ダグラス・ノーザム
 
1919年テキサス州生まれ

米海軍、アジア艦隊
  上海で河川パトロール船 
USS Oahu に勤務
 
1941年12月5日 フィリピンに移動

-1942年5月7日 コレヒドールで捕虜となる
 1942年11月長門丸で日本へ移送
 大阪梅田収容所、敦賀収容所

 


「第二次大戦日本軍捕虜だった私の体験:1942年5月7日から1945年9月17日」
から抜粋

私は1940年7月、海軍に志願しました。サンディエゴの海軍訓練所で基礎訓練を受けた後、軽巡洋艦 「USS Boise」 に配属されました。1941年2月、マニラに司令本部があるアジア艦隊に転属され、中国上海に駐留していた河川パトロール船「USS Ohau 」での勤務を命じられました。

日本との戦争の可能性が濃厚になってきた)1941年11月、私たちはフィリピンに移動するよう命じられ、日本軍による真珠湾攻撃の僅か数日前にマニラに到着しました... 1942年4月9日にバターンが陥落し、コレヒドールも1942年5月7日に降伏しました。

それが私の日本軍捕虜としての年月の始まりでした。彼らは第一日目から終戦のその日まで、捕虜を苛酷に取り扱いました。

10月になって、捕虜は日本に送られ始めました。私たちはマニラ港で、後に「地獄船」として知られるようになる日本の商船に詰め込まれました。乗せられた船は「長門丸」でした。あまりにも多くの捕虜が詰め込まれたので、夜になって寝ようとすると、デッキは人の体で敷き詰められた絨毯のようでした。(20人の捕虜が輸送中に死亡)

私たちは1942年の感謝際の日に大阪に到着しました。約480人の私たちのグループは、3階建ての元工場だった梅田分所に収容されました。部屋は、上部と下部にデッキがある区域に仕切られていました。デッキには横1メートル縦2.1メートルの畳が敷かれ、隣り合わせに並んでいて、それが私たち一人一人の寝場所でした。各区域には、デッキの列が向かい合って設置され、その間の約3メートルの通路には、私たちが食事をするテーブルが置かれていました。それぞれの区域に約40名が収容されました。

私たちは、大阪周辺の貨物置場で働かせられました。梅田は最大で一番近い駅で、約40名の捕虜がそこで働きました。彼らは徒歩で仕事場に往復していました。他の作業班は駅まで歩き、公共の乗り物で作業場に向かいました。(ノーザム氏は吹田駅周辺で働かされた。)

私たちの労働は、貨物車(有蓋車)に荷を積んだり卸したりする作業でした。貨物の種類はいろいろでした。多くの場合、機械、スクラップメタル、石炭・木材・丸太・巻紙・綿や毛糸などで、時には米・砂糖・大豆・ジャガイモ・乾燥イモなどの食料品のこともあり、そして本当に稀にですが、コンデンスミルクのような缶詰製品もありました。私たちはこれらの品を肩に担いで積み上げたり、貨車に積み込んだりしました。2-3人がかりで荷物を1人の肩に乗せるのですが、木材や箱詰めの重い荷物が肩にくいこんで、本当に痛かったです。

労働が始まった最初の週、ある貨物置場で作業班がさせられたのは、貨物車から砂糖の荷を卸す仕事でした。いくらかの砂糖が袋から漏れ、貨車の壁にこびりついていました。それを3人の捕虜が剥がして食べていたのが見つかり、その日の終わりに梅田分所の所長に報告されたのです。所長は、罰として彼らを小さな営倉に入れ、手首を縛って壁の釘につるして崩れ落ちることができないようにしたまま、一晩中立たせておきました。翌朝、いつもの仕事に行かせるために手首が解かれると、一人の捕虜はその場で倒れて死にました。次の捕虜は何歩か歩きましたが、やはり倒れて死にました。三番目の捕虜 (Williams A. Parks) は仕事に行くことができ、結局戦争を生き延びました。ほどなく、私たちは皆もっと巧みに盗みをするようになりました。(私たちはそれを機銃掃射と呼んでいました。)

梅田分所には約480人の捕虜が収容されていました。最初の6ヶ月の間に100人余の捕虜が死亡しました。冬の初めだというのに、私たちが身につけていたのは、南国のフィリピンで着ていた衣服だったのです。その後、薄い木綿の毛布と日本陸軍のオーバーコートを配給されました。分所に暖房はありませんでした。建物の一角に、12個ほどの蛇口がある風呂場がありましたが、水しか出ませんでした。約一年後、お湯が出る共同風呂が造られました。何という贅沢!私たちは月に一度、風呂に入ることができたのです。

