地で、若い兵士の惨い負傷や死という、戦場における最悪の場面に直面させられるものです。兵士は戦うことと生き延びることに、精一杯です。彼らが失なわれたものの大きさを認識するのは、戦いが止んで我に帰ってからです。でも看護婦達は、血にまみれた担架に寄り添って働きながら、失われたものを即座に見るのです。

私がフィリピンの米看護婦達の物語を記録して保存したいと思った理由は、彼女達が全ての看護婦に共通する苦難を体験をしただけでなく、看護婦としても女性としても非常に特異な、捕虜になるという体験をしたからです。彼女たちは、捕虜となった女性としては米国史上最大のグループでした。

まだ生存する看護婦の何人かにインタビューされたのですね。彼女達に直接会って戦争中の話を聞くのは、どんな体験でしたか

24人の看護婦とその家族にインタビューしました。私は最初、これらの女性に会うことを少しためらっていました。なぜかというと、私の母親の年代である彼女達が、私に心を開いて正直に答えてくれるか分からなかったからです。また私は、彼女達が、私が知りたいと思っている体験に関して詳細に思い出せないのではないかと、心配でした。何と言っても、50年以上も前のことですからね。どちらの点も、私の杞憂でした。彼女達は私を歓迎してくれました。彼女達は、看護婦の私なら他の人間より自分達の体験をよく理解してくれるだろうと感じたのです。彼女達は自分達が老いてきていることを知っていましたし、実際多くの看護婦が既に亡くなっていました。彼女達が誰かと共有しておかなければ、その体験は彼女達の死と共に失われるところだったのです。最後に、戦争体験のある者なら誰でも知っていることですが、記憶は決して薄れることはありません。それらは強烈で詳細なまま残っているのです。これらの女性は、50年経った後でも、臭いや色や名前を覚えていました。

私が会ったこれらの女性は、本当に人間味のある人々でした。彼女達は談笑するのが好きで、本当にお互いを大切にし合っていました。必要な時は、お互いを助け合っていました。彼女達は小さな不幸に、感情的になることはありませんでした。彼女達が涙を流すのは、余程のときだけでした。そして自分達の歴史の遺産を守ることに関しては、大変熱心でした。私が何か間違ったことを書いたり喋ったりしようものなら、ていねいにはっきりとそのことを指摘されたものです。彼女達は賢い女性でした。私は彼女達から、幸福なことが起こったらその瞬間を楽しみ、小さなストレスにはいらいらしないことを、学びました。

貴女の本で知って感心したのですが、看護婦はバターンで負傷した日本兵の看護もしていたのですね。日本の爆撃機が米野戦病院を攻撃し何人も殺していることを思えば、これは重要だと思うのですが、このことを知っている日本人は少ないと思います。インタビューを通して、看護婦達が、負傷した日本兵の世話をすることをどのように感じていたか、分かりましたか。

バターンとコレヒドールの米野戦病院には、日本兵の患者が何人かいました。正確な人数は誰も分かりませんが、100人未満だと思います。私がインタビューした従軍看護婦の全てが、同じジレンマを感じているのです。敵軍の患者を前にした看護婦の最初の反応は、手を抜いた看護をしようか、というものです。これらの男達は彼女達の愛する者達を傷つけ殺したのですから。でもこの考えはすぐ消滅します。そして敵兵であっても、単に看護を必要とする患者として見る様になります。職業人としての倫理観が個人的感情に勝り、看護婦達は負傷した敵兵を看護することに何のわだかまりも抱きませんでした。

貴女の本で一番感動したのは、患者を残して避難しなければならなかった思い出に、看護婦達が今でも苛まれている様子を描いた次の箇所です。

「インタビュー中、彼女達が最もつらい思い出として苛まれていたのは、自分達自身が味わった恐怖でも苦痛でもなく、1942年4月、バターンが間もなく陥落すると告げられ、患者を残し敵軍がそこまで迫ったジャングルの中の竹ベッドに、傷つき血を流し熱に苦しむ、非武装の全く無抵抗の何千人もの患者を残し退去するうよう命令を受けたあの夜の思い出だった。50年もの歳月が過ぎた後も、彼女達はそのことを私に語りながら、とめどなく涙を流すのだった。」

看護婦としての使命感が、戦時下の彼女達を強くしたのでしょうか。

もちろんそうです。使命感が彼女達を支えました。一日一日を生き抜く理由を与えたのです。これらの女性達は戦前から強かったと思いますが、爆撃下或いは捕虜収容所で動揺した時には、立派な上級看護婦が指導し、看護婦仲間が支え合いました。

日本にも、沖縄戦に加わった若い看護婦「ひめゆり部隊」の有名なエピソードがあります。彼女達のことをご存知ですか。

ええ、沖縄での彼女達の酷い体験について読んだことがあります。4年前に靖国神社を訪れ、博物館に展示されていた看護婦達の写真を見て、彼女達の物語を読みました。とても興味深く、そして読むのが悲しい物語でした。彼女達はあまりにも若く、味わった体験はあまりにも悲惨でした。

日本人もアメリカ人もそれぞれが、死んでいった自国の人々を悼み、第二次大戦の悲劇から何か意味ある教訓を見出そうと努力しています。そのような過程で、私達は、どのようにしたら国家という枠を超えることができるのでしょう。特に勝者と敗者という正反対の立場にある国どうしの場合。貴方が書かれたような米看護婦の物語が役に立つと思われますか。

We Band of Angels 』のような物語は、歴史の重要な一章を保存するものだと思います。私が学んだこと、そして私の読者にも認識して欲しいと願うことは、男であっても女であっても、ごく普通の人間が、生存のためには驚くべき偉業を成し遂げられるということです。これらの看護婦がしたことを、私達は誇りに思うべきです。患者を世話する看護婦の仕事は、国家の枠を超えるものです。戦争もそうです。

私は、夫のマイケル・ノーマンと共著で、第二次大戦下のフィリピンに関する2冊目の本を書いています。その本は『Tears in The Darkness 』というタイトルになります。私達は、バターンで戦った米兵・フィリピン兵・日本兵の物語を語ります。リサーチの一環として、「バターン死の行進」のルートを歩き、フィリピン退役軍人やバターンに住む民間人にインタビューするため、フィリピンを何度か訪問しました。また、バターンで戦った22人の旧日本軍兵士にもインタビューしました。

これらの旅行やインタビューから私達が得た重要な教訓は、戦争は勝者も敗者も生み出さないというものです。戦争では、全ての人が敗者なのです。帰属する国家に関係なく、バターンに足を踏み入れた男達の全てが、第二次大戦が終結するまでに大変な苦しみを体験をしました。誰も勝者はいないのです。

この文節を、生存している看護婦(もうたった3人しかいなくて、体力も弱っています)に今読んで聞かせたら、彼女達は私の考えに心から同意すると信じて疑いません。


(インタビュアー:徳留絹枝)