トイレ(便所)は、地面に掘られセメントで固められた穴で、その上で用事をすますように割れ目の入った板が被せてあるものでした。便所は月 に一度汲み取り会社が来て汲み取り、畑の肥やしとして運んでいきました。私たちの大部分は常に下痢や赤痢に苦しんでいましたので、便所までがまんすることができないことがありました。その結果、便所の周りに溢れた汚物は、常に不衛生な状態を生み出していました。私たちは、用事を足した後に自分達をきれいにする術を与えられていなかったのです。

冬の間は、常に寒さに震えていました。不十分な食事とあらゆる病気で衰弱した体、そしてそのような状況下で労働を強いられることへの絶望感との闘いに、私たちは打ちひしがれていました。

米軍は1945年の3月頃から、定期的に日本本土を爆撃し始めました。大阪では、空襲時の延焼を防ぐために日本人は家屋を取り壊したりしていましたが、焼夷弾にはそれほど有効ではありませんでした。


爆撃を受けた後の梅田捕虜収容所

私たちは大阪から、東シナ海を挟んで朝鮮半島に向き合う裏日本の人口3万人の都市、敦賀に移送されました。収容されたのは、3階建ての古い校舎でした。それまで同様、貨物車に荷積みや荷卸しをする労働をさせられました。敦賀は港町でしたので、貨物船への荷積みや荷卸しをしたこともありました。

7月、敦賀は焼夷弾の空襲を受けました。爆撃はまるで農夫が畑を耕すように、市の端っこから始まり、行きつ戻りつしながら、市全体が炎に包まれるまで続きました。私たちが入っていた学校の校舎も直撃を受け、物陰に隠れようと逃げましたが、それはまるで雹が降り注ぐ中を走るようでした。それほど夥しい量の爆弾が降ってきたのです。


空襲後の敦賀 (「福井県史」 から)

爆撃も港への機関銃掃射もアメリカ軍によるものだったので、日本人は私たちを防空壕に入らせまいとしました。でも彼らが逃げる時は私たちも逃げたのです。ある時、爆撃が収まり、集合させられ点呼をした後、日本人は私たちを罰しようとしました。樫の木で作った木刀を持った監視が、私の隣に立っていた一番大柄な捕虜(C. J. Pryatel) を引っ張り出しました。 監視は「ミー スモール、ミー ストロング」と言うと、木刀を振り上げ力いっぱい捕虜の頭を殴りました。捕虜は膝をついて崩れ落ち、監視がもう一度殴りかかろうと木刀を振り上げたとき、「僕の腕を掴んでおいて。倒れさせないで」と私に囁きました。私はそうしてやりました。二回目の殴打の後、空襲警報が鳴り、日本人監視は防空壕に逃げたので、捕虜はさらなる殴打を免れました。

学校の校舎が焼け落ちた後、私たちは海岸沿いの倉庫に移されました。数日後にそれも爆撃を受けて焼失し、私たちは敦賀市郊外の古いレンガ工場に移されました。

作業班が、近くの丘に送られ、私たちの収容所になるトンネルを掘らされました。1日働いたところで、日本人が言いました。「仕事やめ。米軍は地下にいても危険な爆弾を所有した。」
戦争が終わったのです。

私たちは、日本軍の兵舎だった場所に移動し、屋根にPOWの印をつけました。米軍の飛行機が飛来して、食糧や衣料品を投下しました。状況は一気によくなったのです。


敦賀捕虜収容所194597(from Roger Mansell collection)

私が捕虜になった時の体重は76キロでした。捕虜だった間の平均体重は55キロで、赤痢が一番酷かった頃は50キロまで落ちました。時おり盗んで口にした僅かな食糧がなかったら、私も他の多くの捕虜も、終戦まで生き延びることはできなかったと、確信しています。長期の飢餓と苦しい肉体労働で衰弱した私は、自分は40歳までも生きられないだろうと思ったものです。でも2005年現在、私は85歳で元気にしています。

戦争が終わって数年の間に、音信があった何人かの元捕虜が、結核で死亡しました。私の場合、ツベルクリン・テストはいつも陽性で、レントゲン写真では肺に影があります。たぶん捕虜時代に結核に罹り、直っていたのでしょう。

捕虜体験は私に、人生のどんな小さな恩恵にも感謝することと、「自由はただではない」という言葉のさらに深い意味を、教えてくれました。

 
最近のノーザム氏 

                                                                                   (2012年9月15日掲載)   

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ダグラス・ノーザム氏のエッセイを拝見し、敦賀での辛い体験に胸が締め付けられると同時に、
戦争の悲惨さを痛感します。戦争のない平和な世界が訪れることを心から祈念いたします。
                                                                  

                        敦賀市長  河瀬一治

 
                          


* ノーザム氏は201210月に実施される第3回「日米POW友好プログラム」に参加します。ノーザム氏の日本訪問は、1945年以来初めてです。